3、 君が足りない
8月に入ってすぐに母親から電話があったと思ったら、 家を売ると言い出した。
「私とお父さんが東京に行って、 叶恵も来年から東京でしょ? だったら家を残しておくよりも売っちゃった方がいいと思うのよ。 」
パニック状態の頭でようやく捻り出した言葉が「嫌だよ」だけって、 脳がないにも程があるだろ、 俺……。
「嫌って言ったって、 奏多だってその家に1人じゃ掃除も管理も大変でしょ? そりゃあ思い入れがあるのは分かるけど、 あなたがもしも遠くの大学に行っちゃったら誰も住まなくなるんだし…… 」
古い家を無人のまま残しておくと余計に傷んで売れなくなる。 空き巣も心配だ。
そう言われたら返す言葉もない。
だけど……。
***
「だけど、 あの家には沢山の思い出があって、 漫画パレスもあって…… あそこにいるのが当然だと思ってたから、 なんだかショックでさ」
電話口で奏多が溜息まじりに呟くと、 凛も寂しそうに「うん」と短く答えた。
夏休みに入ってから、 凛とは一度も会っていない。
代わりに電話とメールだけは毎日していて、 こうしてお互いの日々の出来事を報告しあうようにしている。
『夏休みは受験の天王山』、『夏を制するものが受験を制する』なんて言葉をよく聞くけれど、 それが本当かどうかなんて分からない。
夏に頑張ったって秋に気を抜いてちゃいけないと思うし、 それこそ冬に失速したら一巻の終わりだろう。
要は持久力と持続力、 そして瞬発力だ。
周りが急に速度を上げたからって、 無理にペースを上げてはいけない。 そのあとは息切れするだけだ。
周囲に惑わされず、 自分のペースを崩すことなく、 呼吸を整えて一定の速度で走り続ける。
目標を射程距離に捉えたところで徐々にペースを上げていき、 最後に一気に加速してゴールを目指す。
持続的かつ計画的に、 コツコツと下地から積み重ねていける人間が、 それを踏み台にして、 より高みを目指せるのだ。
付け焼き刃で短期で詰め込んだ知識なんて、 肝心な時にアウトプット出来なくて使い物にならないのがオチだ。
だから毎日必要な勉強時間を確保して、 確実に知識をモノにしていれば大丈夫。
たまの息抜きで充電したって振り落とされることはない……。
夏休みに入る前に、 そう陸斗に言われたものの、 やはり頻繁に凛と会うのは憚られた。
会えばもっと会いたくなる。
一緒にいる時間が幸せなだけに、 離れるのが辛くなる。
その気持ちを引きずったまま家に帰れば、 勉強モードに切り替えるのが難しくなるだろう。
だから凛と話し合って、 夏休みは電話とメールのみと決めた。
朝の『おはよう』と、 塾の行き帰りの『行ってきます』と『ただいま』メール。
そして毎晩10時から30分間は、 電話でお互いの1日の出来事を報告しあうのだ。
この30分間が至福の時間で、 今の奏多にとっては唯一の楽しみとなっている。
「私にとってもその家は大切な場所だから無くなったら悲しいけど…… 奏多のお母さんの言ってることも理解できる」
「うん、 俺一人には広すぎるっていうのも分かるよ。 掃除だって出来ないしさ。 何より、 俺が地元の大学に行けるとは限らないしな…… B判定だし」
先月末に行われた模試でB判定だったことを奏多は気にしていた。
B判定なら合格圏内だというのは、 アテにしてはいけないと思う。
合格確率60パーセントなんて、 C判定の人間がちょっと頑張れば追いつき追い抜かれるレベルの数字だ。
奏多は第一志望の国立大学の他にも、 私立を1校だけ受験するつもりでいるが、 私立に合格した場合は東京に行くことになる。 だけど、 出来ればここから離れたくはないのだ。
「恋愛脳って言われるかもしれないけどさ…… やっぱり俺、 凛の近くにいたいんだよ。 クラスが変わっただけでも寂しいのに、 新幹線の距離になったら、 俺は生きていけない気がする」
電話の向こう側から凛のクスクス笑いが聞こえてくるが、 奏多にしてみたら、 あながち冗談でもないのだ。
凛の成績なら確実に第一志望の大学に合格する。そこには奏多の最大のライバル、 樹先輩が待っている。 他にも、 凛を狙う男子なんてそこらにゴロゴロ転がっているだろう。
「くっそ〜っ、 負けたくねえ! 」
思わず奏多が叫ぶと、 凛が驚いたように「えっ?! 」と声を上げた。
「どうしたの? 勉強がシンドイ? 」
「勉強は頑張るしかないけど…… 圧倒的な凛不足だ。 凛成分が足りない! 今すぐハグしたい! 補充してえ! 」
無理だというのは分かっている。
だけど、 言葉にして発散するくらいは許されてもいいはずだ。
「私だって…… 」
「えっ? 」
凛のか細い声が聞こえてきて、 奏多は耳を澄ませた。
「私だって奏多に会いたい。 圧倒的な奏多不足だよ。 今すぐギュッてして欲しい。 だけど、 奏多とずっと近くにいたいから、 地元の大学に行けるよう頑張る。 あと、 花火も観に行きたいし」
夏休みにずっと会わないと約束したけれど、 唯一の例外で、 月末の『みなと花火大会』だけは一緒に観に行くことになっている。
親に許されて公認の仲になってから初めて出掛けた思い出の場所。 それだけは毎年一緒に行こうと約束したから……。
「私は花火大会を楽しみにして頑張ってるから、 奏多もそうだと嬉しい…… 」
「そんなの、 俺だって! 」
そうだ、 我慢しているのは自分だけじゃない。 凛だって目標のために頑張っているのに、 自分だけがネガティブになってイジけてどうするんだ……。
ウジウジする前に、 今やるべき事をするしかないのに。
「そうだよな。 別れさせられるかも知れなかった高1の夏を考えたら、 こうやって堂々とデートの約束が出来てる今はシアワセなんだよな…… 俺も花火大会がめちゃくちゃ楽しみ。 っていうか、 凛の浴衣が今年も見れるんだな。 その姿を想像しながら日々頑張るよ」
「うん。 それじゃ、 花火大会までのエネルギー補充で…… 奏多、 耳をすませてて」
「えっ? 」
チュッ!
耳元で短いリップ音が聴こえて、 一気に全身の血流が速まった。
「ハグの代わりにはならないだろうけど…… ちょっとは足しになったかな? 」
「…… はい…… 十分です」
というか、 ある意味ハグ以上にクルんですけど……。
「ふふっ、 ちょっと少女漫画を真似てみました。 如何だったでしょうか? 」
「如何もなにも…… 最高です! もう一回やって! 」
「イヤだよ恥ずかしい! そんな風に改めて言われると照れるでしょ、 バカっ! 」
「だけど…… 」
凛はそう言って、 最後に、
「大好きだよ、 奏多。 オヤスミ」
そのままプツッと電話を切った。
「く〜っ! アイツは、 もうっ! 」
両手で顔を覆い、 椅子の上でさんざん身悶えしてから、 奏多はふ〜っと息を吐き、 背筋を伸ばした。
そうだ、 とにかく今は、 勉強に集中だ。
「とりあえずシャワー浴びてこよ」
不意打ちの電話越しのキスは奏多の煩悩を思いっきり増幅させたけれど、 それ以上にヤル気も回復させてくれた。
花火大会までの3週間、 奏多は凛のリップ音を励みに、 それまで以上に勉強に打ち込んだのだった。