10、 叶恵降臨
突然の大声に奏多と小桜がギョッとして振り返ると、 そこにはショーの司会者さながらに両手を広げ、 満面の笑みでポーズをキメている叶恵の姿。
「姉貴……!」
手を下ろし、 スタスタと部屋に入ってきた叶恵が奏多の目の前で立ち止まる。
「ただいま、 奏多」
「おっ、 お帰り」
叶恵がチラッと奥にいる小桜を見やり、 すぐさまその視線を奏多に戻した。
顔に浮かんでいた笑みがスッと消えたかと思うと、 その刹那……
バッシーーーーーーーーン!!!
奏多の左頬を見事な平手打ちが直撃した。
勢いで奏多は後ろによろめき、 座卓に足をぶつけ、 顔をしかめた。
「い…………っ」
「百田君!」
慌てて駆け寄った小桜が奏多の隣に立ち、 それから泣きそうな顔で叶恵を見る。
「お姉さん、 すいませんでした。 私が本を見たいって百田君にお願いしたんです。 大事なお部屋に勝手に入って申し訳ありませんでした! 」
丁寧に頭を下げ、 次いで隣の奏多の赤くなった頰を見て、 眉根を寄せた。
「百田君、 ごめんなさい、 私のせいで……」
ポケットからハンカチを取り出し、 奏多の頰に当てようとしてハッとし、
「あの、 すいません。 ハンカチを濡らしたいのでキッチンをお借りします」
叶恵に会釈してパタパタとキッチンに走っていった。
小桜が部屋を出ていくのを見届けると、 叶恵が奏多に近寄り、 右手でグイッとその胸ぐらを掴んだ。
身長168センチの奏多と165センチの叶恵が向かい合うと、 目線がほぼ同じ高さでぶつかる。
栗色のナチュラルボブを毛先だけクルンとワンカールして、 前髪を斜めに流している叶恵は、 一見すると大人カワイイ系モデルにも見えるが、 その性格は外柔内剛、 剛毅果断、 男以上の漢前なのである。
その漢前からパッチリした大きな目で至近距離から睨まれて、 奏多の方が先に目を逸らした。
「かっ……勝手に入って悪かったよ……でも……」
「イチャついてたの? 」
「へっ?」
「私の神聖な漫画宮殿にJC連れ込んでイチャついてたのかって聞いてんでしょうが! 」
胸ぐらを掴んだ手をギュッと捻って更に絞り上げられ、 奏多は
「無いから! ギブ! ギブ!」
と叫んで両手で振りほどいた。
ようやく叶恵から逃れた奏多は、 廊下を横目でちらっと伺い声を潜める。
「本当になんにも無いから! 小桜はただのクラスメイトなんだから、 彼女の前で絶対そういう事を言うなよ」
「はあ? 彼女じゃない? 彼女でもない子を親の留守中に家に連れ込む方がもっと不純でしょうが! あの子の目、 ちょっと赤かったよね。 泣いてたんじゃないの? 一体何やらかした?! 」
ーー 「このむっつり眼鏡がっ!! 」
叶恵がそう大声で叫んだ直後、 廊下から「フフッ……」と吹き出す気配があって、 それから小桜が俯きながら部屋に入ってきた。
「ハンカチを濡らしてきたから…… 」
濡れたハンカチを奏多の左頬にそっと当てる。
神妙そうに俯いてはいるが、 その肩は小刻みに揺れており、 時折頬を緩めて「フフッ」と息を漏らしているところを見ると、 どうにも笑っているとしか思えない。
「小桜さ……」
「んっ? 痛い? 」
「うん……痛いけどさ……笑ってるよね」
「フフッ……ううん……笑ってない……ククッ」
「絶対に笑ってるじゃん! 聞こえてたよね、 姉貴との会話」
「違う……最後のとこだけしか……ハハハッ!」
耐えきれず小桜が大笑いし始めた。
「うわっ、 姉貴が変なこと言うから笑われたじゃん! 」
「うるさい。 お前がむっつり眼鏡だっていうのは前世から決まってるんだよ! 一馬はウザいけど命名センスだけはホント抜群だわ」
またしても小桜に笑われた……。
なんだかさっきから格好悪いところばかり見られているような気がする。
「ところで……」
叶恵が今度は真剣な表情で、 奏多と小桜の顔を交互に見ながら口を開いた。
「私にはこの状況を説明してもらう権利があるよね」
奏多の後ろにある黒い座卓を指差しながら顎をしゃくって、 2人に座るよう促した。
***
「まずは私の言い分を先に言わせてもらうわ」
「「 はい…… 」」
座卓を挟んで叶恵の向かい側に正座した奏多と小桜が同時に頷く。
「まず、 この部屋が私の大切な『漫画宮殿』だと言うことは分かってるよね」
「「 はい……」」
叶恵がこの部屋を『漫画パレス』と呼んで悦に入っていることは知っているが、そんな恥ずかしい呼称をわざわざ小桜の前で自慢げに語らなくてもいいではないか。
奏多はそう思いながらも、 怒れる姉を目の前にそんな事を言う勇気もなく、 ただただ神妙にするしかなかった。
「そうは言っても私の本当の部屋は2階にあるわけだし、 他の家族だって本を読みたい時があるでしょう。 だから基本的に、 家族がここに立ち入る事を禁じてはいない。 そうでしょ? 奏多」
「はい……仰る通りです」
