6.かんばれ信行、水利権争い(2)の事。
【 織田信行 】(ナレーター忍)
≪時間は少し遡り、仏敵信長の檄が飛んだ次の日の朝からです≫
がやがや、昨夜の内に陣ぶれが走り、日も昇らない内から村を出た百姓達が武将を先頭に末森城に集まってきます。
その編成はこんな感じだよ。
侍1人、小者2人、足軽8人、中間2人、人夫2人、口取1人の計16人、 乗馬1頭と、こんな感じかな。
小者と中間は、奉公人であり、侍に仕えて俸禄を貰っている人で家臣です。
足軽は基本的に百姓ですが、人数が足りない場合は金で雇った加世人が付けくわえられる。
人夫は、荷物持ちであり、臨時で雇った百姓が多い。
口取は、馬の手綱を持つ者であり、奉公人の場合も、百姓の場合もある。
足軽の得物は槍が普通だが、中には弓を持つ者もいるね。
集まってくる村々の人が互いに声を掛けあいます。
隣村に娘が嫁に行くとか、よくある事だからね。
「おぉ、田吾でねいか」
「叔父さん、久しぶりです」
「めごはちゃんとやっとるか」
「働き者で助かっています」
さらに言えば、田舎の村は村人のほとんどが親戚です。
叔父さんだったり、叔母さんだったりします。
怒る時も、お父さんやお母さんと同じくらい容赦ありません。
田舎は親戚率が高すぎます。
「おめえんとこの姪っ子、いい年だな」
「今年で13になる」
「息子の嫁にくれんか」
「あぁ、貰ってくれ」
自由恋愛なんてありません。
親が勝手に決めてゆくのが普通です。
戦国武将の娘が隣の大名に人質という名の嫁に行きますね。
これを村レベルでやっている訳です。
村は一族。
隣村は親戚だらけ!
『No、自由恋愛』
愛の戦士として、断固反対しますよ。
『ムーンアタックです』
でもね!
祭の日の神社の境内の奥に行くと、自由恋愛はないけど、自由淫行はあったりします。
ぴぃひょろ、ぴぃひょろ、ぴぃひょろろろぉ、笛の音に祭太鼓の心地よい響きを聞きながら、女の子もちょっと冒険します。
男の子は選んで貰う為に必死にアピールしています。
女の子は選び放題。
あぁ、あの子かわいい。
袖をひっぱって、境内の奥へ~~~~~~きゃぁぁぁぁ!!!!
選ぶのは女性の特権!
なんて天国な世界なんだろう。
気に入った男の子を見つけて、ずるるるぅ~~~とおいしく頂いてもいいのですよ。
ホント、ですよ。
そう言えば、信長ちゃんは村の祭に出掛けるのが好きでしたね?
これは問い詰めねばいけません。
えっ、大丈夫?
武家の嫡男は性病にならないように、かわいい小姓が宛てがわれるから問題ありませんって!?
あっ、そうか!
信長ちゃんには藤八がいましたね。
戦国時代はボーイズラブが普通なんだよ。
◇◇◇
末森城の城下は集まってくる兵が口々にあいさつを交わして同窓会です。
その中に一風変わった集団も集まってきます。
それは『陣借り』と言われる傭兵集団、つまり、外人部隊です。
手柄を立てて、取り立てて貰おう。
あるいは、褒美をたんまり貰うつもりの団体さんです。
勝ち戦では、とにかく無類の強さを発揮してくれる集団です。
「おやぁ、蜂須賀さんじゃないですか」
「そういうお前は黒鼠じゃねいか」
「えへへへ、蜂須賀さんがここにくるとは思いませんでしたね」
「三倍の兵で攻めるんだろう。勝ち馬に乗るさ」
蜂須賀又十郎は尾張稲垣村の台蔵院の養子に出されたが、寺の暮らしに嫌気が差して、気の合う仲間を募って川賊をやっていた。
父の蜂須賀 正利、兄の蜂須賀 正勝(小六)は美濃の斎藤利政に仕えている。
又十郎は蜂須賀の本領である海東郡蜂須賀村を取り戻せないかと、川賊をやりながら狙っているのだ。
ここで勢いのある織田に取り入って、その足掛かりと考えていた。
一方、黒鼠は東尾張を拠点とする盗賊の頭であり、織田に機嫌を取る事でお目零しを頂いている。
「えへへへ、よく3倍とご存じで」
「本郷城にはツテがあってな」
「確かに、折戸、浅田、赤池、それに本郷は早々と織田に詫びを入れてきました」
「耳が早いな」
「えへへへ、東尾張が拠点ですのでね。これだけの兵力差があれば、岩崎は詫びをいれるんじゃないですか」
「ふん、知っている癖に」
