8
//事件から10日(土)//
教室の窓の外、桜が落ちていく。
薄桃色の花びらがヒラリヒラリと舞っている。
ケタケタと笑う少女たちと、少し離れて歩く西條さん。
西條さんを引き寄せ、耳元で何かをささやく支倉夢美。憂鬱気な西條さんの表情がさらに曇る。
下校しながら、西條さんをいじる女子たち。その傍らを通り過ぎる男。
支倉夢美の大きな目が見開かれる、下ろされた視線の先――彼女の腹部、セーターが赤く染まっていく。 向坂詩織が首を抑える、指の間から零れでる赤。 愛川碧が逃げる、彼女の背中に包丁が振り下ろされる。西條さんが見ている。
何度も振り下ろされる包丁。白い刃が赤く濡れて、振り上げられた包丁から血液が跳ねる。跳ねた血液が西條さんの頬に飛ぶ。隣の子の血を頬に受けながら彼女は笑っている。
不気味な白昼夢に、寒気を覚えて、教室に座っている自分に意識が戻る。
嫌な夢を見た。
もしも茶色い髪をしていたら、阿藤響は彼女も刺していたはずなんだ。
「高村」
教室を出たところで先生に呼び止められる。
傍らに笑顔の相馬さんがいた。
「相馬から聞いたぞ、西條を訪ねてくれてるんだってな。ありがとな。 こんなの変かもしれないけど、おまえはすごい奴だと思うよ。なかなかできることじゃない。自分のことでいっぱいいっぱいのときに、他の人のことを考えるなんて、簡単なことじゃない」
ポンと肩に手を置かれる。
「無理せずにな」先生は笑って去っていった。
そんなんじゃないです。
心の中でつぶやいた。
《他の人のことを考えている》そんなんじゃない。
ただ自分は、大切な人の死にどう向き合ったらいいのか知りたいだけだ。
あの日、菜々佳が見たものを自分に焼き付けたいだけだ。
どこまでも自分勝手な人間だ。
先生の背中を見つめながら、相馬さんが言った。
「先生も大変みたいだね……そりゃ、生徒が3人も亡くなったんだから当然だけど」
「相馬さん……先生は知ってるの?」
イジメのことと言わなくても彼女はわかったようだった。
「ううん……支倉さんたちは休み時間にやってたし……先生は知らないと思う。それに、西條さんはなんか先生を避けてる感じだったていうか」
「避けてる?」
「西條さん、そもそも人との付き合いに一線引いてる感じはあったけど……先生にはそれ以上っていうか……ああいうなんか苦労知らなさそうな人が苦手とかなのかな」
「そうなの?」
「それか……前に担任と何かあった、とかなのかな? ……とにかく、西條さんは先生をあてにしないから、先生は知らないんだと思う」
放課後。
「休日なのにすみません」
「いいのよ。あの子だって読者が増えてうれしいだろうし」
ティーカップに入ったカモミールティーを頂く。
テーブルに飾られた家族写真を眺めながら、向坂さんが笑った。
「碧ちゃんから聞いたの。学校で、あなたがいないときに先生が言ったんですって」
「高村はつらいのにちゃんと登校してきてるんだ。だからみんなも支えてやってほしい」
スマホをいじっていたウタさんが、先生の目に留まる。
「向坂、おまえちゃんと話聞いてたか? 他人事じゃないんだぞ。おまえだって大事な家族、お母さんとかにもしものことがあったら」
ウタさんの拳が机を叩いた。
「なんでそういうこと言うんですか!?」悲鳴みたいだった。
「ママになにかあったらとか、そういうのやめてください!」
睨みつけたウタさんの眼は泣いていた。
私も思わず先生を睨みつけた。
みんな先生を睨んでいた。
「あの子、泣きながら怒ったんですって」
向坂さんは口元を手で抑えて、目を赤くした。
「私……感動したわ」
拳がテーブルに振り下ろされる。カップが揺れてカモミールティーが零れた。
「そんなことを言う先生は、教師失格、いや人間失格。生きてる価値なし。価値なし!」
もう一度テーブルが叩かれた。
向坂詩織の部屋を訪ねる。
母親想いの娘……なら、どうして?
