17.今川義元、戦を決意するの事。
【 今川 義元と 山科 言継 】
今川義元の母である寿桂尼は権大納言中御門宣胤の娘です。
その寿桂尼の姉を正室に向えている山科言継は義理の叔父に当たります。
今川家は応仁の乱以降、京から逃げてきた多くの公家を保護して来てくれました。
京の文化を理解できる雅な義元は京の都を模して駿府の街造りを行っています。
それが「東国の京」と呼ばれた所以です。
言継はこの今川家が織田に滅ぼされるのは忍びないと考えていたのです。
「ご無事の到着。心から安堵しております。母も喜びます」
「また、世話になるわ」
「ごゆるりと」
「そうさせて貰うで」
今川館で再会した二人ですが、微妙に緊張が走っていました。
織田における言継の活躍はもう耳に入っています。
どたどたと少し遅れて寿桂尼が入ってきます。
そして、言継の前に座ると、突然にほっぺたを引っ張るのです。
「この裏切り者め」
「いだぁ、いだぁ、いだいがな」
「今度は織田に何を頼まれはった」
「たすげて」
「母上、それくらいに」
「あぁ、いだかった」
「素っ破から聞いておりますへぇ。一向宗をはじめ、その他の宗派の寺々の間を取り持ったそうですどすな」
「それは勘違いや。わては別に織田の為に働いた訳やあらへん。すべては帝の為や」
「まだ、言うかぁ!」
「いだぁ、いだぁ、いだいがな」
寿桂尼が言継のほっぺたを抓ってひっかき回します。
それはもう、あらん限りの力を振り絞ってです。
◇◇◇
【 今川 義元 】
「これが織田の鉄砲ですか!」
「上げるんやないで、見せるだけやで、帝への献上品やからな」
「変わった形ですな」
「その穴はドリルという機械を使って開けた織田にしかない技術の結晶や。この日の本で生まれた最初の一丁やで!」
山科卿が鍛冶職人に頭を下げて貰ってきた一品です。
顔は未だに腫れており、ひっかき傷が生々しく残っています。
雪斎が寿桂尼を取り持ってくれたので、山科卿はやっと折檻から解放されたのです。
「織田には南蛮船もあるんや。南蛮貿易も仕放題で金もざっくざっくや。しかも天上の酒もある。あれは失くしたらあかん。日の本の宝や。外ツ国から襲ってくる南蛮人と戦うには、織田を中心に日の本を再統一せねばいかんのや。判ってくれたか」
「よう判りました。山科卿が織田に組みしたと言うことですな」
「ちゃうって! 日の本の中で喧嘩してる暇なんてあらへんねんって事や」
(忍から秘密と言われている事を除けば、)山科卿は織田の内情をほとんど話してくれます。
「西三河も完全に織田に屈したと」
「屈したんとちゃうで! 織田と一緒に居たいんや。食うもんに困らへん。怪我人には優しい。荒れた田畑も耕してくれる。そんな美味しい生活を手放したいと誰が思うねん。おるんやったら阿呆とちゃうか」
「そんなに銭をばら撒いて、織田はやっていけるんどすか」
「寿桂尼はん、織田は阿呆とちゃうで! 三河で綿花が取れるようになったら、尾張で綺麗な着物や布団に変えるんやぁ」
「尾張で反物を作る気どすか」
「そうや! それに布団もええで、最初に取れた綿花で作った布団を次の帝への献上品にとお願いしとるんや!」
「まぁ、まぁ、帝に!?」
「そうすれば、三河も箔がつくやろ。三河も儲かり、織田も儲かる。唐物より綺麗なべべこが作れるようになれば、竹姫も外ツ国に持って行って、さらに儲かるんや。これで三者三得とはよう考えてとるわ」
「竹姫はそれほどの財力を持っているのですな」
「半端な額やあらへんで!」
山科卿は出された酒を呑み干すと屋敷に引き上げて行きました。
残された三人が難しい顔を付き合わせます。
「酒で今川を裏切るとは、薄情なお人や」
「無類の酒好きやからな」
「酒だけではないのでしょう」
「いずれにしろ、どうやら織田の高転びはないようですな」
「坊、スマン。織田を甘く見過ぎた」
「はぁ、その竹姫はんがうちに来てくれたらよろしかったどすな」
「母上、それは無理です」
「何でどす」
「奇想天外な姫だそうですから、今川の家中がひっくり返って騒動になるだけです」
「まぁ、そんなに?」
「尼子の家老の半分の首を狩ると言って、尼子を追放されたらしいわぁ」
「まぁ、恐ろしや」
寿桂尼が部屋を後にすると、控えていた藤林長門守が廊下で現れます。
修験者の報告で尾張に伊賀者が入った事が露見してから、長門守は少々、肩身が狭い日々を送っています。
もちろん、長門守は役目を怠るような事はしていません。
義元もその事を承知していますが、家中の者はそうではありません。
「織田は報告より銭があるみたいやな」
「申し訳ございません」
「伊賀もぎょうさん入っとるみたいやな」
「伊賀は傭兵なれば」
「そうやな! ぎょうさん銭を持っとる織田はぎょうさんの伊賀者を抱えておるのか」
「御意」
「動き辛いか」
「尾張には伊賀・甲賀などが多く入っておりますれば、城の中に入るのは困難かと」
「他はどうどす」
「委細問題なく」
内部の機密を盗むのは困難な尾張ですが、人の往来が多いので手紙などのやりとりは困らないのです。
つまり、織田家中にいる謀反を企む城主と連絡を取るのは難しくないのです。
「水野はどうでした」
「残念ながら謀反の賛同は得られません。しかし、笠寺が大いに不満を持っている事を知らせて頂きました。手の者に探らせております」
「清州の信友はんの家老大善は問題あらへんな。岩倉の信安はどうなってはる」
「信安の調略は未だ為せておりません。しかし、家老の稲田貞祐の籠絡には成功しました」
「あと、一息どすな」
「坊、焦りは禁物ですぞ」
「師匠、判っております。そやけど、時間が味方やと思っておりましたが、そうでもないみたいやありまへんか」
「無駄金を使って誘っているのかと思えば、然に非ず。那古野城の改築とは、人集めの口実に過ぎなかった」
「3年後か、5年後、改築が終わった頃には、ぎょうさん兵がいるんでっしゃろな」
「20万を集めると商人が騒いでおったから、その3割、6万くらいは兵にするつもりか」
「6万とは! 今川も一溜りもありまへんな。まったく、騙されましたわ」
「だが、焦る事はない。今日が明日になっても、織田の兵が一万も増える訳ではない」
「そやけど、一年も待てへんで! 鉄砲が2,000丁も揃ってしまいます」
「月に200丁だったな。それも恐ろしいな!」
織田の内情を聞いたからこそ、織田と戦うと決めた義元でした。
否、今しかないのです。
北条は関東で手一杯。
今は今川に手を出している暇はありません。
武田も『内山崩れ』で痛手を受けている。
「師匠、北条に行って貰えますか」
「用件は?」
「河東郡沼津、長久保城の譲歩」
雪斎が驚きの余りに口をぽかんと開けています。
それもそのハズであり、関東の諸大名と今川が挟撃して北条を苦しめて譲渡させた土地です。
つまり、義元の戦略の結晶です。
「なっ、よろしいので!」
「よろしくない…………が、後顧の憂いを断ちたい」
「同盟ですか?」
「同盟まで望まん。龍王丸(後の氏真)の嫁が欲しいとでも言っておきましょかぁ」
「必ず、停戦を結んできましょう」
雪斎が義元に頭を下げました。
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