12、 [ 恋してハニワ君 ① ]
梅雨明け間近の7月初旬、3–Aの教室は期末テスト終了直後の開放感と、夏休み直前の高揚感に包まれていた。
ーー あっ、『ちょこ』って言った。
カバンに教科書を入れて帰宅準備をしていた凛は、聞き覚えのある単語を耳にして、一瞬その手を止めた。
『姉貴とさ、『ちょこ』って雑誌を捨てる捨てないで揉めてるんだよ』
教室のドア近くで奏多が一馬と陸斗に語っている。
『姉貴が、小学校後半の3年間『ちょこ』って雑誌をずっと買ってて、最後の2年間は『すまいる』っていうのも合わせて一緒に定期購読してたんだけどさ、それが分厚いからすっごく嵩張るんだよ』
ーー 『ちょこ』が 12冊X3年間=36冊、『すまいる』が12冊X2年間=24冊……確かに嵩張りそう。
凛は素早く頭の中で計算し、60冊の雑誌がズラリと並ぶ様を想像する。圧巻だ。
『自分の部屋がもう一杯だから、『ちょこ』を俺の部屋に置かせろって言い出してさ。 俺の部屋だってそんな余裕ないって言ったら、それじゃ『すまいる』を置かせろって。 フザケるな! 捨てろ! って言ったら逆ギレされた』
叶恵さんらしい……と、一馬と陸斗が笑っている。
『ちょこ』は、可愛い付録が人気の小学生女子向け月刊誌だ。
小学校で凛の友達だった杏奈が定期購読していたのも、 この『ちょこ』だった。
凛が人生で初めて読んだ漫画が『ちょこ』で、 最後に触れたのも『ちょこ』。
目が顔の半分くらいの大きさのキラキラしたヒロインが沢山出てきて、 恋をしたりお洒落をしたり。 ワクワクしながら読んでいた。
最後は読み終わる前に母が杏奈の家に返してしまったが……。
そこには楽しい思い出と苦い思い出が混在している。
凛が昔の思い出に記憶を飛ばしている間にも、 奏多達の会話は続いていた。
『……だからさ、 仕方ないから一旦引き受けたフリして、 ほとぼりが冷めた頃にコッソリと毎月1冊ずつ捨ててやろうかと思って。 姉貴ズボラだから絶対に気付かないと思うんだよね』
『いや、 叶恵さんなら気付く気がする』
『うん。 彼女なら抜き打ちでチェックが入りそうだな』
『マジか。 姉貴ならやりそうな気がする。 ヤバイな』
3人の掛け合いが面白くてつい聞き入ってしまう。
盗み聞きは良くないと思いつつ、『ちょこ』の行く末がどうにも気になる。
机の中を覗くフリも限界が来たので、 さっきカバンに入れた教科書とノートを再び取り出し、 机の上で開く。
期末テストの自己採点……という体で教室に居座ることにした。
『まあ、 なんだかんだ言っててもさ、 奏多って最後には叶恵さんの言うことを聞いちゃうんだよな』
一馬のからかうような口調にすぐには答えず、 ちょっと間を置いてから奏多が答えた。
『う〜ん……多分さ、 ちょっと憧れてる部分もあるんだよね』
『叶恵さんにか? 』
『っていうか、 生き方っていうか考え方っていうか…… 」
『ほら、 俺って一馬や陸斗みたいにサッカーとか部活をやってないだろ? 』
コレがしたい! という熱が無いのだと言う。
『そう言えば奏多はあまり熱くならないよな。 沸点も高い』
『うん。 懐が深いっつーか、 お前、 本気で怒らないもんな』
陸斗の意見に一馬も同意する。
『お前ら、 俺に感情が無いみたいな言い方するな! ……てか、今はそういう話じゃないだろ。
俺ってさ、自分で言うのもなんだけど、 良くも悪くも毒が無いんだよ。 害は無いけど華も無いって言うか、 冒険しないっていうか…… 』
『奏多、 お前それ、 “中庸の美“ってやつだよ。 己を知ってバランス良く生きるって、 逆になかなか出来ないもんだぜ。 誇れよ』
『『 チュウヨウ? 何だそれ? 』』
さすが父親が高校教師! お前は哲学者かっ?! と奏多と一馬が一斉に突っ込む。
ーー チュウヨウ……ね。 初めて聞いた。
凛はノートの端に小さく『チュウヨウ』とメモする。
家に帰ったら意味を調べるつもりだ。
3人の『チュウヨウ』話は尚も続いていた。
さっきせっかく陸斗が褒めたところを、今度は一馬が混ぜかえす。
『……だけどそれって、 要は平凡でいいですよって事だろ? 自分の天井を知ってそれ以上無茶しないって、 楽だけど楽しくなくない? 天井をぶち破らなきゃ見えない世界ってのがあるだろう? 』
『そう! それなんだよ、 俺が言いたいのは。 限界突破だよ。 リミット解除だよ!
