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信長ちゃんの真実 ~間違って育った信長を私好みに再教育します~  作者: 牛一/冬星明
第2章.尾張統一、世界に羽ばたく信長(仮)
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【閑話】舎利寺の戦い(2)の事。

天文12年(1543年)に種子島に漂着した南蛮船より2丁の火縄銃が伝来した。

火縄銃に飛び付いたのが、杉坊某(杉之坊(すぎのぼう) 照算しょうざん)であったと伝わる。某は芝辻清右衛門・金兵衛尉清定ら刀鍛冶を集めて複製を作った。

その内の一丁は兄に届けられた。

某の兄は紀伊国吐前城の城主津田 算長(つだ さんちょう)である。

算長は根来寺僧兵の長であり、某を紀州鉄砲集団である根来衆の頭領に据えて鉄砲を量産した。


また、堺からは橘屋又三郎が銃の技術を得るために種子島へとやってきて、1・2年で殆どを学び取ったともある。


根来の下流域に雑賀荘があり、雑賀衆は根来が鉄砲の製法を教わったと考えられる。


しかし、倭冠によって天文12年以前に火縄銃がすでに伝わっていたという説も多く残っている。


天文13年(1544年)2月に島津貴久から将軍足利義晴に献上され、見本の銃を近江国坂田郡の国友に善兵衛・藤九左衛門・兵衛四郎・助太夫らの鍛冶に渡されて、国友が鉄砲の生産地となっていった。


何故、国友っていうと近江は古代から鉄精練の産地だったからだ。


息長氏の息長とは鉄に息を吹きかけるところからきているようであり、近江には古代製鉄遺跡が多くある。

製鉄技術が優れた地域だったので、すぐに模造品を完成させた訳だ。


今更だけれど、『国友鉄炮記』には、鉄砲の伝来を「天文八年八月二十五日、南蛮国の大船が大隅の種子島に漂着(中略)一挺を薩摩の島津義久に贈ったが、島津義久はこの年の十二月二日、これを将軍足利義晴に献上した」とある。


一般に伝わる天文12年と4年も開きがあるのだ。


どっちがホントなんだろう?


信長ちゃんが鉄砲の威力を知ったのが天文18年であり、鉄砲の名人橋本一巴を召し抱えて鉄砲製造方を作ったんだ。


ここは私の想像だけど、信長ちゃんに鉄砲を献上したのは、一族に勘当されて堺に放浪して帰ってきた滝川一益じゃないかと思うんだよ。


で、鉄砲の威力を知った信長ちゃんが、橋本一巴を召し抱えて、信長ちゃんの命で一巴は天文18年7月18日、善兵衛・藤九左衛門・兵衛四郎・助太夫らに六匁玉の鉄砲五〇〇挺を注文した。


こんな流れだったと思うのよ。


信長ちゃんの話はともかく!


国友では将軍から鉄砲を渡される以前に、津田氏から伝わっていた。<たぶん>


なぜなら、津田氏は近江津田庄(近江八幡市)から発祥している。


紀州津田家と近江津田家は関係ない。


将軍が鉄砲を依頼する以前に原型は伝わっていた。


さらに、津田氏は織田氏と同族で、藤原氏・忌部氏の系統が有力なのよね!


ほら、織田の名を捨てて、津田の姓を名乗っている。


織田が鉄砲を注文できたのも、津田が大きく関わっていたと推測できるのだけれども、証拠と呼べるものは何もない。


この時代、同族であるかはとても大切なことだったのは間違いない。


【 鈴木 佐大夫(すずき さだゆう) 】

雑賀衆(さいかしゅう)を率いる鈴木 佐大夫(すずき さだゆう)は、鉄砲を納品で堺に訪れた。

最初は物珍しさから高値で取引されたがそんな物好きは多くいる訳もなく、すぐに鉄砲の値は崩れていった。


連射の利かない鉄砲は実用性に乏しいおもちゃでしかない。


安値で手にいれた運のいい者もいたかもしれない。


しかし、信濃で起こった『内山崩れ』が鉄砲の評価を大きく変えた。


鉄砲があれば、10倍の敵を退けることができる。


安くても10貫文で納品できるようになった。


高価な鉄砲を買い漁る領主が絶えない。


佐大夫ら雑賀衆(さいかしゅう)は嬉しい悲鳴を上げて、鉄砲作りに夢中になっている。


それでも佐大夫の気分は晴れていなかった。


織田の鉄砲生産力が異常なのだ。


六角に500丁の鉄砲を売ったと伝わってきた。


他にも信濃に大量の鉄砲を送っている。


織田はどれだけの鉄砲を生産しているのか?


