【閑話】舎利寺の戦い(3)の事。
細川晴元が丹波の神尾山城から摂津国西部の神呪寺城に移ったのは11月13日とされています。
三好孫次郎(後の長慶)の動きが鈍いにも理由がありました。
9月13日に上洛した細川国慶(上野玄蕃頭元治)は、天文16年(1547年)正月11日に一条家の土地から地子銭を徴収しようと押し入ったという記録が残っています。
山科言継ら公家らが阻止しようと200人以上も集まったそうです。
京の上下町衆は細川国慶に対してよい感情を持っていなかったのです。
その町衆を助けていたのが法華衆です。
この法華衆とも細川国慶は以前の上洛時に揉めています。
細川国慶の入京が巧く行くかすら怪しく、実際に揉めていました。
さて、法華衆と比叡山は長く対立していました。
そこに共通の敵である細川国慶が京に入ったのです。
六角定頼はそんな町衆達の気概もくみ取り、被官の進藤貞治と平井高好を派遣して延暦寺と法華宗徒の仲裁を開始して見事成功させたのです。
細川国慶と公家衆の対立関係を巧く利用して、六角定頼は東の延暦寺と西の洛中法華を仲介し、公家衆(町衆)に恩を売った訳です。
まぁ、和睦が成立したのは12月に管領代になった後、翌年6月17日とかなり後になるんだけどね!
席につかせたことが重要なのよ。
もし、細川国慶が比叡山と組みして、法華衆を襲うとなれば、六角の面子を潰すことになり、六角が本格的に洛中に軍を送ることになります。
国慶もそれは避けたいハズです。
犬猿の両者を六角定頼は薄氷下を踏む思いで交渉を成功させたのです。
六角定頼は京の町衆の人気を一人占めしました。
細川氏綱らは京を抑えながら、京の支持を取り付けに失敗していた。
そりゃ、三好孫次郎(後の長慶)らの思惑通りだったのです。
天文16年2月20日、三好孫次郎(後の長慶)らは摂津の原田城を陥落させ、22日には三宅城も陥落させます。
明らかに三好の反撃が始まっていました。
ここで何を考えているのか、3月29日に前将軍(足利)義晴は勝軍山城に入り、(細川)氏綱支援を宣言するのです。
六角定頼は半分呆れ顔でした。
おそらく、情勢が不利と見て、(細川)国慶、あるいは、(細川)氏綱が頭を下げたのでしょう。
(遊佐)長教が工作したとしか思えません。
7月12日に(細川)晴元が上洛して相国寺に陣を置くと、六角定頼も上洛して晴元方に付いたのです。
六角定頼は摂津の戦いも三好孫次郎(後の長慶)らが勝つと予想しての行動です。
前将軍(足利)義晴は勝軍山城を自ら焼いて、近江坂本に逃げたのです。
以上が史実の足利義晴の動きです。
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さて、9月13日に(細川)国慶が京に攻め上ってくると管領(細川)晴元が逃亡します。
(細川)国慶は近衛・山科卿と対峙しましたが、戦にはならずに恭順することで京入りをあっさりと果たしました。
9月18日、氏綱・遊佐連合軍は京都方面の芥川山城を攻略すると、東山慈照寺(銀閣寺)に入った将軍(足利)義晴に(細川)国慶が戦勝の報告に赴きます。
気をよくした(足利)義晴は、20日に氏綱支持を宣言してしまったのです。
馬鹿ですか!
