第1章の天文15年に登場した主な人物。
佐々木 忍:17歳、身長175cm、スレンダーの体格だが、決して貧乳ではない。全国3位の柔道部のキャプテンに告白されるが断った。あぶらっこい系にむきむきのゴリラ男子が嫌いで、スマートなイケメン男子か、可愛いショタを好む。運動神経は皆無。日本歴史検定で日本一に輝いた事がある。毎年、日本で開催される世界史検定世界大会の日本代表メンバー(6人の一人)。不幸な事故で肉体を失い、生まれ変わった不滅の義体をもらって、戦国時代の観光旅行をする。(状態異常耐久、罪悪耐性を完備)
住所;長野県佐久市瀬戸、生まれは神戸だけど、母の実家に預けられて大阪住吉で幼少期を送った。祖母が亡くなると神戸に戻り、中学時代を神戸で過ごしたが、高校になると転勤で長野へ移った。
武器;金棒、長大竹、大金槌
みき:17歳、忍と一緒の高校の友達。
AIちゃん:|Virtual real portable《バーチャル リアル ポータブル 》、略して『バリポ』内の疑似人工知能。脳内に直接データーをやりとりできる機能を持つVRPである。記憶媒体は1万テラバイト、3Dグラフィックツールなどの様々な機能を有している。疑似精霊の力で『転移』と『モデリング』の能力を備える。
大魔導師:忍を助けた魔法使い。忍に被害を与えた子供の祖父。
子供の魔法士A:『ディメンションカッター』を打った。大魔導師の孫。
子供の魔法士A:『次元壁』を失敗した孫の友達。
【 那古野城の面々 】
織田 信長:12歳、天文3年5月12日(1534年6月23日)130cm、織田三郎平朝臣信長
岩室 重休:18歳? 大永8年/享禄元年(1528年)? 長門守、身長165cm、
(推定年齢)
長谷川 橋介18歳?大永8年/享禄元年(1528年)? 身長160cm
(推定年齢)
山口 飛騨守17歳?享禄2年(1529年)? 身長155cm
(推定年齢)
佐脇 良之8歳? 天文7年(1538)年?藤八朗。 身長110cm
(推定年齢)
加藤 弥三郎9歳?天文8年(1539)年? 身長125cm
(推定年齢)
滝川 利益:13歳? 天文2年(1533年)通称:慶次、慶次郎、155cm(史実では、滝川から前田家に養子に出されて、前田慶次となる。)
(推定年齢、諸説ある内の1つ)
前田 利家10歳 天文5年(1536年) 身長六尺(約182cm)又左衞門、幼名:犬千代
(推定年齢、諸説ある内の1つ)
柳生 宗厳 19歳 大永7年(1527年)通称:新介、新次郎、新左衛門、右衛門、後の柳生石舟斎17歳から筒井の人質として過ごし、武芸家として名を残し、新陰流流祖となる。
木下 藤吉郎 9歳 天文6年2月6日(1537年3月17日)秀吉
木下 弥右衛門 秀吉の父、頭を丸めて竹阿弥と改名。
智 12歳 天文3年(1534年)秀吉の姉 後の秀次の母日秀尼
小竹 6歳 天文9年3月2日(1540年4月8日) 後の豊臣 秀長
旭 3歳 天文12年(1543年)秀吉の妹 後の旭姫
木下 弥助 12歳 天文3年(1534年)智の夫、〔弥助→木下弥助→三好吉房→三好一路〕
佐治 為景23歳?大永3年(1523年) 知多の大野城城主、佐治水軍の将、通称:四郎、子に佐治 信方、大野城主
〔推定年齢〕(息子が天文22年に生まれる。30歳と仮定)
【 織田弾正忠家 】
織田 信定 没:天文7年11月2日(1538年11月23日) 信長の祖父
織田 信秀 35歳 永正8年(1511年)信長の父、官位:弾正忠、備後守舎弟与二郎殿(信康)、孫三郎殿(信光)、四郎二郎殿(信実)、右衛門尉(信辰)
織田 信康 没:天文13年9月22日(1544年10月8日)信定の2男、信秀の弟、犬山城主、天文6年(1537年)には犬山城に入城し、織田伊勢守家(岩倉織田氏)の織田信安の後見役も務めたとされる。信秀の舎弟織田与次三郎信康丹羽郡小口の城主又白岩犬山殿
△織田 信清 18歳? 大永8年/享禄元年(1528年)?通称:十郎左衛門 織田信康の子供、犬山城主。信長と当初は仲が良かったらしい。
(推定年齢)
織田 信正 ??? 信定の3男? 信秀の弟、美濃国嶋村に住して嶋氏(島氏)を名乗る。(庶子か、何かの事情で出奔したのでは? いない事になっている)
織田 信光30歳 永正13年(1516年)信定の3男、信秀の弟、守山城主、通称:孫三郎、妻:松平信定娘、子:信成
△織田 信成 〔来年生まれる予定〕天文16年(1547年)? 市介、信光の子 小幡殿(信秀の七女)を妻。
(推定年齢)
織田 信実 ?歳 通称:四郎次郎 信定の4男、信秀の弟、勝幡織田氏(名前から勝幡城主)
織田 信次 ?歳 通称:孫十郎。官位:右衛門尉
土田御前 ?歳 信長の母
織田 信広 19歳? 大永7年(1527年)? 通称:三郎五郎 信秀の庶子嫡男、信長の兄、安祥城の城主、6尺(180cm)
織田 信行11歳、天文4年(1535年)通称:勘十郎 信秀の3男、信長の弟
(推定年齢)
織田 信時6歳? 天文9年?(1540年)通称:喜六郎 信秀の4男、信長の別腹弟。叔父である犬山城主・織田信康の養子となる。天文13年以前に生まれているハズ。
