5、 祖父の背中
長かったようであっという間の夏休みが終わり、 2学期が始まった。
学校でみんなに会えると喜んでいたら、 受験追い込みムードに拍車がかかっていて、 全くそれどころでは無かった。
授業は入試対策の演習問題が中心となり、 休み時間の会話も必然的に塾や模試についての話題がメインになる。
笑って話しているのに、 心ここに在らずでどこか上滑りしている会話。
常に追い立てられているようで、 何をしていても落ち着かず、 心から楽しめない…… そんな空気が3年生全体に漂っていた。
「ああ〜、 癒される〜! 唯一この時間だけが俺のオアシスだ〜! 」
「ふふっ、 お疲れですね、 奏多くん。 肩でもお揉みしましょうか? 」
学校の行き帰りと、 非常階段で過ごす昼休み。
これだけが、 今の奏多と凛に与えられた一緒にいられる時間だ。
特に、 他の誰にも邪魔されず、 2人だけでゆっくり過ごせる昼休みの45分間は、 何ものにも変えがたい貴重な時間となっていた。
「凛、 肩は揉まなくてもいいけど、手を握ってていい? 」
「うん、 もちろん」
2人並んで非常扉に背中を預け、 指を絡ませたまま話を続ける。
「あ〜あ、 受験生だから仕方ないけど、 勉強ばっかで息が詰まるよな。 俺、 凛がいてくれて本当に良かったよ。 こうやって会えるだけで救われてる」
「うん。 クラスが違っても、 こうやって少しでも会えるんだもんね。 違う学校だったり学年が別だったらもっと辛かったと思う」
「ああ、 俺のクラスでも勉強に集中するために彼女と別れたってヤツがいる」
「そうか…… いっぱい悩んだんだろうね。 それを考えたら私達は恵まれてるんだろうな…… 」
「うん…… 俺は受験のために凛と別れるとか考えられないけどさ」
「考えたことない? 」
「あるわけ無いじゃん! 凛はあるの?! 」
「えっ、 まさか! やだよ、 別れるなんて! 」
顔を見合わせてクスッと笑う。
「そう言えばさ…… 今週末に母親が荷物の整理しに帰ってくる」
「やっぱり家は売っちゃうの? 」
「うん、 たぶんね」
凛の問いに奏多は顔を曇らせた。
両親は8月の末にはもう東京に引っ越しを済ませている。
当分は社宅に住んで、 その後の流れでは、 向こうで中古の一軒家かマンションを購入するかもしれないということだ。
「あの家には凛との思い出も沢山あるけど、 死んだじいちゃんの思い出もあってさ、 俺があの家を引き継いでいくんだって勝手に思ってたから、 やっぱり寂しいよ」
両親が叶恵と奏多を連れて今の家に引っ越してきたのは、 奏多が小学校1年生の時だった。
元々あの家は母の晴恵が生まれ育った家で、 晴恵とその姉である伯母が出て行ってからは、 祖父と祖母が2人だけで住んでいた。
奏多が幼稚園を卒業する頃、 祖母が脳出血であっけなく亡くなった。 残された祖父は家事一切が出来ない人だった。
伯母が嫁いだ園田家は造園業を営んでいて、 家を離れることが出来ない。
そこで、 奏多たち百田家が銀行の社宅を引き払って、 祖父の家に引っ越してくることになったのだった。
「婿入りじゃなくて同居だけど、 普通は嫁の実家に住むのって嫌がりそうなもんだろ? だけど、 うちの父親は、 ばあちゃんの葬式の場で男泣きしてるじいちゃんの肩を抱いて、 『自分が一緒に住みます』って宣言したらしい」
「お父さん、 優しい人なんだね」
「うん。 いつも人の話をニコニコ聞いてて穏やかな人だと思う。 うちは母親がチャキチャキしてるから、 バランス取れててお似合いの夫婦だよ」
次男次女同士だからか考え方が臨機応変で自由だし、 子供達にも自分の考え方を押し付けるようなことは一切してこなかった。
だから子供達が2人だけで暮らすのもアッサリ認めたし、 叶恵が漫画家になりたいというのも反対しなかったのだ。
「じいちゃんは昔、 自動車部品の工場で働いてたらしくて修理が得意でさ。 家の電気製品が壊れると、 ドライバー1本であっという間に直しちゃうんだよ。 あと、 自転車とか俺のオモチャとかも。 ゴツゴツした太い指なのに、 とても器用に動くんだ。 あの指先を見てるのが好きだったな…… 」
「おじいさんのこと大好きだったんだね」
「うん。 今は漫画パレスになってる和室、 あそこがじいちゃんの部屋だった」
畳に差し込む陽だまりの中で、 黒い座卓に向かって新聞を読んでいる祖父。
そこへ、 壊れたラジコンカーを両手で抱えて持っていく半泣きの奏多。
『こら、 男がこんなことくらいで泣くんじゃない。 今すぐじいちゃんが直してやるからな』
そう言って奏多の頭を大きな手でクシャッと撫でると、 部屋の隅に置いてある道具箱からドライバーを取り出し、 老眼鏡をかけ直して作業を始めるのだ。
奏多はその間、 頬づえをついて畳に腹ばいになって眺めたり、 祖父の背中に乗っかって肩越しにその手元を見つめたりして過ごすのだった。
「まるで魔法使いみたいだって思ったよ」
その祖父も、 奏多が中学校に上がる前に心不全で亡くなった。
「そっか…… 奏多が飛行機とかロケットに興味があるのって、 おじいさんの影響なんだね」
「えっ?…… あっ、 そうか…… 」
自分では意識したことは無かったが、 もしかしたらそうなのかも知れない。
幼い頃に祖父から聞いた、 乗り物の仕組みや機械の話、 自転車やオモチャの修理の仕方……。
そう言ったものが、 奏多の工学部志望に繋がっているという凛の指摘は、 あながち間違いではないように思えた。
「そういう話を聞いちゃうと、 余計にあの家を手放すのが惜しくなるね」
「…………。 」
「奏多? 」
奏多が空を見つめたたまま、 じっと何事か考えている。
凛がその横顔を心配そうに見守っていると、 突如奏多が体ごと向いて、 彼女の両手をバッと握りしめた。
「凛…… 凛は俺の…… あの家が好き? 」
「……?……うん、 大好き」
「いつかさ、 俺があの家を継いだとしてさ、 俺と一緒に住んでって言ったら、 凛はイヤ? 」
「イヤじゃない」
「分かった…… 俺、 決めたよ」
「えっ?! 」
「俺さ…… 」
その時、 5限目の予鈴が聴こえてきた。
「凛、 また帰りに話すから! 」
***
その日の夕方、 居間で母親の晴恵に電話する奏多の姿があった。
「あっ、 母さん? うん、 俺。 急に電話してごめんな。 …… うん、 元気だよ。 姉貴は部屋でパソコン作業してる。
それでさ、 俺、 父さんと母さんにお願いがあって……。 いや、 別に怖い話じゃないよ、 家のこと。 うん、 姉貴から聞いた。 そっちでマンション買うかもって。 それでさ…… 」
奏多は一呼吸おいてからハッキリと告げた。
「俺、 この家に住みたいんだ。 俺が第一志望の大学に合格したら、 このままこの家にいさせて欲しい」