摂津も氏綱が抑えた。
京も国慶が抑えた。
もう、京を捨てた(細川)晴元に明日はない。
良くも悪しくも将軍(足利)義晴は情報を正確に把握するより、都合のいい結果を思い描いて失敗を繰り返してきたようです。
阿波に三好の本隊がある訳ですから状況は流動的でしょう。
両方に色よい言葉を送って、中立を保って置けばいいんですよ。
その頃、言継のおっさんは天上酒を持って、法華宗家と延暦寺の住職を訪ねていました。
天上酒の専売は美味しい話です。
しかも普通の清酒・焼酎(麦・芋)の代売も付けると言っているのです。
一口、味見をして目の色を変えます。
僧坊酒のライバルとして対立するより、代売で儲ける方が得です。
さらに製造法を伝授して、代理製造を任せていいという好条件が加わります。
流石にあまりの好条件に両陣営の僧侶が疑ってしますのです。
そこで立会人に六角定頼が選ばれたのです。
言継のおっさんは蔵を守っている甲賀衆を頼って望月出雲守を頼ります。
9月20日、望月出雲守は六角定頼に法華衆と比叡山の仲介の話をすると、定頼が承諾しました。
言継のおっさんは定頼と面会して、後の京の復興を話したのです。
翌日、言継のおっさんは六角の使者として、日吉祭礼費用の名目で礼銭を拠出し、京の復興の為に法華宗徒・延暦寺抗争に仲介することを申し出たのです。
9月24日、両者が六角の段取りで面談して和睦しました。
三管領四職ですら六角家が法華宗と延暦寺との仲裁を為したことが大変な功績であり、紛争で京の町が燃えることを懸念していた町衆も安堵したのです。
京の人々はその功績を讃えて、六角定頼を『今管領様』と呼んだそうです。
六角定頼の名声がうなぎのぼり、朝廷からお褒めの言葉も貰ったそうです。
同時に、京の町の復興に貢献していた細川国慶も正五位下左衛門少将に任じられ、京都守備を正式に命じられます。
従五位下玄蕃頭から大出世です。
こうして、右近衛大将近衞晴嗣、六角定頼、比叡山延暦寺、法華衆、細川国慶の連携で京の復興が進んでゆくのです。
そこに尾張織田の大勝利の報が飛び込んできます。
「織田様のおかげですな」
「ありがたや、ありがたや」
「織田様々です!」
京の人の口々にそんなあいさつが飛び交った。
荒れた京の町に傭兵と国慶らに伴った大軍を食わせる食糧はありません。
堺から運ぶといって限りがあります。
敦賀から近淡海を通して運んでいますが、今日頼んで明日届く現代ではありません。
毎日のように空寺から京に食糧が運ばれてゆくのです。
京の人は織田様が山道を通って運んで下さっていると感謝していたのです。
織田様のおかげで、乱暴者が取り締まられて町は安全だ!
織田様のおかげで、食い物にありつけて国慶の兵も大人しい。
織田様のおかげで、市に物が並んで美味しいものが食べられる。
織田様のおかげで、旨い酒が呑める。
法華と延暦寺が喧嘩は織田様が六角様に頼んでくれたらしい。
織田様々だね!
織田の人気が天井を打っています。
言継のおっさんが買った食糧を私が運んでいただけなんですけどね!
織田は銭を貸しているだけよ。
でも、京の人達はそう思わなかったみたいだけどね。
止めは魚だった!
水分・酸素を飛ばして、塩漬けにした魚は捕れたてのような新鮮な食感だった。
塩漬けでも朝捕れた魚を晩に食べれば、美味いよね!
冷凍技術もない戦国時代に、捕れたての魚が食べられる訳がない。
そりゃ、魚の注文が増えてゆく訳だ。
かつおが大漁に捕れたので、かつおも塩漬けにしたら言継のおっさんにまで引かれた。
「何考えてんねん。もうええわ!」
私の親切をヤケクソみたいな声を上げて市場に卸しやがった。
京の人も引いた。
捌けば綺麗な生ですからね!
生で食べる習慣はなかったから引かれるわ!
