11、 葉山樹の初恋と情熱 (中編)
「うわっ、 ツイてないな」
それは高1の夏休み明け、 2学期になったばかりの昼休みだった。
葉山樹がいつものように売店の隣の自動販売機コーナーに行くと、 お気に入りの微糖コーヒーが売り切れていた。
「仕方ないな…… ちょっと向こう側に行ってくるから、 先に行ってて」
一緒にいた友人達にそう告げて、 樹は売店の反対側…… 中学校側の自動販売機へと向かった。
中学校と高校の校舎を結ぶ渡り廊下には、 ちょうど真ん中辺りにカフェテリア、 その向かい側に売店があり、 売店を挟んだ両側には2台ずつ飲み物の自動販売機が設置されている。
特に決められた訳でもないが、 学生達はそれを、 『こっち側』……つまり高校側と、中学校側である『向こう側』と呼んで、 なんとなく区別していた。
樹たち高校生は、 近い方が便利なこともあって、 必然的に『こっち側』を利用するのが当たり前みたいになっていたが、 売り切れならば仕方ない。
樹が中学校側の自販機へと歩いて行くと、 既に先客がいて硬貨を投入しているところだった。
ーー 滝中のマドンナ!
そのスッとした美しい佇まいは遠目でも目立っていて、 彼女が『滝中のマドンナ』こと小桜さんだというのが一目で分かった。
もう一台の自販機の前に立ち、 彼女の隣に並ぶと、 何故だか急に緊張してきたのが分かって自分でも驚いた。
硬貨を投入しながら横目で見ていると、 彼女が緑茶のペットボトルと缶の微糖コーヒーを手にしたのが目に入った。
そのまま去っていく後ろ姿を見送ってから、 自分も微糖コーヒーのボタンを押す。
取り出し口からコーヒーの缶を取り出しながら、 自分の口元がだらしなく緩んでいるのが分かった。
ーー ああ、 分かった。 嬉しいんだ。
彼女が選んだのが自分と同じものだった。
たったそれだけなのに、 なんだか嬉しかったのだ。
カフェテリアで待っていた友達と合流してすぐ、 さり気なさを装って聞いてみた。
「あのさ、 あの子、 『滝中のマドンナ』って何て名前だったっけ? 確か小桜…… 」
「小桜凛だろ。 名前のごとく凛としててイイよなあ。 ってか、 なんで? 」
「いや、 なんでもない。 たださっきチラッと見かけたような気がしたから」
ーー 小桜 凛……。
今思えば、 その時には既にもう始まっていたんだろう。
***
翌日の昼も、 樹は『中学校側』の自動販売機に向かった。
「こっち側よりあっち側の方がいいから」と言ったら、 友達には思いっきり不審がられた。
それはそうだろう。 目の前の自販機にはいつもの微糖コーヒーがちゃんと並んでいたし、 売り切れでもなかったのだから。
だけど、 どう思われようと構わなかった。
残念ながらその日は、 彼女に会うことが出来なかった。
だから翌日も、 その翌日も『向こう側』に通い続けた。
そうして何日か空振りが続いたのち、 奇跡が起きた。
今日も空振りだったと諦めて、 肩を落としながら硬貨を投入していると、 隣の自販機の前に誰かが立ったのがチラリと目に入った。
何気なくそちらを見て、 指が止まった。
ーー 小桜凛!
「あっ」と思った瞬間、 指先から十円が滑り落ちた。
落ちた十円玉はコロコロとリノリウムの床を転がって、 小桜凛の靴先を軽くかすってから、 そのまま隣の自販機の下に潜り込んだ。
樹が腰をかがめるよりも先に、 彼女が床にしゃがみ込んだ。
彼女は自販機の下に右手を差し込んだが、 それでも硬貨に届かないとみると、 今度は床に這いつくばって、 さらに奥へと腕を伸ばした。
「いやっ、 そんなことしなくていいよ。 自分で取るからもう立って…… 」
「でも、 私の靴にぶつかったせいだし……」
「いや、 それはたまたま…… 」
「ちょっと待って! もうすぐだから」
顔が床につくかという所まで覗き込んで、 必死になって硬貨を拾い上げる姿を見て感動している自分がいた。
「あっ、 取れた! はい、 どうぞ」
彼女は拾った十円玉にフッと息を吹きかけ埃を払うと、 惚けている樹の手のひらにチョンと乗せた。
スカートの汚れをパンッとはたいて、 何事もなかったように自販機に向かう。
この前と同じ緑茶と微糖コーヒーを両手に去っていく後ろ姿を見て、 ようやく樹は我に返り、 自分が御礼さえも言ってなかったことに気付いた。
「小桜さん、 ありがとう! 」
振り返った笑顔があまりにも綺麗で優しくて、 樹はそれ以上何も言えずにただ見惚れていた。
あの体育祭の日の彼女の姿を思い浮かべた。
スラリと伸びた健康的な脚がハードルを飛び越える。
軽々と障害物を通過して、 脇目も振らずまっすぐゴールに飛び込んでいった。
そして、 キッと窓を見上げた猫のような瞳……。
あの時こちらを睨むように見ていた凛々しい顔と、 今振り返った時に見せた、 あの優しい笑顔。
その両方に自分は落ちたのだと思った。
ーー うわっ、 ヤバい…… 参ったな……。
生まれて初めて芽生えた感情に戸惑いながらもその余韻を味わうように、
樹は彼女の姿が見えなくなってからも、 しばらくその場に立ち尽くしていた。