雑賀なら5年は製造に掛かってしまう。


他にも尼子も大量の鉄砲を所持し、鉄砲の製造が始まっている。


どちらも根来、雑賀、国友の生産量を凌駕している。


鉄砲の値崩れは見えていた。


そんな折りに織田が堺で傭兵を集めていたので、佐大夫ら雑賀衆も参加した。


その中に津田の坊ちゃんである杉之坊(すぎのぼう) 照算しょうざんの顔もあった。


考えることは同じか!


京に着くと、京の見回りと町の再建を手伝うことになった。


当てが外れた。


貰った銭の分は働かせて貰うが、契約延長はなしだ。


見回りなど、糞面白くもない。


そう思っていると、細川国慶が京に攻め上ってきたと伝わり、京は大騒ぎになった。


管領の(細川)晴元がどう動くのかが見物と思っていると、右近衛大将の近衞 晴嗣(このえ はるつぐ)(後の前久)が全員を集めた。


「すでに聞き及んでおると思うが、細川国慶が京を目指している。目的は不明だ」


不明も何もない。

管領(細川)晴元を討ちにきた以外に考えられるか!

公家というのはのんびりした奴らだ。


「まず、鉄砲が扱えるものは前に出よ」


100人ばかりが前に出た。


「よし、お主らに鉄砲1,000丁を貸し当たる。こちらから右の1,000人に鉄砲の撃ち方を教えよ」

「公家様、あっしらは自前の鉄砲を持っております」

「その意気や良し、褒めてつかわす。然れども、火薬と玉はそれほど多くあるまい」

「その通りでございます」

「ならば、その鉄砲はおいておけ!」


そう言って、近衞卿は残り4,000人を引き連れて、陣地構築の為に出て行った。


そして、山科卿の従者から織田の鉄砲を手渡された。


「間違っても、その鉄砲を持っていかんといてや! 一歩でも敷地から出たら、その首をとばすで!」


その鉄砲は織田の最新型らしく、山科 言継(やましな ときつぐ)卿が織田から預かっているものらしい。


火縄銃よりずっしりと重かった。


筒にはまっすぐな溝が掘られており、玉詰まりを防ぐ為と一目で判る。


だが、この筒に継ぎ目がない。


叩いて丸めたのではなく、最初から丸い筒に穴を空けたとしか思えない構造であった。


留め金を外すと二つに折れて、後ろから玉を入れることができる。


そして、玉は球ではなく、先が尖って、底が平な『織田早合』と呼ばれる弾と火薬が一体のものであった。


「玉ならいくらでもさかい。好きなだけ練習してええで!」


大量の木箱が積まれ、一箱に200発の弾がぎっしりと詰まっていた。


玉詰まり防止の溝があっても筒の掃除を怠ると、鉄砲が暴発するらしい。


従来の掃除より簡単であった。


さらに、火薬を入れる手間が省け、次弾を撃つ時間は半分になる。


これを3人一組交代で撃ち続ける。


「当てようとか、思わんでええで!」


900人はとにかく撃てるようにするのが目的らしい。


そして、残りの100人。


つまり、俺達は(いくさ)が始まれば、馬上の武将のみを撃つように言われた。


山科卿は中々の奸物(かんぶつ)であった。


慣れれば、織田の鉄砲の方が扱い易いとさえ思った。


結局、戦は回避された。


銃弾の中を飛び込んでくる勇気はなかったようだ。


しばらくすると、近衞卿から武者所の鉄砲隊の頭人にならないかと誘いを受けた。


傭兵から正式な仕官を言ってきた訳だ。


杉之坊 照算すぎのぼうしょうざんは断ったみたいだが、俺は受けることにした。


官人になると従七位下・将曹(しょうそう)の位を頂いた。


これは儲けた。


奉行でも官位を持つ者は少ない。


守護・守護代でも高い銭を必要とする。


気前のいいことだ。


根来寺の影響下にある雑賀城の城主でもあるんだがな!


