19.藤吉郎、家に帰るの事。
【木下藤吉郎秀吉】
おらは朝一番に土産の入った風呂敷を持たされて那古野城で見送られた。
那古野から中中村までおおよそ5kmであり、四半刻もあれば村が見えて来た。
藤吉郎は道脇に転がっている大石に腰かけて休憩を取った。
夢のようじゃ。
つい2日前、ある程度の蓄えもできたので1年ぶりに家に帰ろうと思った。
ここで休憩して忍様に声を掛けられたのだ。
おらが士分扱いの小姓じゃと!
今でも信じられん。
信じられんが、忍様は大日如来様の化身じゃ。
裏切ってはならん。
おらは果報者だ。
忍様がおらを村に帰す意味をよぉ~考えねばならん。
おらに何ができる。
慶次様や宗厳様のように刀で奉公ができん。
忍様はおらに何を望んでおられる。
よぉ~考えねばならん。
◇◇◇
【木下藤吉郎秀吉】
藤吉郎の父は中中村に生まれた弥右衛門と言い、槍働きに自信があったので加世者として、織田に組みして戦った。敵武将の首1つでも上げたなら、どこかの家臣として取り立てられたのだろうが、弥右衛門はそんな運には見放されていた。
いくつかの手柄を立てたが、天文12年の合戦で膝口を射られて、その負傷で働けなくなってしまった。
姉の智は嫁に出され、おらは光明寺に預けられた。まだ幼い小竹3歳、旭1歳を連れて郷里に戻ると、わずかな田んぼを分けて貰って農家に戻った。
寺でおらが辛気臭い般若心経を巧く唱える事ができなかった。
真言宗には五戒というモノがあった。
・不殺生戒 いかなる生き物も、故意に殺傷しない。
・不偸盗戒 与えられていない物を、故意に我が物としない。
・不邪淫戒 不適切な性関係を結ばない。不倫・売買春しない。
・不妄語戒 偽りの言葉を語らない。
・不飲酒戒 アルコール類を飲まない。
じゃが兄弟子は仕事をさぼって、何か起こればおらに責任になすりつけた。
遂に我慢できずに寺を出た。
家に帰ってもおらの居場所はねい。だから合戦場から金物を持ち帰って、清兵衛おじさんとこで鉄を針に加工して貰って、それを売って稼いだ。
弥右衛門は村では弥助と呼ばれ、酒を飲むと暴れて殴る蹴るの暴行を平気でやる。
結局、おらは1年もおられず、家を出る事にした。
かっちゃんが餞別にくれた1貫文(6万円)を元手で商売を始めた。
針はどこに行っても売れる。
鍛冶師の清兵衛おじさんには何度も無理をいった。
それから1年間がんばった。
その成果を背負って、おらはここに座っていたのだ。
かっちゃんへの土産は、銭3貫、米1斗(15kg)、砂糖1斤、塩1升、味噌3升と饅頭2個だ。
残念ながら饅頭はおらの腹に納まってしもうた。
代わりに、甘い桃10個も入っておる。
銭は3貫から100貫に増えてしもうた。
100貫はおらの雇い賃らしく、年100貫の俸禄が貰えるらしい。
ありがたいと言うより恐ろしい事じゃ。
◇◇◇
当時の足軽の俸禄は1貫500文です。
下級武士が50貫文で、
上級武士が100貫文なのです。
1貫文=100疋=1,000文=1石=1,000合=米150kg=6万円
(1石=10斗=100升=1000合)
ですから、
足軽の年収は1貫500文の9万円で、
下級武士が50貫文の300万円で、
上級武士が100貫文の600万円なのです。
