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//事件から6日(火)//
夢を見る。
お寺の庭で、桜の花びらが舞っている。
ひときわ強い風が吹いて、お堂の中に桜が舞い散る。
写真の中の菜々佳に、花びらが降る。
ああ、これは去年の春の夢だ。
「……不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識……」
お経を読む声が聞こえる。
お坊さんか。
それにしても、ずいぶんと若い声……。いや、女性の……女の子の声だ。
顔をあげると、お坊さんがいるべき場所には、黒い髪を肩まで流したきれいな後ろ姿があった。
顔は見えないが、それが誰なのかは、わかった。
目が覚める。
「西條桜子だ」
菜々佳のお葬式は家族葬だった。父の知り合いの住職さんが取り仕切るお寺で行われた。だから、西條さんが訪ねるなんてことはなかった。彼女の来訪はあくまで夢の中のことだ。
けれど、彼女のお経だけは聞き覚えがあった。優しい声だった。厳かなイメージのある、どこか堅苦しいお経を、彼女はまるで、泣いた子供をあやすように、怒る子供を諭すように唱えた。ごめんなさいと泣いているような小さな背中をじっと見ていた。
あれは……いつのことだ。
思い出せない。
放課後。
電車に乗って3駅先の支倉さんの家を訪ねた。
制服を見るなり快くあげてくれた。
「すみません、突然押しかけてしまって」
「いいのよ、マスコミもいなくなって、ぼーっとしてただけだから」
「お焼香をさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
部屋に通してもらう。机の上に写真が飾ってあった。
「夢美に似合う仏壇が見つかるまでは、とりあえずこのまま」
支倉さんが苦笑する。
写真に向かって合掌。ここにきてはじめて、かける言葉がないことに気付く。せめてお祈りのひとつでも覚えておけばよかった。
「夢美の部屋はそのままなの……」
そう言って部屋を眺める横顔が、母の横顔と重なる。
「あの子がいた時は、ミシンを動かして、あの子に似合う服を作ってた……それが楽しみだったの。 インスタに載せたら、主婦友が売ったらお金になるって言い出してね、それからはサイトを立ち上げて、私はデザイン、主婦友が受注生産……共同経営してたの。 あの子に似合う服……そう思うといくらでもデザインが浮かんだわ。 マスコミって嫌ね……まだ、あの子が死んじゃったことを受け入れられないのに、来る日も来る日も押しかけて、私に、あの子が死んだことを押し付けてくるの。 あの子の死を押し付けて、叩きこむだけ叩きこんで……向坂さんが声をあげたら、すぐにそっちに向いて……くずども」
支倉さんがきまり悪そうに笑う。
「ありがと……もう誰も、こっちのことなんて気にしてないって思ってたから……なんだかうれしいわ。……西條さんも少し冷たいんじゃないかしら……一緒に帰っていたってことは、友達でしょ。お焼香くらいしに来てもいいと思うのよ。そう思わない? 警察も役立たずよね、税金泥棒よ。どうして前の事件の時に捕まえておかないのよ。おちおちしてるから、うちの子が……夢美が……」
支倉さんは肩を震わせ、そのまま蹲ってしまった。
気の毒だと思うものの、何も出来ず、ただ見ているしかなかった。
こんな調子で、あと3人、訪ねられるだろうか? 距離としては支倉さんと向坂さんと愛川さんは同じ駅の周辺に住んでいて、訪ね易い。西條さんにいたっては桜美坂の駅周辺、つまり家に帰る途中に訪ねればいい。高一の時に配られた住所録で確認して予定は立ててある。しかし、物理的に可能であっても、精神的にはひどく困難だ。
リビングへ戻る支倉さんに随って部屋を後にする。
「取り乱しちゃってごめんなさいね……あの事件の日も……ミシンを動かしてたわ。あの子のための洋服を作ってた。 棺桶に眠るあの子に着せたの。まるで、眠れる森の美女だったわ……見に来た人みんな……お姫様だねって……。ほんと……あの子は、永遠に眠り続けるお姫様だった……。そうだ。見本が余ってるの……私には私が作った雛型、オリジナルがあるから、……もしも彼女とかいるなら、良かったらプレゼントするわ」
