35、 再会
「あなた…… あんな事を言って、 本当に良かったの? 」
「んっ? 」
凛を見送った愛が隣の席に座って尋ねると、 尊人は不思議そうな顔をして、 手にしていたコーヒーカップを置いた。
「いいって、 何がだい? 」
「凛は本当に、 医師にならないって言い出すかも知れないわよ」
「いいじゃないか、 そうなっても僕は構わないよ」
「でも…… 」
不満そうにしている愛の肩に手を乗せると、 その瞳をじっと覗き込んで言った。
「前にも言ったことがあるけど…… 僕は、 凛がどうしたいかが重要だと思ってるんだ。 あの子が他の道を選ぶのなら、 それを応援したいと思っているよ」
「だけど、 私は…… 」
「そもそも、 どうして君はそこまで医師にこだわるんだ? 大和への対抗心か? 」
「私は…… 」
愛は自分の手元を見ながら言葉を詰まらせたが、 体ごと尊人の方に向き直ると、 覚悟を決めたように話し出した。
「だって、 あなた言ってたじゃない。 息子が自分の跡を継いでくれたら嬉しいって! 」
「えっ?! 」
「一緒に病院で勤務してた時よ、 あなたまさか忘れちゃったの?! 」
それはまだ尊人と愛が付き合っていない、 ただの同僚だった頃の話。
病棟のナースステーションで患者のカルテを読んでいる尊人に、 後輩の医師が話しかけてきた。
「それじゃ小桜先生は、 奥さんの実家の病院を継ぐんですか? 」
「どうだろうね、 まだ具体的には決まってないけど、 将来的にはそういうことになるのかもね」
「いいですね〜、 総合病院の院長になって好き放題じゃないですか。 息子さんもいるし将来は安泰ですね」
「そうなってくれたら嬉しいけどね」
尊人は目線を上にあげて頭の中の記憶をフル回転させてみた。
「そんなこと…… 言ったのかな? 」
「言ったわよ! あなたがそう言ったの! だから私…… 」
「えっ、 まさかそんな事のために医師にこだわってたのか?! 」
愛の両肩を掴んで聞くと、 彼女はこっくり頷いた。
「だって…… 私と付き合っていなかったら、 あなたは今頃自分の病院を持っていて、 自分の思うように治療が出来ていて……。 私のせいで夢が叶わなかったのなら、 せめて子供を医師にするだけでも…… って」
尊人はハア〜ッと大きなため息をついて、 肩をつかむ手に力をこめた。
「愛、 君は思い違いをしてるよ。 僕は別に自分の病院を持ちたいなんて思ったことは無いし、 息子に跡を継がせたいとも思ったことはない」
「だって…… 」
「君が何を聞いてどう思ったかは自由だけど、 そんなのは話を受け流すために僕が適当に答えてたに過ぎないよ」
別れた妻とは勤務先の院長が持ってきた見合い話で知り合った。 そのまま話が進んで半年後には結婚式を挙げていた。
可愛い一人息子も出来て、 自分なりに家族に愛情を感じ注いでいたつもりだった。
だけど、 入り婿になった覚えはないのに、 義父の病院を継ぐことが当然のように話が進んでいたこと、 息子の習い事に関しても一切の相談がないことに違和感を感じていた。
ーー 妻は相手が将来有望な医師なら誰でも良かったのでは?
病院では妻の実家のことは周知の事実で、 何かといえば、 『羨ましい』だの『将来安泰』だの言われてウンザリしていた。
否定しても認めても、すぐに噂になってしまうから、 曖昧にはぐらかす事にしていた。
「……だから、 そんな言葉を真に受ける必要は無かったんだよ。 第一、 僕には空きのベッド数を数えて金勘定をするなんて性に合わないし、 最先端の治療が出来る今の環境が気に入ってるんだ」
「だったら…… そんなことで今まで凛を苦しめて…… 私はなんて事を…… 母親失格だわ」
肩を震わせる愛を抱き寄せて、 背中を優しく撫でながら、 尊人は耳元で諭すように言葉をかける。
「愛は母親として必死にやってきた。 悪いのは僕だ。 君がずっと罪悪感を持ち続けていたとは知らずに、 凛のことを任せきりにしてきた。 僕に責任がある」
「僕は凛にも大和にも負い目があって、 両方とちゃんとした親子関係を築いてこなかった…… だけど、 僕たちの夫婦関係もまだ未熟だったんだ。 夫婦関係の溝を埋めるために子供を利用することは、 もうやめよう」
子供たちは何処にでも飛んで行ける大きな翼を持っているのだ。 子供たちが羽ばたこうとしているその背に大きな荷物を背負わせることはもうやめよう。
自由に飛んでいくその足にしがみついて重石になるよりも、 飛び立つその瞬間を笑顔で見送れるように……
「凛はもう大丈夫だ。 僕たち以外にも支えてくれる人が出来たんだ。 だからこれからはもっと自分たち2人の時間を大切にしようじゃないか。 幸いにも胸部外科の新人が優秀で、 どんどん仕事を任せられるようになっている。 そのうち週末には家でのんびり過ごせるようになるさ。 家で一緒にパンを焼くのも悪くないだろ? 」
「ふふっ…… あなたがパンを焼くの? 」
「ああ、 外科医の手先の器用さを舐めるなよ」
「……そうね、 そんな老後もいいかもね…… でも、 家のことは私に任せて、 あなたはまだまだ沢山の患者さんを救ってちょうだい。 私はそんな姿を見て好きになったんだから」
「ああ、 そうだな…… 子供たちがちゃんと飛び立っていくまでは現役で頑張らないとね…… 」
***
花火を見に行く人が多いのか、 電車の中は浴衣姿の男女や家族連れで混雑していて、 立っているのがやっとだった。
電車を降りてすぐに帯の乱れを確認してみたけれど、 自分では後ろ姿が良く見えない。
ーー だけどそれよりも、 早く……
早く奏多に会いたい。 奏多が待っている。
気持ちが急いて、 自然と早足になった。
逸る気持ちを、 慣れない浴衣と下駄が邪魔をする。
ーー 早く、 早く……
凛は息を切らしながら玄関の前に立ち、 浴衣の裾を整えた。 髪に手をやり、 パールの簪が落ちていないか確かめる。
子供のとき以来の浴衣姿、 奏多に初めて見せる浴衣姿。
彼はなんて言うだろう……。
一呼吸置いてから玄関のボタンを押すと、 廊下から人が向かってくる気配がした。
一歩後ろに引いて、 姿勢を整え澄まし顔を作る。
震える胸を押さえてジッと待っていると、 ガラリと玄関の引き戸が開いた。
「………… えっ?! 」
引き戸に手をついたままで奏多がフリーズした。
メガネの奥の目を、 これでもかと言うくらい見開いている。
「えっ…… え〜〜っ?!! 凛? どうして? 」
「あのね、 お義父さんがね、 大和と会って…… もう解禁って…… あっ、 これ、 新しい電話も……」
たもとを探ろうとした凛の手を奏多が掴んだ。
「あの、 この浴衣、 お母さんが買ってくれてね…… 」
凛の言葉に返事もせずに、 掴んだ手首に口づけた。 そのままその手を愛おしげに自分の頬に押し当てる。
「凛、 いろいろあったのは分かった。 浴衣姿も後で恥ずかしいぐらい思いっきり褒めるから…… 」
「……まずは抱きしめさせて」
グイッと玄関の中に引き込むと、 引き戸をピシャリと勢いよく閉めた。
磨りガラスの向こう側で、 2人の姿が重なった。