つまり、一向宗だ。


山科卿は構わないと言ってくれた。


当面の間は、この鉄砲隊1,000人の指揮を取ることになる。


山科卿は織田に親しい関係であり、銭も織田が出している。


山科卿に紹介状を頂いて、里も鍛冶師を何人か尾張に送ることにする。


この鉄砲を見たからには後に引けない。


意地でも織田の鉄砲の技術を盗んでやる。


俺はそう心に誓った。


官位の記憶が割と曖昧なことに気づかされます。

京と守護と言えば、衛門府から分離した検非違使(けびいし)ですが、室町中期には誰もつかなくなります。

守護の力が増して形骸化していました。


それ以前にも平安末期は北面武士にとって代わられたり、弾正台って、本来は警察機構だったのに、令外官として検非違使が創設されと権限がなくなっていますが、位は残っていたりします。

これが復帰するのが明治2年、新政府は京都に弾正台を設置します。


衛門府(えもんふ)は、門番って意味ですね。

督・佐・大尉・少尉・大志・少志という位があります。

割りと武家が貰っています。


たとえば、督は従四位下で、中納言・参議が兼任することが多く、また左右兵衛督も付きます。この4人の内、一人が検非違使別当を兼ねるのが慣例であったとありますが、室町中期以降はいません。


本来、武家は付きませんが、平清盛が太政大臣まで上っていますから、室町後期(戦国時代)には復活して、中納言などの地位に武家が付くようになります。


さて、鈴木 佐大夫(すずき さだゆう)の役職をどうするか?


京都所司代は信長が設置した侍所の長官を所司であり、まだ、登場させる訳にはいきません。


佐大夫だから、『大夫』というのもありですが、みやこの司法、行政、警察を行った行政機関、京職きょうしきの1つです。

割りと地位が高かったりします。

(京職は京都所司代の別称でもあります)


大夫(正五位上 → 従四位下) 唐名:京兆尹

亮(従五位下) 唐名:京兆少尹、馮翊少監

大進(従六位下 → 従六位上) 少進(正七位上 → 従六位下) 唐名:京兆司録、馮翊判事

大属(正八位下)      少属(従八位上) 唐名:京兆録事、馮翊記事

坊令(無位 → 少初位下)

坊長


そう考えると、坊令か、坊長が無難なのですが、近衛の下に付く訳ですから近衛府(このえふ)から取った方がいいだろうと考えました。

〇近衛府の官位

大将:左右に各1名(左近衛大将・右近衛大将)

中将:左右に各1~4名。(中将が蔵人頭に補されると「頭中将」と呼ばれる)

少将:左右に各2~4名。四等官の次官スケに相当

将監(しょうげん):左右各1名~10名。四等官の判官ジョウに相当。(「左近大夫さこんのたいふ将監」「右近大夫うこんのたいふ将監」、略して「左近大夫」「右近大夫」など、割と多くの自称に使われている)

将曹(しょうそう):左右各4名~20名。四等官の主典サカンに相当。従七位下の官位、現場指揮官で将監の指揮のもと、配下の人数を直接指揮する。

府生(ふしょう):左右各6名。

番長(ばんちょう):左右各6名。行幸や高官の外出時の警護の際、騎乗を許可され、前駆する。

近衛:各300名。


・公卿への昇進コース(侍従→兵衛佐→近衛少将→近衛中将(少弁・中弁の場合も)→参議 の昇進が典型的)


いざ、鈴木 佐大夫(すずき さだゆう)をどこに付けるのか考え始めると、知識があいまいなことに気づかされます。


近衞 晴嗣(このえ はるつぐ)(後の前久)とかは、史実なので悩む必要もありませんが、府生(ふしょう)番長(ばんちょう)、近衛って、どのくらい偉いの?


どれくらい方が付いていたのか、記録が簡単に見つからないんですよ。


好みは、番長(ばんちょう)です。


でも、鈴木 佐大夫はただの城主ですから番長(ばんちょう)当たりが無難と思うのですが、実際の所はよく判らないのです。


実際、右近衛大将・近衞晴嗣の下には、実働部隊の将監(しょうげん)がいた訳であり、こちらが鈴木佐大夫の上司になります。


上司が何人もいるとややこしくなるので、将曹(しょうそう)にしておこう。


他にも従八位少志も発行していることになっていますしね!


下位の勉強をやり直そう。


今回は本編なし、「舎利寺の戦い」のサイドストーリーだけで終わってしまいました。


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