(推定年齢)
織田 信包 3歳 天文12年7月17日(1543年8月17日)通称:三十郎 信秀の5男、信長の弟。
織田 信治 2歳 天文14年(1544年) 信秀の6男、信長の別腹弟。
織田 信興 〔生まれていません〕天文18年(1549年)? 通称:彦七郎 信秀の7男で織田信長の弟。
(推定年齢)
くらの方 19歳? 大永7年(1527年)? 信長の別腹姉、大橋重長室
(推定年齢)
犬山殿 18歳? 大永8年/享禄元年(1528年)? 信長の別腹姉、織田信清室
(推定年齢)
斎藤秀龍側室10歳、天文5年(1536年) 斎藤利政(道三)の側室、信長の妻と交換で嫁いだ妹。信秀の3女、幼名:辰姫
(推定年齢)〔幼名は仮称です。資料はありません〕
苗木勘太郎室 10歳、天文5年(1536年) 信秀の4女、信長の別腹妹 東美濃の有力国衆であった苗木遠山氏、遠山直廉室? 幼名:亥姫
(推定年齢)〔幼名は仮称です。資料はありません〕
神保・稲葉夫人 0歳?天文15年(1526年)? 信秀の女、信長の別腹妹 、神保・稲葉室、天正3年(1575年)に氏張との間に息子の氏長が生まれている。(信秀長女と言われるがあり得ない)
(推定年齢)
お市の方 〔来年生まれる予定〕天文16年(1547年) 信秀の5女
小田井殿 〔生まれていません〕天文17年(1548年) 信秀の六女 織田 信直(天文14年(1545年))の妻
(推定年齢)
小幡殿 〔生まれていません〕天文19年(1550年) 信秀の七女、織田信成室
(推定年齢)
お犬の方 〔生まれていません〕天文21年(1552年)? 信秀の8女 天文22年(1553年)?生まれの佐治 信方に嫁ぎます。
(推定年齢)
津田出雲守室 信秀の九女
飯尾尚清室 信秀の十女
野夫殿 信秀の十一女 津田元嘉室
小林殿 信秀の十二女 牧長清室
丹羽氏勝継室 信秀の十三女、他に2人。
【 那古野家臣 】
〇林ファミリー
林 秀貞 33歳 永正10年(1513年)通称:新五郎、那古野城の大人衆筆頭家老、信秀が『我が典韋』と呼んだ、武勇と忠義に厚い武将。
沖村城:林秀貞邸(北名古屋市沖村西ノ郷212)
嫡子 光時
二男 光之
三男 宗信
四男 信親
林 通具30歳 永正13年(1516年)美作守 秀貞の弟
林 通安佐渡守 八郎左衛門 秀貞の父
林 通村佐渡守 秀貞の祖父 稲葉から林に改名する。
林 通忠左近大夫 秀貞の叔父
林 通政駿河守 新次郎 秀貞の従兄弟、家臣、「槍林」との異名を持つ(武家事紀)
※林家は武名の家柄であり、父・祖父の佐渡守を秀貞が引き継いでいる事から隠居していると思われる。天文2年の言継が尾張を訪れた時期に秀貞が通安の代理で出席していたとある。
中川弥兵衛 米野城、林秀貞の与力
前田利昌 荒子城、林秀貞の与力
〔平手ファミリー〕
平手 政秀 54歳(※) 延徳4年5月10日(1492年6月4日)通称:五郎左衛門、官位:監物、経英の嫡男、春日井郡にあった志賀城の城主。
経英の2男:季定、
経英の3男:野口政利、
経英の4男:長成
政秀の嫡男:平手 長政34歳 永正9年(1512年)詳細不明。(政秀が20歳くらいの子としておきましょう。)
(推定年齢)
政秀の2男:???
政秀の3男:平手 久秀 21歳 大永5年4月30日(1525年5月22日) 政秀の33歳の子、政秀の三男、(もしくは政秀の嫡男)
〔※ 33歳で嫡男は余りにも遅いので、3男としている〕
政秀の長女:お清(織田長益室)
政秀の4男:埴原寿安、2歳 天文13年(1544年)? 埴原加賀守常安(植安)には子がなかったため、平手政秀の子を養子に迎えた。(加賀守は永禄10年(1568年)に信長に20貫文で召し抱えらえており、その養子(24歳?)なので相応に若いと思われる。)
(推定年齢)〔政秀高齢の子供はあり得るのか? 養子かな?〕
△平手 汎秀 〔生まれていない〕天文22年1月2日(1553年1月15日)久秀の嫡男 (平手政秀の三男(61歳の子?)、もしくは久秀の嫡男)
〔※平手 政秀の年齢が10歳くらい高すぎるような気がする〕
〔青山ファミリー〕
青山 信昌 通称:与三右衛門、おとな衆家老。古参、南朝の末裔。
〔内藤ファミリー〕
内藤 勝介 通称:勝介、おとな衆家老。
〔前田ファミリー〕
(前田 利家10歳 天文5年(1536年) 身長六尺(約182cm)又左衞門、幼名:犬千代)
(推定年齢、諸説ある内の1つ)
城主;前田蔵人利昌35歳? 荒子城主、林の与力。天文13年に荒子城を建築、永禄3年に戦死。
長男:利久 19歳? 病弱。
長男の養子:慶次 要領よく才能の塊。
2男:利玄、18歳 ? 三右衛門
3男:安勝、15歳? 極めて普通。
4男:利家、10歳? やんちゃでともかくかんばる子。6尺(182cm)になる。
5男:藤八、8歳? 佐脇家に養子に出した。
6男:秀継、6歳? 弟で論外。
〔滝川ファミリー〕
