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信長ちゃんの真実 ~間違って育った信長を私好みに再教育します~  作者: 牛一/冬星明
第2章.尾張統一、世界に羽ばたく信長(仮)
134/156

第2章の天文15年に登場した主な人物。

見なくても問題ないので飛ばして下さい。


主な時系列と登場人物のプロフィールを書いておきます。

天文15年に起こった時系列。


天文15年5月5日(1546年6月3日)忍、佐久で戦乱に巻き込まれる。

天文15年5月6日(1546年6月4日)忍、金山の金を奪って尾張へ。

天文15年5月6日夜(1546年6月4日)忍、倉街を作る。

天文15年5月7日(1546年6月5日)信長、生駒屋敷、甲賀等に行く。

天文15年5月8日(1546年6月5日)忍、尼子・風魔・筑波山に行く。

天文15年5月8日(1546年6月6日)藤吉郎、家に帰る。智が来る。

◎天文15年5月9日(1546年6月7日)信長、那古野評定。

天文15年5月9日(1546年6月7日)藤吉郎、智らが倉街に来る。職人も来る。

天文15年5月9日(1546年6月7日)忍、熱田に遊びに行く。

天文15年5月9日夜(1546年6月7日)忍、出島を作る。

天文15年5月10日(1546年6月7日)信長、出島の対応で大忙し。〔ほぼ毎日〕

天文15年5月10日(1546年6月7日)忍、昼まで寝る。

天文15年5月10日(1546年6月7日)千代女、甲賀を倉街で迎える。

天文15年5月10日(1546年6月7日)忍、昼、倉街始動。鉄砲など作成開始。

天文15年5月10日(1546年6月7日)忍、柳生衆を出島に出迎える。

天文15年5月10日(1546年6月7日)生駒屋敷、人夫の手配に人を各地に送る。

天文15年5月10日(1546年6月7日)津島・熱田商人、租銅の回収を開始。

天文15年5月10日夜(1546年6月8日)忍、出島を魔改造して、村と倉と田畑と港と練習艦と漁船を作る。

天文15年5月11日~13日、甲賀の移住組が到着。

天文15年5月11日(1546年6月9日)百田他、伊賀組(先発)が到着し、倉街に入る。

天文15年5月11日夜(1546年6月9日)忍、飯母呂一族を出島に迎える。〔飯母呂一族、147戸888人〕


天文15年5月12日(1546年6月10日)飯母呂一族、漁民と一緒に漁を始める。

天文15年5月12日夜(1546年6月10日)忍、宴会の食材集め。(バッファローとか、伊勢エビとか、ホタテとか、カカオとか、ワインとか)〔清酒・焼酎がないのに気が付く〕

天文15年5月13日(1546年6月11日)千代女、尾張総代に任命。出島、尾張甲賀村の誕生。

天文15年5月13日(1546年6月11日)忍、甲賀・伊賀・飯母呂・漁民・川原者を集めて、パティーを催す。(信長らも参加、山海珍味が揃う)

天文15年5月13日(1546年6月11日)百田他3人、伊賀に本格的な移住組を寄越すように急かす。

天文15年5月13日(1546年6月11日)長門守、頭を抱える。気の早い人夫が那古野城に5,000人も集まりはじめる。(甲賀・伊賀の織田移住を見た者が慌ててようです)

天文15年5月13日夜(1546年6月11日)忍、倉街の東側に1,000軒(1万人)の共同住居を作る。

天文15年5月14日(1546年6月12日)出島甲賀衆、忍より様々の植物の栽培と酒・焼酎造り、蚕の飼育を開始する。(忍、世界各地に原種を求めて飛びます)

天文15年5月15日(1546年6月13日)飯母呂一族、練習艦を使って網漁業を開始する。(無茶するね!)

天文15年5月15日(1546年6月13日)尼子、朝廷に一万貫相当の砂金の献金が届く。

天文15年5月15日(1546年6月13日)織田の使者、筒井氏に柳生宗厳の40万貫の手形が届く。〔筒井は激怒、でも、手形は受け取った〕

天文15年5月15日(1546年6月13日)織田の使者、京・大和の寺に寄付と炊き出しの許可(治療費を含む)が各寺に届く。寄付500貫、費用500貫と合わせて1,000貫の手形。(津島・熱田が連署付)

天文15年5月15日(1546年6月13日)百田他3人、後発の移住組2000人が20日に到着する事を忍に伝える。

天文15年5月15日(1546年6月13日)長門守、臨時の出仕検方(出仕見聞所)を創設する。〔次回、評定で正式に認可〕、本日も3,000人が那古野城に尋ねる。

天文15年5月15日夜~18日夜 忍、シドニー上陸。開墾と水路の整備、人工ダムの建設を始める。

天文15年5月15日~20日 畿内の商人方々、織田で人夫を求める斡旋状が届く。(盗賊とか、人買が一番に喜んだとか)

(※:人買の相場は2貫文(12万円)、戦乱の後は12文まで下落した。織田に連れていけば、200文、女・子供でも100文、旅費は別途に支給してくれる。人が減れば、価格は元に戻る。奴隷商人が歓喜の声を上げたとか)

天文15年5月16日(1546年6月14日)信長、臨時の評定。出島の件(竹姫に上げた)〔家臣一同が激怒〕

天文15年5月17日(1546年6月15日)鉢屋 久月(はちや ひさつき)、尾張鉢屋衆200人が尾張に到着。那古野、信長に謁見して、10万貫相当の砂金を献上する。家臣一同が唖然。

天文15年5月17日(1546年6月15日)信長、おとな衆の会合で10万貫を大殿に届ける事で一致。

天文15年5月17日(1546年6月15日)忍、昼、久月を自分付にして、鉢屋衆を倉街に入れる。(千代女と一緒に、久月も付いてゆくが、久月は大人しい)<ザ・依怙贔屓>

天文15年5月17日(1546年6月15日)長門守、作事方に命じて工事の前倒しで開始させる。〔16日の臨時評定で許可済〕

天文15年5月18日(1546年6月16日)平手、10万貫の砂金を大殿に届ける。

天文15年5月18日真夜中(1546年6月16日)忍、シドニーから帰宅後に、中島、沖島、桑名の山奥に員弁湖を作り、水路を暗渠で結ぶ。

天文15年5月19日(1546年6月17日)滋野望月盛時、望月 葉紅(もちづき はぐれ)の嫁入りで納得する手紙が甲賀から尾張の出島に届く。(盛大な送別会を開いて貰う)

天文15年5月19日(1546年6月17日)忍、(昼)飯母呂一族の(ゆえ)ら10人と川原者100人をシドニーの管理者として派遣。アボリジニと対決。5,000人のアボリジニを領民とする。(食糧不足が発生)

天文15年5月19日夜(1546年6月17日)忍、シドニー城を制作。

天文15年5月20日(1546年6月18日)葉紅、北信濃へ旅立ってゆく。

天文15年5月20日(1546年6月18日)伊賀、移住組1,000人は沖島に入り、後続の2,000人は人夫の中に潜り込ませた。(伊賀者3,300人が尾張入り)

天文15年5月20日夜(1546年6月18日)忍、南米で野生種じゃがいもを大量に入手。南米のコンキスタドールを目撃。(北部の反乱の鎮圧に手を貸すスペイン人)〔マンコ・インカはビルカバンバに後退している〕

天文15年5月20日夜(1546年6月18日)宗厳、マンコ・インカの兵と戦う。〔カポエイラに似たダンスの様なリズムから繰り出されるアクロバティックな足技、シーウォークのステップ、ムーンウォーク、空中に美しい円を描く巻き足、超高速で浮いているような印象、〕

天文15年5月20日(1546年6月18日)佐治、出島に上陸し、練習艦の見学を申し込む。ガレオンの設計図を貰う。

天文15年5月20日夜(1546年6月18日)忍、倉街東の人夫村が満員になり、さらに東に1,000軒(1万人)の共同住居を増設、以後、自分で作るように長門君に言い渡す。但し、湧水を那古野北部に設置して上げる。(犬山城の上流の地下浄水場を建設して、那古野まで引いた)

天文15年5月20日~22日夜 忍、インカ(南米)・中米の銀等の鉱物を回収。

天文15年5月21日(1546年6月19日)佐治、信秀に同盟から臣従への申し込み。

天文15年5月21日(1546年6月19日)佐治水夫、連日出島の出入りし、無償で手伝いを引き受ける。

天文15年5月21日(1546年6月19日)柳生家厳、東街に柳生道場を開設。

天文15年5月22日(1546年6月20日)出仕検方、柳生道場に入門できた者を初の黒鍬衆500人(正式には黒鍬予科衆、日当が200文から400文に上がる)に採用する。(柳生の師範代が認めた者なら柳生門下生でなくとも黒鍬予科衆になれ、10日に1度の試験を受けるようになりました)

天文15年5月23日(1546年6月21日)忍、出島で佐治水夫に質問責め。

天文15年5月23日(1546年6月21日)忍、出島甲賀村の焼酎蔵で麹造りに失敗。マシな制作方法で再度挑戦を命じる。(10日くらい14度になるけど? お酢だった。お酢はお酢で利用価値があるので、別蔵で製造する)

天文15年5月23日夜(1546年6月21日)忍、出島で3隻造船。〔織田近海でなければと言うヒントからシドニー尾張の航路を考える〕

天文15年5月24日(1546年6月22日)信長、末森登城。

◎天文15年5月25日(1546年6月23日)信長、初陣。

天文15年5月26日(1546年6月24日)信長、西三河7城調略

天文15年5月26日~6月3日夜 忍、三河矢作川の整備、湧水の確保、周辺の沼を埋めて田畑への灌漑事業をする。

天文15年5月27日~6月3日 信長、西三河7城を巡る。(代官制と検地の説明)

天文15年5月27日~6月3日 忍、西三河の村々に食糧の差し入れと、織田普請の斡旋。(空堀の掘削、新耕作地に種を捲くだけで、工賃が貰える)〔耕作地が勝手に増えてゆくので領主もびっくり。とにかく、織田に逆らわない〕

◆天文15年5月29日(1546年6月27日)出仕検方、人夫1万5872人、那古野入居者2万人に達する。

天文15年6月4日(1546年7月1日)信長、那古野帰城

天文15年6月4日夜(1546年7月1日)忍、ロサンゼルの金山の金を回収と、耕作地の地盤改良をする。〔三河の小規模の農地改良でうっ憤を晴らし、大規模な農地改良を行う〕(「は、は、は、そう! この大規模開拓こそ、モデリングの最大効果なのよ」「忍様、凄いのです」「そうでしょう。そうでしょう」)インディアン1万人が家臣になった。(忍は神様と崇められています)

天文15年6月5日(1546年7月2日) 忍、甲賀を訪ねて200人を借りる。

天文15年6月5日夜(1546年7月2日) 忍、甲賀200人の内、100人を連れてロサンゼルの管理を任せる。ロサンゼルにスペインから身を守る城(モデルはキャメロット城)も作りました。水が足りないのでコロラド川から用水路(ラスベガスの横を通過)も作ります。フーバーダム、ヘスペリア人工湖も作ります。(浄化槽を併設)

※.キャメロット城は意外に質素な造りで西洋人には見慣れた城です。スペイン人が来る南側に建造しました。

天文15年6月6日(1546年7月3日)忍、甲賀出雲守の頼みで、北信濃の滋野望月家の縁の寺に5,000貫文とその他の荷物を運ぶ。(寺から佐久の話を聞き、帰りに佐久郡の様子を見る)〔陥落まじか、武田への嫌がらせを開始〕

