10、 暗雲
「お母さん、 もしも来週からの期末考査で学年1位をとれてたら、 お母さんに聞いて欲しいことがあるの」
金曜日の朝、 玄関で黒いローファーを履いて立ち上がった凛がそう言うと、 愛は一瞬驚いたような顔をしたが、 すぐに愉快そうな表情に変わって、
「あら、 凛がそういう事を言うなんて珍しいわね。 いいわ、 何か欲しいものでもあるの? 」
と、からかうように聞いてきた。
「うん…… 終わったら聞いて」
「分かった。 結果を楽しみにしてるわね」
とうとう母親に言った。 もう賽は投げられた。 後戻りはしない、 進むだけ。
あとは、 宣言通り1位を取るのみ……。
マンションのエントランスを出ると、 花壇に植えられた夏咲きのグラジオラスが、 黄色や紫の花を見事に咲かせていた。
そのまま視線を上に向けると、 雲ひとつない真っ青な夏空がひろがっている。
ーー うん、 きっと大丈夫。
自分に言い聞かせるように心の中で呟くと、 いつもの道を学校へと向かった。
***
学校の授業が終わって凛が百田家に来ると、 奏多はまだ帰ってきていなかった。
今週は掃除当番だったから、 きっとあと30分以上はかかるだろう。
先に勉強を始めていようか…… でも、 今日は一緒にテスト勉強をする予定だから、 まずは紅茶の準備でもして待っていようか……。
ヤカンを火にかけキャビネットからハニワのマグカップを取り出したところで、 玄関から人の気配がした。
ーー あれっ? 思ってたより帰りが早かったな。 もしかして叶恵さん?
その人がキッチンに入ってきたタイミングで、 「お帰りなさい」と振り返り……
手にしていたマグカップがスルリと滑り落ちた。
「えっ、 小桜さん…… なんでここにいるの? 」
「灯里ちゃん…… どうして? 」
床に落ちた水色のマグカップは、 ガシャンと大きな音を立てて砕け散った。
一瞬なのか数分なのか…… 凛と灯里は驚きの表情で見つめあったまま動くことが出来ず、 その場に立ち尽くしていた。
先に声を発したのは凛の方で、
「灯里ちゃん…… どうして今日ここに? どうやって家に入ってきたの? 」
どうにか口を開くと、 それを聞いた灯里が心外とでも言うように顔を歪めて、 凛のそばまで詰め寄ってきた。
「私の家族はカナくんのお母さんからこの家のことを頼まれてるから。 合鍵がどこにあるかなんて知ってるし、 私はここに出入りする権利があるの。 小桜さんこそ…… なんで勝手に入ってるの? それに…… なんで自分の家みたいにしてるの? 」
「私は…… 」
「やっぱり付き合ってるんだ」
「えっ? 」
「みんなして私を騙してたんだね。 なにがカナちゃんのモデルよ! 私、 見てたんだからね ! このまえ相合い傘で帰るところも! 嘘つき! 」
「それは…… 」
ピーーーーーッとヤカンの音がして、 凛は慌てて調理台の方に駆け込んだ。
火を消しながら必死で考える。
ーー どうしよう? 何て説明すればいい?
正直に言ったとして…… 奏多と叶恵さんに迷惑がかかったら?
ビニール袋を持って戻り、 答えが出ないままのろのろと、 灯里の足元でマグカップのカケラを拾い集める。
「嘘つき。 卑怯者」
頭上から声がして、 思わず指が止まる。
痛っ!……
カップの破片で右手の人差し指がザクリと切れ、 赤い滴がポトリと落ちた。
慌ててティッシュで指を押さえカットバンで処置をする。
「ふ〜ん…… 本当にこの家のこと知り尽くしてるんだ。 一体どれだけここに通ってたんだろうね」
もう嘘はつき通せないと思った。
ここで遭遇した以上、 この現場を見られたからには、 灯里が納得できるように自分で説明するしかない。
そして…… どんなことをしてでも奏多たちを守らなくては……。
「私、 奏多と付き合ってる。 付き合い始めたのはつい最近。 その前は友達で、 奏多と叶恵さんには私の悩みを聞いて助けてもらってた。 嘘をついててごめんなさい」
「金曜日? 」
「えっ? 」
「小桜さんがこの家に来るのは金曜日でしょ? だって私が差し入れを持ってくって言っても、 金曜日だけは絶対に断られるの。 小桜さんに初めて会った時が金曜日、 今日も金曜日…… 」
凛が黙って頷くと、 灯里はキッと眉を吊り上げて唇を噛んだ。
「凄〜い! 自由に出入りして、 まるで通い妻みたいじゃん。 叔母さんこんなことを知ったら絶対に怒っちゃうよ。 カナくん大阪に転校させられちゃうよ、 可哀想! 」
「お願い、 それは…… 」
「いいよ」
「えっ? 」
「黙っててあげる。 だからカナくんと別れて」
耐え切れず窓の外に目をやると、 そこにはさっきまで見えていた青空は消え失せて、 黒くて濃い暗雲が垂れ込めていた。