【閑話】舎利寺の戦い(5)の事。
日が差す頃になると、三好軍の不利が明らかになります。
押しても押しても押し返され、三好軍の被害が大きくなってゆくのです。
突如、戦局が動いたのです。
下流を船で渡河した三好義賢(実休)が率いる四国衆が横槍を入れます。
もちろん、遊佐長教も兵を配置しており、油断があった訳ではありません。
「おら、おら、おら、邪魔だ!」
十河 一存の槍が無類の強さを発揮して、一角を突き崩すと背後を蹂躙したのです。
「奴らの背後をぶっ潰す。付いて参れ!」
「「「おおぉぉぉぉ!」」」
十河 一存が敵の背後を混乱させました。
その瞬間を待っていた三好孫次郎(後の長慶)は本隊を自ら率いて突撃を敢行します。
「進め、押し広げろ!」
馬上より敵を刀で切って前に進みます。
三好孫次郎(後の長慶)様に続けと兵が押し寄せてどわっと圧力が上がります。
さらに背後を襲われて兵たちはの隊列も乱れて、ちぐはぐな守備が目立ったのです。
三好孫次郎(後の長慶)はその場所を見逃しません。
「左京亮、そこをこじ開けよ」
「承知」
安宅左京亮の一隊が決死の覚悟で突貫すると、敵の隊列を突き破ります。
『押し出せ!』
「「「「うおおおおぉぉぉぉ」」」」
あっという間に喰い破ると三好軍が蟻の群れのように川を渡って扇のように広がってゆきます。
前線の乱戦が連鎖的に広がってゆくのです。
「やぁやぁやぁ、我こそは三好孫次郎利長なり、いざぁ、尋常に勝負!」
三好孫次郎(後の長慶)自身も前衛の大将に向かって戦いを挑むと、電光石火が一撃で敵の首を刎ね飛ばしました。
わぁぁぁぁ、味方が一気に勢い付きます。
「総大将が一騎駆けとは、無茶が過ぎますぞ」
「次郎殿、無茶をせねば、勝ちを拾えませんぞ。まだ、皮一枚を剥いだのみ、さぁ、行くぞ」
畠山 尚誠も呆れます。
総大将の首が飛んだ瞬間に負けが確定します。
「やんちゃな総大将だ。総大将を守るぞ。我に続け!」
河内衆の三木午ノ助は総大将の近くで手柄を立てれば、それだけ見返りが大きいと鼓舞して突っ込みます。
体制を立て直したい遊佐長教、細川頼貞(四郎)、畠山政国らは、敵大将の三好孫次郎(後の長慶)を包囲するように押し囲うように三方から兵を送りますが、三好孫次郎(後の長慶)自身が一隊を率いて正面の敵にぶつかったので、三好勢を押し返すのに失敗してしまったのです。
こうなると各所で遊佐長教、細川頼貞(四郎)、畠山政国ら兵が喰い破られて、次々と渡河に成功した三好勢が次々と現れます。
完全な乱戦と化したのです。
この時点ではほとんど互角、否、無理をしている三好勢の方が劣勢だったかもしれません。
うおおおぉぉぉぉ!
突然に背後から敵が現れたのです。
三好孫次郎(後の長慶)は数の不利を承知で部隊を三つ割って、1つは三好義賢(実休)に任せて川下から回らせ、もう1つは安宅 冬康に川上を迂回させたのです。
つまり、退路の方向から敵が現れたのです。
これは遊佐長教、細川頼貞(四郎)、畠山政国ら兵に動揺が走ります。
否、退路を断たれた訳ではありません。
現れた三好勢は2,000人ほどの小勢です。
「慌てるな! 敵は少数だ。後陣の兵を当てよ」
「長教、大丈夫であろうな!」
「本隊から兵を送った方がよろしいでしょう」
「そんなことをすれば、本陣が危うくなるぞ」
「敵方の大将が先陣を切る危険を冒しているのです。こちらも相応の覚悟を示せなければ、負けますぞ」
「ならん! それはあいならん」
主家の畠山政国がここにきて弱腰となったのです。
元々、戦上手という訳でもありません。
大勢の兵に守られているから安心できる訳であって、その兵を減らせば、三好孫次郎(後の長慶)が襲ってくると怯えた。
うん、襲っているね!
最初から三好孫次郎(後の長慶)の狙いは本陣です。
しかし、陣が崩れていない本陣を攻めるほど無茶ではなかった。
ただ、それだけです。
一方、遊佐長教の顔が歪みます。
三好孫次郎(後の長慶)の兵の数に援軍が入って25,000人と増えました。
もちろん、摂津衆と四国衆を合わせると3万人はいるのですが、奪い返した摂津の城に兵を幾分か残しているので絶対数が減っています。
あと1万人を段取りできなかった三好軍はかなり無茶な戦いをしていたのです。
(記録には残っていませんが、史実での戦いでは準備万端で3~4万人余りを用意したのではないでしょうか?)