天文15年6月6日(1546年7月3日)内山崩れ、水を断つ。

天文15年6月6日夜(1546年7月3日)忍、定期的にシドニーに行く日。南のクミン族が石の消える不思議な事を聞いてきた。(忍が倉街や出島に使った石材です)、メルボルンに飛んで謝罪。(取っていい事になりました)代わりにメルボルンの再開発を手伝う事になる。千代女を通じて、甲賀から200人をさらに借りた。

天文15年6月7日 平手、牛屋(大垣)城より帰城。

天文15年6月7日夜(1546年7月4日)〔8日の早朝〕忍、内山城に差し入れ。

天文15年6月7日~12日早朝 忍、内山城へ、水と酒と食糧を補充。

天文15年6月7日~13日夕方 信長と忍、村々へ差し入れ。

◎天文15年6月8日(1546年7月5日)信長、末森城で報告。

(注).忍は10万貫相当の砂金を貰ったけど、持って帰らなかった。

天文15年6月9日夜(1546年7月6日)忍、頼んでいた甲賀200人が到着、メルボルンに送迎。

天文15年6月10日(1546年7月7日)忍、百地ら三人をシドニーに招待。(三人に頼まれた)

◆天文15年6月10日(1546年7月7日)出仕検方、人夫2万0711人、那古野入居者3万人に達する。

天文15年6月12日(1546年7月9日)寅の刻(4時31分)、内山崩れ

天文15年6月12日夕刻(1546年7月9日)忍、甲賀出雲守と相談。海野一族の簒奪を企てる。

天文15年6月12日夜(1546年7月9日)忍、甲賀次期当主の与右衛門と尾張総代の千代女ら甲賀衆50人を北信濃に送る。

天文15年6月13日午前(1546年7月10日)忍、信長を連れ出して沖島でごろごろする。

◎天文15年6月14日(1546年7月11日)津島天王祭、宵宮、花火

天文15年6月15日(1546年7月12日)津島天王祭、朝祭

◎天文15年6月15日(1546年7月12日)赤鬼一揆

天文15年6月16日(1546年7月13日)信勝、岩崎城に討伐の失敗

天文15年6月17日~20日 平手、瀬踏7門徒、美濃の河野九門を回る。

天文15年6月20日(1546年7月17日)織田信友、軍議で信長討伐が議題に上がるが、結論は出ず。〔手紙は今川のみ〕

天文15年6月20日(1546年7月17日) 言継、那古野城に帰城。

◆天文15年6月20日(1546年7月17日)出仕検方、人夫3万8721人、那古野入居者5万人に達する。

天文15年6月21日(1546年7月18日)帰蝶、はじめて軍議で出る。今川より尾張分割の書状。今川が攻めた後に攻める事が決まる。守護を攻める事が中心の議題になる。

◎天文15年6月21日(1546年7月18日)言継、シドニーを見聞。

天文15年6月21日夜(1546年7月18日)千代女のお怒り、オーストラリア改造、望月島を作成。〔千代女は北信濃の実質7日間〕

天文15年6月22日(1546年7月19日)信長、那古野のおとな衆談議(望月島)、〔織田内外に知れわたる〕

天文15年6月22日(1546年7月19日)帰蝶、六角より婚儀の日程が届けられる。土岐頼純との婚姻は9月と決まった。

天文15年6月22日~30日 言継、尾張の城主・寺々を巡り、熱田・津島を足繁く通う。

天文15年6月23日(1546年7月20日)望月出雲守、望月島で悩む。

天文15年6月24日(1546年7月21日)望月出雲守、六角定頼に報告、鉄砲の買い出しを言い付けられる。

天文15年6月27日(1546年7月24日)望月出雲守、望月島の移住者を選定。

■天文15年6月27日~7月2日 望月出雲守、50人で織田滞在。(10人は当主クラス)

天文15年6月28日(1546年7月25日)忍、望月島の移住者を甲賀から望月島へ転移。(飯母呂一族50人と従者100人が山部に隠れ里を再建し、その山の管理をする為に同行、船の指導者として佐治の者も20人が同行)〔飯母呂一族、離散していた一族が集まって、147戸888人→215戸1,298人に増加しているらしい。川原者を含めると3,000人余りに膨らんでいる(川原者は情報集めをしている者を含めると、5,000人余りと増殖中)〕

天文15年6月30日(1546年7月27日)信長、那古野評定の日、評定の後におとな衆の談議で青山が望月島を諦める。

天文15年6月30日(1546年7月27日)千代女、望月島領主になる。(青山諦める)

◆天文15年6月30日(1546年7月27日)出仕検方、人夫4万0209人、那古野入居者5万5000人に達する。

天文15年7月1日(1546年7月28日)言継、すでに初めっている酒造計画を忍に訴える。〔信秀も全貌を後で聞いてびっくり、尾張8割の寺が織田に味方する〕

天文15年7月2日(1546年7月29日)言継、今川へ向かって下向。

◎天文15年7月3日(1546年7月30日)百地ら3人、もっと仕事が欲しい。伊賀に増員の催促状を出す。

◎天文15年7月3日(1546年7月30日)森可成、慶次を倒す。

◎天文15年7月3日(1546年7月30日)忍、信行に腹を刺される。


天文15年7月4日(1546年7月31日)望月出雲守、六角定頼に鉄砲500丁を渡す。


天文15年7月10日(1546年8月5日)言継、今川到着。義元、決戦を決意。

◆天文15年7月10日(1546年8月5日)出仕検方、人夫4万3155人、那古野入居者6万人に達する。

天文15年7月12日(1546年8月8日)雪斎、小笠原城にて北条氏康と面会。

天文15年7月15日(1546年8月11日)忠胤、北畠 晴具を説得す。

天文15年7月17日(1546年8月13日)忠胤、長野 稙藤を説得す。

天文15年7月20日(1546年8月16日)信安、家老衆に追い詰められて、信長討伐に参加する事を決める。〔攻めるのは那古野であって、末森でない〕

天文15年7月20日(1546年8月16日)帰蝶、軍議で落胆す。

◆天文15年7月20日(1546年8月16日)出仕検方、人夫4万5001人、那古野入居者6万5000人に達する。

天文15年7月21日(1546年8月17日)織田信友、軍議で信長討伐が延期。

天文15年7月21日(1546年8月17日)北条氏康、早川殿との婚姻を承諾し、使者を送る。(ここから手続きが色々と面倒)

◎天文15年7月25日(1546年8月21日)織田信秀、不治の病で倒れる。(末森城から各城に使者が走る)

天文15年7月29日(1546年8月25日)医聖の曲直瀬 道三(まなせ どうさん)、信秀の診療をする。食が細くなり、いずれ死を迎える『不治の病』と見立てた。(数日中にすべての信友を始め、各大名に知れわたる)

天文15年7月29日(1546年8月25日)信長、那古野評定で渡航の許可を貰う。

◆天文15年7月29日(1546年8月25日)出仕検方、人夫4万6672人、那古野入居者7万人に達する。

天文15年8月1日(1546年8月26日)今川義元、尾張通行禁止令が発布。直接伊勢に渡る事が義務付けられる。

天文15年8月1日(1546年8月26日)北畠 晴具、尾張通行禁止令が発布。直接東三河に渡る事が義務付けられる。

天文15年8月1日(1546年8月26日)斉藤、尾張通行禁止令が発布。

天文15年8月2日(1546年8月27日)六角定頼、牛屋(大垣)から京に続く山道の安全を保障です。

天文15年8月3日(1546年8月28日)不破の関、商人の数が激減。手前で足止め。

天文15年8月4日(1546年8月29日)不破郡の村長が不破通直に詰め寄って、南宮社のお参りは可能にする。〔関の開門〕

▲天文15年8月5日(1546年8月30日)早米の収穫期。

天文15年8月9日(1546年9月3日)那古野評定前日、信長はおとな衆と談議。

天文15年8月10日(1546年9月4日)那古野評定、信長の南海訪問が決める。(日程は不明)

天文15年8月10日(1546年9月4日)稲葉山の評定、不破通直が問い詰められる。通直は平謝り。帰って一族を集めて談合を行う。〔牛歩、内々に織田臣従を進める事〕

天文15年8月11日(1546年9月5日)不破で押し込めが発生し、不破 光治(ふわ みつはる)が当主に変わり、織田に臣従を決め使者を送る。

天文15年8月11日(1546年9月5日)織田信光、那古野に行き、不破の事を相談。

天文15年8月12日(1546年9月6日)斉藤利政、織田の評定の噂を聞き笑うが、不破の謀反を伝えられると激怒し、斎藤 義龍(さいとう よしたつ)安藤 守就(あんどう もりなり)稲葉 良通(いなば よしみち)に討伐を命ずる。

天文15年8月12日(1546年9月6日)忍、南宮社の山奥に池を利用した砦を制作し、屋敷と倉に鉄砲と弓、クロスボウ、食糧を納めておく。山のあちこちに塹壕堀を作り、容易に進軍できない要塞の山に変貌させる。

天文15年8月12日夜半(1546年9月7日)不破に織田よりの使者が到着し、鉄砲100丁が送られる。

天文15年8月13日(1546年9月7日)稲葉山に両縛りの風呂敷に入れた菓子(ドラ焼き)が帰蝶に届けられる。利政は遠山 景任(とおやま かげとう)を呼び出す。

天文15年8月13日(1546年9月7日)岩村城に三河の服部氏(織田の使者)が訪問し、景任と面会し、鉄砲10丁と火薬筒10本を受け取り、中立を約束する。

天文15年8月14日(1546年9月8日)斉藤利政、遠山景任は登城せず、家老が中立を宣言する。〔東美濃、岩村遠山氏の寝返り〕

天文15年8月14日(1546年9月8日)斎藤 義龍、不破の西保城に向けて出立。西保城で一戦し、不破が西保城を放棄したので入城する。(乱取りを許すが、村は空であった)

天文15年8月15日(1546年9月9日)斎藤 義龍、南宮社に向けて進軍。鉄砲、弓によるゲリラ戦を強いられる。

天文15年8月16日(1546年9月10日)斎藤 義龍、南宮社を攻撃開始。不破300VS斎藤 義龍2000の戦い。半日で勝敗は決し、不破光治らは南宮山に退避するが、南宮山は難攻不落の山城であった。隠し塹壕の落とし穴トラップで300名近い兵が負傷し、登山を中止する。正面の回廊は鉄砲の雨で近づけない。荷駄隊が襲われて食糧を燃やされると言う失態をする。(乱取りするも目ぼしい成果なく、5日後の南宮社を燃やして撤退)

天文15年8月16日(1546年9月10日)三河の本證寺の空誓、不破と東美濃の話を三河中に手紙で広め、三河岡崎の寝返りを伝える。

●天文15年8月16日(1546年9月10日)三好(長慶)が越水城から堺に入る。

天文15年8月17日(1546年9月11日)松平広忠、岡崎が騒がしくなり、岡崎の寝返りの噂に激昂し、勝鬘寺と上宮寺の僧を呼び出し、今川である事を宣言するが、疑惑は晴れない。

