7.但馬の朝倉谷の朝倉が越前で、越前織田庄の織田が尾張に根付いたの事。
雪の越前を舐めていた。
「ぎゃあああぁぁぁ、口が開けない。目も開けない」
「仕方ないないだろうそういう雪風なんだ」
「日本海の冬を舐めていたわ」
「竹姫様、村が見えてきました。あそこで休ませて貰いましょう」
積雪は大したことはないが、時化ると横殴りの雪が視界を奪って進めなくなる。
なるほど、冬の間は行軍をしたがらない訳だ。
近くの民家で家を借りる。
越前は100年近く朝倉が治めたので、外の国から攻められた訳もないのだが、貧しい民家が広がっている。
応仁の乱などで逃げてきた公家衆が越前文化を開かせたとあるが、端々までその恩恵が行き届いていなかった。
むしろ、隣の村は水の利権など色々な問題が絡む敵であった。
もっと仲良くできないのかしら?
「竹姫はおもしろいことを言うのぉ」
「もっと大昔(縄文時代)には手を取り合って助けあっていたのよ。くじらの追い込み漁はやっているのでしょう?」
「能登の国ではやっているとききますな」
「むかし、ここらや信濃からも人を出していたというわよ」
「ほぉ、それは初耳ですな」
家に籠って一日中、宗滴と談議って一種の拷問じゃないかしら?
転移を見せる訳も行かないから付き合うしかない。
厠に行くフリをして、近くの山に洞窟を掘って、付き添いの忍者衆の避難場所を作ってあげる。
200人が余裕で住める横穴式住居で、薪ストーブも完備して快適度満点な秘密基地の完成だ。
使い捨てカプセルホテルにしては贅沢過ぎるか?
出入り口にお地蔵堂を立てて、小屋の裏戸が忍者屋敷の回転式にしておく。
「今日くらいはゆっくりベッドでお休みなさい」
「しかし」
「明日の朝までは出ることはないわ」
「判りました」
そう言いながら見張りは立てるんだろうな~と思いながら、食事も温かいシチューを出して労っておく。
宗滴と一緒に私らの方が貧しい食事だよ。
理不尽だ。
◇◇◇
朝倉氏は越前の古い風習を知らない。
なぜなら、朝倉氏は但馬の朝倉谷に生まれ、斯波氏に従って但馬から越前に入ったからだ。
斯波氏に従ってきた朝倉の祖は朝倉広景(1255年-1352年)といい、南北朝時代の武将だからだ。
地頭で任じられた朝倉氏は越前に力を溜め、7代当主朝倉 孝景の代に『応仁の乱』に乗じて、越前を掠め取った訳だ。
しかも西軍から東軍に寝返ることを条件に越前守護職を得て、堂々と主になり代わったのだから大したものだ。
文明5年(1471年)、越前守護職を手に入れ、その後、甲斐氏の勢力を排除してから100年は国内で戦争をしていない。
手工業などがもう少し発展してもよかったんじゃないか?
翌日、あまり雪が積もらない海岸部を進んだ。
しかし、織田庄を目指すのには今の国道8号線を北上し、越前を通過しない訳にはいかない。
まぁ、山間の道を通れば、それなりに雪が積もっている!
えっ、これ道なのか?
獣道のような間道を通って進むのに心が折れた。
うん、帰りは船だ。
「冬の海は危険が多く」
「大丈夫、私が乗れば船は沈まない」
「しかし」
「いいから準備しておいて」
「判りました」
越前に入ると府中奉行所に泊めて貰う。
真柄勘助が真柄屋敷にもお泊り頂きたいとやってきた。
「真柄荘を治める者として来て頂かねば、我が家の面子が立ちませぬ」
「寄る意味ないし」
「何卒、お願い致します」
「ご遠慮します」
「ならば、力ずくでも来て頂きますぞ」
真柄と同行して者達が狼狽する。
さすがに宗滴と対立するのは憚れるみたいだ。
えっ、違った?
「後ろに控えているのは、真柄の家臣のみではございません。この地の郷士が含まれおります」
お近くの国人衆が挨拶を兼ねて、(真柄)勘助を代表に挨拶に来たつもりだったようだ。
『竹姫様、越前府中衆も何卒よしなに』
そんな感じの挨拶をするつもりが、代表の(真柄)勘助が我が家にお招きすると勝手に言い出したのである。
我が家に招くと言えば、喜んで来て頂けると勝手に思い込んでいたのであろう。
真柄家が名家なんて知らないよ。
まぁ、斯波氏の鞍谷御所が近くに置かれているのを見ても判るように越前府中を治める国人衆の一人であり、相応の力を有しており、格式も高いのであろう。
たぶん!?
