9、 心変わり
月曜日の朝の教室は、 休み明けの気怠い空気とせわしない雰囲気に包まれている。
だがそれは、 そこに会いたい人がいる場合には心躍り待ちわびる朝に変わる。
今日の奏多はまさしく後者…… 好きな子に会えるのを待ちわびながら、 心踊らせて席についていた。
先週金曜日に奏多は、 小桜のことを名前で呼ぼうと決めた。 小桜も奏多を名前で呼ぶと言ってくれた。
だが、 そのあと2階から下りてきた叶恵の前で名前を呼び合うのが照れくさく、 なんとなくタイミングを逃したまま今日を迎えてしまった。
叶恵には後で、
『はあ? 告白してないどころか名前も呼べてないの? せっかく空気読んで2人きりにしてあげたのに、 バッカじゃない?! ヘタレかよっ! 』
と思いっきり罵倒され蔑んだ目で見られたが、 自分的には後悔していない。
とにかくこれからは堂々と名前を呼べるのだ、 遠慮なく。
…… とは言うものの、 クラスメイトの前でいきなり名前呼びというのはいかがなものか……とも思う。
陸斗にもあからさまな態度は控えるよう先週言われたばかりだ。
ここはとりあえず、 陸斗に相談してから……
そう考えて腰を浮かせようとした時に、 小桜が教室に入ってきた。
ーー あっ、 小桜……
「凛ちゃん! 」
奏多が声を掛けるより一足先に廊下から小桜の名前を呼んだのは、 滝高の王子…… 葉山樹、 その人だった。
ーー ええっ?! 嘘だろっ!
奏多は机に手をつき腰を浮かせたままフリーズし、 小桜に歩み寄っていく樹先輩を目で追った。
「凛ちゃん、 今日が約束の日だって覚えてる? 」
「ええ……はい…… 」
「それじゃ、 お昼に迎えに来るからね。 今日こそは一緒にカフェテリアに行こうよ」
「あの、 先輩、 私、 今ここでお返事しても…… 」
「ああ、 駄目だよ。 約束は今日のお昼だから、 ギリギリまでじっくり考えて、 ねっ」
樹先輩が手をヒラヒラ振りながら去っていくと、 途端に教室が喧騒に包まれた。
席についた小桜の元に数人の女子が群がり騒ぎ立てているが、 先陣を切ってはしゃいでいるのは都子だった。
「凛、 今日はカフェテリアに行くんでしょ! あれって絶対に凛狙いだって! 会計なんて口実だよ! 」
「そんなことないよ。 会計って人気ないから片っ端から声を掛けてるんだと思う」
「違うって! だって私、 樹先輩に凛のことを聞かれたんだもん」
「えっ? 」
ーー ええっ?!
驚いたのは小桜を取り囲んでいる女子だけではなく、 その場にいた他のクラスメイト達もだった。
もちろん一番驚いたのは奏多だったが……。
皆が一斉に小桜と都子に注目した。
「先週の帰りに校門のところで先輩に呼び止められて、 あの日一緒にランチを食べてたメンバーについて聞かれたの。 名前とか部活とか、 あとはあの中に凛の彼氏がいるのか…… とか」
興奮気味に語る都子の言葉に、 さっきよりも更に大きなどよめきと黄色い声が上がる。
「だから私ね、 凛狙いの男子は一杯いるけれど、 彼氏はいないみたいですよ! って答えたの。
あとね、 小桜さんのことはみんな『凛』とか『凛ちゃん』って呼んでるんですよって教えたら、 それじゃ僕も凛ちゃんって呼んでもいいかな? って言うから、 どうぞ! って。 そしたら早速名前で呼んでるんだもん。 驚いちゃった! 」
いつから側に来ていたのか、 ガタッと立ち上がって声を出そうとした奏多を陸斗が制して、 代わりに自分が一歩前に出た。
「おい、 都子、 それはやり過ぎだ。 勝手に俺たちのことを教えるとか、 プライバシーの侵害だし気分が悪い」
「だって…… 」
