7、2人きりの放課後
百田家の最寄駅である観音駅は、学校のある鶴橋駅から乗り換えなしで5駅先にある小さな駅だ。
その名の通り、有名な観音像を祀る寺院が近くに建立されており、寺院の側にある同じ名前の商店街には沢山の店が連なっていて、平日でもなかなかの賑わいを見せている。
金曜日の今日は、その観音駅の西口で奏多が小桜と待ち合わせる事になっていた。
奏多は早々に掃除当番をクラスメイトに頼み込み、軽く家の片付けなどもして、準備万端でこの日を迎えた。
先に行って待っているつもりで、帰りのHR終了後に奏多が急いで立ち上がると、小桜も同じ事を思っていたのか、素早くカバンを手に取って小走りで教室を出て行った。
奏多が後を追うように廊下に出ると、既に小桜の背中は遥か先で小さくなっている。
「うわっ、あいつ足めちゃくちゃ早いな」
妙なところに感心しながら、奏多は遅れを取るまいと足を速めた。
下駄箱でようやく小桜に追いついた奏多が口を開こうとすると、
「百田君、さ、よ、う、な、ら」
『さようなら』を妙に強調してキッパリ挨拶され、自分と一緒にいるところを見られたくないのだと気付いた。
ーー クラスメイトが一緒にいたって別に構わないだろうに……。
不本意だが、小桜がそれを良しとしないのなら仕方がない。
奏多は探偵さながらに小桜からきっちり15メートル程の間隔を空けて、遠く彼女の背中を眺めながら駅へと歩いた。
急いで教室を飛び出してきたからか、駅のホームには見知ったクラスメイトの顔が1人も見当たらない。
奏多が安心して小桜の隣に並ぶと、彼女は小声で「隣に立たない!」とシッシッと追い払う仕草をする。
「大丈夫だよ。同じクラスの奴はまだ来てない」
「駄目。 クラスメイトがいなくても、近所の人とか知ってる人がいるかも知れないでしょ」
「この前は図書館から一緒に帰ったのに」
「あっ……あの日は持ち物検査とかいろいろあって動揺してたの! とにかく離れてて! 」
小桜の徹底した秘密主義に舌を巻く。
これ以上怒らせたくはないので、それ以上は反論せず、隣の車両に乗る列に黙って移動した。
ーー そうか……小桜も動揺してたんだ……。
横目で小桜の方を覗き見ながら、月曜日のことを思い出して少し照れ臭くなる。
先週席が隣になって、月曜日に図書館で喋って、今日は一緒に家に行く……。
たった数日のことなのに、驚くほど一気に距離が近くなった気がする。
今まで小桜には、落ち着いていて物静かなイメージを持っていたけれど、それは素の自分を見せないようにしていただけなんだろうか。
今みたいに感情を出した方がみんなも近付きやすいのに……。
学校でもポツリと一人で行動していることが多い小桜の姿を思い浮かべる。
駅に入ってきた電車がゆっくり止まって扉が開いた。
隣の車両に乗り込んでいく小桜の姿を見届けてから、奏多も目の前の乗車口に足を踏み入れた。
***
観音駅で扉が開くと、一斉に多くの乗客が降りて行き、殆どが寺院のある東口の方へと流れて行った。
ホームに降りた奏多が電車の方を見やると、少し遅れて小桜も出てくるのが見えた。
お互いに黙って視線を交わし、奏多が西口の方を指差すと、小桜がコックリ頷いた。
そのまま奏多が歩き出し、少し遅れて小桜も付いてきた。
流石にここまで来たら並んで歩いても良さそうな気がするが、どうせまた小桜が嫌がるだろうと思い、何も言わずにそのまま家に向かう。
後ろから付いてくる小桜の事を考えて、いつもよりややスピードを落としてゆっくり歩くよう心掛けた。
それでも心配になり途中で何度か振り返ったが、彼女は一定の距離を空けながらも、迷わずちゃんと付いてきていた。
下町の風情をうっすら残す古い住宅街に入り、電信柱のある角を右に曲がる。
そこから細い路地に入ってすぐにある2階建の木造住宅の前で奏多は立ち止まった。
「ここが俺の家」
カバンから鍵を取り出して、玄関ドアの鍵穴に差し込みガチャリと回す。