遊佐長教、細川頼貞(四郎)、畠山政国らは、情勢が有利な事もあって兵が多く集まり、さらに、堺から傭兵を買い漁ったことで30,000人余をかき集めています。
数の上で負けていないのです。
しかし、畠山政国に5,000人、細川氏綱の弟である四郎に5,000人を預けているのです。
この二人が動かなければ、数の有利が逆転してしまうのです。
しかも戦国中期までは豪快な傑物が活躍できる時代です。
一騎当千のつわものが3倍程度の兵力差を覆すことがあったのです。
三好勢が身を削って、『一騎当千のつわもの』になろうとしていました。
対する畠山は身を守って亀になろうとしていました。
畠山隊の兵5,000人も完全に遊兵と化していたのです。
(細川)四朗は、細川氏綱の弟君で細川四郎頼貞と申します。
氏綱方の総大将です。
こちらの兵を前に送る訳には……………否、下流から横槍を入れた三好義賢(実休)の一隊が本陣を目指していました。
篠原雅楽助らの一隊は細川四郎の前衛を突き破って総大将に襲い掛かるのです。
油断していたのか?
総大将が座る前で乱戦が起こります。
「総大将をお助けする続け!」
遊佐長教が一軍を率いて向かうと、畠山政国も全軍を率いて追い駆けてきたのです。
それは悪手でした。
畠山政国の軍が後退すれば、退却と取られかねないというか、全軍に動揺が走ったのです。
「引くぞ! 置いて行かれる訳にはいかん」
「ここ維持しろ! まだ、総退却の法螺はなっておらん」
「本陣は動いておらん。堪えよ」
「最早ここまでだな! 我らは退路確保の為に兵を引くぞ。後背に現れた敵を押し返しにゆく」
氏綱・遊佐連合軍のもっと弱い部分が露出します。
氏綱に賛同して駆けつけてきた国人や豪族は遊佐長教の家臣などではないのです。
作戦の概要を承諾しているのは手柄を貰う為に他なりません。
各部隊がそれぞれの指揮権を持ち、自らの意思で勝手に動いています。
戦に負ければ、褒美は貰えません。
タダ働きなんてまっぴらごめんなのです。
気の早い国人や豪族、傭兵らは戦の負けを感じて兵を引き始めます。
要するに、畠山政国の軍が後ろに下がるのは窯の蓋を開ける行為だったのです。
そうなると独自の判断で退却を開始し始めます。
拙い!
篠原雅楽助らの一隊を片づけた遊佐長教が振り返ったときには手遅れでした。
もちろん、三好軍に席を置いている松浦興信、畠山尚誠らのように一族の再興を願っている者らは負ける訳にいかない部隊が連合軍にもいたのでしょう。
なんとか押し止めようとがんばっていますが、大勢に無勢で討ち取られてゆくのです。
最早、ここに残って貴重な兵を失うより、兵を無事に帰還させて再起を図る方が得策と遊佐長教は退却を命じたのです。
最後までがんばった者達が討ち取られてゆきます。
三好軍も河内衆三木午ノ助、四国衆篠原雅楽助、安宅左京亮らを失う痛手を受けています。
両軍とも2000人を超える死者を出していました。
そう言えば、史実の結果を残した『足利季世記』では、戦死者遊佐勢四百名、三好勢五十名と少ない被害が書かれています。
逆に『二条寺主家記』では、両軍二千名の戦死者と残されます。
また、間近で見ていた本願寺日記には、何も残されていません。
『足利季世記』では、三好も大逆人としていますので、この「舎利寺の戦い」で三好の活躍を割愛し、晴元方の畠山尚誠と松浦肥前守の武功を残しています。
さて、三好孫次郎(後の長慶)は勝利しました。
薄氷の勝利を捥ぎ取ったのです。
もちろん、被害も甚大であり、すぐに追撃をすることができませんでした。
遊佐長教、細川頼貞(四郎)、畠山政国らは、(細川)氏綱が立て籠もっていた高屋城に悠々と引き上げることができたのです。
しかし、敗戦は敗戦です。
畿内での(細川)氏綱有利が消えて、(細川)晴元有利が伝えられると、日和見をしていた国人や豪族が一斉に(細川)晴元の元に使者を送り、臣従を伝えにくるようになったのです。
(細川)晴元方の勝利がほぼ確定したのです。
◇◇◇
高屋城は高屋築山古墳を利用して作られた城であり、広さ7ヘクタールもあります。
標高約47mの河岸段丘にある丘綾に本丸、二の丸、三の丸を要した巨大な城であり、城の規模は南北に800mm、東西に450mあり、土塁と堀で仕切られています。
もちろん、戦いに負けて散っていった国人や豪族や傭兵は戻っていません。
それでも残った一万人の兵が悠々と収納できる城だったのです。
再編成を終えた三好孫次郎(後の長慶)ら三好軍も高屋城を取り囲むしか手がありません。
というか、兵を消耗させたくなかったというべきですね。
総勢30,000人の内、2,000人を失ったのは意外と大きな痛手だったのです。
これが堺でかき集めた傭兵で構成される部隊であったなら、強引な力攻めでもやってみせたのでしょう。
死者2,000人の内、四国勢が何人であったかは判りませんが、少ない数ではありません。
貴重な四国勢をこれ以上は失う訳にいかなかったのです。
こうして、『舎利寺の戦い』は三好孫次郎(後の長慶)の勝利に終わり、(細川)氏綱の威信は失墜したのです。
しかし、ここに神の手というべき、六角の和議の使者が到着したのです。