天文15年8月18日(1546年9月12日)今川義元、三河の騒動に激昂する。

天文15年8月19日(1546年9月13日)松平広忠、駿河今川から使者が到着し、竹千代を人質として引き渡す事を決める。


天文15年8月19日(1546年9月13日)北条氏康、河東郡沼津の長久保城の引き渡し完了。

天文15年8月20日(1546年9月14日)北条氏康の娘、早川殿が小笠原城を出立する。

●天文15年8月20日(1546年9月14日)三好(長慶)は河内高屋城から出撃した細川氏綱・遊佐長教・筒井氏などの軍に包囲され、軍を解散して退去する。

天文15年8月20日(1546年9月14日)山科言継の尾張帰参。

天文15年8月21日(1546年9月15日)斎藤 義龍、南宮社を燃やして撤退する。(3割を死傷させると言う惨敗)

天文15年8月22日(1546年9月16日)不破に織田から食糧が送られ、焼失した南宮社の再建が始まる。(南宮社の要塞化)

天文15年8月23日(1546年9月17日)竹千代、駿河に向かって出発するも、三河の大浜に到着する。(田原戸田の寝返り)

天文15年8月23日(1546年9月17日)末森、田原戸田から使者が到着し、臣従の申し入れ、土産として松平の嫡男である竹千代を強奪して引き渡す。

天文15年8月23日(1546年9月17日)那古野、信光から竹千代と戸田を那古野預かりにすると報告を受ける。

天文15年8月24日(1546年9月18日)那古野、竹千代が那古野に到着し、出島に送られて終わり。

●天文15年8月24日(1546年9月18日)山科言継、尾張を4隻の船団を組んで出航、(転移)堺に入港する。

●天文15年8月27日(1546年9月21日)山科言継、傭兵5,000人を雇って、荷駄を京に輸送する。(30日に京に到着)

●天文15年8月30日(1546年9月24日)山科言継、左近衛大将一条 兼冬(いちじょう かねふゆ)に傭兵5,000人を差し出し、京の守備に付ける。左近衛大将近衞 晴嗣(このえはるつぐ)が自ら指揮をして京を警備する。

<京を守備していた法華衆と対立>

●天文15年9月4日(1546年9月28日)氏綱方、摂津西成郡の大塚城が落城させる。

天文15年9月5日(1546年9月29日)那古野、収穫の報告を受けて、南国慰問団の使節名簿を発表。

天文15年9月10日(1546年10月4日)那古野、就航式。

天文15年9月11日(1546年10月5日)那古野、熱田神社参拝。無事を祈祷。

天文15年9月12日(1546年10月6日)那古野、津島神社参拝。無事を祈祷。

天文15年9月13日(1546年10月7日)那古野、宴(今生の別れ)

●天文15年9月14日(1546年10月8日)細川国慶が京都に入る。

●天文15年9月14日(1546年10月8日)細川晴元は京を捨てて、丹波国神尾山城(京都府亀岡市)へ逃亡。

天文15年9月15日(1546年10月9日)熱田、練習船2艦で出向。

●天文15年9月15日(1546年10月9日)山科言継が細川国慶と面談し、京の警備を依頼する。(食糧・酒を振る舞う)

天文15年9月15日(1546年10月9日)グァム、練習船1番艦到着。

●天文15年9月18日(1546年10月12日)氏綱・遊佐連合軍は京都方面の芥川山城を攻略、将軍義晴は京都郊外の東山慈照寺(銀閣寺)に入る。

●天文15年9月19日(1546年10月13日)将軍義晴は細川氏綱を高国の後継者と認める。

天文15年9月20日(1546年10月14日)朝倉、一乗谷を出陣。

●天文15年9月20日(1546年10月14日)六角 定頼、山科言継と面談し、比叡山との仲介を快諾する。

天文15年9月21日(1546年10月15日)今川、駿河を出陣。

天文15年9月22日(1546年10月16日)グァム、練習船2番艦到着。

天文15年9月23日(1546年10月17日)斉藤、美濃全土に陣触れ。

●天文15年9月24日(1546年10月18日)六角 定頼、法華宗と比叡山の和議を仲介する。<自警団と法華衆も共闘関係に変わる>

天文15年9月25日(1546年10月19日)今川、三河岡崎に到着。

天文15年9月25日(1546年10月19日)斉藤、稲葉山周辺に結集。

天文15年9月25日(1546年10月19日)朝倉、稲葉山周辺に到着。

天文15年9月25日(1546年10月19日)北畠、志摩水軍が結集。

天文15年9月25日(1546年10月19日)長野、伊勢長野が桑名に後詰に入る。

天文15年9月25日(1546年10月19日)信友、清州で陣触れ。

天文15年9月25日(1546年10月19日)信安、岩倉で陣触れ。

●天文15年9月25日(1546年10月19日)細川国慶、御所より左衛門少将(正五位下)に任じられ、京都守備を正式に命じられる。〔玄蕃頭(従五位下)から大出世〕

天文15年9月26日(1546年10月20日)織田、尾張統一の日

●天文15年10月29日(1546年11月22日)三好兄弟を中心とする阿波水軍2万人が大物に上陸し、三好孫次郎(後の長慶)1万人と合流して、三宅城を取り囲む。

●天文15年10月30日(1546年11月23日)三好孫次郎(後の長慶)、降伏勧告の後に強引な力攻めて落城させた。

●天文15年11月1日(1546年11月24日)三好孫次郎(後の長慶)、原田城を取り囲み、降伏勧告で開城させる。

●天文15年11月2日(1546年11月25日)三好孫次郎(後の長慶)、茶川山城へ進軍し、包囲する。

●天文15年11月2日(1546年11月25日)三好実休と安宅冬康(鴨冬)、池田城を攻めたてた。

●天文15年11月5日(1546年11月28日)三好孫次郎(後の長慶)、茶川山城へ包囲して無血開城に成功する。

●天文15年11月6日(1546年11月25日)三好実休と安宅冬康(鴨冬)、池田城を池田信正は茶川山城の落城を聞くと氏綱の義理を果たしたと降伏する。

●天文15年11月7日(1546年11月30日)氏綱、高屋城に入城する。

●天文15年11月8日(1546年12月1日)三好孫次郎(後の長慶)、榎並城に集結する。

●天文15年11月11日(1546年12月4日)舎利寺合戦

●天文15年11月13日(1546年12月6日)細川晴元、榎並城に入城する。

●天文15年11月13日(1546年12月6日)菊童丸、六角定頼を烏帽子親として元服して義藤(よしふじ)(後の義輝)と名乗る。

●天文15年11月15日(1546年12月8日)三好孫次郎(後の長慶)、高屋城を包囲する。

●天文15年11月19日(1546年12月12日)足利義藤、正五位下に昇叙し、左馬頭に任官する。

●天文15年11月20日(1546年12月13日)六角定頼、(義藤の命で)三好孫次郎(後の長慶)と遊佐長教の講和を仲介し、孫次郎は遊佐長教の娘を娶る。

●天文15年12月1日(1546年12月23日)細川国慶、京より一時帰国する。

●天文15年12月10日(1547年1月1日)細川晴元、三好孫次郎(後の長慶)、京に入京する。

●天文15年12月20日(1547年1月11日)足利義藤、従四位下征夷大将軍宣下。六角定頼は管領代。改めて、管領に細川晴元、御供衆並・摂津半国守護代に三好孫次郎(後の長慶)〔将軍義藤が摂津守護代といったが晴元が反発し、三好政長と半分ずつになる〕


 ◇◇◇


第2章の天文15年に登場した主な人物。


佐々木 忍:17歳、身長175cm、スレンダーの体格だが、決して貧乳ではない。生まれ変わった不死身な体で、戦国時代の観光旅行をする。(状態異常耐久、罪悪耐性を完備)

住所;長野県佐久市瀬戸、生まれは

武器;金棒、長大竹、大金槌


 ◇◇◇


【 末森城の面々 】


津々木 蔵人(つづき くらんど) 20歳 末森城主・織田信行の近臣。津々木(都筑)熱心な一向宗、信行を一向衆に入信させている。


曲直瀬 道三(まなせ どうさん):39歳 永正4年9月18日(1507年10月23日)字:一渓(いっけい)雖知苦斎すいちくさい翠竹庵すいちくあん啓迪庵けいてきあんなど。日本医学中興の祖として田代三喜・永田徳本などと並んで「医聖」と称される。天文15年(1546年)、再び京都へ上ると、還俗して医業に専念している所を、織田に召集されて出島に赴く。偽物の一渓(いっけい)は末森城下町から信秀の診療に通う。


寺沢又八(てらさわまたはち):末森の家老


千秋 季忠(せんしゅう すえただ):熱田神社の大宮司、末森の家老、末森にはいなさそう。


馬廻衆

山口 教継(やまぐち のりつぐ):鳴海城主、今川との交渉係。


佐々 政次(さっさ まさつぐ):24歳 大永2年(1522年)? 、天文11年(1542年)、通名:隼人正、井関城主、三河国小豆坂の戦いで弟・孫介と共に功名し、小豆坂七本槍に数えられる。


佐々 孫介(さっさ まごすけ):19歳 大永6年?(1527年?)、小豆坂七本槍


佐々 成政(さっさ なりまさ):10歳 天文5年1月15日(1536年2月6日)?、政次・孫介の弟。


神戸 市左衛門:中島郡光明寺城主


中野 一安(なかの かずやす):20歳 大永六年(1526)? 通称:又兵衛、小豆坂の七本槍


【 那古野城の面々 】

森 可成(もり よしなり):23歳 大永3年(1523年)、通称:三左衛門、清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁・鎮守府将軍八幡太郎義家の7男・陸奥七郎義隆の子孫、守護大名である土岐氏に仕え、天文11年(1542年)に頼芸は子の頼次ともども道三により尾張国へ追放され、森家も一緒に付いてきた。その後、朝倉孝景と連携し、美濃に兵を出して森家は美濃に復権したのだが、何故か那古野城にやって来た。


森 長可(もり ながよし)永禄元年(1558年)通称:鬼武蔵


柴田 勝義(しばた かつよし):勝家の父であり、隠居の身。下社城を築城した。西を流れる天白川が天然の堀で、内側は一重堀で囲まれた54m四方の方形の城。

柴田 勝家(しばた かついえ):24歳 大永2年(1522年)、信行の傅役、通称:権六郎、下社城(しもやしろじょう)の城主、


△柴田 勝里:(1569年?) 勝家の庶子、母は不明、通称:庄左衛門


△柴田 勝忠:(1571年?) 勝家の庶子、母は不明、通称:長三郎


勝家の養子:柴田善右衛門中務勝春、(佐久間)三左衛門勝政、柴田(吉田)伊賀守勝豊、権六郎勝敏(1567年?)、佐久間勝之(後、佐々成政養子)、女(高城胤則室)


山崎正道:那古野の馬廻衆(名前だけで、ほとんど記録なし)


喜多島和泉:那古野の馬廻衆(名前だけで、ほとんど記録なし)


篠田広正(しのだ ひろまさ):那古野の馬廻衆(柴田の下で加賀半国を与えらえ加賀切り取り次第になり、彼が加賀平定の任についたが、協力的でないので強制送還される)


中条 家忠ちゅうじょういえただ:通称:将監、那古野の馬廻衆、尾張国春日井郡出身説、三河加茂郡八草村、八草中条氏、(史実では、早くから信長に仕え、萱津の戦いで柴田勝家と共に敵方家老である坂井甚介を討ち取っている)


祖父江 秀重(そぶえ ひでしげ) 22歳 大永4年(1524年)通称:五郎右衛門尉、幼名:金法師、代々津島社の神職、祖父江城の城主


大秋十郎左衛門 ?歳 大秋城(中村区大秋町)


蜂須賀 正利(はちすか まさとし) ?歳 通称:小六(小六郎)、蔵人、彦右衛門、法名:正定 〔海東郡蜂須賀村(現在のあま市)を代々領した。斯波氏の凋落後は、正利の家族は美濃国の戦国大名斎藤道三に従った〕



蜂須賀 正勝(はちすか まさかつ) 20歳 大永6年(1526年)通称:小六、小六郎、彦右衛門 〔猿回しで有名な小六〕


蜂須賀又十郎はちすかまたじゅうろう ?歳 正勝の弟、(尾張稲垣村の台蔵院の養子となった)


蜂須賀 正忠(はちすか まさただ) ?歳 正利の兄であり、正勝の叔父 (三河に流れたか、織田の家臣になったとか?)