真柄氏は堀江氏らと同じく、朝倉家中で半独立を許されていた。
俺が招いてやっているのだから感謝しろ!
そんな風に思っていたのだろうか?
断られたことが、余程ショックなのだろう。
「勘助殿、しばらく、しばらく」
「お主らは黙っておれ!」
「しかし、しかし、そういっても」
宗滴の渋い顔を見て、取り巻きの国人衆が慌てた。
ウチの子が目をキラキラさせている。
「なぁ、爺さん。こいつとやらせてくれよ」
「なんだ、その子供は?」
「織田の武将で『清州の一騎駆け』と呼ばれるたった一人で城を落としてしまった大将よ」
「がははは、こんな子供に城を落とされるとは、織田も大したことがございませんな」
「そうかもしれん。だが、儂より強いぞ」
「まさか?」
宗滴の爺さんが慶次様より強いかどうかは判らない。
但し、リュウマチで苦しんでいる冬季限定という意味だが、敢えて細かい説明はしない。
私はこっそりと宗厳様に聞いてみた。
「あれ、強いの?」
「相応に強いと思われます」
「どれくらい?」
「柴田様に及ばぬ程度でしょう」
柴田勝家に及ばないのなら、慶次様でも問題はない。
やらせるのもありか?
「朝倉家の事情は判りませんが、子供に負けたとなれば、立ち直れぬ者もおりますがよろしいですか」
いたね!
那古野城に腕試しに来た連中で、そこそこ強い奴は中庭に通される。
そこで藤八や慶次様の餌食にされる訳だけど、ショックで自害しようとする奴もいたんだよ。
那古野を放り出した奴がどうなったか知らないけど、残った者は倉街で(森)可成を筆頭に研鑽を積んでいる。
問題は(真柄)勘助がどちらに転ぶか判らないことだ。
逆恨みされては拙いか!
「殿、客人に怪我をさせるのは拙ございます。まずは、我が一番弟子の印牧能信に手合せさせては如何でしょうか」
「五郎左衛門、儂を愚弄するつもりか?」
「手合せしましたが、私より強かったですぞ。もし、弟子に勝てましたら、お手合わせ頂くように願いでましょう」
「俺にも分け前をくれよ」
「ははは、威勢のいい餓鬼だ。ならば、我が息子と手合せ頂こう」
冨田五郎左衛門が気を利かせてくれた。
(真柄)勘助が薦めで、真柄勘助の息子と慶次様が戦うことになる。
真柄勘助の息子は十郎と名乗った。
後の真柄十郎左衛門直隆だ。
越前の刀匠千代鶴国安の作による五尺三寸(175cm)の太刀「太郎太刀」を振り回して戦ったという越前の豪の者だ。
御年10歳。
「つまらん、つまらん」
ちゃんばらの結果は、印牧能信と慶次様の圧勝で終わった。
ちゃんちゃん!
◇◇◇
翌日、山間の道を通って織田庄に入った。
斯波氏の3家老として仕えたのが、守護代甲斐氏、朝倉氏、織田氏だ。
織田氏は守護斯波氏に付き従って尾張に赴き、斯波氏に使えます。
三国守護代であった甲斐氏も越前と遠江に手が一杯になり、織田氏に尾張を任せたことで尾張守護代になれたのでラッキーとしか言いようがない。
但馬の朝倉氏が斯波氏に従って越前で根を降ろし、越前の織田氏が斯波氏に従って尾張で根を降ろした。
甲斐氏は根なし草となって、戦国時代突入前に消えていった。
判らないもんだ。
朝倉も織田も斯波氏に従ったのは200~300人近い、あるいはもっと大勢で一族を上げての移動で付き従った。
越前や尾張の土豪らを従わす為の兵力として連れていかれたのだ。
ゆえに、劔神社(織田神社)は残っているが、織田一門の名はほとんど越前で名前を聞かない。
一族郎党を引き連れて移動するのが当たり前だったみたいですね!
二礼二拍手一礼、劔神社(織田神社)の参拝はあっさりと終わったのです。
さぁ、さっさと帰るわよ。