30、 これはアウトだ
トイレから戻ってきてドアを開けたら、 振り返った彼女の気まずそうに揺れる瞳と目が合った。
その右手に見えるのは、 黒革にGGのロゴが入ったシンプルなキーリング、 足元にあるのはファスナーの開いた茶色いリュック……。
ーー あっ、 これはアウトなやつだ……。
***
奏多が小柳に頼まれて引き受けた家庭教師先は、 小柳が言っていた通り、 彼の家から徒歩3分ほどのすぐ近所にあった。
生徒である海宝紫織の祖父が、 町内会長をしている地元の名士らしい。
立派な門構えの邸宅は、 白い砂利の上に飛び石が敷かれ、 見事に剪定された松の木が立つ、 純和風の庭に囲まれている。
生徒となる詩織は、 ストレートのボブヘアーに真っ直ぐ切りそろえた前髪、 切れ長の細い目が日本人形を思わせる顔立ちの女の子で、 真面目でクールビューティーな雰囲気が、 どことなく出会ったばかりの頃の凛と似ているような気がした。
紫織の母親は、 人気の家庭教師を雇えたのがよほど嬉しかったのか、 いきなり家族構成や父親の職業、 彼女の有無まで次々と質問を浴びせて奏多を困惑させた。
帰り際に勧められた夕食を丁重にお断りして帰ってから、 紹介者である小柳にその日のことを報告したら、
「それはお前…… 娘の婿候補として目をつけられたんじゃないの? 紹介した俺が言うのもなんだけど、 気をつけた方がいいぞ」
そう言われて背筋がゾクリと冷えた。
勝手に婿候補にされても困るし、 そんなのがバレて凛に嫌われたらもっと困る。
奏多は、 一馬に言われた『アウトとセーフの境界線』という言葉を肝に命じて、 紫織とは必要以上に親しくなり過ぎないよう気をつけつつ、 先生として親身になって話を聞き、 週1回90分の授業には全力で真面目に取り組んだ。
7月の末から海宝家に通うようになって1ヶ月もすると、 紫織もようやく敬語が抜けて、 奏多の冗談に笑顔を見せるようになった。
一旦打ち解けると彼女は思いのほか素直でお喋りで、 何かと奏多の高校時代の話を聞きたがる。
そして奏多も高校の話題になると懐かしくなって、 ついついいつも以上に話し込んでしまうのだ。
「大講堂の軒下に毎年ツバメが巣を作るんだけどさ、 油断してると上からフンが落ちてくるから要注意だよ」
「え〜っ、 先生も被害に遭ったの? 」
「俺は無事だったけど、 親友の一馬の肩に落ちてきたことがあって、 そいつはその日ずっとジャージで過ごしてた」
「ハハハッ」
「滝高は本当にいい学校だよ。 俺も全力で応援するから、 頑張って合格しような」
「はい」
2ヶ月目に入ると、 週1回だった授業を週2に増やすよう頼まれ、 しかも2時間に延長となった。
授業時間が2時間になったと言っても、 授業の合間に30分のおやつタイムを挟まれるようになっただけで、 勉強する時間は元の90分のままだ。
だったら2時間にする意味はないのでは……と思うのだが、 本人と母親が揃って「休憩は必要だ」と言い張る。
なんだか腑に落ちないけれど、 勉強をしなくても延長分はしっかり時給がつくので、 奏多としてもそれ以上は文句のつけようがない。
だけど、 この30分で母娘から繰り出される波状攻撃がなかなかのクセモノで、 他の家庭教師先の何倍も気をつかうし疲労感が半端ない。
「ねえ先生、 このクッキー私が焼いたの。 食べてみて」
「いや、 贈り物とかは他でも断ってるから…… 」
「あら先生、 これは贈り物じゃなくて、 休憩時間のおやつですよ。 せっかく紫織が焼いたんですから食べてあげてくださいな」
「…… はあ」
「ねえ先生、 先生の彼女さんは料理出来るの? クッキーとか焼いてくれる? 」
「ああ、 めちゃくちゃ上手だよ! クッキーだってマフィンだって作ってくれる」
「ふ〜ん、 そうなんだ〜…… でも、 私のクッキーも美味しいでしょ? もっと食べてよ! 」
「いや、 ありがとう。 ご馳走さまでした…… 」
こうなると、 乙女心に鈍感と言われる奏多でも、 さすがに気付くし警戒もする。
ーー 境界線、 境界線……。
あくまでも先生と生徒として適度な距離感を保って、 スキンシップも極力控える。
だけど小柳の顔を潰すわけにはいかない。
冷たくすることなく、 授業はあくまでも親身で丁寧に……。
難しいけれど、 奏多なりに考えて、 インサイドからはみ出さないようにしてきたつもりだった。
だけど……。
一馬や凛に言われた言葉が蘇る。
『お前ってアウトとセーフの境界線を越えちゃうからさあ…… 』
『奏多は無自覚天然たらしなんだよ。『勘違い女子製造機』だね』
ーー 俺、 どこで間違えたんだろう?