9、 夢の国へようこそ
どれくらいの時間が経っただろう。
不意に背中がフワッと軽くなって振り返ると、 小桜が姿勢を正して俯いていた。
「小桜……」
「…………。 」
「大丈夫? 」
「…………。」
沈黙が続き気まずいものの、 どうすればいいか分からない。
ひとまず目の前の冷めた紅茶を入れ替えようと、 カップを手に立ち上がろうとしたら、 横から袖を掴まれ引き戻された。
今持ち上げたばかりのカップをカチャリとローテーブルに戻し、 再びソファーに座りなおす。
小桜が奏多の制服の袖口を掴んで俯いたまま、
「……百田君、 ありがとう。 お陰でなんだかスッキリした」
小さな声でポツリと言った。
「うん……。 俺の背中でもちょっとは役に立った? 」
「うん……。 ごめん、ちょっと汚した」
「ハハッ、 替えがあるから大丈夫。 お役に立てて光栄です」
小桜は尚も俯いたまま動かない。
「小桜? 」
「ごめんなさい……私、 めちゃくちゃ泣いちゃって……」
「うん。 いいんじゃないの? 今までずっと我慢してたんだろ? 泣けて良かったよ」
「でも……ごめんなさい。 ちょっと、なんか……正気に返ると恥ずかしくて……」
小桜の顔が耳まで赤くなっている。
今まで意識していなかった奏多まで釣られて赤くなった。
「あっ、 あのさ。 小桜、 喉が乾かない? とりあえず温かい紅茶を飲んで、それからもっと話そうよ」
袖を掴んでいる小桜の手を、ポン、ポン、と軽く叩いてからそっと引き離し、彼女の膝に下ろす。
ちょっと待っててね……と声を掛けて、リビングの隣にあるキッチンに向かい、 ついでに姉の叶恵が買ってきたであろうクッキーを拝借して皿に盛る。
ーー 話を聞いたものの……。
奏多は、小桜の話を聞いたものの、それで自分に何が出来るのだろうかと改めて考えてみた。
考えても何も浮かばなくて、 結局は未成年である自分の無力さを思い知るだけだった。
「だけど…… 」
小桜が笑顔でいられるよう側にいることは出来る。
こうやって話を聞くことも出来る。
小桜が泣きたくても泣けないときは、何度でもまた背中を貸せばいい。
「うん。 ……よっしゃ! 」
奏多は改めて自分に気合いを入れ直すと、淹れたての紅茶とクッキーをお盆に乗せて、小桜の元へと向かった。
***
「あっ、そうだ。 月曜日に職員室に行ってくるよ」
奏多がクッキーをつまみながら言うと、小桜が「なんで? 」と不思議そうな顔をした。
「なんで……って、 持ち物検査からちょうど1週間だろ? ジョー先生から小桜の本、返してもらってくる」
ああ、そうだった……と小桜は頷いて、奏多を身代わりに差し出したことを改めて謝罪した。
「そんなに面白いの? [恋してハニワ君] 」
何気なく聞いただけなのに、小桜は顔を赤らめて、
「私が少女漫画って、 似合わないとか思ってるでしょ」
と少し拗ねたような顔で責めてくる。
『小桜はどちらかというと純文学だろ? 』
……と実際に思ったことがあるだけにギクリとしたが、奏多は素知らぬ顔をして、
「いや、大抵の女子って少女漫画が好きだろ? 」と誤魔化した。
「っていうか、 俺も読むよ。 少女漫画」
「嘘っ!」
「本当。 姉貴が沢山持ってるから、 小さい時からなんか違和感なく読んでたわ」
「いいなぁ〜、 羨ましい」
胸の前で手を組んで、 夢見る乙女のように遠くを見つめている。
ーー そうか……小桜は家でおおっぴらに漫画を読むことも出来ないんだったな……。
と思い出し、どうにか喜ばせてあげたいと思った。
「小桜、 [恋してハニワ君] があるかどうかは知らないけど、漫画とか小説なら姉貴の部屋に山程あるよ」
「いいなあ〜、 本棚に好きな本をズラッと並べて片っ端から読み耽れたらシアワセだろうな」
「行ってみる? 今から」
「えっ、いいの? 」
言ってから、そう言えば姉貴には事後承諾になっちゃうな……これは説教パターンかな……と不安が一瞬胸をよぎったが、
「やった〜!嬉しい! 」
小桜が少女漫画のヒロインのように目をキラキラさせて喜んでいたので、そんな事はどうでもいいように思えた。
うん。 小桜が笑ってるなら、それでいいや。
