71.笑う武田、悩む真田の事
【 武田 晴信 】
ははは、武田 晴信(後の信玄)は『あづき坂の戦い』の話を聞いて笑った。
あの忌々しい(今川)義元が死んだと聞いたからです。
今川氏親が制定した分国法である『今川仮名目録』は、義元の手で実行され、守護として力を増していました。
特に寄親・寄子は主従関係を明らかにしており、義元を中心とする家臣団が整備されているのです。
武田家は鎌倉時代より続く『合議制』をとっており、国人や豪族のとりまとめ役として守護が存在し、都合の悪い守護は『押し込め』という方向で守護であっても排除されるのです。
つまり、守護も絶対的な権力者ではないのです。
晴信の父である信虎は甲斐を統一するという偉業を成し遂げながら、国人や豪族を納得させるだけの褒美を与えられず、天文10年の駿河に追放されています。
晴信は未だに武田の家臣団を掌握する為に苦心しており、『花倉の乱』より5年で駿河を完全に掌握した義元を忌々しく思っていた。
同盟者としては頼もしいが今川があまり大きくなり過ぎると、武田自身が取り込まれかねない危険性を危惧していたのです。
否ぁ、北条家、今川家が拡大する中、武田家が取り残されることを嫌っていました。
そして、笑える原因が織田と国境を接していないことです。
武田は伊那南部を掌握しておらず、織田と間に干渉帯が残されたことです。
俺は運がいい。
そう思えたのです。
もちろん、三ツ者が新たに東美濃が織田に臣従して織田領になったことを知らせてきた時は驚かされました。
織田の神速に冷や汗がでるのです。
晴信の横には飯富 虎昌と三ツ者の頭領である富田郷左衛門が控えています。
「して、織田はどう動く?」
「郷左衛門」
「判りませぬ。されど、斉藤家、北畠家の力は削がれました。美濃、伊勢、三河、遠江半国の三国半を平定するのではないかと思われます」
晴信は重たい息を吐きました。
尾張・美濃・伊勢・三河・遠江の五国150万石を所領する大大名が誕生するのです。
「遠江の次は駿河か!」
「すでに戦端は開かれております」
駿河湾に現れた織田の南蛮船は駿河の城下町を焼き払ったといいます。
「織田の素っ破はどうであった?」
「腕は判りませぬが、その数は脅威でございます」
「いくらほどか?」
「少なくとも3000以上かと」
一軍に匹敵する数です。
武田家が持つ70人とは雲泥の差でした。
「内山の調略の方はどうである?」
「調略は可能そうですが…………そのぉ!」
「なんだ」
「百姓が赤鬼を信仰しており、統治は難しいかと」
「赤鬼か、これも忌々しい」
大井 貞清は武田の重臣に取り立て、佐久郡の全域を与えると言えば、何とかなりそうでした。
要するに貞清を先頭に立てて、佐久郡を統一すると考えればいいのです。
問題は統一に手を貸しながら、武田の武将に恩賞として佐久郡の土地を与えられないということです。
これではタダ働きです。
「その条件で調略を続けよ。村上が欲を出せば、こちらに転がり込んでくる」
「はぁ」
「それと織田との同盟を探れ!」
「他の者が黙っておりません」
「ふっ、俺に150万石の大大名と喧嘩をしろと?」
「そうとは申しませんが、弱腰と取られかねません」
「好を通じておくだけじゃ。国境を接してからでは遅い。今なら今川、小笠原、木曽を共に挟撃せぬかと誘いが出せる」
「おぉ、なるほど! それならば、皆も納得するでしょう」
合議制とは厄介だ。
皆を説得するだけの力量と弁舌に長けていなければならない。
晴信はそれにかなり長けていた。
しかし、それでも史実の『戸石崩れ』が起こるまで家臣団の方が強かったのです。
戸石崩れが起こり、多くの武将を失い、その補充に山本寛助や真田幸隆など家臣を多く登用し、まだ若い武将を信繁の家臣に組み込むことによって多数派を形成して晴信は大きな力を得たのでした。
これによって信玄堤など工事を本格的に取り組みことになります。
つまり、一時的に弱体することで軍の統制がより強固になったのです。
こっちも『内山崩れ』で同じことが起こっていました。
しかし、まだ3ヶ月しか経っておらず、その傷は癒えていなかったのです。
今川が織田に勝って尾張を手に入れれば、次は甲斐です。
武田は最低でも信濃を完全に掌握していないと、義元に吸収されると恐れていました。
それゆえに、今川が勝たなかったことを心から喜んでいたのです。
実際、三河も掌握していないので恐れる必要もないんですけどね!
でも、晴信は今川・斉藤・北畠の三か国連合が三か国同盟になることを恐れていました。
西に出口を失った今川が次にターゲットにするのはどこでしょうか?
