5、マーメイドブルーの憧憬
「お母さん、ただいま」
凛は台所で夕食の準備をしている母の背中に向かって声を掛けた。
「お帰りなさい」
凛の母親である小桜愛は、右手にお玉、左手に味見用の小皿を持ったまま振り返り、凛のことを上から下までチロリと見てから、
「今日は遅かったのね」
と訝しげな顔で言った。
図書館で調べ物をしたついでに宿題も済ませてきたから……と言う凛に、
「遅くなる時はちゃんと電話してね。 何かあったら大変だから」
それだけ言うと、愛はまた料理に意識を戻した。
ーー 『何かあったら』っていうのは、『事故や怪我』を指しているのか、『問題ごと』を指しているのか……どっちなの?お母さん。
そんな風に考える自分が嫌だと思う。
「ああ、嫌だ…… 」
凛は自室へと向かう階段を上がりながら小さく溜息をついた。
部屋で制服から部屋着に着替えると、ベッドにトスッと座って部屋を見渡す。
白い壁に大きめの窓。 淡いピンク色のカーテンと、お揃いのカーペット。 白で統一されたアンティーク調の机やチェストも全て、母の好みで買い揃えたもので、引っ越してきた当時のそのままだ。
いや、正確には、母が夫となった小桜尊人の好みに合わせて選んだ……と言う方が正しいかもしれない。
凛が母親の愛と共にこのメゾネットタイプの高級マンションに移り住んだのは、8年前、愛が30歳、凛が6歳の時だった。
不倫の末に妻子と別れ、愛との再婚を選んだ尊人が最初にした事は、新しい家族のために新居を整える事だった。
当時の尊人は37歳。 今は胸部外科部長となっているが、当時は一介の医員。
中核病院で働いていたとは言え、離婚した妻子への慰謝料を払いながら新たにマンションも購入となると、金銭的に相当な負担であっただろうというのは、中学生の凛にも想像が出来る。
それでもそんな負担を感じさせないくらい、尊人は愛にも凛にも出費を惜しまず、恵まれた環境と愛情を与えてくれた。
凛はこの義父を尊敬しているし、感謝している。
だけど……と、凛は、引っ越しが決まった時のことを思い出す。
3人で凛の部屋に置く家具を選びに行った家具専門店。
テーマ毎に、本当の部屋のように展示されたいくつかの子ども用家具セットの中で、水色で統一されたコーナーに凛の目は釘付けになった。
机と椅子、チェストと本棚の4点セット。別売りのカーテンやベッドシーツも同じ色で統一されている。
それは淡い水色と薄緑の中間色で、お店の販売員のお姉さんが、『これはマーメイドブルーっていう色なのよ』と教えてくれた。
本当にマーメイドが住んでる海の中みたい……。
その『マーメイドブルー』という魅力的な名称と、普通の青や水色とは違う不思議な色合いが気に入った。
側に来た愛から、「凛、これが気に入ったの? 」と聞かれて、コクリと頷いた。
「ちょっと見てごらん、こっちにもいろいろあるよ」
その時、尊人が少し離れた高級家具コーナーから2人を呼んだ。
「子供用はどうにも安っぽく見えるね。 どうせ買うなら長く使えるものが良いだろう」
そう言って、そこにあった白いアンティーク調の家具セットの前で立ち止まり、
「これなんかは造りが良さそうだし、凛ちゃんの部屋にいいんじゃないかな? 僕は女の子の好みが良く分からないんだけど、どう? 」
と、横に立った愛に意見を求めた。
「あら、素敵じゃない。 そうね、どうせなら大きくなっても使えるものがいいし……。 凛、これでどう? 」
凛は黙って頷いた。
その頃はまだ尊人を『お義父さん』とは呼べず、『おじさん』と呼んでいた。
だけど、その『おじさん』がこれから父親になることも、この高級家具セットの支払いをする人だということも分かっていた。
ーー 本当はあの、マーメイドブルーが欲しいの。
その一言が口に出せなかった。
本当は母親に代わりに言って欲しかった。
お母さん、私があのブルーの家具を気に入ってたって知ってるのに。
どうして何も言ってくれないの?
もう私の味方にはなってくれないの?