青山秀勝 没 (*~1544) 余三左衛門尉 通称:孫平次、織田信秀家臣。信長与力家老・那古屋衆。(天文2年8月6日付の毛利小三郎に宛てた織田信秀及び「秀勝」の書状により、信秀の使者が「青山秀勝」という人物であることがわかる。)〔大人衆の青山信昌と縁者かもしれないけど、詳しくは残されていない〕


△青山 昌起 通称:新七 余三左衛門尉秀勝の子(蜂須賀党頭衆のひとり)

△青山 吉次 通称:与三 余三左衛門尉秀勝の子(蜂須賀党頭衆のひとり)


【 知多半島 】

|水野 忠政《》みずの ただまさ (没:天文12年7月12日(1543年8月22日))通称:藤七郎(右衛門大夫)、受領名:下野守、


△|水野 信元(みずの のぶもと 改名:忠次→信元 通称:藤四郎(藤七郎)、受領名:下野守。忠政の嫡男、(刈谷城)刈谷水野家の当主、水野家の宗主、妻:松平信定の女


水野 信近(みずの のぶちか)21歳 大永5年(1525年) - 永禄3年(1560年)6月)、忠政の三男(守忠の養子へ)、通称:〔十郎左衛門、藤四郎、藤九郎〕、(後の刈谷城主)


水野 忠守(みずの ただもり) 21歳 〔大永5年(1525年) - 慶長5年3月28日(1600年5月10日)〕 信元の弟、忠政の四男、通称:清六郎、受領名:織部、緒川城主の城主、(小説では、信元を離反して織田に臣従)




水野 忠分(みずの ただわけ)14歳、天文6年(1537年)-天正6年12月8日(1579年1月14日)、布土城の城主、通称:藤二郎、忠政の子、信元の弟、(小説では、信元を離反して織田に臣従)


水野 近守(みずの ちかもり) ?歳(高齢)大高水野家 通称:藤二郎、忠政の叔父、分家:大高水野家の当主、〔※:常滑とか、大高とか、どっちやねん〕(小説では、信元を離反して織田に臣従)


水野 守忠(みずの もりただ) 38歳? 近守の子、通称:紀次郎、受領名:大膳亮〔※.守忠ではなく、忠守と書いているものもあります。〕


水野 吉守(みずの よしもり)18歳? 守忠の子、受領名:大膳亮(永禄6年には一向一揆に参加し、家康から3300石を拝領)


水野 守次(みずの もりつぐ)18歳? 常滑城の城主、常滑水野家の当主、受領名:監物、妻:水野信元の女(小説では、信元と関係なく、鵜飼らと同じ時期に早々と織田に同盟から臣従)〔父は名前すら判りません。某です〕



鵜飼 実為(うかい じつため)49歳? 官位:将監(浅間社の大永7年(1527年)再営の棟札に政所鵜飼将監実為の名があるという。)


鵜飼 福元(うかい ふくもと)25歳? 苅屋城の城主、(詳しい事は何も判らない。実為の子とする)

宮崎 久左衛門みやざききゅうざえもん20歳? 苅屋城の城主、(詳しい事は何も判らない。実為の子とする)


荒尾 空善(あらお よしつぐ) 38歳 永正5年(1508年)通称:小太郎、官位:美作守、知多郡木田城主(今川義元の尾張侵攻により戦死した)


荒尾 善次(あらお よしつぐ) 13歳 大永8年、享禄元年(1533年) 通称:作右衛門、官位:美作守、佐治為貞の子、養父に空善(今川義元の尾張侵攻により戦死した荒尾小太郎空善の名跡を継承し荒尾姓を名乗ったという)

〔※.永正5年とあるが、大野城主・佐治為貞の子とあるが、天正18年12月13日(1591年1月8日)まで生きており非常に高齢である。今川侵攻時に養父の空善が亡くなっているのを考えれば、永正5年は空善の生まれた年であると推測される。よって大永8年、享禄元年としておく〕

(作中の設定では佐治為景(10歳)のはじめてのお相手(女中)が身籠って、『ホント、俺の子?』という事で庶子として育てられ、荒尾家の養子にやった事になっています)


●その他

宮津城の新海氏(新海淳尚、嫡男の淳良、次男の淳完)?〔1286年に新海淳英が築いた〕

坂部城の久松氏 (久松俊勝、長男の久松信俊)〔於大の方の再婚相手〕

奥田城の岩川氏(奥田城の城代家老で岩川三太夫)

寺本城(知多市八幡)の花井氏(惣五郎)

岡部城の岡部氏(岡部太郎)


【 甲賀の面々 】

三雲 定持(みくも さだもち) ?歳 通称:三郎左衛門、官位:対馬守 (六角定頼に仕え重臣として盛り立てた。)〔単独で明と貿易を行い室町幕府に寄付をするなど、高い経済力を有していた。〕

〔年齢は不明〕


三雲 賢持(みくも かたもち)・猿飛佐助 16歳? 定持の嫡子、通称:新左衛門尉(猿飛佐助のモデル)〔作中では、甲賀に残った三雲家から派遣された忍者の一人〕

〔年齢は不明だけど、弟より10歳年上とした〕


三雲 成持(みくも しげもち)6歳 天文9年(1540年)通称:新左衛門尉、


夏見 鈴(なつみ すず) 14歳 享禄元年(1528年) 夏見の長女、通称:角介(本家に血筋が彼女しかいないので派遣された。小麦色をした好青年にみえるけど、女の子)

〔オリジナル、名前は寛永11年より名前を頂戴〕


伴 甚(ばん じん) ?歳 通称:五兵衛尉、

〔オリジナル、名前は寛永11年より名前を頂戴〕


◇寛永11年に活躍した方々のご先祖様として登場。

鵜飼勘左衛門

芥川清右衛門

芥川七郎兵衛

岩根勘右衛門

岩根甚佐衛門

夏見角介:夏見姫、

山中十太夫

伴五兵衛:伴甚五兵衛尉資忠




【 三河の面々 】

三河一向一揆(みかわいっこういっき):永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)まで半年ほど行われた一向一揆。守護使不入の特権

本證寺、勝鬘寺、上宮寺:三河における本願寺教団の拠点で三河三ヶ寺


本證寺(ほんしょうじ)〔安城市野寺町〕本證寺第十代空誓(くうせい)慶円きょうえん上人を開基とする浄土真宗の寺。

勝鬘寺(しょうまんじ)〔岡崎市針崎町〕

上宮寺(じょうぐうじ)〔岡崎市上佐々木町〕

浄珠院(じょうしゅいん)〔岡崎市上和田町〕:一向一揆の和議が行われた。


西三河の寺:観音寺、宝泉院、浄閑寺、常福寺、法蔵寺、長福寺、大乗寺、宝樹寺、神光寺、萬福寺、

西覚寺、法行寺、善証寺、長因寺、西方寺、念空寺、明法寺、宝林寺 等々38寺


□荒木門徒、瀬部門徒、河野九門


□瀬踏7門徒

運善寺:愛知県一宮市浅井町。入信房の没地という。日比野運善寺。

勝宝寺:愛知県一宮市浅井町。河端勝宝寺。

了泉寺:愛知県一宮市奥町。奥村了専寺。

西宝寺:愛知県一宮市奥町。奥村西宝寺。

西方寺:愛知県清須市西枇杷島町小田井。小田井西方寺。

西源寺:愛知県小牧市。小牧西源寺。

???

(親鸞伝叢書)


松平 広忠(まつだいら ひろただ):20歳 大永6年4月29日(1526年6月9日)、松平宗家8代当主。通称:次郎三郎、松平清康の子。母は青木氏、正室:於大の方(水野忠政の娘)、継室:真喜姫(戸田康光の娘)


徳川家康とくがわ いえやす:3歳、天文11年12月26日(1543年1月31日、竹千代(幼名、松平広忠の子




鵜殿 長持(うどの ながもち) 33歳、永正10年(1513年)、通称:藤太郎、妻:今川氏親娘(今川義元の妹)上ノ郷城の城主(三河国宝飯郡)


■伊賀仁木氏が三河に移った経路は非常に不明瞭である。伊勢仁木氏は鈎の陣で貞長が戦死し、息子の高長は永正5年(1508年)の細川高国の帰還に協力しているので、当時まで伊賀に在住してと推測される。

伊賀守護刑部大輔の子である政長の代になると、明応7年(1498年)に北畠材親と木造政宗の調停を行っていることから伊勢国に勢力を伸ばしている。

政長は永正6~7年(1510年・1511年)に家督継承したと思われる。

仁木 貞長も伊賀守護とされている。長享元年(1487年)に亡くなっていることをみると、刑部大輔と時期が錯綜するのです。

いくつかの氏族がおり、誰が伊賀守護を継ぐにふさわしいかで争っているのかもしれません。貞長の子、清長は伊勢に移住して榊原を名乗ったのもそういう意味があるのかもしれません。


伊勢に移住した直後、あるいは、息子の長政が松平清康を頼って、三河へ移りますが、清康が死去した為に途方にくれます。

<天文4年(1535年)12月5日に『森山崩れ』>

榊原長政と一緒に三河に移住したのが、服部半蔵であったのではないかと推測されますが、時系列と事象のみで証拠がないのが現状です。


仁木 貞長(にき さだなが)伊勢守護(室町時代前期の北伊勢守護であった仁木義長の9代の後裔)



★仁木榊原 清長(さかきばら きよなが) 貞長の子、伊勢国一志郡榊原村に移住して榊原を名乗り、その子が三河に移った三河榊原氏を名乗った。天文14年(1545年)10月8日死去。


仁木榊原 長政(さかきばら ながまさ)?歳 清長の子、三河国額田郡仁木郷、下村城の城主、部下に服部 保長(はっとり やすなが) (初代服部半蔵)


榊原 康政(さかきばら やすまさ)生まれ:天文17年(1548年)長政の子、徳川四天王>


山内 玄以(やまうち げんい) ?歳 詳細不明、 〔作中では、榊原長政の家臣で今川方の与力ということにした〕



○大浜城の長田重元と稲熊氏、天野氏、永井氏

○長田城の長田氏、棚尾城の熊谷若狭守、東端城の神谷與七郎、石川丈山城の石川信英、木戸村城の石川式部

○西条城の吉良義昭


戸田 康光(とだ やすみつ) 田原城の城主、通称:弾正少弼、子:戸田尭光、戸田宣光、(竹千代をさらったと言われる。)父:戸田左近丞政光、祖父:戸田弾正忠憲光


△戸田宣光 康光の次男、仁連木城の城主


戸田光忠 康光の弟


戸田 勝則(とだ かつのり)12歳 天文3年(1534年)、光忠の子、(家康の家臣)


