【閑話】舎利寺の戦い(1)の事。
もう忘れちゃったかもしれないけど、尾張で争乱が起こっている頃に畿内でも大きく情勢が動いていた。
原因は細川晴元よ。
第17代細川京兆家当主、第34代室町幕府管領であった彼は一言でいうなら『その器』でなかった。
塩川政年の妻は細川高国の妹であった事を理由に細川高国派残党と認定し、塩川政年の討伐を命じた。
本当の理由が不明であり、何故、突然に敵方認定されたのか判らないのよ。
昔の恨みを急に思い出したのかな?
(細川)晴元の命令で三好孫次郎(後の長慶)も討伐に参加していた訳だけど、木沢長政が裏切って、塩川政年の援軍に入ったんだ。
これを画策したのが、室町幕府第12代将軍足利義晴の『離間の計』だったのよ。
木沢長政は(細川)晴元の家臣であったが、統治していた摂津を治める為に、幕府(足利義晴)の命に従った訳よ。
幕府の命に従ったけど、(足利)義晴に見放されて敢え無く最後を迎えた。
これを見ていた遊佐長教は、(細川)晴元方でいるといつ滅ぼされるかもしれないと焦った。
その頃、畠山 政国は兄の稙長が死去して、(遊佐)長教は政国を畠山尾州家の当主にするというチャンスが舞い込んできます。
政国を畠山家の当主にした(遊佐)長教は細川氏綱を持ち上げた。
(細川)氏綱は高国の養子だったから、高国派を糾合する旗頭かしら?
(細川)晴元の手腕に不信を持っている人がそれだけ多かった!
そして、(遊佐)長教は将軍(足利)義晴に細川京兆家当主と幕府管領は、(細川)氏綱の方がふさわしいですと持ち掛けた。
これを知った(細川)晴元は三好孫次郎(後の長慶)に堺で兵を集めて、(細川)氏綱を討伐するように命じました。
三好孫次郎(後の長慶)はその命令を受け、堺に到着したのが8月16日です。
ところが、(細川)氏綱方はすばやく行動を移し、細川氏綱・遊佐長教・筒井氏などの軍に堺を包囲されてしまうという失態を演じてしまったのです。
誰のせいかな?
終わってみれば、(細川)晴元は支持者を失い、三好孫次郎(後の長慶)がその支持をすべて糾合しているのよ。
誠実な三好孫次郎(後の長慶)はそんな策謀めいたことはできない。
歴史のイタズラか、誰かの陰謀としか思えないわ。
いずれにしろ、堺で三好孫次郎(後の長慶)は氏綱らにしてやられた。
軍を解散して逃げ帰った。
これで勢いづいた(細川)氏綱方は摂津へと攻め上って、西成郡の大塚城を包囲した。
三宅城(大阪府茨木市)の三宅国村や池田城(大阪府池田市)の池田信正(久宗)が寝返って、三好孫次郎(後の長慶)は大塚城の救援を断念するしかなかった。
この包囲に参加していた細川国慶は氏綱らと分かれて京の制圧に向かった。
9月14日、(細川)国慶は京に到着し、兵のほとんどいない(細川)晴元は京を放棄して丹波国神尾山城(京都府亀岡市)へ逃亡しちゃった。
ここから三好孫次郎(後の長慶)の反撃がはじまり、翌年7月に起きる『舎利寺の戦い』へと続くんだけど、史実とは違うことが起こっていた。
◇◇◇
【 細川国慶 】
西成郡の大塚城が落城した後に、細川国慶らは氏綱らと分かれて京に到着した。
(細川)晴元は京を放棄して丹波国神尾山城(京都府亀岡市)へ逃亡したと報告を受けていたので、無防備な京へ堂々と入京するつもりでいた。
「あれはなんだ?」
錦の御旗が立ち並び、土嚢を積み上げた土塁とずらりと並んだ鉄砲隊が待ち構えていた。
兵の数は5,000人です。
国慶らは借りてきた兵の半分に満たないので勢いに任せて攻め崩したいのだが、そうもいかなかった。
「錦の御旗と思われます」
「そんなことが見れば判る。誰が使っておるのかと言っておる」
「ただちに確かめて参ります」
錦の御旗は朝廷のみが使える旗であり、管領であってもみだり使うことのできない旗です。
そして、問題はもう1つあります。
ひっきりなしに聞こえてくる銃声の音です。
「カッカッカッ、こんなこともあろうかと、織田から借りた鉄砲1000丁、見事役に立ったやろ!」
「山科卿、見事な配慮でございます」
「そやろ、そやろ、300丁を3つに割って撃たせれば、恐ろしくて近づいて来られへん。そろそろ使者が来るんやなかぁ」
酒(焼酎)を運ぶ為に織田から堺まで船団を出しました。
これで織田はお役御免です。
でも、それで終わりにならない。
荷物を安全に京に運ぶ為に堺にいた傭兵を雇って護衛させた。
その数、約5,000人です。
山科 言継がお金を持っている訳もないので、織田が貸したのよ。
傭兵の賃金、食糧一式の代金のすべてを貸して上げました。
酒(焼酎)を売って貰って、その割り当て分から返金して貰いますよ。
織田は畿内に関与する気はないんですからね!
