8、 泣けばいいのに
小桜の話は、彼女が祖母と一緒にマンションで留守番していた10歳の夜まで遡って始まった。
その夜は、義父の尊人が病院の当直、母親の愛は結婚後に始めた茶道の教室で飯後の茶事に出席しており、母方の祖母がマンションに留守番に来てくれていた。
夕食を終えた後、小桜の前にリンゴの乗った皿をコトリと置いて、向かい側に座った祖母がこう聞いてきた。
『凛ちゃん、本当のお父さんの事を知りたくない? 』
ーー 母親がいない時にそう聞かれて、なんだか凄く後ろめたいような怖いような気になってね。
だけど、目の前のおばあちゃんが話したそうにしてるのに、知りたくないって言ってはいけないような気がして……。
単純に興味もあったから、『うん』って頷いたの。
小桜はそう言って話を続けた。
小桜の両親は、彼女が2歳の時に離婚した。
離婚した父親は、ギャンブル好きで仕事が長続きせず、終いには他所に付き合っている女の人もいたらしい。
小桜の母親が看護師でそこそこの収入があったことと、3交代の病棟勤務で夜も家を空ける事が多かったのがいけなかった。
元々、病院の看護師と患者として知り合った父親は、かなりの色男で口の上手い人だった。
それが、遊ぶお金も時間も自由も手にしたものだから、調子に乗ってあっという間に羽目を外してしまったのだ。
別れる前の半年間は、殆ど家には帰らず、愛人の家に入り浸りだったという。
娘の凛のためにと離婚を躊躇っていた母親を説得して別れさせたのは、母親の母親……つまり、小桜の祖母だった。
『私はね、最初に愛があの男を家に連れてきた時から気に入らなかったのよ。あんなろくでもない男とは別れさせて正解だった』
ーー 小桜の祖母はそう言って話を締めくくったそうだ。
「おばあちゃん、本当の父親の話をする間はずっと顔をしかめてたくせに、最後の『あんな男とは別れさせて正解だった』って言う時だけ、何故かすごく嬉しそうで……。『お母さんが再婚出来たのは自分のお陰だ、あんたも今のお父さんで良かったよ』って嬉々として語っててね」
その時の情景を思い浮かべたのか、小桜は一瞬だけ口元を歪めて苦い顔をした。
「だから、これが悲しい話なのか嬉しい話なのか、泣けばいいのか喜べばいいのか、自分がどう反応したら正解なのかが分からなくて、とりあえず黙ってたの。
そしたらおばあちゃんが、『何か聞きたいことはないか?』って言うから…… 」
そこで小桜は、その時祖母に一番聞きたかった質問をした。
『おばあちゃんは、どうして今、私にこの話をしたの?』
すると驚いたような困ったような顔をして、
『だって、凛が父親のことを知りたいだろうと思って……』
と言いながら顔を赤くして、
『あんたは可愛げないね』
という一言を残してダイニングルームから出て行ってしまったそうだ。
「なんなんだよ……それ…… 」
奏多は、思わず漏れ出た声が微かに震えているのが自分でも分かった。
こんなのはただの、大人の自己満足じゃないか……。
元々、小桜には2歳で別れた父親の記憶なんて殆ど無かったし、会いたいとも思っていなかったという。
なのに、望んでもいない実の父親の悪口を、しかも母親のいない隙にこっそり聞かされて、10歳やそこらの少女が困惑しないはずが無い。
父親のことをいずれ知るべきだったとしても、もっと違う伝え方と、然るべきタイミングがあったはずだ。
『どうして今、私にこの話をしたの? 』
小桜がそう聞いて何が悪い。
『母親の留守中』に、『実の父親の悪口』をわざわざ聞かされたんだ。
10歳の少女にだって、何故だと聞く権利があるだろう。
だけど、小桜の祖母がこの質問にちゃんと答えられるはずがない。
だって、『親の離婚によって実の父親と生き別れた可哀想な孫娘に離婚の真相を告げる重大な役割をする自分』に酔っていただけだから。
ドラマでよくある打ち明け話のシーンを再現してみたものの、自分が思っていたようなお涙頂戴の感動的な結果にならなかった。
それを見透かされたようで、卑怯にも小桜を傷つける言葉を投げつけて逃げた。
それだけのことだ。
ーー そんな風に思うのは、俺が捻くれているからだろうか。
もし仮に、俺たちが計り知れない大人の深い考えがあったとしても……そんなのは糞食らえだ。