戸田 宣成(とだ のぶなり) 今橋城(吉田城)の城主、通称:金七郎・橘七郎・三郎兵衛尉、戸田憲光の次男で康光の叔父

(天文6年(1537年)牧野氏の今橋城を奪い城主、天文15年初冬に今川氏の征討を受けた)


□宝飯郡内

牧野城、牧野(田口)能成

牛久保城、牧野成定 21歳 大永5年(1525年)牧野保成の子。

牛窪城主 牧野保成、

正岡城、牧野成敏

瀬木城 牧野成勝

和田城、和田奥平勝次

馬越城 牧野某

照山城 牧野某

(吉田城)牧野成時


松平 信定(まつだいら のぶさだ) 没 松平宗家5代当主松平長親の三男。桜井松平家初代。 (森山崩れに参加しなかった信定は竹千代の居城で清康の居城であった岡崎城を占領した。)


松平 清定(まつだいら きよさだ) ?歳 信定の子、桜井松平家2代、(広忠に帰順したが、広忠派であった弟松平義春とすらも対立して天文14年(1545年)、広畔畷の戦いで、家次は父・清定、酒井忠尚、榊原長政らと共に松平広忠と戦うが敗れる。)桜井城の城主。〔矢作川に近い為に城を守っている〕


松平 家次(まつだいら いえつぐ) ?歳 清定の子、通称:監物丞(天文14年(1545年)、広畔畷の戦いで、家次は父・清定、酒井忠尚、榊原長政らと共に松平広忠と戦うが敗れる。)〔翌年には忠尚は許され、家次の居城・尾張品野城(愛知県瀬戸市品野町)は忠尚の居城となり、家次の居城である品野城を明け渡すが、『竹取の乱』が起こってうやむやになり、信広に臣従し、与力として安祥城に入っている〕品野城に城主。



松平 信孝(まつだいら のぶたか) ?歳 通称:与十郎、三河国松平氏6代当主松平信忠の子、械(合歓木)松平家初代当主、(天文12年(1543年)織田信秀によって築かれた山崎城に入る。広忠の名代として駿府へ赴いた隙に居城である三木城を攻められ領地を没収されたことを恨んでいる)〔安祥城の北1.2kmにある城なので、織田普請で囲んだ壁と堀で守られた山崎城で防備を固めている。〕


高木 清秀(たかぎ きよひで)  20歳 大永6年(1526年)通称:主水助、妻:水野元氏の娘 、子:高木光秀、高木一吉、高木正次、高木守次、娘(上田近次妻)、娘(都築正豊妻)、娘(山田重利妻)、高木城の城主(安祥城の北1.7km、岡崎城の西4.5kmの位置にある城)元々、水野信元の下にいたが、信元を離れ、信秀に臣従した。〔岡崎から兵が押し寄せてくるが、火計で撃退した〕


内藤 清長(ないとう きよなが) 45歳 文亀元年(1501年)姫城の城主、 通称:弥次右衛門、父は内藤義清。弟に甚五左衛門忠郷(内藤正成の父)(天文11年(1542年)織田勢が上野城(愛知県豊田市)を攻めた際に、甥の内藤正成ら一族と共に防戦し、数十人の織田勢を討ち取った)〔本證寺の第十代空誓と共に蜂起したが沈静化されて、空誓と一緒に織田に臣従したことになっている。密かに織田に寝返るように広忠に手紙を出し続けている〕


【 奥三河の方々 】


奥平 貞勝(おくだいら さだかつ) 34歳 永正9年(1512年)奥平氏当主、通称、九八郎、監物、正室:水野忠政の妹 亀山城の城主 〔天文11年(1542年)、対織田信秀戦の小豆坂合戦では岡崎勢の与力、今川が出張ったので中立を保っていた〕(戦が終わると改めて、臣従の使者を送った)


奥平 定能(おくだいら さだよし)9歳 天文6年(1537年)、通称:九八郎、美作守


【 東尾張城の面々 】


岩崎城 丹羽氏勝(にわ うじかつ):水争いは丹羽氏清・氏識親子と書かれているが、水利権を争ったのは、天文20年(1551年)時で、祖父の氏清66歳、父の氏識は54歳、氏勝28歳となる。ここでは家督を氏勝に渡してあると仮定して、話を進めています。天文20年の時点では、信秀の娘を妻に迎えています。藤島の水利権でも、信秀の娘、信長の妹を妻に迎えている氏勝を味方する所ですが、氏秀の方がまともな訴えで在った為に、氏秀を味方して、氏勝と戦って、信長は信秀死後の最初の戦いを負けるのです。

但し、この小説の時点では、まだ信秀の娘を嫁にしていません。


藤島城 丹羽氏秀(にわ うじひで):日進市藤島町にあった城で岩崎城の丹羽氏勝の水利権で争った。


本郷城 丹羽 左馬允(にわ さまのじょう):本郷城主、氏勝の叔父、氏識の弟。本郷は岩崎に拠点を映すまでの丹羽の居城であった。


藤枝城 丹羽 堂隠(にわ どういん):岩崎丹羽氏の一族、日進市藤枝町の薬師寺の裏、他に記録なし。


(みんな、丹羽なので親族なんだろうね。)


【 甲賀望月家 】(追加)

望月 葉紅(もちづき はくれ) 13歳 天文2年(1533年)? 甲賀五十三家(こうかごじゅうさんけ)の望月家の頭領である望月出雲守の弟の娘です。千代女の代わりに滋野の望月盛時に嫁ぎ、那古野に帰ると誓った少女です。

(オリジナル)


土山 時雨(つちやま しぐれ) 19歳 甲賀五十三家(こうかごじゅうさんけ)の土山家の頭領である土山鹿之助の娘です。千代女の付きであり、甲賀53家から選ばれた連絡役の一人。

(オリジナル)


【 甲賀の面々】

山中久俊(やまなか ひさとし):山中城、山中家の総領。俊房の兄。六角氏から感状を貰うほど信頼の置かれた甲賀二十一家の一つ。


山中俊房(やまなか としよし):久俊の弟。六角氏から感状を貰うほど信頼の置かれた甲賀二十一家の一つ。望月島の代官へ


伴長信(とも ながのぶ):伴家の総領。通称太郎左衛


伴五兵衛(とも ごへい):伴家の一族、女瑠菩瑠(めるぼる)の代官。


黒川与四郎(くろかわ よしろう):黒川の総領。黒川城主。下司職と土山課役を給分として領有。


辻和泉(つじ いずみ):与四郎の優秀な家臣。〔永禄11年(1568)、織田信長の上洛で六角義賢の次男中務太夫賢永と共に家臣・辻和泉を甲斐へ下らせた。〕天利加(アメリカ)のロスの代官へ。



【 北信濃の面々 】


村上 義清(むらかみ よしきよ) :北信濃の4郡を治める領主、葛尾城、織田に調略に不信を抱く。


屋代正重(やしろ まさしげ)正国(まさくに) 親子:屋代城、村上の一族、織田との同盟に前向き(金と鉄砲が欲しい)

雨宮 正利(あめのみや まさとし):唐崎城、村上の一族、織田との同盟に前向き(金と鉄砲が欲しい)


清野清寿軒:寺尾城

須田信頼(すだ のぶより):須田城


海野 棟綱(うんの むねつな):滋野三家の嫡流である海野家の当主、織田の誘いに乗った。


依田長門守頼房

楽厳寺雅方(がくがんじ まさかた)

篠沢新九郎雅

布下仁兵衛雅朝

諸沢堪介信隆


矢沢頼綱(やざわ よりつな):28歳、永正15年(1518年)砥石城に入る武将、真田頼昌の三男。真田幸隆の弟、通称:源之助、織田の誘いに乗る(赤鬼と戦いだけ)


常田 隆永(ときだ たかなが): 海野氏の傍流、常田(現在の長野県上田市)に荘園があり、八条院領と知られている。真田頼昌の息子? 真田幸隆の弟? 海野棟綱、海野幸義の子?



相木 昌朝(あいき まさとも)、相木市兵衛依田昌朝:30歳 永正13年(1516年)、信濃国佐久郡の国衆・阿江木依田氏の一族。長窪城主・大井貞隆の家老


芦田 信守(あしだ のぶもり): 芦田城主。 天文10年(1541年)、諏訪頼重は帰路に芦田城に侵攻し、10歳に満たない幼少の信守を生け捕りにし、主従関係を誓わせる。しかし翌天文11年(1542年)、諏訪頼重が武田晴信に自害させられ、大井貞隆に仕えた後に甲斐武田氏に仕え、信濃先方衆として活躍した。


大井 貞隆(おおい さだたか): 小県郡長窪城主。信濃の国人で信濃源氏小笠原氏の庶流、天文9年(1540年)、諏訪頼重に長窪城を奪われる。 天文11年に諏訪侵攻を行い頼重は滅ぼされた隙に、貞隆はこれに乗じて長窪城を奪回した。天文12年(1543年)9月、家臣の相木昌朝や芦田信守の内応にあい長窪城は開城、自身も捕えられ甲府へ連行される。

岩村田大井氏は弟の貞清が継承し、貞清は佐久郡内山城において抵抗し、天文15年(1546年)に内山城にて『内山崩れ』を起こす。



※): 伴野宗家子孫

「相木市兵衛依田昌朝が海野棟綱長男:海野小太郎(真田幸隆)を上野国(箕輪城)から連れだし、真田幸隆と名乗らせ、武田晴信に紹介した。依田昌朝の娘を真田幸隆の次男:真田昌輝に嫁がせた。」

(相木市兵衛依田昌朝と武田信玄)より

注1).真田幸綱(系図上では「幸隆」)は棟綱娘の子、もしくは娘婿とする説がある。

注2).相木市兵衛依田昌朝、相木信房その子であったという山中鹿之助


【 六角の面々 】

細川晴元・三好長慶 VS 足利義晴・細川氏綱・畠山政国・遊佐長教

細川晴元を排除せんとする足利義晴を六角は支持しながら、少し政争とは距離を取っている。



六角 定頼(ろっかく さだより):51歳 明応4年(1495年)、室町幕府管領代、近江国守護、天文15年(1546年)12月に、将軍義晴が近江坂本で嫡男の足利義輝を元服させて将軍職を譲っているが、同時に定頼が管領代に任じられ、本来は管領が行うべき烏帽子親を務めているとあるが、どうなる事やら?