因みに、
秀吉が信長にはじめて仕えた時(18歳)の俸禄は十五貫文(90万円)であり、
9年後の百人足軽組頭に出世した時(27歳)が五十貫文(300万円)に増え、
犬山城落城の後(29歳)に六百貫文(3600万円)に加増されています。
ホップ、ステップ、ジャンプです。
でも、足軽に比べると、ヘッドハンティングな俸禄を貰っているのです。
◇◇◇
【木下藤吉郎秀吉】
「かっちゃ、たでゃ~ま」
「おぉ、日吉。しょうべいはようなった」
「すんごい事になっとる」
「そうけ」
かちゃんのなかは30歳になったばっかしで、まだまだ働ける。
「とちゃは」
「坊主になって、竹阿弥と名前を改めた」
「どうしてそんな事になった」
酒を飲んで暴れたので、近くの住職が頭を刈ってしまったらしい。
「これは隠しとけ」
おらは100貫文をかちゃに渡してそう言った。
「こんな銭、どうした」
「那古野の姫様の小姓になっただ。これは報酬だ。もらっとけ」
「城の姫様じゃと」
「あにさ」
「あ~に」
「小竹、旭、大きゅうなったな」
「あにさ、みあげは」
「あ~に」
「これは桃と言ってうめ~ぃものじゃ。食ってみろ」
「もも」
「あたちも」
「旭のだ」
「わぁ~い」
とりあえず土産を床に置いた。
「それより小姓ってなんだ」
「姫様の小姓じゃ。姫様は大日如来様の化身なんじゃ」
「そだら姫様がなして」
「知らぬ。知らぬが拾ってもろうた。おらはいま、侍じゃ」
「誰が侍じゃと」
竹阿弥が帰って来て、おらをギロリと睨み付ける。
そして、ずかずかと近づき、脇差を取ると脇差を開き、刃を日の方向に翳すのです。
「えぇ、刀や~ぁ、盗んだのか」
「殿様に借りた」
「借りた?」
「家に帰るのに、脇差の1つもないとカッコがつかんじゃろと」
「ましな、嘘をつけ」
「ほんとじゃ、返さんと親父の首が飛ぶぞ」
竹阿弥が首を斜めに向けておらも睨むと、手をわしわしと揺らすのです。
おらは懐から銭百文の束を3つ、放り投げたのです。
竹阿弥はそれを拾うと脇差を放り投げて、再び家から出て行こうとするのです。
「酒はおよしよ」
「うるさい。槍1つ振れん奴がどうして武士になれんるじゃ。儂はなんでなれんのじゃ」
ガンッ、玄関口を激しく叩いて、竹阿弥はふらふらと出てゆくのです。
おらも考えてしまいますのです。
槍も振れん、おらが何故、召し抱えられたのか。
◇◇◇
【木下藤吉郎秀吉】
おらはあいさつを済ませると、海部郡津島の清兵衛おじさんの所を目指します。
清兵衛おじさんは、かっちゃの従妹の伊都さんを娶った親戚であり、針の注文など、色々と無理を聞いてくれたおじさんです。
忍様は何が必要と言った?
普請の道具、農機具、銭の鋳造など、沢山の鍛冶屋がいると言っていたではないですか。
倉街に住む鍛冶師が沢山いるだぎゃよ。
清兵衛おじさんなら口は堅い。
おらは100貫文も貰っておるんじゃ。
3~4人を召し抱えても問題ねぇ。
おじさんの仲間を那古野に誘致すれがん。
あとで智姉の所に行ってだか。
乙の子村とか言っておった。
亭主の弥助も同い年の12歳じゃと。
体のいい手伝いしてちょーせんか。
親父もロクなことしねいな。
そうだ!
智ごと雇えばええ!
こうして、走り回って城で報告すると!