***
「うっわ〜〜、何これ、凄い! 」
奏多が磨りガラスの入った木製の引き戸をガラリと開けると、その肩越しに部屋の中を覗き込んだ小桜が感嘆の声をあげた。
6畳の和室の正面と左側に障子の入った窓があり、その窓の下ギリギリの高さで横長の本棚が壁に沿ってぐるりと直角に置かれている。
本棚には作者別にきっちり分類された単行本が並んでいるが、入りきらない分が本棚の上にも横積みされていて、空いたスペースにアニメのキャラクターのフィギュアが窮屈そうに立っている。
右側にある押し入れは襖が全部取り払われていて、そこに本来あるべき布団の代わりに、上の段にはカラーボックス、下の段には衣装ケースがいくつか突っ込まれている。その中身も全部本である。
押入れの左半分が小説、右側が漫画と漫画雑誌で埋められている。
その、大量の本に囲まれた畳の部屋のド真ん中に、長方形の黒塗りの座卓がどんと鎮座しており、周囲に座布団とクッションが無造作に置かれている。
「圧巻だね……」
と言いながら部屋に足を踏み入れた小桜が、座卓の上に広げられた紙を見て驚きの声を上げた。
「漫画! 百田君、お姉さんって漫画家なの?! 」
座卓の上に広げられた紙には、コマ割りされた、明らかに漫画の下書きらしいものが描かれている。
「ああ、漫画家というか、漫画家志望」
「凄い! 」
大学2年生の叶恵は漫画好きの趣味が高じて自分でも漫画を描くようになり、遂にはプロを目指すようになった。
高校で美術部に入って絵の基礎を学び、あとは独学で雑誌の新人賞に応募し続けたところ、今年に入って投稿作品が佳作を受賞し、とうとう担当がついた。
今は担当さんにアドバイスをもらいながら、夢のデビュー目指して奮闘中である。
「実はここ、姉貴の部屋というか、 姉貴の読書部屋兼、 作業部屋なんだよね。 元々は2階の6畳を使ってたんだけど、本が増えすぎて収納出来なくなったから、 何冊かこっちに移したんだ」
「って言うことは、 お姉さんの部屋は別にあるの? 」
「そう。 元々使ってた部屋と、 ここの2部屋独占。 俺なんか狭い4.5畳に押し込まれてるのにさ。 酷いだろ? 」
元々、 2階にある洋間2部屋のうち、 6畳を叶恵、 4.5畳の方を奏多が使っていた。
叶恵の本好きは凄まじく、定期購読の雑誌の他にも、お気に入りの新刊が出ると、漫画、小説問わず躊躇なくどんどん購入していく。
このまま部屋の本が増殖し続けると床が抜けるのではと心配した両親が、1階への引越しを提案した。
叶恵は大喜びでその案を受け入れたが、実際に本を運び込んだら多過ぎてベッドを置くスペースが無くなった。
布団を敷いてみたが、周囲が本だらけで圧迫感があるから眠れないと文句を言う。
『そんなの自業自得だろ。早く6畳の部屋を譲れ」
そう言い放った奏多に向かって、
『あんな本だらけの部屋で寝て、もしも地震が起こったらどうするのよ。 私が本に潰されて圧迫死したら、あなたが責任取ってくれるの?! 』
と逆に詰め寄られた。
どうやってもこの姉には口で敵わないので、奏多は6畳間引っ越し計画を早々に諦めた。
まあ、叶恵がその後もせっせと本を買い続けているせいで、一度はスッキリした彼女の部屋も、既に大量の本で占拠されている。DVDやゲームもあるので雑然として酷い有様だ。
「やっぱり姉貴が6畳から動かなくて正解だったんだろうな」
奏多は苦笑しながら言った。
「それにしても、この部屋は凄い。圧巻だよね」
「まあ、確かにこの本の数は凄いよね。初めて見たら驚くだろうね。っていうか、さっきから2人してずっと、凄い凄いって、そればっか言ってない? 」
「だって本当に凄いんだもの。 夢の国みたい」
「夢の国って、ネズミーランドかよっ」
「私にとってはネズミーランド以上だよ。出来るならここに住みたいくらい」
その時、突然廊下の方から、やけにテンションの高い声がして、部屋中に響き渡った。
ーー「夢の国へようこそ! 」
身体の横で両手を広げ、まるでネズミーランドのキャストかと見紛うような極上の笑みとオーバーアクション。
……奏多の姉、百田叶恵が立っていた。