天文18年(1549年)に観音寺城の城下町石寺に楽市令を発布。楽市・楽座の史料では、初見とされている。


六角 義賢(ろっかく よしかた):25歳 大永元年(1521年)、六角定頼の嫡男、いつ家督を継いだのか、不明。


目賀田 忠朝(めかだ ただとも) 通称:次郎、官位:左衛門尉


目賀田 貞政(めかだ さだまさ) 官位:摂津守


蒲生 定秀(がもう さだひで):永正5年(1508年)高郷・定秀は主君・六角定頼の信任を受けていたため、その後ろ盾を得て「定」の一字を賜って定秀と名乗った。


蒲生 賢秀(がもう かたひで):12歳 天文3年(1534年)


蒲生 頼秀(がもう よりひで)


【 浅井の面々 】

浅井 久政(あざい ひさまさ):20歳 大永6年(1526年)、浅井亮政の長男、母:尼子氏の娘、天文11年(1542年)に父の亮政が死去したため跡を継いだ。しかし、義兄・明政は久政の家督相続を承服せず、跡目とする事で治めたが、天文14年(1545年)に子の長政が誕生すると、跡目を取り消され、京極と組みして反乱を起こした。旧主家の京極高延と田屋明政が反乱を起こし、六角定頼・義賢お親子が圧力を掛けた事で、六角に臣従する。六角の配下となって事で、内政が安定し、六坊を築いて寺社政策などを進め、領国の基盤を固めた。


田屋 明政(たや あきまさ):?歳 、浅井氏庶流で北近江・高島郷を支配する土豪。浅井亮政は正室との間に生まれた娘である海津殿(久政の異母姉)の婿であった田屋明政(田屋氏は浅井氏庶家)に家督を譲ることを望んでいたとも伝わる。


雨森良里 京極氏に仕えていたが、浅井に仕える。(小説では南宮社の戦いに参加)


【 朝倉の面々 】


朝倉 教景(あさくら のりかげ)朝倉 宗滴(あさくら そうてき):69歳 文明9年(1477年)通称:小太郎、教景、宗滴、軍奉行。宗滴は亡くなる直前に「できればあと三年生きて、織田信長がどうなるかを見てみたかった」と言っていたそうです。


朝倉 孝景(あさくら たかかげ):47歳 明応2年11月22日(1493年12月30日)通称:孫次郎、弾正左衛門尉、朝廷や幕府との繋がりをも深め、越前に更なる繁栄をもたらし、本拠・一乗谷城に京風の文化を華開かせた。


朝倉 義景(あさくら よしかげ):13歳 天文2年9月24日(1533年10月12日)長夜叉(幼名)、孫次郎(通称)、第10代当主である朝倉孝景の長男


朝倉 景紀(あさくら かげとし) 41歳 永正2年(1505年)朝倉氏9代当主・朝倉貞景の四男、10代の弟、宗滴の養子


朝倉 景隆(あさくら かげたか) 38歳 永正5年(1508年)? 朝倉義景の従兄弟、父:朝倉景職、母:朝倉貞景、一族内での序列は高い。



【 北畠の面々 】

北畠 晴具(きたばたけ はるとも):41歳 文亀3年(1503年)伊勢国国司北畠家の第7代当主、初名:親平、官位:左近衛中将 、


北畠 具教(きたばたけ とものり):18歳 享禄元年(1528年)、伊勢国司北畠家の第8代当主(1536年より)、通称:天覚、


長野 稙藤(ながの たねふじ):42歳 永正元年(1504年)、長野工藤氏14代当主。 北伊勢の雄


長野 藤定(ながの ふじさだ):20歳 大永6年(1526年)源次郎(幼名、通称:藤定、官位:大和守、北伊勢の雄


【 尾張の面々 】

織田信安を巡る岩倉織田氏(伊勢守家)の家系は非常に不可解である。

織田信安の父、織田敏信(おだ としのぶ)は織田大和守敏定の嫡男でありながら、伊勢守家を名乗り、岩倉織田氏となる。

そして、永正14年1月26日(1517年2月16日)?に亡くなったとされるが、永正8年(1511年)に生まれた信秀(のぶひで)に自分の娘を妻にさせたと言う。

6歳の信秀の許嫁の側室です。

正室に織田達勝の娘。

継室に土田御前。

側室に織田敏信の娘。

6歳でどれだけ有望視されているんですか!

天文元年(1532年)頃には織田弾正忠家当主となった信秀と争い、達勝は同じ三奉行家の「織田藤左衛門家」と共に信秀と争い、和睦しており、達勝の娘を正室に貰ったのは、その後でしょう。

天文3年(1534年)には信長が誕生しているので、天文元年(1532年)から天文3年(1534年)の間に織田敏信(おだ としのぶ)は体を悪くし、娘を信秀に嫁がせ、幼い息子である信安の後見役を頼み、信安の後見に織田信秀の弟で犬山城主・織田信康の補佐を受けたというがすっきりするのです。

信康が天文6年(1537年)には犬山城に入城し、織田伊勢守家(岩倉織田氏)の織田信安の後見役も務めたとされます。

敏信は天文5年に亡くなり、信安は10歳くらいと仮定します。


織田 信安(おだ のぶやす)20歳? 大永6年(1526年)尾張国上四郡の守護代。尾張岩倉城主。通称:七兵衛尉、父とされる織田敏信の死後、幼かったため、織田大和守家の家臣筋にあたる清洲三奉行の一家・織田弾正忠家当主・織田信秀の弟で犬山城主・織田信康の補佐を受けた。

(推定年齢)


稲田貞祐(いなだ さだすけ)通称:大炊助、植元の父。伊勢守家老

〔何故か蜂須賀正勝と一緒に稲田大炊助が川並衆として、青山新七(昌起)らと土豪勢力をなしていたとも書かれている。若かりし頃って意味かな? 意味が判らん〕


稲田 植元(いなだたねもと):1歳 天文14年(1545年)、尾張国上四郡を支配した岩倉織田氏(伊勢守家)に取り立てられ、代々家老を務めていた。尾張岩倉城主・織田信安の家臣・稲田大炊助貞祐(掃部助とも)〔貞祐は信安の命によって天文22年(1553年)3月27日に切腹させられた。植元は9歳の頃に父の朋友であった蜂須賀正勝に預けられた〕


【 斉藤の面々 】

塩屋 秋貞(しおや あきさだ):25歳 大永元年(1521年)官位:筑前守、塩商人。


堀田 道空(ほった どうくう):利政の参謀の一人。


不破 通直(ふわ みちなお):通称:小三郎、刑部少輔、官位:河内守。西保城(にしほじょう)、不破の関を守る。南宮社の子孫、光治の父、元弘元年(1331)松井直家が笠置攻めの功で美濃国内に荘園を賜わり、不破郡府中村に移住して不破氏を名乗ったともいう。

美濃國一之宮 南宮大社

岐阜県不破郡垂井町宮代峯1734-1



不破 光治(ふわ みつはる) 通称:太郎左衛門尉、官位:河内守。不破の関を守る。南宮社の子孫


安藤 守就(あんどう もりなり):43歳 文亀3年(1503年)? 官位:伊賀守 、伊賀太郎衛門守就、北方城(きたがたじょう)


■龍興方

氏家 直元

竹中重元

野々村

日根野 弘就

竹腰 直光

日比野 清実、

芦敷長正

跡部良堅

飯沼長就 氏家直元家臣。安八郡池尻城主。

揖斐光親 土岐政房の男(揖斐基信の養子)。官途は周防守。通称五郎。

今峰光次 斎藤義龍家臣。通称源八。

岩田光季 斎藤義龍家臣。官途は民部丞。


■美濃中央(明智方)

妻木 広忠

遠藤 盛数

遠藤胤俊 遠藤胤縁の男。官途は大隅守。通称新右衛門

岸 信周

池田輝家 可児郡池田城主。通称織部正。

大島光政 大島光義の次男。通称茂兵衛


■参加せず

長井 道利

長井 衛安

各務盛正 土岐頼芸家臣。室は土岐政房の娘。土岐頼芸の没落により、長井規秀に仕えた。

加藤景泰 加茂郡 厚見郡橋爪館主。加藤光長の男。橋爪館70貫を領して長井規秀に仕えた。

井上道勝 不破郡今須城主。長井長弘の次男。通称忠左衛門尉。別名長井道勝。


【 東美濃の面々 】

藤原利仁流の加藤景廉を祖とするのが美濃遠山氏である。

景廉は遠山荘の地頭となります。

その子景朝が在地に下りて岩村に居を構えたことから美濃遠山氏の始まりです。

遠山氏は七流に分かれて遠山七頭(七遠山)となります、

中でも三頭(三遠山)と言われた苗木・明知・岩村の3つが主要な分家です。

景朝の子、景重が明知遠山氏の祖、景員が岩村遠山氏の祖にあたり、苗木遠山氏は何度か絶えます。


・遠山七頭

岩村の遠山左衛門(景任)・明照の遠山久兵衛(友忠)・明知の遠山与助(景行)・飯羽間の遠山右衛門(友信)・串原の遠山右馬助(景男)・苗木の遠山勘太郎(友勝)・安木の遠山三郎左衛門(某)



遠山景成(とおやま かげなり):、明知遠山氏、明智光継の三男、恵那郡明知城前当主、天文12年頃に家督を譲った。


遠山 景行(とおやま かげゆき):37歳 永正6年(1509年)、明知遠山氏、恵那郡明知城主、遠山景成の子、通称:与助、官位:民部、相模守 妻:三宅高貞の娘



遠山 景任(とおやま かげとう):20歳? 岩村遠山氏当主。美濃国恵那郡岩村城主、通称:内匠助、官位:大和守、父:遠山景前、 妻:おつやの方(織田信定の娘) 、遠山荘の地頭、

〔年齢はおつやの方から推定〕(信秀35歳、信定は文明14年(1482年)に当主、文明時に15歳と仮定しても、天文7年没は71歳となる。信定61歳の娘でも、天文15年でおつやの方は18歳になる。景任の推定年齢は20歳以上が適当と判断)


遠山 直廉(とおやま なおかど):恵那郡国衆、苗木城主。通称:勘太郎、官位:左近助、景任の弟、妻:苗木勘太郎室(織田信秀の娘)、子:龍勝院(織田信長養女、武田勝頼室)〔永禄3年(1560年)5月、苗木勘太郎が桶狭間の戦いに出陣する〕


小里光忠(おり みつただ):美濃国小里城主。通称:出羽守、子に小里光次、小里光明。〔天文3年(1534年)、頼連の子・小里光忠は、小里城を築城した。〕


小里光次(おり みつつぐ):?歳、妻:遠山景行の娘、子:小里光久


小里光明(おり みつあき):10歳 天文5年(1536年)土岐氏の庶流・小里氏。美濃国小里城主、小里光忠の子。通称、助右衛門。のちに和田光明と名乗る。


延友 信光(のべとも のぶみつ):美濃国神篦城主、別名:土岐三兵衛 、国人で土岐氏の庶流


妻木 広忠 (つまき ひろただ):32歳 永正11年(1514年)、美濃国土岐郡妻木城主(第12代目)妻:水野信元の姪(貞徳生母)、光秀の叔父、子:妻木煕子、 妻木範賢、妻木範武、妻木範之、妻木貞徳


久々くくり 頼興よりおき:美濃国久々利城主。通名:悪五郎、官位:三河守、可児市久々利

〔土岐頼清―康貞―久々利康頼(別名:三河行春)―春頼―頼忠--(略)--頼興〕


小池 家継(こいけ いえつぐ):美濃国今城主、可児市の南西部を支配していた国人。鎌倉時代に後鳥羽天皇の北面武士であった小池貞利、小池貞好、小池貞宗らの系統といわれている。


小栗信濃守:御嵩城みたけじょう


奥村又八郎:大森城主。可児郡の土豪として大森城を居城としていた。


斎藤正義:烏峰城主。烏峰城は金山城の前身の城。斎藤正義は斎藤道三の猶子とされ大納言を称する。一説によると斎藤正義は関白近衛家の子と云われ、縁をたどって斎藤道三の養子となり烏峰城を築城し居城としたと云われています。


【 岩倉 織田伊勢守信安 】

織田 敏定(おだ としさだ) (没)元々は「織田伊勢守家」(尾張守護代)の弟筋であり、犬山城を築城して城主となったが、伊勢守家と争って守護代の地位を獲得し清洲城を居城としたため、「清洲織田氏」とも呼ばる。


織田 敏信(おだ としのぶ) (没)信安の父、通称:左馬助、伊勢守、大和守、備後守。 清洲城主・織田大和守敏定の嫡男であり、父の築いた犬山城主をしていたが、


織田 寛広(おだ とおひろ) ?歳 織田伊勢守家の当主織田敏広の養子となり、伊勢守家を継いでいたが、斎藤氏の後ろ盾を失い織田伊勢守家は衰退し、敏広の実子広高が継いだ。