「ウチは託児所じゃない」
忍様に怒られた。
でも、智と弥助はおらの家臣として倉街で住む事になった。
津島の鍛冶屋である清兵衛おじさん、加藤 清忠を誘致した事は褒められた。
倉街の管理はおらと智と弥助で見るように申し付けられたのだ。
「そう、そう、青木 重矩と福島 正信もあなたの家臣に誘致して、倉街の管理を手伝わせなさい。子供だけでは辛いでしょう」
「判りました」
「それから実家のなかさんに倉街の飯炊きの仕事を頼めるかしら」
「よろしいので」
「私が頼んでいるのよ」
「お受けします」
「よろしく」
忍様が、「これで秀長、加藤 清正、福島 正則もゲットだぜ」と叫んでいた。
※1斤=600グラム。1升=1500グラム。1石=150キロ。
不思議な事に弥右衛門が戦死した時は姉の智と秀吉しかいないハズなのですが、年を考えると秀長も旭も生まれています。
不思議ですね。
豊臣秀吉の出生には様々な説がございますが、この話は木下弥右衛門が足を怪我して中村に戻って来た後に、頭を剃って竹阿弥と改名した同一人物の説を取っております。
調べると伝承には、矛盾が一杯です。
◇◇◇
すべて名古屋弁で書きたかったのですが、無理です。
雰囲気だけです。
ごめんなさい。
秀吉の血縁は、父である木下弥右衛門、竹阿弥、母であるなか(大政所)、兄弟に瑞龍院日秀、秀長、朝日姫、なか(大政所)の縁者に栄松院(小出秀政の室)、松雲院(福島正則の母)、大恩院(青木秀以の母)、なか従妹の聖林院(伊都、加藤清忠の室、加藤清正の母)になる。
○豊臣秀吉
9歳
天文6年2月6日(1637年3月17日)
尾張国愛知郡中村郷中中村(名古屋市中村区)で、足軽と伝えられる木下弥右衛門となかの子として生まれた。
天野信景の随筆『塩尻』には「秀吉系図」があり、国吉―吉高―昌吉―秀吉と書かれ、
『尾州志略』では蜂須賀蓮華寺の僧であるとし、
『平豊小説』では私生児であったと、
『朝日物語』『豊臣系図』では信長の同朋衆であった竹阿弥が実父であったとされている。
『天正記』や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から天文6年2月6日に生まれ、父・木下弥右衛門の死後、母のなかは竹阿弥と再婚したが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、天文19年(1550年)に家を出て、侍になるために遠江国に行ったとされています。
竹中重門の秀吉の一代記『豊鑑』で「郷のあやしの民の子なれば。父母のなもたれかは志らむ。一族なども志かなり」と示されており、身元不明の農民の出であったと思われるのです。ゆえに、木下弥右衛門や竹阿弥の事もどこまで正しく伝わっているのか怪しいのです。
そもそも、秀吉が木下を名乗ったのは、松下之綱が木下の姓を与えたと言う説もあり、農民が姓を持つのはめずらしく、弥右衛門が木下の名乗っていたかは定かではなのです。
また、木下弥右衛門は蜂須賀に仕えて戦死しますが、妻のなかが中村はなぜ、縁もゆかりもない中中村に住んだのでしょうか?
なかは御器所村の生まれとされるので、実家に帰るなら御器所村のハズです。
『尾陽雑記』では、膝口を射られて負傷で働けなくなった(木下)弥右衛門は、郷里に戻り、弥助(弥右衛門)が出家して『竹阿弥』と名乗ったとされています。
なんと、木下弥右衛門と竹阿弥が同一人物になっています。
これならば、中村に戻った理由になります。
そう考えると、『竹阿弥』が織田信秀の同朋衆であったと言うのが、出まかせであった。秀吉の法螺話と考えるのがいいのです。
秀吉の法螺話の1つで、有名なのが御落胤説です。
秀吉に御伽衆の大村由己『関白任官記』には、秀吉の母(大政所、天瑞院)は萩中納言という貴族の娘で、尾張に配流されていたが、許されて上洛して宮中に仕え、再び尾張に帰ってすぐに秀吉を生んだ。秀吉の天皇の落胤であると暗示するものであります。
豊臣政権が300年以上も続いていたなら、本当の事にされていたかもしれません。
松下之綱が与えた木下藤吉郎の名ですが、『坪内文書』に永禄8年(1565年)11月2日付けの坪内利定宛て知行安堵状であり、「木下藤吉郎秀吉」として副署しています。
木下藤吉郎秀吉だったのですね?