(滝川貞勝 (没) 滝川一益の祖父、近江国一宇野城主から滝川に移り、滝城の城主となり、『滝川』を名乗る。)
滝川一勝 ?歳 貞勝の嫡男、滝川一益や池田 恒利の父であり、一族の争いに負けて、滝城を放棄し、尾張に出奔し、信秀(池田家)に仕えた。恒利が池田家の養子になったのは、当時、一益が酒・賭博に走り、勘当されていた為である。
〔※.永禄三年(1558)、一族の争いから城を追われて甲賀を出奔して池田を頼って尾張に来たと言うが、おかしくねぇ。当時、一益も信長に仕えており、永禄三年は遅すぎる上に、一勝が活躍した記録が残っていません。いつ亡くなったかも不明〕
滝川範勝 ?歳 貞勝の2男 一勝の弟 通称:三四朗
〔いつ活躍したんだろう?〕
滝川某 ?歳 貞勝の3男 一勝の弟 通称: 勝三朗 前田慶次の父と言われる一人。
〔いつ活躍したんだろう?〕
滝川 一益 21歳 大永5年(1525年) 慶次の従兄、甲賀郡の国人で滝川一勝(もしくは滝川資清)、この話では尾張から出奔し、甲賀、堺を巡って、鉄砲を持って尾張に帰ってきた所になっている。
(滝川 利益:13歳? 天文2年(1533年)通称:慶次、慶次郎、155cm(史実では、滝川から前田家に養子に出されて、前田慶次となる。))
(推定年齢、諸説ある内の1つ)
池田 恒利 ?歳滝川貞勝の三男(または次男)、池田政秀に息子がいなかった為に娘(養徳院)の婿養子として恒利が入った。法名:宗傅 天文3年頃から病床に付いており、(天文3年、あるいは、)天文17年に死去する。
〔※.この恒利は初め足利義晴に仕えた(忍者として仕えたのかな?)が、享禄年間(1528年から1531年)に辞して、尾張国に閑居し、剃髪して宗傅となったと言うが胡散臭い話ですね。将軍に仕えたと言うのは箔付けのような気がします〕
池田 恒興 10歳 天文5年(1536年)通称:勝三郎 信長の小姓をやっていたが、父の池田 恒利が体調悪く、恒興を元服させて名代として登城している。
〔池田家は滝川家の分家ですよ〕
【 織田家臣 】
生駒 家宗灰や油の商いと馬借で冨を築き、丹羽郡小折の土豪。犬山城主・織田信清の家臣。
生駒 吉乃 18歳、土田弥平次に嫁ぎ、後に信長の側室になる。
大橋 重長 ?歳 正室:織田信秀娘・くらの方、子:長将、織田信弌 、津島の有力な国人
【 斯 波 】
斯波 義統33歳 永正10年(1513年) 尾張守護
【 織田大和守 】
織田 信友 33歳? 永正15年(1518年)以降に織田大和守守護代になる。義統と同じくらいではないだろうか。
織田 達勝 永正15年(1518年)以降に織田大和守守護代を信友に揺する
坂井 大膳 甚介、小守護代
河尻与一(左馬丞) 清州家老
織田三位 清州家老
【 甲賀望月家 】
◎長享元年(1487年)、『鈎の陣」の戦い』:幕府の命令に背いた佐々木六角氏の討伐に、足利九代将軍義尚が六角氏を追って甲賀城を攻めたが、義尚が死ぬ延徳元年(1489年)までの約3年間を守り続けた事が甲賀を全国に知らしめた。5年後の明応元年(1492年)、将軍職を継いだ足利義種が甲賀総攻撃を命じるが、佐々木六角氏は甲賀忍者に護られ、甲賀山中から伊勢にまで落ち延びた。第12代将軍(在職:1521年 - 1546年)足利義晴が六角氏の強力より甲賀・伊賀を召し抱えるきっかけになった。岩室家、滝川家の者が尾張に呼ばれ、そのまま土着したのではないだろうか。
望月 千代女 13歳 天文2年(1533年)? 甲賀五十三家の望月家の頭領である望月出雲守の娘です。望月盛時に嫁ぎ、後に武田信玄に仕えて、歩き巫女などを育成する。(小説では志摩守を拝命)
(推定年齢)
望月 出雲守 48歳? 甲賀五十三家中もっとも勢力があった上忍のうちの一つの頭領。
(年齢適当)
望月与右衛門 28歳 望月家が代々使われる名前の1つ。千代女の兄で出雲守の嫡男となっている。
(年齢適当、親子関係は不明)
望月 長重 45歳、通称:將監、左近衛太夫將監、出雲守の弟、千代女の叔父、尾張総代補佐、信長付き甲賀忍。
(オリジナル)
杉谷 長盛 26歳、通称:対馬守、出雲守の子、千代女の兄、杉谷家に養子。信秀付き甲賀忍。
(オリジナル)
〔2期〕
望月 葉紅 13歳 天文2年(1533年)? 甲賀五十三家の望月家の頭領である望月出雲守の弟の娘です。千代女の代わりに望月盛時に嫁ぎ、那古野に帰ると誓った少女です。
(オリジナル)
土山 時雨 19歳 甲賀五十三家の土山家の頭領である土山鹿之助の娘です。千代女の付きであり、甲賀53家から選ばれた連絡役の一人。
(オリジナル)
【 滋野望月家 】
望月盛時 42歳? 文亀4年/永正元年(1504年)? 天文14年(1545年)4月、真田幸隆を使者として六ヶ城に籠っていた 望月盛時(望月遠江守)を調略させている? 第4次川中島合戦で戦死。
(推定年齢)
【 伊賀 】
百地 丹波 伊賀三家の1つを仕切る頭領。服部に代わって、伊賀惣国一揆の指導者として活躍する。
△百地 三太夫 天正伊賀の乱で織田信長に敗れた百地丹波と同一視されているが、ここでは部下の一人である。
