77.変わりゆく尾張と赤鬼の旅立ちの事(1)
私が尾張を旅立ちと宣言したといって、「じゃあ行ってきます」という訳にいかなかった。
色々と関わり過ぎた。
六角を通じて将軍から正式な戦勝祝いの使者が送られてきた。
使者は六角 義賢であり、次期六角の当主だ。
その随行員にお忍びで六角 定頼がくるのはやり過ぎでしょう。護衛が望月出雲守や蒲生 定秀など六角の重臣とか豪華メンバーだよ。
将軍の使者だから信秀も信長ちゃんも焦った焦った。
将軍の使者が帰ると、あのおっさんが帝の使者でやってきたよ。
酒は京の倉に運んだから来るなと言っておいたのにさ!
信秀に従五位上・伊勢守、信長ちゃんに従五位下・美濃守、信広に従五位下・遠江守、信光に従五位下・尾張守、信辰に従六位下・伊勢介が下賜された。
えっ、なんで?
私が従五位上典侍なのよ!
従五位上、信長ちゃんより上ですか。
千代女ちゃんも従五位下掌侍だってさ。
千代女ちゃん、お父さんより偉くなっちゃた!
さりげなく、長門君に従六位上・少監、宗厳様に従六位上・近衛将監、慶次様に従六位下・衛門大尉を送っている。
上澄みの差し金だよね。
でも、私が来て一度だけ献金しただけでそれ以降は何のアプローチもしていませんよ。
あっ、酒があったか!
あれは言継のおっさんが勝手にやったことなんですがね。
苦境に立たされた公家衆を助けた功績のお礼ですか?
そうですか!
返礼に南蛮のガラス一式でも送り返しておこう。
◇◇◇
他にも色々と同盟とか、臣従の話が舞い込んでいる。
滋野望月家に嫁いだ望月 葉紅は、小笠原や木曽など西諏訪の有力者を村上と同条件なら臣従するという言質を取ってきた。
武田の脅威にさらされていたので支援が貰えるなら、多少の問題がある条件でも呑んでくれた。
織田に付けば、将来的に支配権を失うが軍事と農地支援を約束している。
領地を安堵してくれるなら、支配権くらい譲渡していいくらいに追い詰められていた。
武田のプレッシャーに怯えていた訳だ。
真田 幸隆の調略を葉紅が先にやってしまった。
海野一族を敵にしなくて良かったわ!
◇◇◇
北条から同盟と留学を申し込まれた。
織田法を北条で採用するかは以後の課題として、3年間の通商・不可侵条約で手を打ったみたい。
私が3年間の戦を禁じたからね!
これで3年間は通商の自由と互いに戦火を交えないことになる。
織田にとっても、北条にとっても万々歳だ。
信長ちゃんの側室が増えた。
とりあえず、那古野の寺小屋に入れてあるけど、出島のことは知れるようね!
うん、しばらく放置だ。
風魔が今川の滅ぶ前に臣従していた。
ここは想定内と思うとそうでもなかった。
北条の家臣として?
意図が判らないなぁ。
月ちゃんの部下として入れておこう。
◇◇◇
側室と言えば、斉藤家の帰蝶の輿入れの日取りが決まった。
今年12月の吉日になる。
斎藤 義龍が猛反発したそうだ。
終戦協議をする間もなく、一方的に木曽川の南を織田領としたからだ。
利政(後の道三)も最初からそのつもりだったのだが、木曽川がまっすぐな川に改修されれば、驚くしかなかった。
木曽川は稲葉山城の南まで東西に扇状に川がすそ広がりする川であったが、ある日を境に犬山から墨俣まで一直線に伸びる川に変わった。
木曽三川の改修を一夜で終えたのだ。
そりゃ、びっくりするだろう。
江戸初期に尾張の国を囲い込むような木曽三川の改修工事は50kmにも及んだ。
江戸中期には宝暦治水という大改修が行われ、明治20年~45年(1887~1912年)にかけて、木曽三川の完全分流を目指して、明治改修は当時の国家予算の約12%という巨額な予算を投じて河川改修工事を行ったのです。
それと同程度、あるいは、それ以上の大改修を一晩で終わらせれば、利政が驚くのは無理もない。
神掛かっているんだよ。
ただ、義龍が黙認できないのは、木曽川の南に肥沃な大農地が出現したことだ。
河川の氾濫で放置された荒地が、魅力的な農地に生まれ変わった。
あれは元々、美濃の物ではないか!<怒>
斉藤側は文句をいいますが、河川の改修ってどれくらい費用が掛かるのか判っているんですか?