奏多は、会ったこともない小桜の祖母への憤りが胸の奥から沸々と湧いてくるのを感じた。
けれど、ここで今、自分が声を荒げて怒りを表すのも、悲しげな顔で同情するのも、ましてや明るく励ますのもきっと正解ではないのだろうと思う。
奏多に自分の辛い過去を語りながら、今再び傷ついているであろう小桜を、どうかもうこれ以上傷つけませんように……。
そう願いながら、奏多は努めて冷静に、可能な限り穏やかな口調で小桜に問いかけた。
「小桜、聞いてもいい? 」
「何? 」
「そのことは……お母さんに話したの? 」
「ううん、言えてない。お母さんに内緒で聞いてしまったのが悪いことに思えて、怖くて言えなかった」
「お祖母さんからお母さんに伝えたってことは? 」
「分からない。 でも、その後もお母さんからは何も言われてないから、おばあちゃんも教えてないのかも」
「それじゃあ、お母さんは小桜が離婚の原因を知ってるってことを……」
「気付いてないかも知れない。気付いてたとしても、お母さんからは何も言ってこないから分からない。
今のお義父さんがいるんだから、本当のお父さんのことは知らなくてもいいと思ってるのかも知れないし……私も聞けない」
「でも、それからかな……おばあちゃんともなんとなく気まずくなっちゃった。おばあちゃんはもうあの日の事を忘れたように普通に喋ってくるのよ。 でも、私の方が…… 」
何を言っても『可愛げない』と思われているような気がして、小桜の方が祖母と話す時に緊張してしまうのだという。
奏多は呆然として言葉を失った。
なんなんだ、この家族は。みんなバラバラじゃないか。
どうして小桜はここまで家族に遠慮してるんだ?
どうして小桜がここまで周りの大人に気を遣わなくちゃいけないんだ?
「あのさ、小桜……立ち入った事を聞くけど、お義父さんとは上手くいってるの? 例えばさ、いじめられたりとか、あと、その……暴力とか」
「DVとか? 無い無い、全然! 本当の娘みたいに優しくしてくれてる。 むしろお母さんとかおばあちゃんの方がうるさいくらい」
奏多の懸念が簡単に笑い飛ばされてホッとする。
「お母さんがね、とにかく必死なの。 たぶん元の奥さんに張り合ってるんじゃないかな……」
小桜の母親は、結婚が決まってすぐに病院を退職し、そのまま専業主婦になったという。
同じ病院の医師と不倫の末の略奪婚だ。 確かにそのまま病院に残るのは難しかっただろう。
一方、元妻の実家は医者一族。息子も医者になるのが既定路線。
「お母さんね、再婚してから次々と習い事を始めてね。茶道と書道と着付け……かな。 あと、お義父さんが朝はパン派だから、3回コースのパン焼き教室にも行ってた。エステにも通っちゃって、すごく必死なの。
おまけに向こうの息子さんの誕生日にはプレゼントまで贈ったりしてるのよ。
元奥さんからしたら、ありがた迷惑に決まってるのにね。なんか馬鹿らしいでしょ」
小桜の言葉が徐々に辛辣になっていく。
話しているうちに、母親への批判や反感の気持ちが蘇ってきたのだろう。
母親や祖母が理想の家庭を作ろうと必死になり、その手段の一つとして、小桜を『理想の良い子』に縛り付けている。
その縛りは小桜の生活態度や交友関係だけでなく、彼女の将来にまで及んでいる……。
奏多は、自分の知っている『家族』の姿と小桜のそれがあまりにも掛け離れていることに愕然とした。
小桜が見ている世界は、奏多が計り知ることの出来ない深い孤独や悲しみで溢れている。
一人でずっと耐えてきた小桜のことを思うと胸が痛み、切なくなった。
同時に、その苦しみを共有出来ないもどかしさで一杯になる。
「本当だ…… 馬鹿らしい。 みんな馬鹿野郎だ」
思わずそう吐き捨てた。
***
さっきまでうっすらと橙色だった空が、気付くともう、茜色と薄紫と濃紺が綺麗なグラデーションを描いた『日暮れ前』のそれになっていた。
ふと壁の時計を見ると、時刻は午後5時12分を指している。
とすると、2人は既に1時間近くもここで話をしていたということになる。
「小桜……これを聞いたらお前が不快になるかもしれないけど……言わせてもらうよ」
ふ〜〜〜っ……。
奏多は大きく息を吸い込んでから一気にまくし立てた。
「……っざけるな! なんなんだよ、それ! 勝手に離婚して勝手に再婚して、勝手に誰かと張り合ってんじゃねえ!