最初は、木下藤吉郎で『藤吉郎』を『秀吉』に改めたと思っていたよ。
という訳、元亀3年(1572年)8月頃、丹羽長秀、柴田勝家のような人物になりたいという希望から木下氏を羽柴氏に改めて、「羽柴藤吉郎秀吉」となった訳です。
木下藤吉郎の署名文書の所見は永禄八年まであり、羽柴の初見は天正元年(1573年)7月20日、大山崎惣中宛の書状(離宮八幡宮文書)に羽柴藤吉郎秀吉と書かれています。
1554年(天文23年) 17歳 織田家に仕官 「織田信長」に小者として仕える。
1560年(永禄3年) 5月 23歳 桶狭間の戦い参戦 「桶狭間の戦い」に参戦
1561年(永禄4年) 8月 24歳 結婚 浅野長勝養女で杉原定利娘「おね」と結婚
1564年(永禄7年) 27歳 初手柄 美濃方坪内利定大沢次郎左衛門の「誘降に成功」
1565年(永禄8年) 29歳 歴史の表舞台に初登場 坪内利定宛てた「知行安堵状」に木下藤吉郎秀吉と記名
1566年(永禄9年) 30歳 「墨俣一夜城」 「墨俣一夜城」を建設 ?
1567年(永禄10年) 31歳 竹中半兵衛 軍師に「竹中半兵衛」を組み入れる
1568年(永禄11年) 32歳 「箕作城攻め」 信長上洛の際に、六角方の「箕作城攻め」に夜襲で功績をあげる
1569年(永禄12年) 33歳 「阿坂城攻め」 秀吉、左脇に生涯1度の「戦傷」を追う
1570年(永禄13年) 4月 34歳 「金ケ崎退き口殿軍」 「金ケ崎撤退」、光秀と共に殿軍を務める
1570年(永禄13年) 6月 34歳 「姉川の戦い」 浅井・朝倉との合戦で勝利し横山城守となり、対浅井家との最前線を任せられる
1572年(元亀3年) 36歳 改名 丹羽長秀・柴田勝家の羽・柴をもらい「羽柴秀吉」と改名
1573年(天正元年) 8月 37歳 「小谷城攻め」 長政・久政父子自害 浅井家滅亡 信長妹お市、子(茶々・初・江)を助ける
1573年(天正元年) 9月 37歳 城持ち大名となる 浅井滅亡後、旧領近江三郡を与えられ今浜を長浜と改め、「長浜城主」となる
1574年(天正2年) 3月 38歳 筑前守任官 筑前守に任官され「羽柴筑前守秀吉」となる
以下略。
○なか(仲)
30歳〔永正13年生(1516年)〕
尾張国愛知郡御器所村に生まれ、美濃の鍛冶師である関兼貞(または関兼員)の娘とも伝わる。
妹に栄松院(小出秀政の正室)、大恩院(青木秀以の母)、松雲院(福島正則の母)、従妹(一説では姉)、林院(伊都、加藤清正の母)がいる。
『太閤素生記』には、足軽、あるいは、雑兵(雇い兵)だった木下弥右衛門のもとに嫁ぎ、日秀と秀吉を生むと書かれている。
天文12年(1543年)1月2日に夫が亡くなった後、織田信秀に仕えた同朋衆と伝わる竹阿弥(筑阿弥とも)と再婚し、その間に秀長(小一郎)と朝日姫(旭)をもうけたといわれる。
でも、天文12年では、姉の智12歳、秀吉6歳、秀長3歳、朝日姫1歳であり、竹阿弥との子供はいない事になる。
また、なかの父である関兼貞は、室町時代に美濃国関(現岐阜県関市)で活動した和泉守兼定(之定)が該当します。
しかし、武田信虎、津田信澄、柴田勝家、明智光秀、池田勝入斎、細川幽斎、細川忠興、黒田長政、森長可などが愛用し、また島津家にも「之定」の名刀が伝わっていたとされます。
そんな名鍛冶師の娘が尾張の名もない足軽の男の下に嫁いだ?
駆け落ちでもしたのでしょうか?