「私が問題にしてるのはね、『私の留守中』に『私に内緒』でJCを引っ張り込んで、しかも『私の漫画パレス』に連れ込んで泣かせてたってこと」
20歳にもなった成人女性が、 女子中学生をJCなんてイニシャル呼びして欲しくない。 引っ張り込むとか連れ込むとか、 不穏な響きの言葉も使わないでいただきたい……。
心の中でそう思ったものの、 2度目の平手打ちをくらいたくはなかったので、 口には出さなかった。
言葉のチョイスこそ乱暴ではあるが、 叶恵の言っていることはあながち間違ってはいない。
父の転勤で両親が大阪に行った後も奏多がこの家に残れたのは、 ひとえに叶恵の存在があってこそだ。
家事は2人で分担しているとはいえ、 叶恵が保護者として奏多の面倒を見ると言ってくれたから、 親も安心して2人暮らしを許可したのだ。
奏多が何か問題を起こせば、 その責任の所在は叶恵にある事になる。
「それは本当に反省している。 別に姉貴に内緒にするつもりは無かったんだ。 姉貴が帰ってきたら小桜をちゃんと紹介しようと思っていたし、 事情も説明するつもりだった。ただ、 紹介する前に姉貴が急に登場するから……」
「夢の国とか言ってイチャコラしてる方が悪い」
「イチャコラしてないから! 」
「イチャコラしてません! 」
小桜とハモった。
叶恵が大学から帰って来ると、 玄関に明らかに女物の通学履と思われる黒のローファーが揃えてあった。
『奏多が彼女を連れ込んだ! 』
そう確信した叶恵が抜き足差し足で廊下を進むと、 奥の大事な『漫画パレス』から声がする。
入口の引き戸が開いたままだったので、 会話の内容が廊下まで漏れてきた。
『だって本当に凄いんだもの。 夢の国みたい』
『夢の国って、 ネズミーランドかよっ』
『私にとってはネズミーランド以上だよ。 出来るならここに住みたいくらい』
ーー うわっ、 楽しそうじゃないか。 だが許さん!
そこで妙にテンションの高い叶恵が突入してきたと言う訳だ。
「姉貴、改めて紹介するけど、 彼女はクラスメイトの小桜凛さん」
「小桜凛です。 挨拶が遅れて申し訳ありません」
「百田叶恵です。 はじめまして」
叶恵が笑顔で右手を差し出してきて、小桜と握手をした。
ーー あっ、 百田君と一緒。
挨拶の時に言葉だけでなく握手もするのは百田家流なんだと、 小桜は妙なところで納得した。
そう言えば、 笑う時の目元や口元も百田君に似ている気がする……。
「それで、 小桜さんは本当に奏多の彼女ではないと? 」
「違うから! 」
「違います! 」
またハモった。
それでは今日はどうして、 何が目的でこの家に来たのか……。
叶恵の問いに奏多が答えようとした時、 一足先に小桜が話し始めた。
「先日あった持ち物検査で、 百田君に迷惑をかけてしまいました。 私が持っていた漫画を預けたせいで、 百田君が先生に叱られました。 それは元はと言えば私の家庭事情のせいだったので、 それを詳しく説明するために、 今日こちらに来させてもらいました。 でも、 百田君に相談に乗ってもらっているうちに、 私が泣いてしまって…… 」
奏多は、 小桜の家が厳しくて漫画を読めないからうちで読ませてあげようと思った……
くらいの簡単な説明で済ませようと漠然と考えていたため、 家庭の事まで正直に話そうとする小桜に少し面食らってしまった。
「小桜、 何もそこまで話さなくても…… 」
「ううん。 ちゃんと正直に話した方がいいと思う」
小桜はこう続けた。
確かに保護者の留守中に内緒で訪問するのは非常識だった。
近所から何か言われるかも知れないし、 もしもここからの帰り道で自分に何かあったら、 百田家に問い合わせが行くかもしれない。
その時に何も事情を知らないとなれば、 学校や小桜の両親から責められるのは叶恵である。
今すでにこうして無断で部屋に入り迷惑を掛けている以上、ちゃんと隠さずに説明するのが筋だと思う……と。
そう言われると奏多も納得するしかない。
深く考えずに小桜を家に呼んだ自分が情けなくなった。
「百田君にはもうお話ししたんですが……私の両親は、
再婚同士なんです 」
そうして小桜は、 自分の両親の事を叶恵に説明した。
奏多に一通り話した後だったからか、 言い淀む事なくスラスラと言葉が出ている。
細かい部分は端折っていたが、 それ以外は奏多が聞いたこととほぼ同じである。
だが、 その説明の後も、 なぜか小桜は話を終えようとしなかった。
「両親は、 私が小学校に上がるタイミングで籍を入れ、 引っ越しました。 小学校低学年の頃はまだ受験とか考えていなかったし、 比較的自由だったと思います。 母が私に干渉するようになったのは、 小学校4年生の頃でした」
ーー あれっ? こんな話、 聞いてない。
驚いて奏多が小桜の顔を見たが、 彼女はそれを気にも留めない様子で、 そのまま話を続けた。