△石川 五右衛門三太夫から忍術を教わった天下の大泥棒。ここでは弟子であり、部下です。
◎千賀地 左衛門尉 保遠 服部家長の流れを汲む服部保長は千賀地を姓として当地に城を築き、千賀地を名乗った。左衛門尉は代々使われる名であり、頭領として登場する。
千賀地 保遠通称:左衛門尉、服部保長の父。
△服部 保長 初代服部半蔵、室町幕府12代将軍・足利義晴に仕え、北面武士就任が義晴を見限って、三河に下向する。子供に女子(高山飛騨守室)、保元(次右衛門)、女子(上島左近茂保室)、女子(松本大学室)、保俊(市平)、保正(源兵衛)、勘十郎、久太夫(久左衛門)、正成(弥太郎)、正刻(半助)、女子(中根正重(正清室)、女子(金田庄之助室)
△服部 正成:4歳、天文11年(1542年)保長の子。通称:半蔵、家康に仕えた。
△千賀地 保元、17歳、通称:次右衛門、正成の兄として登場するがどんな人物かは不明。小説は千賀地を名乗って尾張の忍付き。
(年齢は不明)
藤林伝五郎 伊賀藤林家の頭領。
(伝五郎は藤林長門守の孫にあたる藤林当主の保武からお借りした)
△|藤林 長門守 正保《ふじばやし ながとのかみ しょうほ》伊賀の上忍三家の一つ藤林氏の当主。父は服部摂津守保信とも? こちらでは今川の使える上忍の一人として登場。
〔第2期〕
△藤林 保豊:長門守の弟。尾張の忍付き。通称:三郎(藤三郎)、官位:豊前守
(オリジナル、藤林 長門守の別名)
【 柳生家 】
(柳生 宗厳 19歳 大永7年(1527年)通称:新介、新次郎、新左衛門、右衛門、後の柳生石舟斎17歳から筒井の人質として過ごし、武芸家として名を残し、新陰流流祖となる。)
柳生 家厳 50歳 明応6年(1497年) 柳生石舟斎の父。筒井側は総勢一万に、3日に渡る攻撃の末に水道を壊され、柳生城は落城した。
△石舟斎の子供達:厳勝、久斎、徳斎、宗章〔永禄9年(1566年)〕、宗矩〔元亀2年(1571年)〕
【 真田家 】
真田 幸隆天文10年(1541年)に武田信虎と諏訪頼重、村上義清に信濃小県郡・佐久郡へ侵攻されて、同年5月23日の海野平の戦いにより海野一族は敗北して上野へ亡命。箕輪城主・長野業正を頼って上野国に逃れている。河越夜戦で長野業正を見限って、武田晴信を頼る。時期は天文12年説、天文15年説、天文17年説がある。
【 風魔 】
風魔小太郎丈七尺二寸(2m16cm)のお男で、熊のような骨格をして、大きな眼光が睨み、鼻が高く、黒ひげに剥げた頭が妙に大きく見える男。
【 飯母呂 】
飯母呂一族 筑波山にいる平将門に味方した飯母呂一族の残党。
アメノオシヒの子孫であり、大伴氏と同系になる。
代々、宿禰の名を使う。(天武天皇の代に定めた八色姓の第三。もと、臣下を親しんで言った呼び名。)
鎧:鎧神社(平将門公の鎧が眠るという)
冨塚:冨塚稲荷(冨塚稲荷とも呼ばれていた水稲荷神社、平将門調伏のための神社と伝わる)
筑土:筑土八幡神社(平将門の足が祀られた?)
神田:神田明神(平将門公が神として祀られる)
兜:兜神社(平将門公の兜が埋まると伝わる)
鳥越:鳥越神社(平将門公の一族が今も宮司を務めるという)
苫屋:四条・五条の河原に苫屋という粗末な小屋をたてて住みつく。
鉦屋鉢屋、瓢、茶筅:念仏を唱え、鉦鉢、瓢をたたいて市中を托鉢してまわる。茶筅や竹細工をつくって売り歩き、生計を立てた。
飯母呂 将為 18歳、飯母呂の御社。通称:御社、官位:宿禰、幼名:篤丸、将門を祀る飯母呂神社の大宮司を兼ねる。
(架空の人物・設定)
瓢 八瀬 16歳 (飯母呂の忍付き)智と同じ、忍付きの下女
(架空の人物)
志土仁 結 23歳 (飯母呂の巫女):御社付きの巫女でシドニーを任された。
(架空の人物)
志土仁 綾 17歳 (飯母呂の巫女下女):結に付いてシドニーに行く。
(架空の人物)
【 鉢屋衆 】
鉢屋 賀麻鉢屋賀麻党の首領。通称:弥之三郎、尼子に仕える忍者衆。代々、弥之三郎を名乗る。
〔2期〕
◎尾張鉢屋衆を従える頭領。200人、両親と子供など30家が送られている。100人が10代(12~17歳)という弱年齢層が多く、第一線の鉢屋衆を外して、尼子から送られており、精鋭は30人足らずだ。
△鉢屋 久月17歳、賀麻の娘。尾張鉢屋久月党の首領。出立に当たって尼子晴久から久の一字を貰った。忍は『月ちゃん』と呼ぶ。
(オリジナル)
【 その他 】
富田郷左衛門 武田家に仕えた忍者、三ツ者の頭領。
出浦 盛清 0歳 天文15年(1546年) 信濃村上氏の一族である出浦清種の次男、天文22年(1553年)に村上義清が武田信玄に敗れ、越後国に逃れると、その後甲斐武田氏に臣従し、甲州透破を統率した。
【 美 濃 】
◎天文7年(1538年)に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗り、天文10年(1541年)、利政による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となって、頼芸と利政との対立抗争が開始した。天文11年(1542年)に利政は頼芸を尾張へ追放したが、織田信秀じゃ頼芸を支援し、朝倉孝景(土岐頼純を庇護)と図って、美濃を攻め、頼芸は揖斐北方城に入り、頼純は革手城に復帰した。(信秀も大垣を得る)