凛は心から落胆した。
新しいお部屋でお姫様みたいな素敵な家具に囲まれて暮らすという、胸の中で膨らんでいたワクワク感がシュッと萎んで無くなった。
義父と母が選んでくれた家具は、とても綺麗で立派なものだった。値段も桁違いだ。
確かにこれを飾ればお姫様の部屋のようになるだろう。
だけど、凛が欲しかったのは、あの展示にあったような、深い海の中みたいな部屋だった。
同じお姫様でも、人魚姫になりたかった。
ーー 今でも目を瞑ると、あの時の美しいマーメイドブルーが蘇る。
「凛、ご飯にするわよ、降りてらっしゃい」
階下から母親の声が呼んだ。
「はい! 今行く」
凛はもう一度息を吐いてから立ち上がった。
***
6人用の大きなダイニングテーブルの左端。
ベランダ寄りのその席に向かい合って座るのが、愛と凛の食事時の定位置だ。
尊人がいれば愛の右側に座るのだが、3人で食事をする機会は滅多にない。
胸部外科部長の尊人は多忙である。
外来診察に病棟回診、カンファレンスに研修医の指導。
手術になれば夜中まで掛かるのはザラだし、その後の経過観察で明け方まで手が離せず、宿直室で仮眠をとって、そのまま朝の診察に突入というのも珍しくない。
ーー 今日は不機嫌だな。
凛は、黙々とパンをちぎり口に運ぶ愛を見て、そう思った。
今日の夕食は尊人の好物のビーフシチューだ。
白パンとカンパーニュ、バゲットの3種類のパンが大きめの籠に盛られている。
きっと朝から張り切って焼いたのだろう。
尊人は今日は午後の部長回診を終えたら家に帰ってくるはずだった。
それが、受け持ち患者の急変で緊急オペになり、今夜は帰りが遅くなる……と夕方になって連絡が入ったらしい。
ーー 僕は帰りが不定期だし家に帰れないことも多いから、食事は待たなくていいよ。
そう言われても新婚当初は尊人が帰るまで夕食を待っていた愛だが、同居して数日で尊人の言葉を思い知った。
今では女2人での食事が当たり前で、尊人が出来たての温かい食事を口にすることは稀である。
愛も元同僚だけに、尊人の仕事の内容も忙しい理由も分かっている。
ーー だからこそ。
凛は思う。
だからこそ、母は不安なんだろうな……と。
同僚や患者を含め大勢の女性に囲まれた職場。
家に帰らなくても、夜中に出掛けても怪しまれない職種。付き合いで飲みに行く機会も多い。
自分が不倫していたから、略奪婚だったから。
尊人がまた同じことを繰り返さないとは限らないと、身をもって知っているのだ。
凛が見ている限り、尊人と愛の夫婦仲は良好だと思う。
普段はほとんど家にいない尊人だが、家にいる時は気が向けば一緒に料理をするし、時間があれば買い物やドライブにも連れて行ってくれる。
凛のことも大事にしてくれている。
良い義父だと思う。
実際、凛の中では本当の父親の記憶は殆ど薄れてしまっていて思慕のようなものも無い。
当然だ。 物心ついた頃には父親は殆ど家にいなかったのだから。
6歳の時から一緒にいる尊人こそが今では自分の父親だと思っている。
だけど、尊人が立派な医師であること、魅力的な人物であること、彼に別れた妻子がいること、その別れた息子が医者を目指していること……。
それら全てが愛の心に焦りと劣等感をもたらして、ひいては凛への過度な期待と干渉に繋がっている。
凛は幼い頃から、母の期待に沿うよう生きてきた。
そのための努力をおしまず、期待に応えてきた。
ーー だけど……。
そんな自分が、内緒で母にした小さな抵抗。
先週末に、こっそり漫画を買ってきて読んだ。
今日は同じクラスの男子と図書館で秘密の話をした。
一緒に電車に乗って、マンションの目の前まで送ってもらった。
ーー 生まれて初めて男の子に抱き寄せられた。
あのとき奏多は凛を引き止めようと咄嗟に引き寄せただけなのだ。
勢いでつい抱き締められるような態勢になってしまったが、意識するような事ではない。
それは分かっている。
だけど、突然の事に驚いて、心臓が早鐘のようにドッドッと大きな音を立て苦しくなった。
あまりの激しさに、奏多にも伝わってしまっているのではと思う程だった。
その動揺を悟られまいと、殊更におどけた口調で話しかけた。
たぶん普通に振る舞えていたと思う。
ーー こんな事をお母さんが知ったら卒倒しそうだな……。
後ろめたい感情とは裏腹に、ワクワクするような高揚感があった。
ーー 『うちにおいでよ』
凛は奏多の言葉を思い出し、心の中で反芻する。
心にポッと暖かい火が灯るような感覚。
「凛、今日は学校で何かいいことがあったの? 」
愛にそう聞かれて、凛は知らず知らずに自分の口元が緩んでいた事に気付いた。
「いいこと? そうね……今日は学校で持ち物検査があった」
「それがいいこと? 」
「うん。 隣の席の子が本を没収されてた」
不思議そうにしている愛に「ごちそうさま」と言って食器をシンクに置くと、凛は下りて来た時よりも軽やかな足取りで2階に上がっていった。