護衛の傭兵らをそのまま京都守護の任に付かせた。
指揮は左近衛大将である一条 兼冬です。
もちろん、現場指揮は少将あたりが取るのが通例なのですが、右近衛大将の近衞 晴嗣(後の前久)が自ら指揮を取った。
流石、後に関白になって越後に下向し、景虎の関東平定を助けるために走り回る実践派の公家さんです。
「晴嗣がここにおりますので、錦の旗も堂々と上げられますわ」
「某がおらずとも上げていたでしょう」
「おらんかったら、ぎょうさんはあげれませへんわ」
「どうだか! 怪しいものだ」
「カッカッカッ」
「ははは」
二人で高笑いをしています。
言継のおっさんは右近衛大将がいることで軍の端から端まで錦の旗を上げています。
その陣の前に土嚢で壁を作り、鉄砲隊を100丁ずつに分けて、かわるがわるに撃たせていました。
練習不足の兵に練習を兼ねて撃たせているとは誰も思いません。
最初は300丁が一斉に火を噴きましたが、その後はタイミングがずれています。
しかし、それが間髪なく鳴り響く銃声となって、相手に恐怖を与えているとは思っていません。
離れて対峙している国慶らの兵は、あの銃声の中に飛び込めと言われて、「はい、判りました」と勇気を持つ兵士がどれほどいるでしょうか?
「しかし、あの土嚢とは、便利じゃのぉ」
「そうや、あれも織田の新兵器やで!」
「ただの布袋なのに、土を入れるだけであのように変わるとかな」
「それを実現する為のスコップが重要なんや」
「確かに、あの素弧不とか申す鉄鍬は凄かった。まさか、一晩で陣地を構築できるとは思わんかった。織田では百姓まで鉄の農具を使うのか?」
「普及させてるところやな!」
「あちらの戦も織田が勝つような気がしてきたわ」
「一晩で倍の敵を制することができるんや。織田なら10倍の敵も凌げるやろな!」
「なるほど」
白旗を持った使者が近づいてきました。
『撃ち方止め!』
国慶の使者がやってきて右近衛大将の近衞晴嗣と面会すると、改めて(細川)国慶と一緒に拝謁し、京の守護の為にやってきた軍と承諾を得て京への入京を許されたのです。
言継のおっさんは国慶らの兵を酒(焼酎)と食い物で懐柔し、(近衞)晴嗣は各武将に京の復興普請を命じます。
兵には、普請の作業費として日割りで100文が支払われました。
織田普請と同じ相場で倍です。
家を襲って奪う『乱取り』より効率的に儲けることができます。
最初の普請が完成すると、1番の奉公者に官位が与えられ、これが武将の功名心を揺らしたのです。
ほらぁ、信長ちゃんも『上総介』って自称していたでしょう。
これが朝廷より正式に官位を貰えるというのは、武士にとっての誉れなのよ。
たとえ、それが少初位下『伊賀目』という最下層の位であっても自称より上です。
(伊賀は下国で、目は国司の第四等官という下の官位)
従八位下の兵衛少志なんて貰えれば、逆さ踊りを始めるくらい浮かれてしまいます。
「朝廷の為に尽くせ」
「はぁ、仰せのままに」
事実上、国慶らの武将が右近衛大将の(近衞)晴嗣に取り込まれていったのです。
一方、(細川)国慶らも公家の接待を受けて上機嫌ですから気づいていません。
実は公家も上機嫌です。
なんと言っても費用がすべて言継のおっさん持ちです。
どんだけ借りるつもりなんだい。
返ってくる当てがあるから、いくらでも貸してあげるけどさ!
公家衆は織田が出していると思っているので、天上知らずに使いまくってくれています。
(細川)国慶らが浮かれるのも当然です。
毎日が酒池肉林、それこそ骨抜き、玉抜き、魂抜きです。
人間、駄目になるは早いですね!