天文13年8月15日(1544年9月2日)頼芸と利政の中が険悪になり、頼芸を支援して大垣より出立し、加納口の戦い(井ノ口の戦い)が起こった。稲葉山城に籠った利政は一向に反撃する様子もなく、落とせないと思った信秀は退却を命じると、そこで逆襲を受けて、手痛い被害を出した。天文15年(1546年)秋、再び頼純と頼芸・道三との間で和議が成った。朝倉孝景、織田信秀の室町幕府への働きかけに加え、頼芸の同盟者である六角定頼の仲介もあった。9月、頼純は菩提山城を経て大桑城へ入城した。和議の条件として、頼芸の隠退と頼純の美濃守護職就任があったという。また、道三の娘との婚姻も実現した。これにより頼純の次期守護内定と頼芸の引退が約束されます。(頼純は翌年に急死し、毒殺を疑った。再び、頼芸と利政と険悪になり、天文16年の加納口の戦いが起こる事になります)
〔現在、朝倉の働き、六角が仲介に名乗り出ている所〕
斎藤 利政(後の道三) 52歳 明応3年(1494年)新九郎
△斎藤 義龍 19歳 大永7年6月10日(1527年7月8日)利政(後の道三)の長男 幼名:豊太丸 通称:新九郎 身長:六尺五寸(約197cm) 特徴:醜男(持病を患った) 正室:近江の方(浅井久政の養女で亮政の娘)
近江の方 18歳 大永8年(1528年)義龍の妻、浅井久政の養女で亮政の娘、(天文8年(1539年)11歳で嫁いできた)
(推定年齢)〔1歳下という資料もあるけど、元の資料が見当たらない〕
〔近江の方:浅井久政の養女で亮政の娘だか、いつ嫁いだか判らない。土岐と斉藤の争いが起こる前、最長期の天文8年当たりが正着ではないかと思うのです〕
△濃姫 11歳 天文4年(1535年)利政の娘(小見の方) 別名:於濃、帰蝶、胡蝶、鷺山殿、安土殿 天文15年(1546年)秋、再び頼純と頼芸・道三との間で和議が成った。朝倉孝景、織田信秀の室町幕府への働きかけに加え、頼芸の同盟者である六角定頼の仲介もあったらしい。9月、頼純は菩提山城を経て大桑城へ入城した。和議の条件として、頼芸の隠退と頼純の美濃守護職就任があったという。また、道三の娘との婚姻も実現した。
△斎藤 孫四郎 ?歳 利政の次男(小見の方)改名:勘九郎、龍重 通称:孫四郎、左京亮
△斎藤 喜平次 ?歳 利政の3男(小見の方) 諱:龍定[、龍之とも。仮名:玄蕃、道三は喜平次に「一色右兵衛大輔」
深芳野 39歳 永正4年(1507年)? 斎藤道三の側室、一色左京大夫義清の娘。美濃一の美女、身長:六尺二寸(約187cm)
〔土岐頼芸の愛妾でのちに斎藤道三の側室となったといわれる。大永6年頃(1526年)12月に下贈され、大永7年6月10日(1527年7月8日)に20歳で豊太丸を産む〕
(推定年齢)
小見の方 33歳 1513年(永正10年) 斎藤道三の正室、美濃国明智長山城主明智光継の娘、明智光綱の妹
|稲葉 良通 / 一鉄《いなば よしみち /いってつ》:通称:彦四郎、官位:伊予守、林秀貞と同族であり、祖父の通村の兄が稲葉家の主筋になる。
斎藤 利賢?歳 通称は右衛門尉、美濃国白樫城主。(春日局の祖父)父:斎藤利匡、母:稲葉通以 妹:明智光安室、長子石谷頼辰、次男:利三、、長女:三続、二女(蜷川親長室)、三女(長宗我部元親正室)
〔蜷川親長:13歳 天文2年(1533年)、室町幕府政所代、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、丹波国船井郡桐野河内を領して蟠根寺城に父の親世と共に拠ったが、永禄8年(1565年)に義輝が三好三人衆に殺害されると親長は所領を失い没落。 後に土佐国に下向して婚姻のよしみで、同朋衆として長宗我部元親に仕えた〕
△斎藤 利三 12歳 天文3年(1534年) 通称:内蔵助 美濃斎藤氏の一族
●明智 光継没〔応仁2年5月20日(1468年6月19日-天文7年3月5日(1538年4月14日〕 明智頼尚の子、美濃国長山城主。小見の方の父、娘:小見の方(斎藤道三継室)
●明智 光綱没〔明応6年8月17日(1497年9月13日)-天文4年8月5日(1535年9月12日)〕 光継の子、小見の方の兄、明智城主
△明智 光秀10歳 天文5年(1536年)? 光綱の子、小見の方の甥、幼名:彦太郎、通称:十兵衛。渾名:キンカ頭、雅号:咲庵。朝廷より惟任の姓を賜ったので惟任光秀。妻は妻木煕子。子には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室
(年齢は秀満と同じと仮定します)〔光秀が本当に光綱の子かは疑問が多いのです〕
明智 光安 46歳 明応9年(1500年)明智光継の三男。幼名:亀寿丸 通称:柿田弥次郎 官位:従五位下、兵庫頭
