5、 天国から地獄へ
「はい、 コーヒー」
「ありがとう」
奏多から缶入りの微糖コーヒーを受け取ると、 凛はそれを右頬に当てて、 ほっと息をついた。
「寒い? 」
「ん……ちょっと。 だけどコーヒーが暖かいから大丈夫」
「うちに来る? 」
「それは…… やめておく。 ルールを破りたくないし」
「…… だよな」
春とはいえ、 4月中旬はまだ肌寒い日も多く、 少し裏通りに入った公園の日陰のベンチは、 長居するには適していなかった。
ーー 家に連れて帰りたいな……。
飲み物を買ってくると自販機に向かったときには、 既に家に誘ってみようと決めていた。
本当は内心ドキドキしていたくせに、 まるでほんのついでみたいに、 冗談めかして家に誘った。
速攻で却下されてショックなくせに、 平気なフリしてあっさり引いた。
ここでグイグイ押せないヘタレな自分が情けないとは思うけれど、 彼女の気持ちを尊重したい気持ちも本当だ。
ーー 凛は平気なのかな……。
凛はRルールにこだわっているけれど、 2人が付き合い始めた時点で反故にしてもいいんじゃないか…… と、 正直、 奏多は思っている。
ルールの9条と10条は削除されたものの、 金曜日にしか来てはダメだとか、 6時半には家に帰すとか、 邪魔くさい取り決めはまだ残っている。
本音を言えば、 凛と思いが通じた時点で、 奏多の脳内は最低限の生理的欲求…… 食欲や睡眠、 トイレ以外の99.9パーセントが凛で占められていると言っても過言ではない。
見かけはマジメなメガネ男子であっても、 一応は健康な男子高校生である。 会いたい、 喋りたい、 抱きしめたい、 触れたい…… もっと一緒にいたい。
そう思うのは仕方ないし、 自然なことだけど、 昨日から自分ばかりが浮かれて暴走している気がして、 自重すべきなのかと心の中で葛藤している奏多なのである。
ーー だけど、 そうやってグズグズしてると、 また樹先輩や昨日の大和みたいのが寄ってきちゃうんだよな、 うちの彼女は。
隣でまだ缶コーヒーを頬に当てて暖を取っている、 出来立てホヤホヤの可愛い恋人を見つめる。
缶の熱のせいか、 頬がほんのり赤みがかっていつもよりあどけなく見える。 まだうっすら残る左頬のアザの痛々しさも相まって、 無性に庇護欲を掻き立てられる。
ーー くっそ! めちゃくちゃ可愛いな!
そんな気持ちを誤魔化すように、 彼女の手から缶を奪ってプルタブを引き起こして渡す。
「暖かいうちにそれ飲んであたたまりなよ。 それから…… あの子、 大和のこと、 聞いてもいい? 」
両手で持った微糖コーヒーを一口コクリと飲んでから、 凛がゆっくり頷いた。
***
昨日、 奏多に見送られてマンションに帰った凛は、 居間で電話が鳴っているのに気付き、 慌てて受話器を取った。
「はい、 小桜です」
「…………。 」
「もしもし? 」
「小桜…… 凛さん? 」
「はい」
「…………。 」
受話器の向こうから聞こえてきたのは若い男性の声だった。
聞き覚えがないうえに沈黙が多い。
こういうことは過去にも何度かあった。 凛が出たときにこういう反応をするのは、 大抵が交際の申し込みか興味本位、 または怪しいイタズラ電話と決まっている。
またかと思って受話器を下ろそうとした時、 再び相手の声がした。
「俺…… 僕は、 原田大和です。 会って話せませんか」
最初はその名を聞いてもピンと来なかった。
だがその直後、 凛の記憶に引っ掛かるものがあった。
『原田大和』……。
義父の…… 尊人の息子の名前だ。
***
「…… それで、 のこのこ会いに行っちゃったんだ」
「のこのこって…… なんか棘がある言い方」
責めるような奏多の物言いに凛が軽く口を尖らせてムッとしているが、 奏多としても、 これくらいは言わせて欲しい。
何があったかは知らないが、 結果的に『ファミレスの前で手を掴んで引き止める』なんて、 まるでドラマの撮影かと思うようなシーンを見せられたのだから。
ついでに言うと、 あの時周りの人からは、 絶対に凛と大和が恋人同士に見えていたと思う。
さしずめ奏多は喧嘩の仲裁に入った友人Aか、横恋慕してる当て馬キャラだ。
思い出しただけで苦々しい。
「どうやって凛の家の電話番号を知ったの? 」
「母からの贈り物の配達伝票。 誕生日とか、 入学祝い…… とか」
「ストーカーかよ。 それで、 彼の用事は何だったの? 樹先輩を知ってたよね。 先輩絡みなの? 」
「それが…… 知り合いになりたいから紹介してくれって、 会わせて欲しいって。 私のことを先輩の彼女だと思ってたみたい」
ーー やっぱりそうだ。
これであの時大和が言っていた言葉と繋がった。
『ハア? 何言ってんの? あんたの彼氏は樹先輩だろ? 』
ついでに、 『樹先輩の方がお似合いじゃん』という捨てゼリフまで思い出して、 またしても苦いものが込み上げてくる。
「もう放っておきなよ。 なんかタチ悪そうだし、 樹先輩の彼女じゃないって分かればもう諦めるだろうし」
「…… 違うの。 樹先輩のことだけじゃなくて…… うちの母のことも関わってるの。 それがあったから私も会いに行ったの。 それに彼…… 志望してた中学の受験に失敗してる。 今は滝中の2年生。 私たちの後輩なの」
「だから私、 もう一度ちゃんと話を聞いてみようと思って…… 」
ーーはあ? どういうことですか?
どうやら、 家に誘うとか浮かれたことを考えていた自分に罰があたったみたいです。