「福谷寺の住職が岩崎城の丹羽氏勝に強力を求め、良い返事をされたとか」
「これで詫びはなくなったな」
「しかし、3万の一向一揆が迫ってきますぜ」
「安祥城が1日で落ちるか! 仮に落ちたとしても6里(23km)もある。二日や三日で来れる訳あるまい」
そう、岩崎城は三河に隣接しますが、末森城から岩崎城まで、東に8.8kmです。
岩崎城から福谷城は南東に7km、さらに安祥城は東南に25kmです。
商人が1日で歩いて来られる距離ですが、3万人が行軍するとなるとそうはいきません。
飯を用意しなければいけませんし、3万人が一度に移動できるほど街道は広くありません。
又十郎の考察は適切ですね。
でも、残念。
すでに赤鬼一揆は昨日で終わっています。
行商などが話を持ち帰るまで、あと1日を必要とします。
知らないって事は怖いです。
◇◇◇
がちゃん、岩崎城の氏勝は呑んでいた水盃を使者に投げ付けた。
「今、なんといった」
「岩崎丹羽様に協力できませぬと」
「我が家臣の癖に儂を裏切るか! 本郷をくれてやったのは誰だと思っておる」
「織田と争うは得策でございません」
ばさっと氏勝が本郷城の使者の前に紙束を落とした。
「今川義元、斎藤利政、織田信友の家臣坂井大膳、長島の願証寺の大僧正、三河本證寺の空誓様の檄文、さらに、福谷寺住職の約定である。織田は詰んでいる。判らぬか」
「織田には赤鬼が付いております」
「赤鬼は一向宗には関わらんと言っているらしいぞ」
「然れど」
「諄い、3万の一揆衆が安祥城を囲んでおる。1日、2日ほど籠城するだけで、東尾張すべてを我らに任せてくれると言っているのだ」
「岩崎丹羽様、坊主の言う事など信用してはなりません」
「本郷はどうあっても裏切ると言うのだな」
「裏切るのではありません。忠義を尽くしてお諫め申しております」
ずどん、勘忍袋の尾が切れた氏勝の父、氏識が使者を蹴り飛ばします。
「左馬允は何を考えておる」
「丹羽家の存続の為です」
「弟ならば、兄に助力せよと伝えよ」
「氏識様、氏清様」
「祖父殿も同じ意見だ。叔父上に伝えよ。刃向かうならば、末森より先に本郷を落とすぞ」
本郷は岩崎の旧領です。
祖父、氏清は新領である岩崎城を居城とし、兄の氏識に岩崎城を任せ、弟の左馬允に本郷城を任せた。
赤池、浅田、折戸、藤枝、そして、本郷まで織田に回るとは思っていなかったのです。
「赤池、浅田、折戸は織田軍が通過する小城だ。これは仕方ない」
「土地を一度捨てて、岩崎城に入って頂きたかったですな」
「土豪の者だ。そうはいかん」
「藤枝の堂隠は、我が一族と言うのに口惜しい」
「皆、保身に走りおって」
氏勝は合わせて1,000兵をかき集めるつもりでしたが、岩崎城で集められる兵は500人のみ、早くも誤算が生じていたのです。
◇◇◇
末森城、11歳の信勝も甲冑を着て現れます。
「ははうえ、いってまいります」
「気を付けて、大将らしく振舞いなさい」
「はい」
評定の間には甲冑を身に纏った諸将が集まっています。
その先頭におとな衆家老筆頭の柴田勝家、そして、津々木 蔵人が並び、信勝の登場を待っていたのです。
信勝の入場です。
土田御前は部屋に入った所で立ち止まると、信勝は一人で中央へ歩いて行きます。
「みな、たいぎである」
「「「はぁ」」」
「ちちうえのめいにしたがって、いわさきをうつ」
「皆の衆、信勝の命じゃ! 織田に盾突く、岩崎城の丹羽氏勝を討つ。皆の者、良いか」
「えい、えい」
「「「「「「「「「おぉ~~~~う」」」」」」」」」
「えい、えい」
「「「「「「「「「おぉ~~~~う」」」」」」」」」
「しゅつじんする」
「「「「「「「「「おぉ~~~~う」」」」」」」」」
出陣式を終えて、土田御前は涙をぬぐいます。
「ははうえ。いってまいります」
「気を付けるのですよ」
「はい」
馬に乗せて貰うと、信勝を先頭に諸将が付き従い、兵が付いてゆくのです。
織田信勝、1,500兵。
丹羽氏勝、 500兵。
世に伝わる『横山麓の戦い』のはじまりです。
ナレーター忍だと、戦の話なのに緊張感がでません。
どうしてこうなった!