孫を自分の自己満足に使うんじゃねえ!
そんなことに小桜を巻き込むな!
小桜の人生は小桜のもんなんだ! 馬鹿野郎〜〜っ! 」
言ってしまった……。
勢いに任せて小桜の家族の悪口を言ってしまった……。
間違ったことを言ったとは思っていない。これは俺の本心だ。いや、でも、言い過ぎた……かも知れない。
ーー もしかして、また傷付けたか?
横目でちらりと小桜の顔色を伺うと、奏多がいろいろ考えているのを尻目に彼女がクスクス笑い出した。
「意外! 百田君でもそんな言葉遣いするんだね」
そんな風に明るく言うものだから、なんだか毒気を抜かれてしまう。
「なんだよ……本来ならここは小桜が怒って俺が慰めるターンだろ? なんで俺だけ一人で熱くなってる感じになってるの? 」
「だって、私が話してる最中から百田君の顔が段々と鬼の形相になってくんだもん。私が怒るタイミング失っちゃったよ」
まだクスクス笑いを続けている。
「えっ?!俺ってそんなに顔に出てた? 」
「出てた、出てた。感情ダダ漏れって感じ」
「え〜っ、俺的にはクールに聞き役に徹してたつもりなんだけど……」
「なんか……一人で熱くなって、かっこ悪いな、俺」
「ううん、かっこいいよ。……それに、凄く嬉しかった。 私の気持ちを代わりに言ってくれたんだよね」
ーー うん。 本当に嬉しかった。 百田君に聞いてもらえて良かった。ありがとう……。
そう言う声が微かに震え出し、そのまま小桜が黙りこくった。
あっ、泣く!
一瞬そう思ったが、小桜は泣かなかった。
瞳の縁のギリギリ一杯に水の粒を張り付かせて、
何度も何度も瞬きしては、唇をぐっと噛んで……。
それでも必死に笑顔を見せようとしていた。
小刻みに震える頬が痛々しい。
奏多はそれを見て、いつしか自分の肩も震えている事に気付いた。
喉元から込み上げてきた熱が、目尻まで熱くして、視界を滲ませた。
溢れる感情の波に耐えきれず、右手で目元をグイッと拭うと、奏多は小桜の頭を抱え込み、強く自分の胸に押し付けた。
「泣けばいいのに……小桜はもう我慢なんかしなくていいんだよ」
「百田君……だから、また、距離感っ……」
「今だけだから、我慢しとけよ」
「だって……我慢なんかしなくていいって、さっき言った」
「そんじゃ、我慢せずに泣いとけよ」
奏多は一旦小桜の身体を離すと、彼女にクルッと自分の背中を向けて、
「胸が嫌なら俺の背中で我慢しとけ。 それで、もう何も我慢せずにココで思いっきり泣け! 」
顔だけ振り返りながら自分の背中を指差して大声で言った。
その直後、
「ワーーーーーーーーッ」
奏多が背中に重みと熱を感じると同時に、小桜の大きな泣き声が聞こえて来た。
絶叫に近いその声は、幼いあの日の小桜が口に出せなかった心の叫びだ。
徐々に湿り気を帯びて拡がっていく背中の熱を感じながら、奏多はただただ黙ってその声を聞いていた。