織田 広高(おだ ひろたか) おそらく天文6年に(没)、敏広の実子広高、織田伊勢守家の当主になったと思われるが天文6年頃に消える。


織田 信安(おだ のぶやす) 通称:三郎、官位:伊勢守 、尾張国上四郡の守護代。尾張岩倉城主。

(※)父:(織田敏信または織田敏定、織田寛定)とあるが、天文6年(1537年)に後見役が必要な齢でもなく、寛定の子である達定、達勝しか考えられないが、どちらも養子を貰うほどの惨状であり、信安の父と考えられない。つまり、


山内 盛豊(やまうち もりとよ) 36歳 永正7年(1510年) 岩倉織田氏(織田伊勢守家)の家老。尾張黒田城代。 別名:守豊、猪之助 、官位:但馬守 、子:十郎、通(安東郷氏室)、一豊、康豊、米、合


【 伊勢・志摩の方面 】

九鬼 泰隆(くき やすたか): ?歳 九鬼氏の第4代当主、志摩国答志郡の田城城の城主。(四代泰隆が天文年間(1532~1554年)に岩倉村田城に城を築いたとされている。)


九鬼 定隆(くき さだたか) ?歳 九鬼氏の第5代当主、志摩国答志郡の田城城の城主。


九鬼 浄隆(くき きよたか) ?歳 定隆の嫡男、九鬼氏の第6代当主、官位:従五位下宮内少輔 、志摩国答志郡の田城城の城主、(永禄3年6月4日(1560年6月27日)に安楽島・相差・国府・甲賀・和具・小鹿・浜島の志摩七島党と伊勢の国司北畠具教に攻められて落城、討死する)


九鬼 澄隆(くき すみたか) (まだ生まれていない)浄隆の子、永禄3年(1560年)に父が死去したため、家督を継いで第7代当主、幼少のために叔父の嘉隆の補佐を受け、信長に降って、頭角を現す)

 

九鬼 嘉隆(くき よしたか) 4歳天文11年(1542年)定隆の3男、浄隆の弟、九鬼氏の第8代当主、(後の波切城の城主)


安楽島・相差・国府・甲賀・和具・小鹿・浜島の志摩七島党

志摩地頭十三人衆:小浜久太郎、安楽島越中守、浦豊後守、千賀志摩、的矢次郎左衛門、三浦新助、甲賀雅楽介、国府内膳正、九鬼弥五郎、越賀隼人、和具豊前、田城左馬、鳥羽主水があったという


【 遠江の面々 】

井伊 直盛(いい なおもり) 今川家の継承権争いで義元と反目していた遠江(静岡県西部)の堀越氏(氏綱娘が堀越貞基室)、井伊氏等と手を結び、今川を挟み撃ちにした。


遠江国36人衆:①初馬の河合宗忠、②西郷の西郷殿、③倉真くらみの松浦兵庫介、④掛川の鶴見因幡、⑤本郷の原氏、⑥平川の赤堀至膳、⑦原谷はらのやの孕石、⑧小山の増田周防守、⑨増田の松浦治郎右衛門、⑩袋井の堀越殿

初馬 河合宗忠

西郷 西郷殿

倉真 松浦兵庫助

掛川 鶴見因幡

本郷 原氏

平川 赤堀至膳

原谷 孕石

小山 増田周防守

増田 松浦治郎右衛門

袋井 堀越殿


飯尾 連龍(いのお つらたつ) ?歳 遠江国曳馬城主、別名

善四郎、致実、乗龍、政純 、(駿河飯尾氏の出自は三善朝臣といわれる。元々室町幕府の奉行衆であり、飯尾長連の代に駿河国に下向、以来代々今川氏家臣として仕えた。)


【 海野・真田の面々 】

海野 棟綱(うんの むねつな) ?歳 海野幸棟の子、海野当主、小県郡海野庄太平寺を本拠としていたが、天文10年(1541年)の海野平の戦いで敗れ、関東管領・山内上杉家を頼り真田幸綱ら少数の一族の者を率いて上野国へ逃れた。〔作中、織田に客将として、一族ごと迎える〕


真田 綱吉(さなだ つなよし) 36歳 永正7年(1510年) 真田頼昌の嫡男であり、幸隆の兄、別名:十郎左衛門、官位:左馬允、右馬助 〔作中、海野当主と共に織田に来る〕


矢沢頼綱(やざわ よりつな) 28歳 永正15年(1518年)真田幸隆の弟、(矢沢家は矢沢郷を支配する地侍で真田郷に隣接する。諏訪氏の一族として真田家とは敵対していたが、頼綱を養子にする事で解消した。鞍馬山に出家したとあるが、いつの時期かよく判らない。天文10年5月の海野平の戦いで幸隆とともに惣領家の海野氏に与して敗北し、諏訪氏の斡旋を受けて武田信虎に従った。矢沢家の者として晴信に従っている)〔作中、武田家とはそりが合わなかったのか、矢沢家を出奔し、隆永を訪ねていた所を赤鬼(忍)と対決することを条件に臣従を決める〕


常田 隆永(ときだ たかなが) ?歳 砥石城の兵(砥石崩れの時に内応した)〔作中、望月の誘いに乗って、織田に仕官する〕


【 北条の方々 】

北条 早雲(ほうじょう そううん) 没 幕府奉公衆の伊勢新九郎として駿河に下り、伊豆入りを果たして北条の基礎を気づいた。


北条 氏綱(ほうじょう うじつな) 没 後北条氏第2代当主、北条を名乗った本人、武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。


北条 氏康(ほうじょう うじやす) 31歳 永正12年(1515年) 後北条氏第3代目当主、天文15年(1546年)『河越城の戦い』で北条の勢力を広げた。


北条 氏親(ほうじょう うじちか) 9歳 天文6年(1537年) 氏康の長男、幼名:西堂丸 通称:新九郎 (嫡男であったが、16歳で他界する)


北条 氏政(ほうじょう うじまさ) 8歳 天文7年(1538年)(後北条氏の第4代当主)、幼名:松千代丸、(通称:新九郎)


北条 長綱ほうじょうちょうこう(後の幻庵)53歳 明応2年(1493年)早雲の4男、氏康の叔父、通称:三郎、駿河守(、和歌・連歌・茶道・庭園・一節切りなどに通じた教養ある人物であった。)


北条 時長(ほうじょう ときなが) 8歳? 幻庵の嫡子、(永禄2年くらいまで小机領の小机衆の筆頭を務めていたが、夭折する。幻庵は天文7年くらいまで住職を務めていあたので8歳くらいかな?)


△長綱の娘、(吉良氏朝に嫁いだ)


【 根来衆 】

天文12年8月25日(1543年9月23日)、大隅国の種子島に漂着し、種子島を伝来する。

紀伊国根来寺の杉坊某(杉之坊 照算すぎのぼうしょうざん)が銃を求め、津田監物(津田 算長(つだ さんちょう))に1挺を送った。

残った1挺を複製するべく芝辻清右衛門・金兵衛尉清定ら刀鍛冶を集め、新たに数十挺を作った。

また、堺からは橘屋又三郎が銃の技術を得るために種子島へとやってきて、1、2年で殆どを学び取った

鉄砲技術を算長が畿内に持ち込んだ事によって、紀伊・堺などは鉄砲の大量生産国となった。(根来の川下に雑賀荘がある)

津田 算長(つだ さんちょう) 47歳 明応8年(1499年)、通称:監物、弟:杉ノ坊明算、子:津田算正、杉ノ坊照算、津田有直、紀伊国吐前城(現・和歌山県和歌山市吐前)主。根来寺僧兵の長。


杉之坊 照算すぎのぼうしょうざん ?歳 津田算の次男、号:自由斎、長自由斎流の開祖。紀伊国根来寺の院主。叔父杉ノ坊明算の養子になり杉ノ坊院主となる。根来寺僧兵「根来衆」を率いた。(算長の子供なので、20代くらいと思われる)


津田 妙算(つだ たえかず)杉ノ坊明算(すぎのぼうみょうざん) ?歳、紀州鉄砲集団である根来衆の頭領、津田算長の弟。(年齢は30歳代かな?)法名:自由斎


雑賀衆(さいかしゅう)

雑賀城のある雑賀荘からみて川の対岸にあり、当初は川を仕切る川賊であったと思われる。戦乱の中で、「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷」「南郷」「宮郷」という五つの地の地侍を治め、傭兵集団を作った。

鈴木 佐大夫(すずき さだゆう) 25歳? 大永元年(1521年?)別名:佐太夫、左大夫、(紀伊国名草郡)雑賀城の城主(7万石余)、鉄砲の生産に成功した地域。

〔年齢推測〕(推測の年齢であり、この年齢より年上の可能性もあります)


鈴木 孫一(すずき まごいち) 1歳? 天文15年(1545年)通称:孫市、雑賀衆の頭領(雑賀衆の孫一から雑賀孫一と呼ばれる)、石山合戦〔元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)〕の戦いで活躍し、関ヶ原の戦い〔慶長5年9月15日(1600年10月21日) 〕にも参戦している。

[年齢の推測:石山合戦で15歳と仮定すると、関ヶ原で45歳となる。関ヶ原60歳と仮定すると、石山合戦は30歳と見受けられる。つまり、1540年から1555年の間に生まれたと仮定される]

〔年齢推測〕


【 京の面々】


【 公家の面々】

太政大臣:空位(前任:近衛 稙家(このえ たねいえ)天文5年11月1(1536年12月13日)- 天文11年2月25日(1542年3月11日))

関白:一条 房通(いちじょう ふさみち) 37歳

左大臣:今出川 公彦(いまでがわ きんひこ) 40歳

右大臣:二条 晴良(にじょう はるよし) 20歳

内大臣:一条 兼冬(いちじょう かねふゆ)17歳

権大納言:正親町 公叙(おおぎまち きんのぶ) 32歳

権中納言:四辻 季遠(よつつじ すえとお) 33歳

参議:五条為康(ごじょう ためやす) 45歳

左近衛大将:一条 兼冬(いちじょう かねふゆ)17歳(12月19日から近衞 前久(このえ さきひさ)晴嗣(はるつぐ)に移る)

右近衛大将:近衞 前久(このえ さきひさ)晴嗣(はるつぐ)(12月20日より足利義晴が就任)


近衛 尚通(このえ ひさみち) 没 官位:太政大臣、准三宮。近衛家15代当主。 稙家の父

次男:禅意(義俊)(1504-1567) - 大覚寺34代門跡

三男:覚誉(1506-1562) - 一乗院門跡

四男:道増(1510-1551) - 聖護院30代門跡

五男:久我晴通(1519-1575) - 久我通言の養子

長女::花屋理春(1501-1576)- 宝鏡寺門跡

庶女:近衛殿 - 北条氏綱継室

庶女:慶寿院(1514-1565) - 足利義晴正室

猶子:足利義輝 - 慶寿院の子

猶子:足利義昭 - 慶寿院の子

猶子:大浦政信 - 大浦氏(のち津軽氏)は政信を尚通と大浦光信の長女・阿久の間にできた子、津軽藩主津軽家は、近衛家を称した。


近衛 稙家(このえ たねいえ) 44歳 文亀2年(1502年)12月 官位:散官、 前従一位太政大臣〔天文6年(1537)~天文11年(1542)〕、前関白〔天文5年11月1(1536年12月13日)- 天文11年2月25日(1542年3月11日)〕 天文10年(1542年)・16年(1547年)・18年(1549年)の3度にわたり、稙家は義晴が争乱に巻き込まれて近江国坂本に動座した際にも随行して同地に下っている。 (天文22年(1553年)、足利義輝が三好長慶よって京から追われ、近江朽木谷に動座した際も、稙家は随行している)