ありませんね。
御器所村の鍛冶屋の娘くらいでしょう。
○智
12歳
天文3年(1534年)に木下弥右衛門となか(大政所)に間に生まれる。出家後の法名(法諱)は、日秀尼
三好吉房の下に嫁ぎ、秀次、秀勝、秀保を生む。
でも、秀次は34歳の子、秀勝は35歳の子、秀保は45歳の子と長高齢出産です。
(後20歳若く、旭の妹だったら納得できたのですが、よく判りません)
夫の三好吉房は同い年であり、20代の半ばを過ぎて結婚したのでしょうか?
とても不思議な結婚相手です。
秀次、秀勝、秀保の母なのに、全然目立たないのは何故でしょう?
あの事件があったから黙殺されたのでしょうね。
調べても何も出て来ません。
もし、三好吉房が三好一族の関係者だった場合。
たとえば、天文元年に自害したハズの三好 一秀が落ち延びて、吉房の父であったとか。
すると、三好 康長の養子になるのも頷けるのです。
あくまで想像の域を出ない妄想です。
まぁ、今上天皇のご先祖様と言うのが一番の話題です。
○秀長
6歳
幼名は小竹
天文9年(1540年)、竹阿弥の子、秀吉の異父弟に生まれる。
(この話では、木下弥右衛門と竹阿弥が同一人物と考えるので実弟)
小一郎と改称し、兄の秀吉に仕官した時には木下小一郎長秀と名乗った。長秀の由来は、織田信長と秀吉から1字ずつ偏諱を貰ったという説もあります。
○旭
3歳
朝日姫。
天文12年(1543年)、父・竹阿弥、母・なか(大政所)の娘として誕生し、尾張国の農民に嫁いだ。佐治 日向守に嫁ぐが、後に切腹したとか不明な点が多い。
また、副田 吉成が初婚であったと言う説もある。
いずれにせよ、徳川家康の質に出される不運な姫であった。
○三好 吉房
通称は『弥助』
12歳
出自は不明で天文3年(1534年)に生まれ、慶長17年8月15日(1612年9月10日)でなくなる。(享年78歳)
尾張国海東郡乙の子村の出身で木下弥助を名乗った。
秀吉の姉である智を娶り、永禄11年(1568年)に治兵衛(豊臣秀次)を、永禄12年(1569年)に小吉(秀勝)を、天正7年(1579年)に辰千代(秀保)をもうけた。
『武功夜話』には、大和国の三輪氏の子孫であると称したというが、三輪氏を名乗っておらず、木下を名乗っている。一説には長尾を名乗っていたともあるが、大国主の末裔とされる三輪氏から大神神社社家の長尾氏を取ったのであろう。
○青木 重矩
生没年不詳。
美濃国大野郡揖斐庄の住人で青木 一矩の父であり、大政所の妹(大恩院)を妻としている。
『青木系図』では、青木氏を藤原北家利仁流とし、父は重任(勘七郎)で、近縁の同族、以豊の養子となったと書かれている。
○青木 一矩
または、秀以、実名は「重吉」
年は不詳 8歳くらい?
生誕の天文10年(1544年)には、記録はない。
秀吉の生母である大政所(天瑞院)の妹、あるいは姉を母とする。
慶長5年10月6日まで生きている。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに従軍している事から、加藤清正や福島正則と同年代か、年上である事が推測される。普通に考えるなら、なかの妹であり、秀吉と同年か、あるいは少し年下と思われる
○加藤 清忠
20歳、刀鍛冶
尾張国海部郡津島の鍛冶屋清兵衛の娘である伊都(大政所の従妹)を娶り、刀鍛冶となった。
加藤 清正の父である。
清正が永禄5年6月24日(1562年7月25日)に生まれる。
○福島 正信
通称は『市兵衛』
21歳
正室は木下氏(豊臣秀吉の叔母)。
大永5年(1525年)、誕生。はじめ尾張国海東郡で桶屋をしていたといわれる。
福島 正則の父である。
正則が永禄4年(1561年)に生まれる。