一馬はさ、 天井をぶち破って先に進める、 “そっち側” の人間なんだよ。そういう、天井の先を見たいって欲が、そもそも俺には無いんだよ』
的を射たり! という表情で奏多が力説しているが、 凛から見れば、奏多は十分 “そっち側” じゃないかと思う。
天井をぶち破る程の熱量は無いとしても、 天井をそっと持ち上げてキョロキョロ覗くくらいの静かな好奇心と行動力はしっかり持ち合わせている。
誰に対しても屈託なく話し掛けていくし、 手助けすることに躊躇しない。
グイグイ前に出て行く訳ではないのに、 いつの間にかクラスの中心にいて笑顔を振りまいている。
クラスで誰とも積極的に付き合おうとしない自分にも、 目が合えば微笑みかけるし挨拶してくれる。
華がある……とは言い難いが、 皆から好感を持たれる人気者だと思う。
対して自分はどうか……と、 凛は頭の中で3人の言葉を反芻してみる。
『コレをしたいという熱』 『己を知ってバランス良く生きる』 『天井をぶち破る』
どう考えても、自分はそのどれにも当てはまらない。
そんな事を考えながら、漫才のような3人の会話に意識を戻す。
『だけどうちの姉貴は好きな物に貪欲だし一直線だろ? 姉貴も 一馬と同じ “そっち側” なんだよ。 夢中になったら、 周りが何て言おうが気にしねえ!って感じでさ。そういう自分が出来ない事をやってる人には、 理屈抜きで敵わないな……って思っちゃうんだよ』
ーー 『…… 自分が大人になって若い頃を振り返った時、我が青春に一片の悔いなし! って拳を振り上げる事が出来るのは、やっぱ俺じゃなくて姉貴の方だと思うんだよな……』
最後に奏多がそう言い終えると、3人はお喋りを続けながら、 カバンを手に廊下へと出て行った。
ーー 私も帰ろう。 予定外に長居をしてしまった……。
凛が教科書をカバンに入れていると、
『小桜! 』
急に名前を呼ばれてビクリとする。
声の方を向くと、 奏多が開いている教室の窓から顔を覗かせて手を振っていた。
『小桜、 さよなら。 また来週! 』
その後ろから一馬と陸斗もバイバイと手を振っている。
凛も『さようなら』とペコリと頭を下げながら、 やはり彼は、 “そっち側” の人間だ…… と思った。
3人が去ってから、 先程までの会話を噛みしめる。
妙に胸に突き刺さった。
改まって自分を振り返ってみる。
ーー 今の自分にどうしてもやりたい事なんてあったっけ?
私の青春は悔いだらけだ。一片どころか後悔の塊だ。
我慢することに慣れてしまって、期待したり望んだりする事を諦めていた。天井をぶち破る以前に、天井を見上げようともしていなかった……。
不意に、杏奈の家で過ごした日々を思い出した。
同時にあの時の穏やかな空気感が一気に蘇ってくる。
踏みしめるたびにギシギシと鳴る古い階段、 階下のお店から漂ってくる美味しそうな食べ物の匂い。 畳の部屋、 沢山の本、 楽しいお喋り……。
あの空間には私の望む物が一杯詰まっていたのに、 自分の軽はずみな行動のせいで全部失ってしまった。
そのカケラだけでも、 取り戻す事は出来るのだろうか……。
そう言えば、 あの日お母さんが返しちゃった雑誌に載ってた漫画、 なんてタイトルだったっけ? あのお話の結末はどうなったんだろう。
目の大きい可愛いらしいヒロインの顔を思い浮かべてみる。
ーー天井をぶち破らなきゃ見えない世界
勇気を出せば私にも見えるのだろうか? その先の世界が。
一歩踏み出したら何か変わるのだろうか?