<新鮮過ぎて引かれただけです>
それでも綺麗に売れましたよ。
言継のおっさん、公家衆を呼んでしゃぶしゃぶみたいに湯通しで食べさせた。
滅茶苦茶に好評だったらしく、また持ってきてほしいらしい。
あの悪態は何だったよ。
◇◇◇
【 松永 久秀 】
百地丹波の報告を聞いて、盆の小袋を3つ乗せて差し出した。
それだけの価値のある情報だった。
丹波はそれを懐に仕舞ってにんまりと笑った。
対照的に久秀の眉間にシワが出ていた。
まず、細川国慶が入京できたのは意外であった。
以前、上洛した際に法華宗とイザコザを起こしており、すんなりと入京できると考えていなかった。
さらに、京の治安が回復し、復興が進んでいる。
(細川)氏綱が京を安定させている。
そんな風に思われると、摂津・河内などの国人・豪族の心が氏綱に向かう可能性が出てきたのだ。
特に、(細川)国慶が朝廷より官位を貰ったことが最悪であった。
朝廷は(細川)氏綱を認めていると取られかねない。
(細川)氏綱が失態を演じて、国人や豪族の支持を失うのを待つのは得策でなくなっていた。
急ぎ、阿波から兵を呼んで短期決戦を挑む必要があった。
次に、織田の大勝利が問題であった。
織田は三好を認めているようなので好感を持っていた。
勝って貰いたいと願っていた。
しかし、勝ち過ぎた。
否、勝ち方が凄まじいかった。
伊勢・美濃・三河で圧勝し、ほとんど兵力を失っていないという。
対して、北畠・斉藤・今川に再戦の余力がない。
つまり、数万の兵をいつでも自由に動かすことができる。
しかも、それを阻む敵が存在しない。
織田は上洛できる条件が揃っているのだ。
ただ、丹波の話によれば、西は六角に任せると言っているらしい。
それ以外にも織田の南蛮船を摂津に入れてはならないと思った。
阿波と摂津を分断されれば、この戦に勝利はない。
六角だ。
六角との友好がこれまで以上に重要になっていた。
織田・六角を敵にできないと久秀は思った。
最後に、(細川)氏綱の勢いが消えていないことだ。
兵を一度引きましたが、国人らは(細川)氏綱を支持している者が多い。
時間を与えれば、相当数の兵を集めることができる。
これは無視できない。
翻って、波多野稙通〔享禄3年(1530年)没〕が死んでから丹波衆が信用できず、いつ裏切って氏綱方になるか判らない。
当てにできない。
(細川)晴元が絶対裏切らないのは榎並城を守っている三好政長くらいであった。
強引に行くしかありませんね!
久秀はそう決断して、三好孫次郎(後の長慶)に進言したのです。
奇襲による敵の各個撃破しか手が残されていなかったのです。
◇◇◇
三好孫次郎(後の長慶)は阿波の準備を急がせました。
(細川)氏綱らの戦場は三好政長が守る河内十七箇所です。
荷駄隊の兵糧が尽きた(細川)氏綱らは軍を一旦解散し、再戦の準備を行っています。
その隙を狙った奇襲でした。
翌月(10月)29日、電光石火で三好兄弟を中心とする阿波水軍2万人が大物に上陸し、三好孫次郎(後の長慶)1万人と合流して、三宅城を取り囲みます。
そのまま強引な力攻めで落城させると、三好孫次郎(後の長慶)らは兵を分けます。
三好孫次郎(後の長慶)は原田城、茶川山城を目指し、三好実休と安宅冬康(鴨冬)らは池田城に向かったのでした。
三好孫次郎(後の長慶)らは原田城、茶川山城、池田城を陥落させると、榎並城に再集結したのです。
一方、(細川)氏綱らは慌ててました。
(細川)氏綱自身も高屋城に入って兵の集結を命じますが、その間に次々と落城の知らせが届き、あまり早さに声も出なかったそうです。
最早、救援に必要もなく、高屋城に兵が集まった所で北上を開始したのです。
三好孫次郎(後の長慶)らは(細川)氏綱ら出陣したと聞くと、それに合わせて南下を開始し、両者は舎利寺にて対峙することになったのです。
天文15年11月11日(1546年12月4日)早朝、凍るような朝靄の中で戦いが始まったのです。
時計の針が半年ほど早く回ったようです。




