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信長ちゃんの真実 ~間違って育った信長を私好みに再教育します~  作者: 牛一/冬星明
第2章.尾張統一、世界に羽ばたく信長(仮)
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【閑話】足利義藤(義輝)、将軍宣下の事(3)

この将軍宣言は(武田)信虎の引き抜きだけがサプライズではありません。


各勢力が上洛するには自軍が有利になる下知を貰おうと工作を行い、領地の正当性を得る為に地位を欲していました。


たとえば、安芸の国は山名政豊が守護でしたが、それ以降は途絶えます。


よく毛利元就と安芸武田が争ったと言われますが、安芸武田氏が安芸守護だったのは、1368年まであり、以降、今川貞世、細川頼元、渋川満頼、山名満氏と移り、山名政豊で絶えているのです。


安芸武田氏は銀山城周辺の分郡守護として残っていたのですが、大内氏の命を受けた毛利元就に攻撃されて、1541年に居城の銀山城を落とされて滅亡します。


大内家とすれば、応仁の乱の折りに西軍に参加して手に入れた(仮)安芸守護職を取り戻したい訳ですが、東軍の細川家からすれば認められません。


という訳で、大内は安芸守護ではなかったのです。


ところが!


事前交渉で足利義藤(後の義輝)があっさりと認めたのです。


但し、毛利元就を安芸守護代に逆指名します。


大内の家臣の一人として、毛利元就の弟で地頭名代として付いて来ていた北 就勝(きた なりかつ)が目を丸くします。


元就が裏で事前交渉していた訳もなく、祝いの品も大内家の品より一段落ちます。


大内家の家臣として控えていました。


完全な不意打ちです。


周防守護代の陶 隆房(すえ たかふさ)が反対しますが、大内 義隆(おおうち よしたか)の名代であった相良 武任(さがら たけとう)がそれを受けて持ち帰って、(毛利)元就が安芸守護代にさせることを約束したのです。


(陶)隆房からすれば、勝手にNo.3を作るじゃない。


完全に嫌われたでしょうね!


次期将軍が(毛利)元就に媚びを売ったようにも見えますが、大内家に争いの種を蒔いたとも言えたのです。


それを聞いた尼子も渋い顔をしますが、拡充した土地の守護職を認めて貰えたので不満とまでいきません。


事実上の支配地であるなら、守護職をあっさりとどこでも認めたのです。


逆指名と言えば、阿波守護の細川 持隆(ほそかわ もちたか)にも三好義賢(実休)を守護代にしてはどうかと進言しました。


逆に、すべて保留した件もあります。


北近江守護の長男である京極 高延(きょうごく たかのぶ)と守護職を譲られた弟の京極 高吉(きょうごく たかよし)が共に北近江守護を願い出たのです。


京極高清は弟の高吉に家督を譲ろうとした為に、高延は浅見貞則、浅井亮政、堀元積ら近江国人衆に擁立されて京極家の家督を奪って父と弟を追放しました。すると浅見貞則の専横がはじまり、(京極)高延と(浅井)亮政は協力して、浅見貞則を追い出します。しかし、今度は弟の高吉は六角定頼を頼って、六角定頼と(浅井)亮政と争っていたのです。


一方、(浅井)亮政の専横を嫌った(京極)高延は、父と和解して上坂氏をはじめとする反亮政派をまとめて、(浅井)亮政と対立するようになります。


ぐだぐだですね!

(浅井)亮政は六角定頼と(京極)高清・高延親子を相手に苦戦しながら死去します。


後を継いだ(浅井)久政は婿養子の田屋明政との家督争いが勃発し、苦境に立たされます。


(浅井)久政は六角定頼に臣従することで苦境を脱出したのです。


つまり、北近江の大半は六角定頼に臣従した(浅井)久政が治めており、(京極)高延の地位は安定しておらず、弟の高吉は浅井久政の娘(京極マリア)を妻に迎え、半国北近江守護に返り咲きます。


弟は完全な浅井久政(六角定頼)の傀儡ですけどね!


当然、六角贔屓の足利義藤(義輝)は守護と認めると誰もが思ったのですが保留したのです。


「紛争を鎮めてから再び申し出よ」

「北近江は揉めておりません」

「ならば、何故、二人が申し出る」


京極高延と京極高吉の和睦を進めたのです。


また、織田家から伊勢・三河の守護職を求めなかったことから、こちらも保留されます。


申し出ない限り、守護職を検討する気がないようです。


将軍宣下前からいくつもサプライズがあったので、管領を細川晴元と定めた後に、六角定頼を管領代としたのも驚きはありましたが納得という感じだったのです。


管領代の次にあたる評定衆の筆頭、さらに四職にあたる侍所頭人に就任する相伴衆に斯波 義統(しば よしむね)の名が呼ばれます。


No.2とNo.3、六角と斯波(織田)を取り込む気が満々です。


室町幕府の格式は三職(管領・管領代)、御相伴衆(侍所頭人の四人)、国持衆(格式の高い家柄)、准国持衆(外様衆の中でも国持衆に准ずる格式のある家柄)、国持衆並(御供衆の中でも国持衆並とされた家々)となります。


役職が管領・評定衆〔引付〕・政所・侍所・問注所とあり、

地位が鎌倉公方・九州探題・奥州探題・羽州探題・守護〔守護代〕・地頭〔地頭代〕になっています。


これ何ですか?


よく判りませんね。


評定衆の頭人には、斯波をはじめ、細川氏綱、北畠、北条など有力な守護が選ばれます。


その頭人を支えるのが、引付衆と引付奉行です。


要するに守護の次に偉い人です。


その筆頭に守護代の織田信秀が呼ばれます。


ホント、取り込む気が満々ですね。


さらに、遊佐長教や三好義賢ら他の守護代も呼ばれてゆきます。


足利義藤(義輝)、この『大将軍宣言の儀』に出向いてきてくれた守護と守護代に役職をプレゼントするという大盤振る舞いです。


名代が出席した大友、大内、尼子、朝倉など、大守護に役職が与えられなかったのです。


逆に当主が来た北条は評定衆に選ばれ、御相伴衆になっています。


これには、北条 氏康(ほうじょう うじやす)の方がびっくりです。


格式で関東管領の山内上杉憲政におよびませんが、役職で肩を並べたことになります。


そもそも御相伴衆は四家、侍所の長官(頭人、所司)、山名氏、畠山氏、細川氏、大内氏などが歴任しており、普通の守護が貰う国持衆より一段高い格式のある役職が相伴衆です。


関東管領には格式で負けますが、役職で勝ったことになるのです。


とにかく、当主自らやって来た守護には、大サービスです。


名代を出した守護と守護代は後でがっくりしたでしょうね!


まだ、来ていない大守護らも上洛せよという意志表示でしょうか?


そう言えば、地頭や地頭代にも式が終わってから一人一人会って、役職か、感謝状、あるいは、刀などを送ったそうよ。


ホント、まめな将軍様だ。


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