好きなものを好きだと言える私になれるのだろうか……。
***
「それで、 家に帰ってから『ちょこ』で昔読んでいた漫画のことをインターネットで調べたんです。 タイトルは忘れていたけれど、 『ちょこ』『連載』『はにわ』で検索したら、すぐに分かりました」
「あっ、 [恋してハニワ君 ① ] だ! 」
奏多の指摘に凛が頷く。
「それで、 夏休みに入ってからずっと悩んでたんですが、 やっぱりどうしてもまた読みたくなって。 自分のお小遣いで漫画を買うまではいいんですが、 問題はその隠し場所でした」
「小桜のお母さんに見つかったらやっぱりマズイんだよね? 」
「そう。 もう以前と同じような事で揉めたくないから。 母に叱られる事よりも、 私のせいで母と義父が喧嘩するのを見たくないんです」
小4のあの夜の尊人の厳しい声音と愛の泣き声が耳にこびり付いて離れないのだ。
「母がしょっちゅう掃除に入るので、 私の部屋には漫画を置いておけません。 それで考えたのが、 新学期に学校が始まってから漫画を買って、 そのまま通学カバンに入れて学校に持っていく。 学校帰りに図書館で読んで……を繰り返して、 読み終わったら、 勿体ないけれど古本屋に売ろうって考えていました」
それが予期せぬ抜き打ちの持ち物検査で、 計画が狂ってしまったのだった。
「だから、 私があんな突拍子も無い行動をしたのは、 百田君の言葉に影響を受けてなんです。 たかが漫画一冊で……って笑われるかも知れないけれど、 私にとっては自分を変える第一歩だったんです」
凛の話を聞き終わった途端、 叶恵が奏多を指差して思いっきり吹き出す。
「ぶはっ! 奏多、 あんた、 そんな事を熱く語ってたの?! うわっ、 現役の中学生が厨二病を発病中じゃん! 笑える〜! 」
叶恵に爆笑された奏多が、 溜息をつきながら右手で顔を覆う。
「小桜、 姉貴の前でそういうコト言うの、 マジでやめて。 この人は後々までネタにして俺をからかい続けるから、 本当に」
「えっ、 私はあの会話を聞いて感動したのに。 駄目だった? 」
奏多を褒めるつもりで話したのに、何故か笑い話になっていて不本意である。
「だけどね、 凛ちゃん」
「????」
叶恵が口角をニヤリと上げて、 嬉しそうなワクワクしたような表情で、凛に顔を近づけてくる。
「凛ちゃんが心に沁みた名言の数々、 ぜ〜んぶ奏多のじゃないから」
「えっ?! 」
「中庸は陸斗のセリフ、 天井をぶち破るは一馬」
「あっ!!!!!!! 」
「だけど、 限界突破とかリミット解除とか……百田君もカッコ良かったんです。 あと、 『我が青春に一片の悔いなし! って拳を振り上げるのは……』 っていうのも、 お姉さんのことを本当に尊敬してるんだな、 凄いなって感動して…… 」
「ああ……凛ちゃん、 残念なお知らせがあります」
「???? 」
「それ全部、ゲームやってたら普通に出てくる言葉だから。 『我が青春に……』ってのもパクリだから。 世紀末を舞台にした有名な漫画の人気キャラが『我が人生に…… 』って言ってたのを、 奏多が上手い具合に言い換えて調子乗ってただけだから。 残念! 」
「ええっ?! 」
「小桜……もうマジで勘弁して下さい。 俺のライフはゼロです」
褒めたつもりが逆に奏多を弱らせているらしい。
喋れば喋るほど墓穴を掘っていくので、 もう黙っていようと凛は決めた。
だけど、 本当に、 あの日の出来事が凛にとって大きな転機となったのだ。
あの日の3人の会話を聞かなかったら、 漫画を買おうとしなかったら、 あの日に持ち物検査が無ければ…… きっと今日のこの時間も無かった。
「私、 本当に百田君には感謝しています。 それに…… 噂の百田君のお姉さんが、 噂以上に素敵な人でした。 それに漫画部屋……パレスも夢みたいな空間で…… 」
奏多たちの会話にしょっちゅう登場する『叶恵』の奔放さに密かに憧れ、 勝手にイメージを膨らませていた。
想像以上に綺麗で優しくて熱くて、 とんでもなく自由で……。
会えて良かった……と心から思う。
ーー ほんのちょっとの勇気の先に今日の出会いがあった……。
「私……、 自分で言うのも変なんですけど、 今すごく自分を褒めてあげたい気分です」
「私も凛ちゃんを褒めてあげる! 凛ちゃんはずっと頑張ってきた! よく頑張った! いろいろ頑張った! 」
横からギューーーーッと強く抱きしめる。