近衞 前久(このえ さきひさ)晴嗣(はるつぐ) 10歳 天文5年(1536年)官名:従三位中納言、姉に足利義輝正室、天文9年(1540年)に元服し、叔母・慶寿院の夫でもある室町幕府12代将軍・足利義晴から偏諱を受け晴嗣はるつぐを名乗る。天文10年(1541年)には従三位に叙せられ公卿に列する。天文16年(1547年)に内大臣(永禄2年(1559年)、越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛した際、前嗣と景虎は互いに肝胆照らし合い、血書の起請文を交わして盟約を結んだ)


★鷹司忠冬 死没:天文15年4月12日(1546年5月11日)、前関白〔天文5年11月1日(1536年12月13日)- 天文11年2月25日(1542年3月11日) 〕


一条 房通(いちじょう ふさみち) 37歳 永正6年(1509年)養子:兼定(土佐) 官位:関白〔天文14年6月2日(1545年7月10日)- 天文17年12月27日(1549年1月25日) 〕(養父・冬良と同じく関白、天文15年(1546年)、細川氏綱の命で京都を占領・支配していた細川国慶が軍費の確保のために強引に京都の市中から地子銭を徴収しようとした際には、中御門宣胤や山科言継と共に武力をもって抗議しようと計画し、これに同調した室町幕府の奉公衆や民衆も房通に味方する動きを見せたため、国慶は強制的な徴収を断念に追い込まれている)、前左大臣〔天文11年閏3月3日-天文15年1月28日〕


一条 兼冬(いちじょう かねふゆ) 17歳 享禄2年(1529年)官位:内大臣〔天文15年7月27日-天文16年2月17日〕、天文9年(1540年)従三位に叙任される。(右大臣:天文16年2月17日-天文22年1月26日)


三条 公頼(さんじょう きんより) 51歳 明応4年(1495年)娘:三条の方(晴信の正室) 官位:前左大臣〔天文15年1月30日-天文15年3月25日〕 天文5年(1536年)3月、公頼は甲斐国国主、武田信虎の嫡男・晴信(後の信玄)の元服にあたり、京から勅使として赴いている。そして同年の7月に次女の三条の方が晴信の許へ輿入れした。 



今出川 公彦(いまでがわ きんひこ) 40歳 永正3年(1506年)官位:左大臣〔天文15年3月26日-天文16年2月14日〕


二条 晴良(にじょう はるよし) 20歳 大永6年4月16日(1526年5月27日)官位:右大臣〔天文15年3月13日-天文16年2月17日〕天文5年(1536年)、正五位下に叙せられて元服、家の慣例により室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を賜い、晴良と名乗る。


正親町 公叙(おおぎまち きんのぶ) 32歳 永正11年8月16日(1514年9月4日)官位:権大納言、 天文7年(1538年)には権中納言となり、天文13年(1544年)には従二位へと進んだ。天文15年(1546年)に権大納言。天文17年(1548年)に正二位へと進み、権大納言を辞した。


四辻 季遠(よつつじ すえとお) 33歳 永正10年7月7日(1513年8月7日)官位:従二位・権中納言、駿河国の今川義元や太原雪斎と交友があり、共に漢詩会などを催している。また甲斐国にも度々下向しており、天文15年(1546年)5月の武田晴信(武田信玄)の家督相続に際しては三条西実澄と後奈良天皇の綸旨を伝達し(『言継卿記』『冷泉為和集』)、甲府では積翠寺において季遠らを主客に連歌会が催されている。


五条為康(ごじょう ためやす) 45歳 文亀元年(1501年)官位:参議、五条為学(ためざね)の子。家学の紀伝(きでん)道をおさめる。



【 海外の面々 】


志土仁(しどに)

天利加(アメリカ)

女瑠菩瑠(めるぼる)

杭州、

マカオ、

マラッカ、

ゴア、


【 土地の石高 】


一反たん = 1石

一町 = 10たん = 10石

1平方キロメートル = 100町 = 1,000石


10平方キロメートル = 1,000町=1,000たん = 1万石


【 伊勢湾の湊 】

熱田

桑名

大湊(おおみなと)

安濃津(あのうつ)


〔三河〕

高浜

大浜


【 湾と湖 】

近淡海(ちかつあふみ):琵琶湖

遠淡海(とほつあふみ):浜名湖


難波津(なにわつ):大阪湾


馳水海(はしるみずのうみ):江戸湾、浦賀水道


・伊勢湾、三河湾、知多湾、渥美湾

伊勢津:伊勢湾(?)

衣ヶ浦(ころもがうら)(きぬうら):衣浦湾

東浦:知多湾(?)

童浦(どうほ):渥美湾(?)


【 船の名前】

練習艦1号、日本丸

練習艦2号、大成丸

練習艦3号鯨船、鯨鐘丸(げいしょうまる)

練習艦4号鯨船、鯨鵬丸(げいほうまる)

練習艦5号、シドニー丸

練習艦6号、ロサンゼルス丸(略:ロス丸)

練習艦7号、メルボルン丸(略:メルボ丸)

練習艦8号、グァム丸

※).練習艦5番艦以降は、(ちょっとだけ性能にいい)大砲8門を装備。(甲板の位置が一層だけ高くなっている)




ガレオン1番艦、富士(尾張1番ドック)大砲18門

キャラック1番艦、赤城(尾張2番ドック)大砲18門

ガレオン2番艦、佐治丸(尾張4番ドック)大砲8門


戦列1番艦、ジパング(尾張3番ドック)アームストロング110門・機関砲2門

戦列2番艦、光(望月1番庫)大砲20門

戦列3番艦、葵(望月2番庫)大砲20門

戦列4番艦、紫(望月3番庫)大砲20門

戦列5番艦、明石(望月4番庫)大砲20門

戦列6番艦、花散(望月5番庫)大砲20門

戦列7番艦、空蝉(望月6番庫)大砲20門

戦列8番艦、軒端(望月7番庫)大砲20門

戦列9番艦、夕顔(望月8番庫)大砲20門

戦列10番艦、末摘(望月9番庫)大砲20門

戦列11番艦、玉鬘(望月10番庫)大砲20門


戦列12番艦、浮舟(シドニー1番埠頭)大砲20門

戦列13番艦、六条(ロサンゼルス1番埠頭)大砲20門

戦列14番艦、朧月(メルボルン1番埠頭)大砲20門

戦列15番艦、三宮(グァム1番埠頭)大砲20門

(注).2番艦以降は、後部ハッチの鋼鉄製の大砲で、アームストロング砲ではありません。


◎練習艦

定員 旅客40人(最大60名) 船員13人 合計53人

艤装 3本マストトップスルスクーナー

船形 全通平甲板型

総トン数 230トン

全長×幅 52.16m(171フィート、バウスプリット含む) × 8.60m

マスト高さ 約30m上甲板上(最高)

垂線間長 36.00m

深さ 5.90m(上甲板まで)

満載吃水 4.50m


◎ガレオン船

帆装は横帆と縦帆の複合で、

全長30m(最小30m~最大60m)

排水量500トン(最小200トン~最大1000トン)

船幅と全長比は1対4、

マスト4本、

大砲18門(20門~50門)

乗員50~200名

速度:最高10ノット、最低0ノット

射程:500m~1km(有効射程:100~200m程度)


◎キャラック船

帆装は横帆と縦帆の複合で、

全長60m(最小30m~最大60m)

排水量1,500トン(最小200トン~最大1500トン)

船幅と全長比は1対3、

マスト4本、

大砲18 門

乗員50~700名

速度:最高10ノット、最低0ノット

射程:500m~1km(有効射程:100~200m程度)


◎戦列艦(1番)

帆装は横帆と縦帆の複合で、

全長65.18m、(最小46m~最大70m)

排水量3,100トン(最小1500トン~最大5100トン)

船幅と全長比は1対4、

マスト4本、

大砲110 門(アームストロング砲)(60門~120門)

追加装備、機関砲4これはない

乗組員80~850名

最大速度11~14ノット (20~26km/h)(一般速度:最高13ノット、最低0ノット)

(航海速力11ノット)

※.アームストロング砲:口径2.5インチ、砲身長153cm、全備重量250kg、最大射程3,600m。(射程3,000m)

機関砲:ブローニングM1919重機関銃に似た構造。

有効射程‎: ‎1,370m

口径‎: ‎7.62mm

銃身長‎: ‎609mm

毎分1200発程度

・65式66cm測距儀(プリズム式測距儀)


◎戦列艦(2番以降)

帆装は横帆と縦帆の複合で、

全長65.18m、

排水量3,100トン、

船幅と全長比は1対4、

マスト4本、

大砲20 門

荷降ろしクレーン付き(1番と2番マストの中間にある)

乗組員80~850名

最大速度11~14ノット (20~26km/h).

(航海速力11ノット)


全長:龍骨:幅の比で、ガレオン船は4:3:1、キャラック船は3:2:1という

□日本の船

弁才船(べざいせん):中小船舶、250石前後

全長:29メートル、

幅:7.5メートル、

深さ:2.4メートル、

帆柱の長さ:約27メートル

15人乗り 24反帆、最大乗船100人

積載重量約150トン

帆の大きさ:18mX20m

(江戸前期の廻船は順風帆走や沿岸航法しかできず、大坂から江戸までは平均で32.8日、最短でも10日も要していた。)



関船(せきぶね):中型の軍用船、櫓数40丁~80丁

弁才船の半分くらいの大きさ。

最大乗船50人


小早(こはや):櫓数40丁以下、漕ぎ手:14人、舵取り(船頭):1名、太鼓:1名 の全部で16名。

全長11.10m、

高さ0.75m、

幅1.58m


安宅船(あたけぶね):軍船、数十人から百数十人の戦闘員が乗り組む。

大型なら全長50m、全幅12m、高さ10mもあった。



【 那古野へ続く街道 】

熱田街道:那古野~熱田

稲生・岩倉街道:那古野~伝馬橋(堀川)美濃路~江川一里塚跡~

美濃路(鎌倉街道)熱田~那古野~清州宿~稲葉宿~荻原宿~起宿

佐屋街道:道熱田~岩塚宿・万場宿~佐屋(三里の渡し)桑名

東海道:熱田(七里の渡し)桑名

木曽街道:那古野~清水口~小牧~楽田~犬山(あるいは土田)

善光寺街道:那古野~清水口~大曽根~勝川~内津峠~土岐~大井

瀬戸街道(水野街道):(那古野~清水口~大曽根)~守山~瀬戸~岩村

山口街道

高針街道

飯田街道・岡崎街道

(縦断している街道が塩付街道です。)


【織田領内の道幅】

大々路:城のシンボルとなる道。(朱雀大路)

大路:商業地間を結ぶ道。

中路:街道など、主な主要道。

小中路:城々などを結ぶ道。

小路:村々などを結ぶ道。

脇路:抜け道。

◆道幅

大々路:幅44間(80m)

大路:幅11間(20m)

中路:幅6間(10m)

小中路:幅3間半(6m)

小路:幅1間半(1.8m)

脇路:幅半間(1m)


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