【閑話】舎利寺の戦い(4)の事。
ダダダァ~~~ン!
凍りつきそうな寒い朝靄の中で双方の鉄砲が火を噴いた。
どちらも50丁程度の鉄砲であり、射程外からの威嚇からはじまった。
わああああああぁぁぁぁぁぁぁ!
銃声を合図に平野川を対峙していた双方が相掛かりの攻め合いを始めた。
押し合いへし合いの乱戦です。
「押し出せ!」
「押し返せ!」
川を渡河せねばならぬ三好に対して、渡ってくる敵を押し返す遊佐長教、細川頼貞(四郎)、畠山政国らが有利に戦いを進めていました。
十分に疲弊した所で逆渡河を敢行し、三好孫次郎(後の長慶)の首を取る。
これで完勝です。
三好軍は三好政長、三好政勝、三好長慶、香西元成、三好義賢、安宅冬康、松浦興信、畠山尚誠ら摂津衆と四国衆の混成部隊で構成されていました。
対する遊佐長教、細川頼貞(四郎)、畠山政国らは河内衆を中心とした連合隊でした。
摂津衆と四国衆が2万足らず、河内連合衆3万余りの大軍を繰り出しており、渡河場所では槍合戦が繰り広げられ、それ以外も弓合戦が各所で起こっています。
最も激しくぶつかりあっているのは、先鋒の松浦興信隊と畠山尚誠隊であり、その血で川を真っ赤に染めています。
ところで、松浦興信って誰なんだろうね?
半国守護であった和泉守護細川氏の重臣として和泉国の守護代を務めた岸和田城主に松浦氏がいるんだけど、その家臣か一族なんだろうか?
同じ名前の人が多すぎて、混乱するよ。
同じく畠山 尚誠は畠山総州家6代当主である畠山在氏の嫡子だよ。
畠山総州家は大和国と河内国に勢力を有していたから、畠山総州家の復興が掛かったこの一戦に負けると後がないんだね!
三好勢の先陣としてもっとも激しくやりあっていた。
◇◇◇
舎利寺は1400年前、聖徳太子が創建したと言われる寺だ。
四天王寺を創建する為に建てられた由緒正しい寺だったんだけど、この『舎利寺の戦い』で荒廃することになる。
迷惑だよね!
遊佐長教、細川頼貞(四郎)、畠山政国らは高屋城を出陣すると一路北上して、茶臼山古墳を利用して作られた大塚城を攻めた。
城主の山中又三郎は細川晴元の家臣であったが大した抵抗することもなく落城した。
この茶臼山は大坂冬の陣で徳川家康が本陣とし、大坂夏の陣で真田信繁が陣を構えた超有名な場所で、現在の天王寺公園内にある。
最初の築城者の山中又三郎はほとんど記憶に残ってなかった。
小高い丘(古墳)と池に守られているだけの城が2万近い大軍に囲まれれば、一溜りもなかった。
ここで遊佐長教、細川頼貞(四郎)、畠山政国らがやってきた事を知った三好孫次郎(後の長慶)らは榎並城から出陣して南下を始めたのよ。
大阪平野は豊臣秀吉・徳川家康の時代に整備されるまで河川が複雑に入り組んで迷路のような湿地地帯だった。
三好孫次郎(後の長慶)らは船で川を渡り、平野川と久宝寺川に挟まれた中洲のような低地を南下した。
判り易く言えば、大阪女子マラソンの今里筋と勝山通りの曲がり角よ。
そこが『舎利寺の戦い』の戦場だった。
冬の大阪女子マラソンでゴールが近づく35km地点手前、勝山通りから今里筋への曲がり角ですよ。
覚えていて下さい。
三好孫次郎(後の長慶)らも勝山古墳辺りの手前で再集結する。
そこより手前は足元が取られる沼地のような場所か、足元の悪い遮蔽物のない低地しかないから仕方ない。
大軍で移動できる道なんてなかった。
先発隊は船を使って先に到着して、本陣の場所を確保していた。
川を渡った三好軍の部隊は細い街道や土手道を分散して進み、勝山の手前で再合流した。
もちろん、遊佐長教がそれを見過ごしたとは思えませんが、兵を逐次投入して戦果を大きくする愚は避けたみたいね。
小さな小競り合いのみで兵を引いて、舎利寺で本隊が来るのを待ったようです。
遊佐長教、細川頼貞(四郎)、畠山政国ら舎利寺辺りから勝山古墳まで蛇行する平野川の渡河できる場所に兵を分散して配置しました。
平野川を超えられると、上本町台地の中でもなだらかな坂が多い場所に続きます。
ワザと平野川を渡河させて、台地手前を戦場する手もありますが、武田信玄のように平地での野戦を得意とする武将以外は野戦を選択する人は少ないでしょう。
どう考えても川を挟んで待ち受ける方が絶対に有利です。
遊佐長教もそう考えたようで、平野川の対岸で待ち受けたのです。
そもそも茶臼山の大塚城を攻めたのは、三好孫次郎(後の長慶)らを誘い出す為の罠だったのでしょう。
現在の寝屋川は川幅も大したことがありませんが、当時の寝屋川は河内湖の名残が残る広い河川だったのです。
船には限りがありますから、船は何度も往復して大軍を向こう岸に運ぶ必要がありました。
再集結している所に襲われれば、逃げることも許されずに全滅ですね!
それを避けたいと思うのは心情です。
寝屋川上流の河内十七箇所(寝屋川市西部、門真市、守口市、大阪市鶴見区中・東部)はまだ(細川)晴元の勢力圏であり、大軍が待ち受けていると知っているのに渡河できますか?
私なら避けますね!
逆に渡河するだけなら、三好孫次郎(後の長慶)らはいくつもの湿地地帯に渡河場所を有していました。
大和川の下流域は中洲のような湿地帯が沢山あり、身動きのとり難い沼地で敵を待ち受けるようなことはできません。
もっとも石山本願寺の戦いでは、鈴木 孫一が雑賀衆を小舟に乗せて、渡河して来る信長軍を持ち受けるというトンでもない作戦で織田を翻弄したことがありましたけどね!
あっ、それは近未来の話か!
まぁ、普通はやりませんよ。
三好孫次郎(後の長慶)ら三好軍も渡河できる場所がいくつもあったということを除けば、遊佐長教、細川頼貞(四郎)、畠山政国らと条件があまり変わりません。
逃げるにしても大軍を一度に移動できるだけの船がありません。
敗北は即、壊滅に繋がるのです。
でも、三好孫次郎(後の長慶)は虎穴に入った。
大局の形勢を逆転する為には、『舎利寺の戦い』で勝利するしかないのです。
三好孫次郎(後の長慶)の性格を読み切った。
遊佐長教らしい策謀ではありませんか!