4、うちにおいでよ
駅前まで着いてから、奏多は自分が小桜の腕を掴んだままだった事にようやく気付き、慌ててその手を離した。
図書館からここまでずっと無言で歩いてきたが、小桜は腕を振りほどくでもなく、黙ってついてきていた。
外はもう夕闇だったが、駅舎から漏れる明かりや街灯が辺りを照らしていたので、そんなに暗くはなかった。
俺の顔が真っ赤なのがバレるかな…… と思いながら奏多が振り向くと、小桜の顔も赤かった。
それを見て余計に、首筋からカッと熱くなった。
2人でしばらく無言で立ち尽くしたところで、自分がノープランだった事に思い至り、顔をしかめる。
奏多が後頭部に右手をやってガシガシ引っ掻きながら、
「ごめんな……思わず飛び出してきちゃったよ」と謝ると、
「いいよ。どうせあれ以上は話せる雰囲気じゃなかったし」と小桜が首を振る。
そのタイミングで、彼女が自分の左腕にある細い腕時計を覗き込んだ。
「小桜は時間、大丈夫なの? 」
「うん。月曜日は図書館に寄って帰ることが多いから大丈夫なんだけど、あまり遅くなるとお母さんが心配するかも」
「お母さん、この時間は家にいるの?」
「いると思う。たぶん夕食の支度をして待ってる」
「そうか……」
「それじゃ、今日はもう帰った方がいいよな」
「うん……そうだね」
聞くと小桜も奏多と同じ路線だったので、とりあえず一緒に電車に乗り込んで、ドア寄りの空間に並んで立った。
2人ともなぜか無言だった。
ーー 話はまだ途中で終わったままだ。
小桜の家庭の事情は大体把握できた。
不倫の末に再婚した両親と、母親の小桜へのプレッシャー、漫画を読むことさえ許されない家庭……。
継父と一緒に暮らしている小桜の、家庭での立場はどうなんだろうか?
ドラマなんかでよくある『継子いじめ』……とかは大丈夫なんだろうか?
厳しそうな母親との関係はどうなんだ?
家に漫画を置いておけないって、部屋のチェックをされてるのか?
本当は俺に相談したいことがあったんじゃないのか?
いろいろ聞きたいのは山々だけど、どこまで掘り下げていいのか、どこまで関わっていいのかの距離感が掴めない。
ただの興味本位とも思われたくない。
さっきの失敗もある……。
そんな奏多の逡巡を無視して、電車はあっという間に小桜の降りる駅に滑り込んだ。
小桜に続いて奏多も一緒に電車を降りる。
「あれっ? 百田君も同じ駅だったの? 」
「いや、俺はこの2つ先の駅」
「だったら降りなくてもいいのに」
「いや、ちゃんと家まで送るし」
「そんなの申し訳ないよ。大丈夫だから帰って」
小桜に固辞されたけれど、こんなに暗くなってから女の子だけで帰らせるわけにはいかない。
「うちの姉貴がさ、レディーファースト?とかそういうの厳しくてさ、 女の子だけで夜道を帰らせたなんて知れたら殺されちゃうよ」
そう言って半ば強引に了承させた。
実際、5歳年上の叶恵には小さい頃から厳しく鍛えられ、且つ下僕のように扱われてきた。
『男子は女子に優しくするもの』なる言葉を水戸黄門の印籠のように振りかざし、
荷物を持て、車道側を歩け、入口のドアは開けて押さえていろ、エレベーターでは先に入ってボタンを押して待ち、そして必ず後で降りろ……は序の口。
コンビニでデザート買ってこい、雑誌の新刊買ってこい、雨が降ったから傘持ってこい等々。
これって男子も女子も関係ないんじゃね? ってことまで幼少時から躾けられたものだから、骨の髄までしっかり教えが染み付いて、今じゃすっかり逆らえなくなった。
駅から小桜の住むマンションまでの約8分、そんな話をしながらゆっくり歩いた。
「面白いお姉さんだね」とクスクス笑う小桜の横顔は、図書館での深刻な話を微塵も感じさせないほど明るく屈託がなかった。
そしてそれが逆に、彼女の抱えているものとのギャップを感じさせられて大きな違和感となった。
ーー もっと話したい事がある筈なんだ……。
こんなに近くで話しているのに、大事なことは何一つ聞けていない……と思った。
聞いたからって俺に何が出来るかなんて分からない。
だけど、もう少し小桜と話したい。彼女の事を教えて欲しい。
このままうやむやにしたくない……だけど、どうしたらいい?