『罪記』によれば、
彼女はスクールカーストを支配するために、その頂点に君臨する支倉夢美を利用しようとした。支倉夢美とイジメの共犯者になることによって、結束をかため、支倉夢美が自分から離れられないようにした。イジメの内容を動画に撮っておいたのも、支倉夢美が離れようとした際に、脅迫するためと考えれば納得がいく。西條桜子をイジメたのは、向坂詩織にとっては、支倉夢美を利用するための手段に過ぎなかったということか。すべてはカーストの影の支配者になるため。
そんなことのために?
パソコンを開いて、彼女の詩を読み返す。
《……じゃあ、《自己責任》って切り捨てたのはなんでだよ?
そっちは思いやりもしないくせに、こっちだけ思いやったって損するだけ。
人を思いやる心なんて、自己責任と切り捨てられる世界じゃ、擦り切れていくだけ。
だから、思いやる心なんて、共感性なんて無くなってしまった方が、結局得なんだよ》
自分だけ思いやっても損するだけだと、擦り切れていくだけだと、だから共感性をなくした。思いやることをやめたのは、切り捨てられたから。
病んでいるのは世界だとも……。彼女には何かがあったはずなんだ。世界から切り捨てられたと感じるような何かが。
『作品集』のフォルダ内のデータを更新日時で並べ替える。
一番古い日付のものは、今から4年ほど前、彼女がまだ中学生の頃のものだ。
データ名は無題。他のデータには、タイトルが付いているのに、このデータにだけは付いていない。殴り書きのようなイメージを受ける。クリック。
無題
あの日から何も感じなくなった。
たぶん、雄介が全部持って行ってしまったんだろう。
って、なに悲劇のヒロイン気取ってんだよ、うぜぇ。
あーあ……人生つまんねー。
神様なにやってんだよ……せいぜい私を楽しませろよ。
コンコン――ドアがノックされて振り返る。
「お茶淹れなおしたけど、飲む?」
リビングでカモミールティーを頂く。
「感情的になってごめんなさいね」
「いいえ」
……どう聞いたものか、
「あの……」
「なに?」
「詩織さんは、中学の時はどんな感じだったんですか?」
「どういうこと?」
「いえ、どんな学校生活を送っていたら、あんな詩が書けるのか気になって」
「あなた、いいライターになれるかもね」
向坂さんは満足げな笑みをこぼした。
「そうねぇ……女友達の話はあんまり聞かなかったけど……彼氏はいたわ。一つ上の先輩で、一度遊びに来た時に……。そうそう、彼ね、なかなか気の利くヤツで、私の誕生日に来てくれたのよ。彼女の誕生日会じゃなくて、彼女の母親の誕生日会に来るなんてなかなか感心でしょ」
向坂さんはテーブルを立つと、電話近くに置いてあった収納ケースの引き出しを開いた。
「あった」
写真を見せてもらう。
「この子、結構イケメンでしょ。学校でも人気あったんだって……。でもね、なんか知らないけど別れちゃってね。まあ、今の子はみんなそんなもんなんだろうけど」
写真を裏返すと、メッセージが書いてあった。
《早織さん ハッピーバースデー 矢島雄二》
「そうそう、雄二だ。矢島雄二。確か、梅郷大附属受かって、そのまま大学に行ってるんじゃないかな」
梅郷大……地元では有名な大学だ。
電車で行くにしてもだいぶ遠いが、
それでも、
この人なら何か知っているかもしれない。
娘の作品を一度も読まなかった母親よりは彼女のことを知っているんじゃないか。ぶしつけな直観がそう告げていた。
大学に電話をかけ、
今年受験したいと思っている、
知り合いから中学時代の先輩で受かった人がいると聞いて、
矢島雄二さんに会って大学の話とか受験の心得などを聞きたいのですがと話すと、
事務所側は快諾してくれた。
すぐに電車に乗った。
大学のロビー。
観葉植物が飾られた隅の席で会うことになった。
「お忙しいところすみません。桜美坂高校の高村佳太郎です」
深く一礼する。
「いいって、座りなよ。それで、俺に聞きたいことって?」
時間を取らせるわけにもいかない、
「……向坂詩織さんの中学時代の知り合いに、雄介という人がいるはずなんですが……ご存じありませんか?」
「ゆうすけ?」
「はい」
