29、 決戦の金曜日
どれくらいの間、 そうしていたんだろう。
徐々に周囲の音が戻ってきて、 閉じていた目をそっと開くと、 目の前には黒く艶やかな彼女の髪があった。
彼女の傘からポタポタと背中に落ちる冷たい雨の粒さえ、 今は心地よいリズムに感じられる。
これが夢ではないと確かめたくて……。
細い背中に回した手にグッと力をこめると、 彼女の髪が鼻先に触れた。
もう一度、 安堵のため息と共に彼女の名を呼ぶ。
「凛…… 」
凛はコクリと頷くと、 安心したようにそっと奏多の胸に額を預け、 目を閉じた。
「窓から…… 」
「えっ? 」
凛は奏多の胸から顔を離し、 泣き笑いの顔でニコッと見上げた。
「この前、 窓から呼んでくれてたの、 聞こえた」
「ええっ?! 」
思わずパッと手を緩める。
「嬉しかった」
「えっ?! あっ、 うわっ! 」
恥ずかしい記憶と笑顔の破壊力に動揺した。
思わず仰け反った拍子にバランスを崩し、 後ろにバシャンと尻餅をついた。
「ハイハイ、 そこまで〜! 」
パンパンと手を叩きながら叶恵が近付いてきた。
「公衆の面前でイチャつくのは近所迷惑です。 そして傘は丁寧に扱いましょう」
そう言いながら雨ざらしになっていた傘を拾い上げ、 奏多に手渡した。
「凛ちゃん、 その頬は大丈夫なの? 今日はうちに来ちゃっても良かったの? 」
「はい。 頬が腫れてみっともなかったので学校を休みましたが、 普通に動けるので」
「お家の方には叱られない? 」
「今日は義父が病院の当直で帰らないし、 母は茶道の集まりで帰りが遅いんです。 だから勝手に来ちゃいました」
「ふ〜ん、 そっか…… 」
叶恵は顎に手を当て考えると、 悪だくみをする時の不敵な笑みを浮かべ、 傘を持つ凛の右手をギュッと両手で包み込んだ。
「ねえ凛ちゃん、 オムライスはお好き? 」
***
奏多がシャワーを浴びて出てくると、 バスタオルを持った叶恵が脱衣所で待ち構えていた。
「うわっ、 何やってんだよ! 恥を知れ、 恥を! 」
「馬鹿もん。 あんたの裸を見たってピクリとも興奮せんわ」
慌てて下着を履くと、 腕を組んで洗面台にもたれた叶恵が睨みつけてきた。
「それより何より、 どういう事よ」
「へっ? 」
「凛ちゃんは王子様と付き合ってるんじゃなかったの? 」
「そのはず…… だけど」
「それじゃ、 どうして凛ちゃんはウチに来たの? 純情そうな顔して二股女だってこと? 」
「ふたま……っ、 そんな事するはずないだろっ! 」
「私だって凛ちゃんがそんな尻軽女だとは思わないけどね…… だったら何か事情があるのよね」
「事情? …… どうしても漫画を読みたかった……とか? 」
叶恵が心底呆れたという表情で深いため息をついた。
「あんたのその天然、 ほんっとムカつくわ。 まあ、 今はそれは置いといて…… 奏多、 あんたね、 さっきの駄目よ」
「駄目…… って、 何が」
「あのシチュエーションであの雰囲気で、 どうして『好きだ』って言葉が出ないかなあ? 」
「すっ…… ! 」
「笑顔で見つめられて仰け反るって、 そんなアホなのベタ過ぎて漫画のネタにもならんわ。 あそこでキスもしないって、 お前は修行僧か? 」
「そんなの出来るわけないだろっ! 彼女はもう樹先輩と付き合ってて、 キスまでしてるんだぞっ! 」
「はああ? キスっ! 」
「バカっ! 声がデカい! 」
奏多が慌てて廊下を覗き込んだが、 凛が近くにいる気配はなかった。
「心配しないで。 凛ちゃんにはチキンライスを作ってもらってるから」
「姉貴が作るんじゃなかったのかよ」
「仕上げはちゃんと私がやるわよ。 それよりキスのくだり、 詳しく聞かせてよ」
「嫌だよ、 そんなの俺だって樹先輩から聞いただけだし詳しく知らないよ。 知りたくもないし」
「ふ〜ん……。 それじゃ凛ちゃんに聞くしかないか」
「いや、 それはちょっと待って」
「えっ? 」
樹先輩との関係を凛に無理矢理聞き出すようなことはしたくない…… 奏多は今日、 樹から話を聞いた時からそう思っていた。
いくら親しいといっても恋人でも家族でもない。
彼女のことを知りたいからといって、 プライベートな部分まで踏み込む権利は自分にはないと思うのだ。
そう…… 今の自分にそんな権利はない。
なぜならまだスタートラインに立ってもいないから。
樹の言葉が脳裏に蘇る。
『まだ告白もしてないんだろ? そんなのスタートラインにも立ってないよ』
『可能性があるとか無いとか躊躇してる時点でもう逃げに入ってるじゃない』
そう、 俺は恐れて逃げてばかりいた。
そしてグズグズしている間に樹先輩に横から攫われて凹んで……。
『遅いんだよ、 お前』
もう遅いのは分かっている。
2人は付き合い始めてしまったのだ。
今更どうあがこうが結果は目に見えている。
俺は樹先輩に敵わない。
だけど、 凛は俺に会いにきてくれた。
雨の中、 冷えた身体で待っていてくれた。
名前を呼ばれて嬉しかったと笑ってくれた。
さっきまで0パーセントだと思っていた可能性が、 ほんの少しだけど、 0.01パーセントくらいだけど、 もしかしたらという小さな希望を与えてくれた。
だから奏多は、 まず始めたいと思った。
もう自分は友達なんて思っていないのだと、 友達の顔でそばにいるなんて出来ないのだと、 正直に伝えるところから。
たとえ辛い結果が待っているとしても、 何もしないまま離れるよりは、 よっぽどいい。
「俺はもう逃げたくないんだ。 今更なのは分かってるけど、 当たって砕けて、 そこでようやく始められるんだと思う」
「始められる? 」
「うん。 振られたあと、 キッパリ諦めるか、 しつこく追いかけるのか、 自分でもまだ分からない。 だけど確実に、 俺と凛との関係は変わる。 そこから新しい関係が始まるんだ」
「今のこの関係が終わるとしても? 」
「うん、 終わるとしても」
「そっか…… じゃあ私は凛ちゃんに何も聞かない。 黙って見守る。 あんたの骨は私が拾ってあげるから、 心置きなく戦ってこい! 」
ーー うわっ、 だからフラグは立てるなと……。
樹先輩、 俺は正々堂々と戦いますよ。 たとえそれが、 負け戦と分かっていても。
俺には敗戦後の骨を拾ってくれる心強い仲間が沢山いるみたいです。