「今日は遅くまで付き合ってくれてありがとう。
それじゃ」
マンションの前で小桜が背を向けた。
ーー 行ってしまう!
そう思ったら考えるよりも先に手が伸びた。
エントランスから中に入ろうとした小桜の手首をグイッと掴んで引き寄せる。
驚いた顔で振り返った小桜と至近距離で目が合った。
奏多は今の自分の顔を見られたくなくて、思わず彼女の華奢な背中を抱き寄せた。
そして彼女の耳元で、たった今頭に浮かんだことを呟いた。
「うちにおいでよ」
ーー うちにおいでよ
奏多は、言ってから「しまった!」と思った。
単刀直入過ぎた。これじゃあ何の脈絡も無さ過ぎて怪しさ満載じゃないか。
鼻先に漂う甘いフローラルの香りにたじろいで、たった今自分が抱き寄せた小桜の身体を、今度はガバッと引き離した。
右手を顔の前でブンブン振って、
「いやいや、これは駄目だ。 ごめん、違うんだ。 ごめん!」
と意味不明な呟きをしながら2、3歩後ずさる。
「いや、違うんだ! …… 違わないけど、そうじゃなくてっ!」
焦って余計にしどろもどろになった。
こんな風に切り出すつもりじゃなかった。
ただ、小桜の屈託ない笑顔を見ていたら、その裏にある本心を無性に知りたくなった。
本音を聞きたい、どうにかしたいと思った。
ーー 早くしないと行ってしまう!
そう思ったら、勝手に手が伸びて小桜を引き寄せていた。
その上、きっと真っ赤で凄くみっともなくなっているであろう自分の顔を見られたくなくて、咄嗟に抱きしめてしまったのだ。
「小桜……落ち着いて聞いて」
小桜と適度に距離をとった奏多は、ようやくまともな言葉を発した。
「いやいや、落ち着くのは百田君でしょう。 思いっきり挙動不審 」
小桜がクスクス笑いだしたので、そうか、挙動不審は俺の方だよな……と、釣られて奏多も照れ笑いした。
お陰で少しリラックス出来て、言いたかった言葉がスムーズに出てきた。
「良かったら、さっきの話の続きをしたいんだ。 今日じゃなくていい。明日とか明後日とか…… 来週でもいつでも、小桜の都合のいい時でいいから、ゆっくり話したい……駄目かな? 」
クスクス笑いを止めて真剣な表情になった小桜に、今度はしっかりと真意を伝える。
「図書館だとさっきみたいに人の目を気にしなきゃいけないし、落ち着いて話せないだろ?だから…… 」
ーー うちに来ないか?小桜の話を聞きたいんだ。
「……………。」
呆然とした顔、そして沈黙。
失敗……だったか?
今日初めてちゃんと喋ったばかりの女子をいきなり家に誘うなんて、いくら何でも軽率過ぎるよな……。
こいつ私に気があるんじゃね? とか、なんかキモい! とか思われてるんじゃ?!
……と、瞬時に恐ろしい考えが浮かぶ。
「いやっ!ごめん、今のはナシで! 」
と言ったけど、
その奏多の声に被せるように、
「ありがとう」
という小桜の声が聞こえてきて、一瞬自分の耳を疑った。
「えっ……? 」
「ありがとう、百田君。私も百田君に全部聞いてもらいたい。 迷惑でなければ家に行かせて下さい」
「えっ、本当にいいの? 」
自分で誘っておいたくせに間抜けな返事をした奏多を真っ直ぐ見つめて、小桜がハッキリと言った。
「はい。 よろしくお願いします」
ーー やっぱり姿勢がいいな……綺麗だ。
こんな時に全く場違いな事を考えながら、奏多は安堵と少しの緊張と、よく分からないフワフワした感情を胸に抱いて、右手を差し出した。
「それじゃ、また明日、学校で」
「うん。また明日」
右手を握り返してゆっくり瞬きをした小桜の睫毛が、街灯に照らされて濡れたように光っていた。