最悪は去ったと心から喜んだのです。
◇◇◇
【 真田 幸隆 】
真田 幸隆は織田がここまで急激に成長するとは露ほども考えていなかった。
断らなければ、今頃は一国一城の主になれていたかもしれません。
同じ時期に織田に仕えた望月千代女という出雲守の娘は100万石の領主に抜擢されたと聞きます。
幸隆、完全な誤算でした。
まぁ、それを知ったのは『内山崩れ』で武将が多く死んだ為に、客将から侍大将に任じられた後でした。
ここで武田を見限るのはあまりに不義理です。
それに晴信は並の守護(大名)ではありません。
この日の本で10本の指に入る名将だと幸隆は認めています。
ただ、城主になるチャンスをふいにしたことを思ってしまうのです。
「兄者はあいかわらず欲が深いのぉ」
「強者を求めてふらふらしておるお前に言われたくないわ」
「まぁ、まぁ、喧嘩は止しましょう。せっかく、美味い酒を手に入ったのですから」
幸隆の元を訪ねて来たのは、尾張に向かう途中の矢沢頼綱と常田 隆永です。
どちらも真田家から養子に出された3男と4男です。
この(矢沢)頼綱など、天文10年5月の海野平の戦いで敗れた後、諏訪氏の斡旋を受けて武田信虎に従ったのです。
そうです。
矢沢家ごと、武田に先に仕えていたのです。
しかし、武田家では甲斐の家老達が幅を利かせ、矢沢家はあまり重宝にされていませんでした。
しかも頼綱を認めてくれた信虎も追放されてなんというのか、面白くなかったのです。
そして、矢沢家を出奔して敵方の村上に仕えていた。
好き勝手に生きていました。
「仕えたといっても、気軽な足軽だからな!」
「兄者なら無礼なことを言わねば、家臣に取り立てて貰えたでしょう」
「ははは、気にいらん奴に頭を下げるのが性に合わん」
弟の(常田)隆永も砥石城で組頭として仕えていました。
「大体、おまえを侍大将にしておらんのが気にくわない」
「手柄がないのですから仕方なりません」
「おまえを使っていたへなちょこの顔を見れば、判るであろう」
砥石城のことをよく知る(常田)隆永を組頭程度に留めているのが無能な証拠です。
「二人とも織田に行くとは思っていなかった」
「赤鬼と勝負してくる」
「当主様が織田を頼ると聞きました」
海野家の当主である海野 棟綱は関東管領山内上杉家を頼り上野国へ逃れたのですが、その山内上杉家が『河越えの戦い』で敗れ、行き場を失ってしまったのです。
望月は(海野)棟綱を探し出し、尾張望月当主の望月千代女ちゃんが織田で引き受けると誘致しました。
銭ですが、10万石待遇です。
織田家に臣従した村上家が人質を差し出すので、その行列に紛れて織田入りする予定だったのですが、2ヶ月近く村上領で留まることになってしまったのです。
元自領で待機というのは奇妙な気分らしいです。
このまま織田が来るまで、ここで待たせて貰いたいと嘆いているそうです。
「織田に忠義を尽くさずして、小県の復権が認めて貰えますか!」
「そうであった。そうであった」
「織田は諏訪の攻略に我らの力を欲しております。村上、小笠原、木曽に支援の手を延ばすのも、諏訪を平定する為です。すでに東美濃を傘下にしたと申します。あまり遅くなると、我らの活躍の場を失い。小県の話も消えてしまいますぞ」
流石に真田の長男である真田 綱吉が叱っていたそうです。
「ははは、兄上も気苦労が絶えないな!」
「望月家が活躍し過ぎておりますからな! 兄上も焦っておられるのでしょう」
「当主様にすれば、どちらが活躍しようとどちらも海野一族という思いがあるからな」
織田は半年も経たずに三国を手に入れました。
年内でも諏訪に侵入してもおかしくありません。
「織田は木曽や小笠原を臣従させるつもりなのか?」
「行ってみないと判らんな」
「そうか!」
「しかし、何故、村上なのだ?」
「さぁ、判らん」
「判りませんね?」
幸隆にはまったく理解できません。
弟たちもよく判りません。
そもそも自分達が優遇される理由も判りません。
判りませんが、これだけ求められれば嫌なハズもありません。
どう考えても自分達を求める為に村上を優遇しているとは辿りつきません。
海野一族は領地も何もない流浪の民です。
求める根拠がないのです。
まぁ、望月家も海野一族ということくらいですが、新参の家臣の為にそこまでするのが理解できません。
そりゃ、そうです。
幸隆が手に入れる海野一族を先に奪う為に、大量の銭で村上の家臣団を恫喝して籠絡させたなど判るハズがありません。
つまり、武田を強くしない為です。
私が武田を極端に嫌っていたという個人的な恨みなんて知るハズもありません。
幸隆は、あの娘(私)を思い出しながら首を捻るのです。
判らん。