13、 救いの女神
『奏多、 夜はまだまだ冷えますね。 私はさっき、 砂糖を2杯入れた甘めのホットミルクを飲んで体を温めたところです』
「おっ、 ホットミルクか。 俺も飲もっと」
毎晩10時に届く凛からのメールを読み終わると、 奏多は椅子から立ち上がって部屋を出た。
キッチンでハニワのマグカップに牛乳を注いで電子レンジで温めると、 凛を真似て砂糖を2杯入れてかき混ぜる。
中味をこぼさないようゆっくり階段を上り、 部屋に入ると、 勉強机の前の椅子に座ってコクコクと2口飲んでみる。
ーー 甘い…… けど美味しい。
疲れた脳みそが糖分を欲していたのだろう。
喉から胃へと、 ジンワリと熱が伝わっていき、 それがエネルギーとなって全身に活力が湧いてくるのが感じられる。
「さあ、 もうひと頑張りするか」
奏多は残りのミルクを飲み干して、 両手を頭上で掲げてグーッと伸びをすると、 化学基礎のテキストを開いて勉強を再開した。
駅でのトラブル以来なかなか気持ちを切り替えられず、 それ以前のモチベーションに戻す手段も見つけられないまま鬱々としていた奏多を救ってくれたのは、 凛の存在だった。
退院翌日に手作りのメロンパンと四つ葉のクローバーのしおりを持ってきてくれたのを皮切りに、 毎日お昼頃になると、 手作りのお弁当を持ってきてくれるようになった。
それはサンドイッチだったりオニギリだったりキャラ弁だったり。時にはそれに、 手作りのクッキーまで添えられていたりする。
日によって種類は違うのだけど、 元々そんなに料理が得意ではなかった凛がこれらを作るのは容易ではないと分かるし、 朝からかなりの時間と手間をかけていることも想像がつく。
「大変だからそんなことしなくてもいいよ」
奏多がそう言っても、
「私が料理を覚えたいから、 練習台になって欲しいだけなんだけど…… 味見役は嫌? 」
クリッとした瞳で上目遣いにそう言われたら、 嫌だなんて言えるヤツは世の中に1人としていないだろう。
そして凛は、 毎日同じ電車に乗って同じくらいの時間に家まで来ると、 玄関先で奏多にお弁当を手渡してすぐに帰っていく。
家に上がるよう促しても、 絶対に首を縦には振らない。
今日のお昼に持ってきてくれたお弁当はBLTサンドイッチで、 ライ麦食パンに挟まれたシャキシャキのレタスに厚めに切られたトマト、 そしてカリカリベーコンの組み合わせ。
それにスクランブルエッグを挟んだバージョンとの2種類あって彩りが良く、 見るからに美味しそうだ。
「どれどれ、 今日はなんて書いてある? 」
奏多はサンドイッチの入っている使い捨ての紙容器から付箋を剥がして、 そこに書いてあるメッセージを読み上げた。
『マンションの花壇の花がフリージアに変わりました』
お弁当も、 お弁当を持ってくる凛に会えることももちろん嬉しいけれど、 お弁当についてくる凛からの一言メッセージも、 ここ最近の奏多の楽しみになっている。
家に帰る途中で雨に降られたとか、 電車の窓から見える看板が変わったとか他愛もないことだけど、 この短い言葉が奏多に外の空気を感じさせてくれる。
昼に凛の顔を見て、 お弁当箱に貼られたメッセージを読みながらその景色を想像し、 手作りのお弁当を食べる。
夜10時に彼女から届くメールを読んで、 そのあと一息つく。
1日のほとんどを机に向かって過ごしている奏多にとって、 これらのことが大きな救いになっていた。
メールの内容も日常の些細なことばかりで、 『頑張れ』とか『大丈夫』なんて言葉は決して使わない。
疑問形じゃないのも、 返事は不要だという彼女の心遣いだ。
つい先日まで自分自身も受験生で、 一足先に合格をキメた凛の気配りと思いやりには、 ただただ感謝しかない。
そして、 そんな凛に自分が出来る一番の恩返しは、 無事に受験に合格することなのだというのも十分に分かっていて、 その気持ちが今の奏多のヤル気を後押ししてくれているのだった。
先日、母の晴恵が東京に帰る前に言った。
『あなた、 絶対に凛ちゃんを離しちゃ駄目よ。 あんな素敵な子は他にいないんだからね! 初めての彼女があんな完璧な子だと、 フラれた後にあなたは絶対ダレも好きになれなくて独身の道を一直線よ! とにかく大事にして、 絶対に逃さないように! 』
奏多がフラれるのを前提で話しているのが癪にさわるが、 凛以上の子が現れないというのには同意する。
言われなくても、 とことん甘やかして大事にして幸せにしてあげたい。
そのためには、 とにかく合格だ……。
奏多が机の引き出しからノートを取り出して開くと、 そこには凛からのメッセージが書かれた付箋がズラリと並んでいる。
そこに、 目の前に置いてあった、 今日のお昼の分の11枚目をペタリと貼ると、 奏多は全部のメッセージに順に目を通してからパタンと閉じた。
そして、 誰に言うでもなく「うん」と頷くと、 鉛筆を手に勉強を始めた。
運命の前期日程試験は翌日に迫っていた。