アルミ製の引き戸をガラリと開けて、
「どうぞお入りください」
奏多はわざとおどけてそう言い、恭しく小桜を玄関に迎え入れた。
昨夜のうちに納戸から引っ張り出してきた新品のスリッパを玄関の上がり框に並べていると、
「今日は御家族は留守にしているの? 」
人気の無い暗い廊下を眺めて小桜が尋ねてきた。
「ああ、そのうちに姉貴が帰ってくると思うけど、基本的に俺は鍵っ子だから」
「御両親はお仕事? 」
「親はいないんだ」
「えっ?……あっ、ごめんなさい……」
マズいことを聞いたと言うように表情を暗くした小桜を見て、
「えっ?……あっ、違う違う! うちの親、ちゃんと生きてる! 」
奏多は慌てて訂正した。
「うちの父親が大阪に転勤になって、母親も一緒に付いて行ったんだ」
今年の4月、銀行員である父親が大阪に転勤することになり、百田家ではすぐに家族会議が開かれた。
長女の叶恵は自宅から地元の大学に通っているし、奏多もせっかくの中高一貫校から転校したくない。
それでは単身赴任か……となった時、母親の晴恵が『お父さんは1人で何も出来ない人だから私も付いていく』と言い出した。
叶恵も奏多も自分の事は自分で出来る年齢だし、
幸いにも隣町には母方の叔母一家が住んでいるので、ちょくちょく様子を見に来てくれると言う。何かあれば助けを求める事も出来る。
たぶん2〜3年で戻れるだろうし、月に何度かの週末には母親だけでも大阪から帰って来る。その間、姉弟だけで留守番をさせても大丈夫だろう……という事で、3月末から姉と2人暮らしをしているのだった。
「……という訳で、姉貴が帰って来るまでは俺と2人きりだから、誰の目も気にせずゆっくり話せると思うんだ」
「遠慮せず上がってよ……」
と明るく言った奏多とは反対に、小桜の表情が今ひとつ優れない。
そして玄関に立ったまま靴も脱ごうとしない。
「………… 小桜? 」
「…………んっ? あっ、ありがとう。お邪魔します」
ようやく靴を脱いで揃えると、奏多についてリビングへと向かう。
「そこに座って待っててくれる? 飲み物は紅茶? コーヒー? 」
奏多は小桜にソファーを勧めると、自分はお茶を淹れにキッチンに向かった。
ーー なんだか、小桜が変だ。
玄関に入ってから明らかに様子がおかしいのだが、その理由が分からない。
これから話す内容が深刻過ぎて緊張しているのだろうかと身構えながら、まずは小桜をリラックスさせねばと、奏多は殊更明るい笑顔を作ってリビングに戻った。
「お待たせ。 小桜は紅茶に砂糖を入れる派? 俺の姉貴は体にいいからってハチミツとジンジャーを入れるんだけど……」
ローテーブルにカチャンとティーカップが置かれた音で、小桜がハッと顔を上げた。
だが奏多と目が合うと、ふっと逸らして下を向く。
「小桜……やっぱり何か変だ」
奏多は小桜の右肩にそっと左手を置き、そのまま顔を覗き込んで声を掛けた。
「どうしたの? 俺がまた何か気に触る事した? それとも体調が悪いんだったらまた他の日にしても…… 」
「ーー だから、百田君のそういうトコ! 」
最後まで言い終わらないうちに小桜が大声を出したので、奏多は一瞬肩をビクッとさせ、驚いて小桜から手を離し1歩退いた。
「ごっ……ごめん」
「違うの! 百田君は悪くないし、私の体調も悪くない! ないけどっ! 」
……と言って、しばらく黙り込んだ後で、小桜は意を決したように口を開いた。
「百田君はなんだか距離感が近過ぎる! 」
「すぐに握手してくるし、周りを気にせず平気でハイタッチとかしてくる。ハイタッチなんて私のキャラじゃないのに。恥ずかしい! 」
「この前の図書館だって向かい側に座って私の顔をマジマジと見てたでしょ。恥ずかし過ぎる! 」
「急に手を掴んでくるとか、肩を掴むとか抱き寄せるとか、そんな少女漫画みたいなことナチュラルにしないで欲しい。本当に恥ずかしいから! 」