陸斗の低い声色に、 都子の表情がサッと曇る。
「それにな、 小桜さんに彼氏がいるとかいないとか、 名前を呼べとか、 そんなのはお前が答えることじゃない」
その言葉が合図のように、クラス中の男子が口々に都子を責めたてた。
「そうだよ、 小桜さんを勝手に樹先輩に差し出してんじゃねーよ! 」
「お前、 滝高のマドンナを2年生に奪われてもいいのかよ! 」
都子はオロオロと周囲を見渡したあと、 救いを求めるように小桜を見て、
「凛はどうなの? 私が言ったことは迷惑だった? 私はただ、 樹先輩と凛の役に立ちたいと思っただけなんだよ? だって私たち、 友達でしょ?! 」
と早口でまくしたてた。
「ねえ、 凛は私のこと迷惑だと思ってる? 嫌いになった? 」
目に涙を浮かべ、 懇願するように見つめている。
小桜はチラッと奏多に視線を向けてから、 すぐ都子に向き直り、 ニッコリ微笑んでみせた。
「ううん、 大丈夫だよ。 聞かれて困ることなんて何も無いし、 都子は嘘をついたわけでもない」
ポロリと涙をこぼした都子の肩を抱き、 そのまま廊下に出て女子トイレの方角へと歩いて行った。
2人を追うように奈々美も教室を出て行くと、 後には声を潜めた静かなザワめきと微妙な空気だけが残った。
奏多はヘタリと椅子に座り込み、 ただ茫然と、 何も書かれていない黒板を見つめた。
ーー 樹先輩が小桜のことを好き……。
そうではないかと思っていたが、 漠然としていた不安が確信に変わった。
だけど、 小桜は会計を断ると言っていた。
だからそれは今日の昼でカタがつくはずだ。
そしたら樹先輩は、 どうするんだろう…… 。
諦めてくれるのか? 会計を…… 小桜を……。
「奏多、 大丈夫か? 顔色悪いぞ」
陸斗にトンと肩を叩かれて我にかえった。
「あ……ああ。 陸斗、 さっきは悪かったな」
俺の代わりに……と言葉を続けようとしたが、 陸斗に目で『駄目だ』と制された。
ーー 俺は何も出来なかったな……。
小桜の名前を呼べなかったし、 注目されて困っている彼女に駆け寄ることも出来なかった。
陸斗に都子を責めさせてしまった。
コイツは感情的になっていた俺の代わりに、 敢えて強い口調とキツイ言葉を選んだんだろう。
そうやって、 今にも怒鳴りだしそうだった俺を庇ったんだ……。
「陸斗…… ありがとな」
陸斗は黙って頷くと、 笑顔でもう一度奏多の肩を叩いて自分の席に戻って行った。
ーー 陸斗には後でちゃんと謝ろう。 その時に小桜とのことも相談するんだ。
小桜は…… 会計を断ると言っていた。
もう生徒会室には逃げ込まないと言っていた。
都子とのことで傷ついているかも知れないけれど、 せっかく出来た友達なんだ。
また明日からみんなで楽しくランチを食べられるよう、 俺が頑張ればいいんだ。
そして金曜日になったら小桜とゆっくり話そう。
名前の呼び方も、 都子のことも、 そして樹先輩のことも……。
樹先輩の顔を思い浮かべると胸がザワついて、 重苦しいもので圧迫されるような感覚が襲ってきた。
しかしそれも金曜日までの辛抱だと自分に言い聞かせて、 必死に気持ちを落ち着かせた。
ーー そうだ、 とにかく金曜日だ。
今週の金曜日は早く帰って俺が小桜に紅茶を淹れてあげよう。
一緒に紅茶を飲みながらいろんな話をして、 その後はまた背中合わせで本を読むんだ……。
だけど結果的に、 それどころではなくなった。
その日の昼休み後、 小桜と樹先輩の話題で学校中が騒然となった。
カフェテリアで、 滝中、 滝高生徒の衆目の中、 小桜が生徒会の会計を引き受けた。
そして、 樹先輩が小桜に交際を申し込んだのだった。