〔天文4年(1535年)、美濃国明智城主の家督を継いでいた兄・光綱が若くして亡くなると、その子・光秀がまだ幼かったため、隠居していた父・光継に光秀の後見を命じられ、後に光秀が元服した後も明智家の家政を担った。弘治2年(1556年)義龍とそれに加担する稲葉良通ら諸将に敗れて戦死した。〕
△明智 秀満 10歳 天文5年(1536年)? 明智光安の子 通称:左馬助(左馬之助)、別名:三宅弥平次
●土岐 頼武 没 美濃守護土岐政房の嫡男、頼芸の兄、妻:朝倉貞景の三女
△土岐 頼純 22歳 大永4年(1524年)、母:朝倉貞景の三女
〔天文15年(1546年)秋、再び頼純と頼芸・道三との間で和議が成り、道三の娘との婚姻し、翌年に守護になる事が決まる。〕
土岐 頼芸 44歳 文亀2年(1502年)
〔信秀を頼って天文13年に美濃守護に復活、天文15年、六角の仲介で翌年に引退し、頼純に守護職を譲る。〕天文14年(1544年)、大桑城にいた美濃の国守護土岐頼芸の軍と岐阜の斉藤道三の軍との戦いの時、頼芸に力をかした国の武士たちが大桑城につながるたった1本の道路であり、両側から山がせり出しているこの場所に壕をほって、敵の侵入をふせぎ深さは5m、幅は約8mもあります。
【 今川家 】
◎花倉の乱で太原雪斎・岡部親綱らの協力を得て異母兄・玄広恵探を倒して今川義元は守護となった。後北条氏を敵に回し、甲斐の武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え、駿河・遠江を平定し、三河で信秀と対立している。天文14年(1545年)第二次河東一乱で有利に事を進めて、『河越城の戦い』において北条は関東により深く進む事となって、駿河方面は穏やかになっているが余談を許さない状況であった。
今川 義元 27歳 永正16年(1519年) 幼名:芳菊丸 通称:治部大輔 駿河守護
△今川 氏真 8歳 天文7年(1538年)幼名:龍王丸 義元の長男、
△義元の次男(名前すら残っていないので、生まれて間もなく亡くなったのでは?)
△今川長得 3歳 天文12年(1543年) 今川義元の三男、 一月 長得 今川家では長子以外を仏門に入れる習わしがあったので、4歳くらいに仏門に入ったと思われる。(義元も4歳で仏門)
(推定年齢)〔氏真より順算〕
△嶺松院 ?歳、義元の長女、信玄の嫡男義信に嫁いだ。
△隆福院 ?歳、義元の次女
寿桂尼51歳? 明応4年(1495年)? 義元の母、藤原北家、勧修寺流の中御門家の権大納言中御門宣胤の娘、兄に中御門宣秀、姉は山科言綱の正室。
(推定年齢)〔結婚時より逆算〕
定恵院 27歳 永正16年(1519年) 義元の正室、武田信虎の長女、信玄・信繁・信廉らの姉。
太原 雪斎 50歳 明応5年(1496年) 諱:崇孚 改名前:九英承菊 父:庵原政盛 駿河富士山麓の善得院(現在の臨済寺)に入寺し、幼名を芳菊丸といった義元の教育係を務めた。
岡部 親綱 34歳? 永正9年(1512年)? 花倉の乱(1536年)で味方した忠臣。通称:玄忠
(推定年齢)〔没永禄5年(1562年)から人生50年として計算、花倉24歳になる。あと10歳くらいは老けていたかもしれない〕
△岡部 元信 15歳? 享禄4年(1531年)? 親綱の子、通称:五郎兵衛
(推定年齢)〔天文17年(1548年)の第2次小豆坂の戦いで力戦から逆算〕
庵原 忠胤::太原雪斎の義理の甥、
朝比奈 泰能 49歳 明応6年(1497年)遠江国掛川城主 通称:弥次郎
三浦 氏満 ?歳 (朝比奈 泰能と同じくらい信任を得ている家臣であり、外交を得意とする)妻:寿桂尼の兄・中御門宣秀の娘
飯尾 乗連 ?歳 遠江国曳馬城主、室町幕府の奉行衆の家柄、通称:善四郎、官位:豊前守(徳川に迫られた時に、息子は徳川に寝返る)
△飯尾 連龍 ?歳 乗連の子。
【 武田家 】
◎駿河国の今川氏親と将軍足利義澄の命を受けた伊勢宗瑞(北条早雲)により足利茶々丸が追放された。この堀越公方の足利政知の子、足利 茶々丸を支持したのが、晴信の祖父である武田信縄です。
こうして、足利義澄を支持する今川氏、信濃の諏訪氏、大井氏、穴山氏と対立するようになったのです。
晴信の父である信虎は、甲府に躑躅ヶ崎館を建設し、川田(笛吹市石和町)から本拠地を移転させ、甲斐国衆を城下町に集住させようとしました。
これに反発した栗原氏、今井氏、大井氏が反乱し、三氏を同時に鎮圧したのです。
享禄4年(1531)、飯富氏、栗原氏、今井氏による大規模反乱が起こり、反抗する勢力が一掃して、信虎は甲斐統一したのです。
信虎は信縄の外交を継承していたので関東の争いに援軍を出し、今川・北条を敵にして戦います。度重なる出兵は甲斐の住民の負担となり、享禄元年(1528年)には甲斐一国内を対象とした徳政令を発するほど疲弊しています。そこに上杉憲房の娘を武田家に迎える事は更なる関東への関係を深くする事になると反発が起こり、栗原兵庫・今井信元・飯富虎昌らが反乱を起こすのです。