◇◇◇
【 田んぼと村と兵士のお話 】
土地の面積は町・反・畝・歩で表します。
一町=10反=100畝=3000歩(坪)
一歩:畳二畳分(約3.3㎡)、一坪です。
一畝:約1アール(約100㎡)、三〇歩です。
一反:31.5m×31.5m=約992㎡≒1,000㎡、10畝で畳六〇〇畳分です。
一町:100m×100m=10,000㎡(1ヘクタール)、10反です。
一町は運動場一周で200メートル走ができる学校のグラウンドと思えば、想像できるでしょうか。
この一反から一石強の米が取れました。
〔米一石(150kg)、米俵30kgで5俵〕
1石=1,000合
戦国・江戸時代の米の消費量は、1日5合です。
1年1780合とあり、1.78石となります。
一般的に、1石は一人が消費する米の量です。
足りない分は、稗でも粟でも食うって足しておけって事ですか。
つまり、
一町から10石の米が作られます。
年貢が「六公四民」、あるいは、「五公五民」と言われますね。
一町から領主が6石(6人分)、百姓が4石(4人分)の取り分になります。
一町で家族4人が暮らしてゆく米が確保できる訳ですね。
つまり、村人が200人なら、50町になります。
学校のグラウンドが50個で、1つの村です。
50町=500石
記録を調べると、村人の人口は、120~180人くらいでしょうか。
寒村などでは、12~20戸と、4人家族と仮定して、48~80人になります。
江戸時代の資料ですが、(紀伊村の歴史より)
◎天保10年(1839年)
山口村8ヶ村の状況
上野 114戸 463人 330石
北野 51戸 206人 610石
弘西 81戸 313人 998石
北 49戸 163人 393石
西田井 50戸 193人 730石
小豆島村 68戸 244人 506石
田屋 40戸 194人 881石
府中 145戸 620人 966石
村によって石高の違いがバラバラですね。
旧高旧領取調帳(明治初期の資料より)
愛知郡(132村・124,200石余)、村当たり940石
春日井郡(201村・151,652石余)、村当たり754石
丹羽郡(132村・73,204石余)、村当たり554石
葉栗郡(41村・19,070石余)、村当たり465石
中島郡(164村・124,229石余)、村当たり757石
海東郡(106村・127,615石余)、村当たり1203石
海西郡(99村・44,587石余)、村当たり450石
知多郡(147村・100,675石余)、村当たり684石
1600年頃(江戸前期)の各地の人口
総人口:1227万人
1804年(江戸後期)の各地の人口
総人口:3075万人
人口が倍増しているので、各村の人口、および、石高は半分以下と考えていい。
◇◇◇
【 武将も大変だ 】
500石の俸禄を貰っている武将は、50町で200人の村から足軽を徴兵します。
500石の武将は16人を揃えなくてはなりません。
侍1人、小者2人、足軽8人、中間2人、人夫2人、口取1人の計16人です。 (乗馬1頭)
貧しい領主なら中間などは、自分の子か、親族を宛がったかもしれません。
200人の村から10人くらいが集められたと考えられます。
あくまで近場の戦であり、遠征する場合はその半数の5人くらいみたいです。
200人の村程度の場合
近場:10人賦役
遠征: 5人賦役
しかし、これが飢饉の後の場合は異なります。
喰う物がないので、奪わないと死んでしまいます。
動ける者、女・子供も参加して、100人くらいが動員されたかもしれません。
(乳飲み子や体の弱っている人は参加できませんからね。)
実際、戦場における女性率は、戦場の発掘調査の遺骨から、3分の一は女性と判ってきました。
一方、老人と少年の遺体は出ていません。
女性が参戦していたかは判りませんが、荷駄隊や飯炊き、防具の手入れなどに同行していたのは間違いないようです。
城主や領主と言っても、村に対して一方的に兵役を課せるほど偉くなかったようであり、200人に対して10人なら許容範囲でしょう。
で、戦場で3割、10人に対して、3人も被害者を出した場合、相応の賠償をしないと、領主は一揆や離農という対応を取られたようですね。
あれぇ?
武士って、戦国時代でも農民に対して高圧的じゃなかったの?
小説や時代劇や大河ドラマの武将って、農民に高圧的ですよね。
しかし、そこまで百姓は弱くなかったのではないでしょうか?
そうなのです。
百姓=土豪
地侍と百姓は親兄妹であり、一族なのですね。
百姓の男が、若侍の拳骨を落としていても不思議でない世界。
それが『戦国の百姓』なのです。
時代劇のように百姓は弱くないですよ。