それから木曽川だけでなく、長良川、揖斐川の改修もやってあげましたよ。
さらに、街道と橋を整備して、農地開拓の織田普請をいつでもやれるように段取りも終えた。
川が治まって、道が引かれ、水路を完備して上げたのよ。
美濃の収穫増は明らかだ。
荒地を貰ったくらいで怒るんじゃない。
えっ、20万石はちょっとで済まない。
荒地でしょう。
放置すれば、1石にもならないわよ。
やる気があれば、美濃開墾できる場所も増やしてあげたのよ。
農作地が増やせると感謝してほしいくらいよ。
◇◇◇
河川の改修は三河、遠江、東美濃に及んでいる。
東美濃の遠山 景任は明知城の景行らとの連判状で感謝状を送ってきたわよ。
特に『水上エレベーター』が気に入ったみたいね!
河川と平行して走る水路は農業用水と同時に船の川上りを可能にさせた。
つまり、物資の水上輸送を可能にしたんだ。
下ることは簡単な川も、川を上るのは大変であった。
船に乗せて物資を運ぶなんてことは不可能だった訳よ。
しかし、水路を作り、水上エレベーターを使えば、船は楽に川を遡れる。
東美濃の生活を変えることになると確信している。
もちろん、河川も完璧に改修しているのよ。
平行しているけど、別経路の水路を引いたから耕作地は軽く倍に増えていた。
自分達で開墾してくれればね!
人手を回す余裕がないので、予算を出すから織田普請は自分らでやってくれといってある。
やる気のある手紙が返ってきたよ。
材木も再び、売れるようになっているから懐も温かそうだ。
◇◇◇
そんな中で取り残されているのが駿河の今川であった。
その今川は同盟か、臣従の交渉中だったりする?
鵜殿 長持が今川義元の条件付臣従の手紙を持ってきたが、当の本人が亡くなっているので効力がない。
しかし、信広が義元の遺志を尊重して末森を説得すると約束した。
孫(信光)さんもおおむね了承した。
関東を織田が制圧した時点で今川が臣従するのは、早いか遅いかの違いでしかない。
手がない織田にとって急ぐ必要がなかった。
で、同盟の話を駿河の今川屋敷に持って返った長持が、氏真の叱咤を受ける。
雪斎の命令なので動いている長持が叱咤を受けるのは筋違いなんだけどね!
状況が複雑になっていた。
東遠江の国人や豪族が織田に臣従を申し入れていたのだ。
東遠江の国人や豪族に今川との交渉が終わるまで保留する旨を伝えてある。
その国人や豪族を襲えば、交渉は決裂になる。
反今川の国人や豪族に攻撃できないというのは、氏真の立場を悪くしていた。
義元の仇討ちもできない腰抜け!
氏真が腰抜けと言われますが、あれは嘘だ。
氏真は蹴鞠も上手ですが、同時に塚原 卜伝から剣を習い、足利義輝の兄弟子に当たり、後に研鑽を重ね今川流を興した中々の剣豪です。
遠江・駿河の反乱者を抑えて、今川を治めた手腕は大名として合格点を上げてもいいでしょう。
人望もそれなりに高く、忠義心の薄い戦国期において、放浪記に安部元真・岡部正綱・岡部元信・朝比奈泰朝・由比正純などが付き従ってくれています。
他に仕官すれば、それなりに厚遇されておかしくないメンバーが付き従ったんだよ。
運の悪さだけが際立った戦国武将だった。
もうちょっと評価してあげようよ!
その氏真が苦境に立たされていたのです。
厄介なのが武田です。
武田は駿河・遠江を織田と武田で分割しないかと同盟を申し入れていた。
織田は織田法に従うなら同盟を受け入れるといいましたが、武田(晴信)がどういう返事が返ってきるか見物ですね。
領内で今川を裏切って、織田に臣従を申し出た国人や豪族を成敗できないとなると、氏真は家臣に見限られることになりそうなのです。
その魔の手が武田から伸びていたのです。
家臣の離反を防ぎ、武田の脅威に対抗し、城下町の復興を行う。
敗戦で財政も大赤字です。
手を付けるのも銭がない。
しかし、氏真も今川当主であり、幼いがゆえにまっすぐだった。
氏真も織田に一矢報いらなければ、臣従もできないというのが心情だったのです。
恥も外聞も捨てて織田に降れば、助かるのにね!
雪斎と寿桂尼は頭を抱えていました。