66.尾張統一戦、余談の戦いの事(1)
尾張統一戦ファイナル祭り!
統一戦最後まで投稿中、ラスト前。
南蛮船を使った砲艦外交で桑名を攻略した加藤 弥三郎は、調印もせずに出航し、安濃津の湊を目指し、桑名での結末を商人達に告げて態度を明らかにするつもりが、逆にいつから交易を再開できるか聞かれたのです。
「待って、まずは降伏するかどうか?」
「すでに用意しております。安濃津の市座商人と土倉ら一同の誓文でございます」
降伏する所か、織田に臣従して、すべてを織田に捧げますというのですから弥三郎も慌てます。
もう、商人は今日からでも交易を再開して!
その為なら降伏でも臣従でも織田の言われるままにいたします。
その熱気に弥三郎もたじたじです。
とりあえず、普通の物品の交易船は明日からでも再開を許し、詳しいことは後ほど取り決めると言って退散しました。
最後に南蛮船に乗せて欲しいという願いを聞き入れて、大砲の実演を見せてから出航したのです。
大湊の沖で本隊と合流し、練習艦から乗務員をガレオンらに少し移動させて、5艦で船団を組ませて、三河湾の吉田(今橋)城付近へ向かわせるのです。
「藤八、今度は勝手なことをしちゃ駄目だよ」
「はい、判ったのです」
「弥三郎も無理しないでね」
「気をつけます」
船団を送るのは、渥美半島を基盤にする田原城の戸田 康光への威嚇です。
月ちゃんが康光を威嚇していたなんて知らなかったから、藤八と弥三郎には派手に大砲を撃って良しと言ってあった。
渥美半島に住む者にとって南蛮船の大砲ほど厄介なものはありません。
何故って?
渥美半島の幅って5~8kmしかない。
両海岸から大砲で攻撃されると逃げる所がないのよ。
しっかり実感して貰いましょう。
というか、戸田の家臣団も震えあがったらしい。
最後、三河(渥美)湾の最奥にある吉田(今橋)城まで4kmほどあって大砲も届かないんだけど、海岸面に激しく着弾すれば、「わざと外しているんだよ」と見えるから不思議なもんだ。
吉田城の城主である戸田 宣成も肝を冷やした。
今川軍が撤退すると宣成は即座に寝返り、康光と一緒に東三河の攻略に掛かった。
まず、宝飯郡内にある牧野 保成らは、牛窪城から牧野城へと襲い掛かった。
岡崎の(松平)広忠に騙し討ちされて多くの家臣を失い、帰ってくれば戸田に攻められる。
踏んだり蹴ったりですね!
でも、最初に織田に臣従しろと言っているのに、それを断ったのがいけなかった。
康光と宣成は後がないとばかり、必死に戦って滅ぼしてしまった。
上ノ郷城の鵜殿 長持は、戸田に対して織田への臣従の意があるのを見せて、直接に信広に使者を送ることで直接対決を避けました。
遠江宇津山城の朝比奈 泰長は頑なに拒絶した。
浜名湖に造られた城は難攻不落であり、何度か攻撃した後に少しばかりの兵を残して、戸田も兵を引いた。
ここだけに構っている暇がなかった。
しかし、戸田が思っているより懐柔は簡単に進んだのだ。
深夜、遠淡海(浜名湖)に現れた織田南蛮船の砲撃と炎の柱によって、完全にビビってしまった。
(戸田)康光も夜中に海が燃える攻撃に肝をもう一度冷やしていたので、遠淡海に住む豪族の気持ちが手に取るように判った。
織田と争ってはならない。
幸い、今川義元が死んだことで臣従を拒む者は少なかった。
また、遠淡海(浜名湖)周辺の豪族は海運で儲けており、織田と交易することで潤うことを期待していた。
曳馬城に逗留していた今川軍は早朝に織田の船団が東に消えたことに不安を覚えた。
つまり、駿河に向かっていったのだ。
雪斎は遠江を死守するには最低でも1万人以上の兵を残してゆく必要があったが、駿河を心配する兵は浮足立っていた。
どのみち織田との徹底抗戦を考えていない。
雪斎は曳馬城主の飯尾 乗連にくれぐれも今川を裏切らないように言い聞かせて、天竜川を渡っていった。
天竜川の西岸に位置する曳馬城は今川が西遠江に進出する要である。
その価値を十分に評価して貰っているので、(飯尾)乗連は(戸田)康光の誘いを断った。
(戸田)康光は遠淡海衆に協力を求めたが西遠江は立場をはっきりさせていない家が多く、無理をして攻めることを拒絶され、曳馬城を諦めて兵を引くことになったのだ。
しかし、4日後に井伊 直盛と遠江国36人衆らが戻ってくると情勢は一変する。
東三河と遠淡海周辺が織田方に変わっていた。
井伊谷や天竜川西岸の国人は織田と今川の最前線に立たされていたのだ。
武器と食糧の供給を約束してくれた織田と義元なき弱体化した今川を比べて、どちらの先兵でいることが井伊家を残せるかと選択し、織田に臣従する為に三河に走ったのです。
(井伊)直盛が織田に臣従した。
天竜川西岸の遠江国36人衆は(飯尾)乗連に相談にゆきます。
乗連の子である連龍は雪斎に付き従って従軍しており、壮絶な義元の最後を聞いた。
また、信広の鬼神ぶりを伝えたのです。
義元公には悪いと思ったのですが、織田の力が本物であると知った以上、躊躇すればお家の断絶になると判断し、今川を見限って信広の元へ走ったのです。
(飯尾)乗連は(井伊)直盛と共に遠江目付を言い渡されて、大いに鼻が高かったといいます。
私、聞いてないよ!