「それに今日! 男子と2人きりだなんて緊張するに決まってるでしょ! 頑張って平静装ってたのに、 肩を掴んで顔を覗き込むってどういうこと? 」
「そっちはお姉さんがいるしクラスで女子にモテまくりだから慣れてるのかも知れないけど、こっちは素人なの。初心者なの! 動揺するなって言う方が無理でしょ! 」
「こういうの本当〜に恥ずかしいからやめて欲しい! 」
そう一気に捲し立て、肩でハアハアと息をする。
最後に、
「だから……百田君は悪くない。こっちの経験値の問題……ごめん」
最後の『ごめん』だけ何故か消え入りそうな声で言うと、ハア〜ッと大きく溜息をついた。
そしてソファーに置いてあったクッションを膝に乗せ、そのままそこにボスッと顔を伏せた。
「小桜、ごめん……俺…… 」
奏多は彼女の肩に手を置こうとして、あっ、駄目だと直前で引っ込めた。
行き場のなくなった右手でそのまま後頭部をガシガシと掻く。
「ごめん。 俺が無神経だった。俺の周りって女子率が高いっていうか、姉貴とか姉貴の友達とか従姉妹とか……とにかく女子と接する機会が多くてさ。 小さい頃から手を繋いだり背負わされたりプロレス技かけられたりって普通だったから、それが変だって気付かなかったわ」
「……だから、百田君は悪くないって!……っ」
ガバッと顔を上げて奏多と目が合うと、ふいっと顔を逸らして、
「図書館で黙って見てたのも、 私が本を読むのを邪魔しないよう待っててくれたんだよね。
分かってるの、 百田君には悪気が無いって。
とにかく…… 私が勝手に動揺してるだけだから、もうこれ以上その件は謝らないで下さい」
また膝上のクッションに顔を伏せてボソボソ呟いた。
俯いて流れた髪の間から覗く首筋が、恥ずかしさからか見事なピンク色に染まっていた。
素が色白なだけに余計に目立つ。
「小桜ってさ……もしかしたら、こっちの方が素だよね? 」
「…………。」
「そのままでいいから聞いててよ。小桜ってさ……学校と外じゃ全然違うよね。 もしかして普段は自分を作ってる? 」
「…………。 」
「学校ではもっと冷静っていうか、あまり感情を表に出さないだろ? それってわざと見せないようにしてるの? どうして? 」
「どうしてって…… ! 」
ようやく上体を起こしてこちらを見た。
「だって小桜、そうやって焦ったり照れてると可愛いのに、勿体無いよ」
「えっ?」
「学校でもそういう顔、もっと見せればいいのに。 なんで隠すの? 」
「……だから、そういう所! 」
心外だ。また叱られた。
「なんでそういう少女漫画のヒーローみたいな台詞をサラッと言っちゃうわけ?
だから天然たらしって言われるの! 」
「たらし?! あ〜っ、マジかっ! もしかして小桜、この前の朝の会話を聞いてた?! 」
「うん……スーパーナチュラルたらし? 」
「うっわ! 俺は天然たらし違うし! それ英語にしても駄目だから!うっわ〜、小桜にまで言われたよ。ショックー! 」
「あと、これも知ってる。 むっつり眼鏡」
「うわっ、むっつり眼鏡言われた! やっぱり聞かれてたんじゃん! くっそ〜っ、一馬のせいだ! あいつ今度絶対にシメる! 俺は眼鏡だけど、むっつりじゃねえ! 」
そう言いながら奏多が右手で顔を覆って大袈裟に嘆くので、小桜は大声を出して笑いだした。
それを見て奏多も笑いだし、お互いの顔を見合わせて、今度はもっと大笑いした。
そしてひとしきりお腹を抱えて笑い終わると、小桜が姿勢を正し、「ここに座って」とソファーの自分の隣をポンポンと叩いた。
「ちょっと長くなっちゃうと思うんだけど、聞いてくれる? 」
奏多を見上げる小桜の瞳に暗い陰を見つけ、奏多はこれから聞く話が決して楽しいものでは無いことを確信した。
奏多は小桜の目を真っ直ぐ見つめながら頷き、ソファーに座り、ゆっくり小桜に向き直る。
「話して、小桜」
窓の外には夕方の訪れを告げるオレンジ色の空が広がっていた。