3、 掴んだ手
「お母さんはね、私に医者になって欲しいの」
「医者って……お義父さんの跡を継げ……とか、そういう事?」
「ううん。お義父さんは市民病院の勤務医で、自分の病院があるわけじゃないから、跡を継ぐ必要なんてないの」
小桜は、「だけど…… 」と目線を上にして少し考える素振りを見せて、
「お母さんの見栄とプライド……かな」
今度は少し伏し目がちに答えた。
小桜のお義父さんには、別れた奥さんとの間に一人息子がいる。
小桜の2つ下らしいから、親が離婚した時には4歳、今は12歳ということになる。
その元奥さんの実家が開業医で、彼女のお父さんとお兄さんが医者。
息子さんは春から名門私立附属の男子校に入学予定で、将来的には彼もお祖父さんや叔父さん、そして別れた『父親』のように医者になって跡を継ぐのが既定路線なのだそうだ。
「私は直接ちゃんと聞かされたわけじゃないけど、親が家の中でそういう話をしてるのが嫌でも聞こえるから……」
小桜は、口の端を少し上げて、皮肉げに言う。
「向こうと張り合ってるのか知らないけど、母親が私に医者になれってうるさいの。会ったことも、血の繋がりもない義理の弟がライバルなの。おかしいでしょ」
…… だから私は向こうの息子さんに負けるわけに行かないし、漫画なんか読んでる場合じゃないの。
最後の方は気持ちが昂ぶったのか、小桜がいつもより早口になっていた。
「漫画を読んでるのが親にバレると困るってこと? それでどうして学校に持ってきて俺のカバンに突っ込んだの? ちょっと繋がらないんだけど……」
「絶対にバレたくないから。 親に内緒で漫画を買ってきたはいいけれど、 家に置いておくことが出来なくて、学校のカバンに入れて持ち歩いてたの」
部屋に置いておくと母親に見つけられる可能性がある。
学校の持ち物検査で見つかれば、クラスメイトの親だったり、三者面談の時に担任を通じて母親の耳に入る可能性がある。
……だから、咄嗟に奏多を身代わりにしてしまったのだった。
「馬鹿みたいでしょ。 たかが漫画を隠すのにこんなに必死になっちゃって」
笑顔でおどけたように言う。
深刻な話のはずなのに、小桜があまりにも淡々と、まるでなんでもないというように言うものだから、奏多もつい気が緩んでしまった。
「事情は分かったけど、それでも漫画くらいは読んでもいいんじゃないの? 」
小桜はいつもテストで学年3位以内に入っているし、生徒会の会計を務めていて、先生からの信頼も厚い。
成績に影響が無いのであれば、漫画を読んでいたって構わないのではないか。
奏多は単純にそう思ったから、
「だからさ、それくらい、ちゃんと話せば分かってくれるよ」
ついつい軽い口調で言ってしまった。
……が、その直後に奏多は後悔する事になった。
小桜の表情が一瞬で強張ったから。
「そっか……『それくらいの事』、か……」
そう言った小桜の硬い声が微かに震えていたから。
ーー あっ、しまった。
そう思った時にはもう遅かった。
「そうだよね……。うん、そういう訳で、 今日は巻き込んじゃってすいませんでした。 もう迷惑を掛けないようにするので安心して下さい。 それじゃ」
急によそよそしくなった小桜が、作り笑いを浮かべたまま、腰を浮かせて足元のカバンに手を伸ばす。
シャットアウトされた……小桜が心を閉じた。
奏多は瞬時にそう悟った。
「ちょっと待って! 」
思わず手が出た。
「ごめん、無神経だった」
そう言いながら奏多は咄嗟に小桜の腕を掴んでいた。
仕方なく椅子に座りなおした小桜から手を離さず、そのまま言葉を重ねる。
「小桜にとったら、『それくらいの事』じゃないんだよな。 今日の事だって必死だったんだよな」
軽い口調で他人事みたいに話すから……平気な顔して笑うから……。
聞いてる方も大した事のないように感じてしまうけれど、 真面目で優等生の小桜が今日のような事をするのは、相当の勇気と覚悟が必要だったはずなんだ。
俺に家庭のことを打ち明けるのだって……。
それなのに、俺は……。
謝りの言葉を続けようと奏多が口を開きかけたその時、誰かの視線を感じて動きを止めた。
斜め前の机でパソコンを開いて勉強をしていた女子大生らしい3人組が、チラリとこちらを見ては小声で何かヒソヒソ言っている。
気にしていないフリをしながら耳を澄ましていたら、 「痴話喧嘩? 」とか、 「青春だね」「初々しい」という単語がちらほらと聞こえてきて、一気に顔が熱くなった。
慌てて周囲を見渡すと、本を片手に席を探していたらしい中年男性がサッと目を逸らすし、 隣の席の学生グループも一斉にニヤついた顔で俯いた。
ーー ヤバイ、めちゃくちゃ注目を浴びてる! しかもカップルの痴話喧嘩だと思われてる!
思わず両手を机について勢いよく立ち上がった。
カーペット敷きのフロアーだったので、それほど大きな音は立たなかったものの、木製の椅子がガタンと思いっきり後ろに倒れた。
奏多はその椅子を素早く元の位置に戻すと、横で呆然とした表情で見上げている小桜の腕を引っ張り上げ、「行くよ」とだけ告げてスタスタと階段へ歩き出した。