藤八と弥三郎らは帰って来ないと思ったら、今川拠点である駿河の駿河屋敷のある安倍川まで足を延ばしていたのよ。
帰ってきたら怒っておいた。
結局、三河に岡崎城の(松平)広忠と上ノ郷城の(鵜殿)長持、宇津山城の(朝比奈)泰長が残っただけだ。
奥三河の奥平とかも臣従した。
本證寺の空誓が鬼姫衆を引き連れて、2万人デモ行進の効果だ。
その鬼姫衆って何?
三河一向宗の別称ですか!
そうですか。
とにかく、城を囲んで臣従しろの大合唱だ。
城主は真っ青だ。
でも、乱暴狼藉は一切なし!
世間様に迷惑を掛けてはいけません。
存在自体が迷惑じゃないか!
矢作川西岸と東岸の一向宗が集まって、平和的な威力外交で臣従させまくったらしい。
ちょっと待て!
そのサブタイトルに『竹姫、大好きっ子集まれ大作戦』ってなんだよ!
もうファンクラブのノリだよね!
キャッチフレーズは『清く・正しく・美しく、みんなでご拝顔』だってさ!
その『我が村にも竹姫を』のプラカードは何か違うぞ。
知らない内に『赤鬼衆』とか、『鬼姫衆』とか、『鬼嫁衆』とか、『鬼子衆』とか、『鬼の暇衆』とか、『鬼のいぬ間に衆』とか、なんでも鬼をつければいいってもんじゃないぞ。
まぁ、色々と出来ているけど、三河の衆は本当に大丈夫か?
まぁ、どうでもいいけど!
◇◇◇
岩崎城の丹羽 氏勝を覚えているかな?
三カ国同盟に参加して蜂起した。
寝返った本郷城の丹羽 左馬允と藤枝城の丹羽 堂隠に出陣と掛け声を上げた一秒後に捕えられて収束した。
本家の氏勝の助命が目的の偽装であった。
孫さん(信光)の仕掛けだよ。
犬山城の織田 信清を偽装で寝返らす千代女ちゃんの策を聞いて、思い付いたそうだ。
信秀付きの忍者(千代女ちゃんのお兄さん、杉谷 長盛)に渡りを付けさせて、左馬允と堂隠に連絡した。
岩崎家はお咎めなし!
氏勝は隠居して、子ができれば、その子に家督を継がせるという甘い条件が付いた。
まぁ、元々は信友を蜂起させる餌として使われた可哀想な御仁だからね!
三カ国騒動が終われば、岩崎城の成敗は必定だったから渡りに舟だった。
岩崎城の兵を吸収して、末森軍は沓掛城へ向かった。
沓掛城の近藤 景春は鳴海城の山口教継に唆されて寝返った軽率な城主である。
桶狭間の戦いが起こった頃には、今川が補強した屈強な城になっていましたが、天文15年(1546年)では、粗末な城のままです。
一万を超える兵が取り囲めば、戦うことなく降伏した。
自分は誑かされただけで、織田に背く気などなかったと一生懸命に弁解しますが、景春を捉えて末森に送還します。
首を狩らないだけでも温情?
いいえ、蝦夷や樺太で活躍して貰う為です。
命を助けられ、10倍の領地を与えられて喜んで赴任してくれるでしょう。
北の大地へ!
◇◇◇
鳴海城の山口教継は塩で不満を持つ笠寺を味方に付けて、1,000人の兵を引き連れて熱田の町を襲います。
迎え討つ熱田衆500人のみです。
山口教継は水路が完成していることを知らなかったのです。
水路というと簡単に渡れそうだよね!
水路は水路でも30間(54m)もある。
りっぱな堀だよ。
西側の堀は水運として利用されていたけど、東側は開発が遅れていた。
(半分予想通りだよ。この水路が城の外壁を兼ねているからね!)
水路の両岸が竹林で覆っていたのです。
そして、鎌倉街道の出入り口になる熱田大橋と熱田門しか見ていなかったのよ。
熱田門は高さ2間(3.6m)という何の変哲もない木の門があるだけです。
簡単に落とせると思ったのでしょう。
木造りなのは景観を考えてのことであって、実際は幅1mもある土壁です。
木の門も鉄を挟んでいるので、下手な城門より丈夫だったのです。
指揮を取るのは、長谷川 橋介と山口 飛騨守の両名です。
初手から鉄砲300丁、弓200丁を使った銃・弓撃戦です。
山口教継も外交を信秀から任されるほどの器量があったので馬鹿ではないのでしょうが、考え方が古かったのです。
口上戦と鏑矢に付き合ってあげるとは、(長谷川)橋介も気苦労が絶えないでしょう。
後は一方的な殺戮です。
水路があって門以外から近づけない。
舟を用意しようにも、昨日まであった舟がどこにもない。
鳴海城まで戻らないと手に入らないのです。
前日まであった舟がどこに行ったのか?
考える必要もありません。
正面から突撃すれば、鉄砲の餌食で被害が拡大するばかりです。
すぐに膠着し、お互いに距離を取って睨み合いをしていると、岩崎城が陥落し、信光らが少数の手勢で迂回して鳴海城を狙っていると報告が入ったのです。
これでは熱田どころではありません。
笠寺衆を連れて鳴海城へ戻っていったのです。