突然が過ぎただろうか。
矢島さんはしらばく沈黙した後、深くため息を吐いた。
「ゆうすけ……そういやそんな名前だったかな」
遠くを見るような目で窓の外を見た。
「キミ、アイツと付き合ってたの?」
「いいえ」
「へぇ……そうでないなら、よくその名前知ってるね。 アイツ、妊娠してたんだよ……俺の子供」
「……」言葉につまる。
「雄介は、その子供の名前だ。 《男なら雄介、女なら香織》って、アイツはしゃいでた……だけど、俺たちあの頃ガキだったし……とても育てられる状況じゃなかった。決してアイツとの未来を考えていなかったわけじゃない。でも、それは今じゃないって。 だから、親父の知り合いの医者のところに行って、親に内緒で中絶させたんだ。 俺が殺した。 費用は10万くらいだったかな……親にはダチのマウンテンバイク壊したからその弁償代とか嘘ついて、金借りて……ガキの命に比べたら安いもんだよな……でもさ……今でも悪いことしたとは思ってないんだ」
遠くを見ていた矢島さんの眼がこっちを向いた。自嘲気味な笑みをこぼす。
「俺の家は比較的裕福だけど……それでも、ネットとかニュース見てると貧乏な家って悲惨じゃん。子供育てるために学校辞めたって、中卒じゃ俺たち底辺になるだけだし……子供だって、死ぬのは一瞬でも、貧乏な家庭に産まれたら一生苦しむことになる……だから、俺は、いいことをしたとは言わないけど、そんなに悪いことをしたとは思ってない」
矢島さんの視線が窓の外に戻る。
「でもアイツは違った……《そんな簡単に答えを出せるなんておかしい》とか、《私たちの赤ちゃんなんだよ》とか言って俺を責めた。 でもさ、愛で生きていけるほど甘くはないだろ……世の中ってやつは。愛がなくても生きていけるけど、金がなくちゃ生きていけない。稼ぐ力もないヤツが子供育てるとか何言ってんだよって話じゃん。《現に、バカな奴らが子供捨てて捕まってんじゃん》って、《今中絶しなかったら俺たちがアイツ等みたいになるんだよ》って俺は言ったんだ。 そんな悩むなら避妊しとけとか言わないでくれよ? 普段はゴムしてたんだ……生でヤッたのは2回くらい。大体がセックスなんて苦行みたいなもんだし……それでゴムまでつけるとかどんな拷問なんだよって話だろ。セックスに夢見てんのは女喜ばすしんどさ知らない童貞くらいだろ。《俺たち相性悪いよって……無理してたんだよって……勝手な夢見んのやめてくれないか》って……思わず本音がボロボロ出てた。 アイツは真っ青な顔して……泣きもしなかった……。そのあとは、スイッチ切り替わるみたいに、俺の意見に従ったよ。絶望するってああいう顔なのかもな……でも、俺はあの時の選択を間違ってないと思ってる。いつか笑える日も来るだろうって……こいつさえいなければとか、子供呪いながら生きるよりはずっといいだろ」
「……」
「アイツとは中学以来会ってないからわからないんだけどさ……高校はどんな感じだった? 友達3人もいたんだろ……リア充じゃん。……うまくやってたんじゃないかな。 女って男が思ってるほどやわくなくて……結構たくましいものなんだろ」
《ヒドイことしておいて、相手のたくましさに丸投げとか、ヒドイよ》
菜々佳の涙を思い出していた。
向坂詩織の言葉を思い出す。
《あの日から何も感じなくなった。
たぶん、雄介が全部持って行ってしまったんだろう。
って、なに悲劇のヒロイン気取ってんだよ、うぜぇ。
あーあ……人生つまんねー。
神様なにやってんだよ……せいぜい私を楽しませろよ》
パソコンでは伝わりようのない、叫びだった。
静寂を破るようにアラームが鳴る。
「もう、いいかな? 俺もこれから用事あるし」
「はい」
「あ、そうだ。ひとつだけ忠告しておくけど……あんまり同一視しすぎない方がいいよ」
「?」
「確かに、アイツとキミの妹さんは同じ犯人の被害者だけど……アイツは妹さんじゃないんだからさ……あんま他人のことに首突っ込み過ぎない方がいいよ。そういうの、ウザいって思う人もいるから」
返す言葉も浮かばず、頭を下げた。
去っていく矢島さんの足音を聞きながら、
ふと窓の外を見る。
自分は何をしているんだろう?