「俺も小桜を褒める! 小桜は頑張ってるよ! 」
横で奏多もニコニコしている。
百田姉弟の優しさに触れて、 鼻の奥がツンと痛くなった。
叶恵がもう一度ギュッと強く凛を抱きしめてから、 その目を見つめて言った。
「凛ちゃん、 これからもうちに来ていいから。 と言うか、 私の権限において、 あなたにこの漫画パレスを使用する許可を与えます! 」
「えっ?! お姉さん…… 」
「叶恵さんって呼んで」
「叶恵さん…… 」
叶恵はすっくと立ち上がると、 後ろの押入れまでスタスタ歩いて行った。
カラーボックスに並んでいる本をジッと見つめたあと、 おもむろに中の雑誌を全部引っ張り出し、 ドサドサッと畳に落とす。
「姉貴っ、 何やって……! 」
「凛ちゃん、 このスペース、 凛ちゃんにあげる 」
奏多の驚きの声を無視して、 叶恵が衝撃の発言をした。
「えっ? 姉貴、 何言って…… 」
「凛ちゃん、 このスペースを凛ちゃんにあげるから、 これからはここに凛ちゃんの本を入れていきなさい」
「叶恵さん……? 」
「あなたはもう漫画をコソコソ持ち歩かなくていい。 これからはここに好きな本を並べて、 ここで好きなだけ読み耽ればいい。 いいよね? 奏多」
そう言われて、 凛は困惑の表情を浮かべながら、ちらりと右側の奏多を見やる。
「うん。 漫画パレスの主……じゃなくて、女王様がいいって言ってるんだからいいんじゃない? 小桜、 またここにおいでよ」
その柔らかい微笑みに、 凛はようやくホッとして叶恵を振り返った。
「叶恵さん、 本当にいいんですか? 私がまたここに来ても」
「モチロン! 女に二言はありません。 って言うか、 漫画家志望としては、 漫画を読みたいのに我慢してる読者がいるなんて許せないのよ」
ーー それに……
自分達を信用して頼ってくれている子を放っておくなんて出来ない……。
真剣な表情になった叶恵が、 凛を真っ直ぐに見つめて言った。
そしてそのまま奏多に向かい、
「奏多、 そういう事だから、 ここに落ちてる本は全部あなたの部屋に持ってってね」
当然のように言い放った。
「はああああああっ?! 」
奏多が思わず不満の声をあげたが、 嬉しそうにしている凛の前でこれ以上水を差すようなことを言いたくなかったのか、 すぐに声を引っ込めた。
「…… 分かったよ」
畳に落ちている雑誌を手に取り横に積み上げていく。
凛は、 畳に積まれたその雑誌を見て思わず声をあげた。
「あっ、 『ちょこ』! 」
それは、 懐かしいあの少女雑誌。
……ということは……。
「もしかして、 『すまいる』の方は百田君の部屋にあるの? 」
あの期末テスト最終日に奏多が愚痴っていた『本を捨てるか捨てないか』論争は、 結局叶恵の希望通りになっていたということか。
「そうだよ。 俺の部屋に36冊も本を置く余裕はない! って言ったら、 それじゃ24冊で我慢してやる……って『すまいる』の方を押し付けられたんだよ」
ーー なのに結局『ちょこ』もかよっ!
苦々しい顔をしながらも、 せっせと雑誌を積み上げている姿に凛はぷっと吹き出す。
奏多を見て笑っている凛の肩を、 叶恵がトントンッと叩いて呼んだ。
「凛ちゃん、 またしても残念なお知らせです」
「???? 」
「凛ちゃんが好きだった [恋してハニワ君] は人気がなくて2巻で打ち切りになりました」
「えっ、 嘘っ! 」
学校で人気者のヒロインが、 皆から『ハニワ君』と呼ばれている暗くて無表情なヒーローに恋をしてアタックするという王道の話だった。
「本当です。 私はその作家のファンではないから本を買ってないけれど、 漫画喫茶で2巻とも読みました」
「ラストは? 」
「う〜〜ん、 打ち切り感が半端なかったね。 2巻で当て馬が現れて、これから! って思ったら、 なんか急にヒーローがイケイケで積極的になってヒロインとくっついて終わったわ。 キャラ激変でビックリした」
「ああ、 そうなんだ…… 」
いずれ2巻も買いたいと思っていたのに、 購買意欲を削がれてガッカリする。
「そんな凛ちゃんに嬉しいお知らせ。 その作者さんの以前の作品が、 そこに積んである『ちょこ』に載ってるの。 こんど奏多に頼んで読ませてもらうといいよ」
「ありがとうございます! 」
「ちょっと〜〜、 2人で勝手に盛り上がってないで、 この本運ぶの手伝ってくれないかな〜 」
奏多に呼ばれ、 叶恵と凛は顔を見合わせて笑った。