天文3年(1534年)11月に嫡男・晴信の正室に上杉朝興の娘を迎え輿入れします。天文5年(1536年)、今川氏輝と弟の彦五郎が同日に死去し、花倉の乱が起こり、信虎は義元と同盟を結び、天文8年(1539年)に北条氏綱とも和睦し、乱は収束したのです。
平和っていいですよね。
否でした。
天文5年(1536年)11月に信虎は信濃佐久郡に出陣し、嫡男晴信に初陣させます。
天文9年(1540年)には今井信元を浦城(旧北巨摩郡須玉町)で降伏させ、同年4月に諏訪頼重と同調して信濃佐久郡へ出兵し、はじめて甲斐国外における所領を獲得します。
天文10年(1541年)5月25日には武田・村上・諏訪三氏と共同で信濃佐久郡への遠征を行い、6月14日、信虎が娘婿の今川義元と会うために河内路を駿河国に赴いたところ、晴信は甲駿国境を封鎖して信虎を強制隠居させます。
天文11年(1542年)6月に晴信は諏訪氏庶流である伊奈の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、信濃全域へと戦線を拡大しているのです。
天文14年5月、信濃佐久郡と伊那郡の同時制圧を開始し、北信濃の村上氏との対決に備えます。
武田 晴信 25歳 大永元年11月3日(1521年12月1日) 官位:従五位下・大膳大夫 甲斐守護 通名:太郎、別名:甲斐の虎 父:武田信虎、母:大井の方 正室:上杉の方(上杉朝興の娘 ) 継室:三条の方、諏訪御料人、禰津御寮人、油川夫人
△武田 義信 8歳 天文7年(1538年)晴信の嫡男、通名:太郎
武田 信繁 21歳 大永5年(1525年)晴信の弟 別名:典厩、古典厩 官位:左馬助
武田 信廉/逍遙軒 14歳 天文元年(1532年)晴信の弟 、改名:孫六 官位:刑部少輔
一条 信龍 7歳 天文8年(1539年)? 信虎の八男、別名:上野介
〔鎌倉時代に断絶していた甲斐源氏・武田信義の二男・一条忠頼を祖とする一条氏の名跡を継承する。〕
板垣 信方 57歳 延徳元年(1489年)? 晴信の傅役 別名:信形、官位:駿河守 家紋:「花菱(裏花菱)」、馬標:「三日月」。天文9年(1540年)の信虎の信濃国佐久郡侵攻の際に敵城十数を落とす活躍をしたという
飯富 虎昌 42歳 永正元年(1504年)義信の傅役 官位:兵部少輔 渾名:甲山の猛虎 武田家の譜代家老衆として仕える。
〔信濃国佐久郡内山城を領する?〕
△山県 昌景 17歳 享禄2年(1529年)飯富虎昌の子 譜代家老衆 改名:飯富源四郎、山県昌景 別名:三郎兵衛尉
馬場 信春 31歳 永正12年(1515年) 改名:教来石景政(初名)→馬場信房→信春 別名:信政 官位:美濃守
甘利 虎泰 48歳 明応7年(1498年)? 譜代家老 通称:九衛門 官位:備前守
原 虎胤 49歳 明応6年(1497年)別名:鬼美濃 諡号:清岩 官位:美濃守 足軽大将
金丸 筑前守 ?歳 通称:虎義 信虎から使える譜代衆の一人
【 佐久郡 】
大井 貞清 ?歳 別名:宮内、左衛門督 信濃国佐久郡内山城主。信濃源氏小笠原氏の庶流大井氏の庶流・岩村田大井氏。三兄・貞隆の嗣子
【 尼子家 】
▽佐々木 宗氏 佐々木氏支流京極氏4代当主。京極宗氏 高氏の父
▽京極高氏(佐々木 道誉(導誉))鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。佐々木氏一族の京極氏に生まれた。佐々木、京極、尼子の祖先。
尼子 晴久 32歳 永正11年2月12日(1514年3月8日) 出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の守護大名。八カ国守護とも言われる。天文6年(1537年)、父の経久の隠居し、当主となる。石見銀山を躍起となって取り戻したのです。
米原綱広 通称:平内兵衛、近江国米原郷を領して米原氏が尼子経久に仕えて、高瀬城主になった一族。
【 浄土宗/一向衆】
証恵 30歳、永正13年(1516年)、長島の願証寺三世、子に証意。諱を教幸。通称を兵衛督。伊勢・尾張・美濃の3国の寺院・門徒支配の権限。
【 公 家 】
後奈良天皇 49歳 1497年1月26日(明応5年12月23日) - 1557年9月27日(弘治3年9月5日))第105代天皇(在位:1526年6月9日(大永6年4月29日)- 1557年9月27日(弘治3年9月5日))即位礼:天文5年2月26日(1535年3月29日)諱:知仁宸筆(天子の直筆)の書を売って収入の足しにしていた。だが、清廉な人柄であったらしい。
山科 言継39歳 永正4年4月26日(1507年6月6日)官位:正二位・権大納言、贈従一位 家業である有職故実や笙、製薬のみならず、和歌(三条西公条の門下)、蹴鞠、漢方医学、酒宴、双六など。朝廷の財政の最高責任者である内蔵頭(従五位上)。内服薬や火傷の塗薬を調合。
西園寺 公朝 31歳 永正12年(1515年)官位:権中納言・権大納言・右近衛大将、従一位・左大臣。天文5年(1536年)には従三位、天文22年(1553年)に内大臣および左近衛大将に任じられる。(天文15年では、従二位、権大納言でしょうかね?)