カウンセリングの先生は言った。
同じ痛みを抱える人と、会って話をすることは、お互いの助けになる、と。
すぐ近くに、同じクラスに向坂詩織はいた。彼女は痛みを抱えて生きていた。
誰にも知られることなく、彼女は大切な人を失っていたんだ。
電車を降りると、駅で先生を見かけた。部活帰りの生徒たちの見送りだろう。
蛍光灯の下で見る先生の顔はやつれてみえた。教え子を3人失い、未だ犯人は捕まっていないという緊張状態、辛くないわけがない。
「お疲れ様です」
「おう、高村……」先生はきまり悪そうに笑った。
「別に疲れちゃいないよ」
二人、遠ざかっていく電車を見送る。
「なあ、高村」
「はい」
「おまえに比べたら全然だけど……俺もおまえくらいのときに、しんどかったことがある。受験戦争真っただ中っていうのかな。塾通いで、思わず叫び出したくなる時があった。塾までの電車に揺られながら、受験なんて気にせず、学校に遊びに来てるような奴らが羨ましかった。髪染めて、制服着崩して、苦労なんて何も知らないみたいな顔ぶらさげて、カラオケ行こうとか騒いでる奴らが羨ましかった。俺はこいつらみたいにはならないぞって思ってた。だけど、いい大学入ったからって就職できるとも限らないし、新聞は不祥事ばかり報道して、大人を尊敬できなかった、社会を信用できなかった、不安だらけだった。……だから、とりあえず勉強にしがみついた……そんな生徒だったよ俺は。 塾の帰りの電車で、座りたいのに座れなくて、前の席を見たら背広姿の禿げたおじさんが口開けてよだれたらして寝てるんだ。きたねぇとか、だらしねぇとか……こうはなりたくねぇなあって思ったよ。こっちは勉強で疲れてんのに席変われよとか、こいつ苦労なくて幸せそうだなとか思った。 けど……ふと思ったんだよ。本当にそうかなって……なんか雑巾みたいにクタクタになってる背広見てたら……本当は俺と同じか、俺以上にしんどいんじゃないかって……。思わず周りを見回したよ。そしたら、誰もかれもそんな感じだった。笑ってる奴なんてひとりもいなかった……みんなしんどそうだった。みんな同じなんだなって思ったよ……きっと、叫びたくなるようなストレスを、疲れた顔ぶらさげながら黙ってるんだって。そう思ったら、なんかうれしくなったんだ……大人って頼もしいじゃないかって。叫びたくなるようなストレスを、こいつら黙って耐えられるんだって……なんてタフな奴らだよって。だから、くたびれたおっさんたちの顔を見ながら思ったんだ……俺も早く大人になりたいって。どうしたらなれるのかなんてわからないけど……俺も大人になりたい……そう思ったんだ。ごめんな……変な話して……高村……しんどいと思うけど……お互い生きような」
「……はい」
「あ、でも、高村は話してくれよ……おまえは子供なんだから話してくれていいからな」
先生は慌ててそう言った、