吉田 兼右 30歳 永正13年4月20日(1516年5月21日) 少納言・清原宣賢の次男。侍従・吉田兼満の養子。官位:従二位・侍従・神祇大副兼右兵衛督。吉田家8代当主・卜部氏24代。
△吉田 兼見 11歳 天文4年(1535年)京都吉田神社神主。吉田神道宗家・吉田家9代当主・卜部氏25代。細川幽斎の従兄弟『兼見卿記』の著者
今出川 公彦 永正3年(1506年) 官位:従一位 左大臣 天文15年(1546年)には左大臣を拝命する。
△今出川 晴季・菊亭 晴季 7歳 天文8年(1539年)天文14年(1545年)、元服し、将軍・足利義晴からの偏諱を受けて晴季と改名する。
天文17年(1548年)、従三位に叙せられ、公卿に列する。
【 その他 】
玉屋作兵衛
鍵屋又衛門
※.天文十七年(1549年)能『羽衣』
春の朝、三保の松原に住む漁師・白龍は、仲間と釣りに出た折に、松の枝に掛かった美しい衣を見つけます。家宝にするため持ち帰ろうとした白龍に、天女が現れて声をかけ、その羽衣を返して欲しいと頼みます。白龍は、はじめ聞き入れず返そうとしませんでしたが、「それがないと、天に帰れない。」と悲しむ天女の姿に心を動かされ、天女の舞を見せてもらう代わりに、衣を返すことにします。
羽衣を着た天女は、月宮の様子を表す舞いなどを見せ、さらには春の三保の松原を賛美しながら舞い続け、やがて彼方の富士山へ舞い上がり、霞にまぎれて消えていきました。
【お金の話】
お米10kgが4,000円
一合=150g
1石=1,000合=米150kg=6万円
1貫文=100疋=1,000文=1石=1,000合=米150kg=6万円
・尾張57万石で、342億円の収穫額になります。
・三河29万石で、172億円の収穫額になります。
・遠江25万石で、150億円の収穫額になります。
・駿河15万石で、90億円の収穫額になります。
(三河・遠江・駿河の三国69万石で、414億円の収穫額になります。)
【南蛮船の儲け】
銀一匁は3.75グラム
1ペソ銀貨は27.468グラム
1ペソ銀貨=27.468g=銀7.32匁
1石=銀10~20匁
ここで復習です。
1石=1,000合=米150kg=6万円
ですから、
1石=銀10~20匁=6万円
(平均15匁とする)
です。
1586~1590年で南蛮との取引数は、6000件(年1200件)、1年で来る南蛮船の数は2隻程度です。
1年の取引額は350,499ペソと記録されます。
350,499ペソ=2,565,652匁=171,043石(17万石)=約103億円
南蛮船1隻当たり 8万5521石(約51億円)になる。
但し、1591~1595年になると、取引量が3倍に増加しますが儲けはその半分に落ちている。
信長の年代は天文15年(1546年)なので、南蛮船1隻当たり 8万5521石(約51億円)とする。
【 尾張の役職 】
守護:斯波義統
上尾張 守護代:織田信安(岩倉城)
下尾張 守護代:織田信友(清州城)
下尾張 守護代 三奉行の一人 織田信秀
【 織田信秀の分担 】
(奉行職:織田信秀)
東尾張:織田信秀(末森城)末森衆
中央尾張:織田信長(那古野城)那古野衆
西尾張:織田信実(※)(勝幡城、津島衆を管理)勝幡衆
【 那古野の役職 】(那古野衆)
城主:信長
おとな衆:家老
側用人衆:側御用人(筆頭)、側用人
城主衆:城持ちの領主
・一門衆:御一門の城主方々。
・譜代衆:古参の城主
・旗本衆:新参の城主
・外様衆(合力衆):安城殿(西三河、信広)、大垣殿(牛屋殿、西美濃 信辰)、岩倉殿(上尾張 伊勢守 信安)、犬山殿(犬山城主方々)、水野殿(知多 水野信元)、佐治殿(知多 佐治為景、水軍)その他の外部協力者(穴太衆、黒鍬衆、津島技衆(宮大工)、熱田技衆(宮大工)、伊勢宮大工衆、根来衆など、増加中)〔外様衆は許可がないと、評定などに参加できない〕
・門外漢衆:甲賀衆、伊賀衆、柳生衆、飯母呂衆、鉢屋衆、川並衆、川原衆など
代官衆:各城主の倉や農民を管理する。
所司代衆(傅役衆):各城主の部下であり、陣振れを管理して、兵を調達する。(城主直属から方々衆に変更される)
方々衆:奉行方、勘定方、城番方、作事方、寺社方、台所方(食糧・炭)、賄い方など、(普請方、出仕検方、警邏方、足軽方、舟方が増設される。)
(※.織田 信実 通称:四郎次郎 (勝幡織田氏となっているが、勝幡城主だったと言う記録はない)
〔この小説用に分類です。つまり、これは架空の分類です。史実では、区別が難しい上に、生き残った武将以外は家臣団から消されているので、割り振りができないのです。〕
【 組織 】
奉行は足軽、足軽小頭、足軽組頭、足軽隊頭より上になるが、足軽支配の足軽大将より下になる。
一門衆、譜代衆、旗本衆、馬廻り衆はさらに上に上司になる。
作事奉行、普請奉行は勘定奉行や用水奉行、台所奉行、代官が同格になる。
1000~5000人を束ねる小普請支配
300~500人を束ねる小普請役、
100人を束ねる組頭、
10人を束ねる10人小頭、
人夫。
【 地名 】
□オーストラリア
シドニー:志土仁
(飯母呂一族の志土仁 結、志土仁 綾が在中)
メルボルン:女瑠菩瑠、クミン族が家臣になる。
(伴長信の一族で、伴五兵衛が在中)
□アメリカ:天利加
ロサンゼルス:路山是瑠須、略して『路山』
(黒川与四郎の家臣、辻和泉が在中)
蝦夷地:北海道
樺太
台湾
琉球
奄美
作品の向上の為に、
『 評価 』
だけでも付けて頂けると幸いです。
よろしく、ご協力下さい。
お願いします。
作者:牛一/冬星明