箱に入った服を見せてもらった。
「こんなキレイな洋服を頂いたら、飛び跳ねて喜びそうなヤツを知っているんですが……」
「あら、じゃあその子にあげて」
「いえ……もう、そいつはいないので」
「別れちゃったの?」
「いいえ……死んだんです。正確には殺されました……妹は、1年前……通り魔に刺されて亡くなりました」
「――っ……あなた、最初の被害者のお兄さんだったの……あ、ごめんなさい。私知らずにあんなこと言っちゃって」
「いいんです。……俺も、こんなこと、起きてほしくありませんでした」
「自分のこともあるのに……わざわざ来てくれてありがとう……あなた、立派ね」
「いいえ……そんなんじゃないんです……。自分勝手に、自分の都合で押しかけているだけなんです。すみません」
向坂さんと愛川さんを訪ねることは断念して、とりあえず西條さんの家の前まで来た時だった。家から出てきた背広姿の女性と目が合った。
「高村佳太郎君、よね?」
「マスコミの方ですか?」
彼女は慣れた手つきで警察手帳を見せた。
恐らく、犯人の手がかりを知りたくて西條さんのもとを訪ねているのだろう。
「ごめんなさい、いきなり知らない人から名前を呼ばれたらビックリするわよね。 佳太郎君は桜子ちゃんのお見舞い?」
「そのつもりですが……、あの、警察はどこまで犯人の手がかりをつかめているんですか」
「ごめんなさい、桜子ちゃんは解離性健忘で、事件の話になると混乱してしまうみたいなの」
「そうですか」
「だから……佳太郎君。あなたにも、捜査に協力してほしいの。私には言いにくいことでも、クラスメイトのあなたには言えることもあると思うの。それに、彼女が思い出せない事件のことも、もしかしたら思い出せるようになるかもしれない。桜子ちゃんのためにも、亡くなったお友達のためにも、一日でも早く犯人を捕まえたい……そのためにはあなたの協力が必要なの。同じ痛みを知っているあなたなら、きっと私なんかより彼女の力になれると思うの」
なりふりかまっていられない、そんな焦りが伝わってくる。恐らく、事件があってから何度も西條さんのもとを訪ねているのだろう。
「これ、私のケータイの番号。どんな些細なことでもいいから、電話して」
差し出されたメモ用紙を受け取る。
気持ちもまとまらないまま、呼び鈴を押した。
//西條桜子の記憶//
私が中学生の頃の話だ。
放課後に担任の教師から呼び出された。
机の上に置かれたDVDの表紙には、水着を着た自分が写っていた。 何も知らない無邪気な笑顔を振りまいていた。 3本目か4本目のやつだ。
「お母さんから聞いたよ。家のローンの返済のためにお金がいるんだってね」
家計簿を眺めては深いため息を吐き、夜遅くクタクタになって帰ってくる母を助けたかった。自分が力になれることがうれしかった。大人たちはみんな《カワイイ》とほめてくれた。自分はいいことをしている。 小学5年の保健体育の授業を受けるまで、彼らの目を意識するまで、自分が性的な目で見られていることを知るまで、私は自分のしていることを後ろめたく思うことはなかった。
「偉いな」
咎められるのかと身を固くしていた私に、担任は笑いかけた。
「ところで、着替えるとき、カメラマンの前で裸になったりするのかな? 撮影の際にプライベートゾーンに触られたことはなかった?」
全身が氷のように冷たくなるのがわかった。
「あ、誤解しないでくれよ。これは調査だから。 ほら、悪質な事務所とかだといけないからさ。 そうだ、まだローン返済できてないんだろ? また出るんだろ? そしたら絶対買うから。応援するよ」
目の前がよく見えなかった。頭に血が上り過ぎたからか、身体は冷え切っているのに、頭だけが熱かった。
夢遊病のように気が付けば自分の部屋にいた。
誰かに知られるのではないか? クラスの子たちにバレたらどうしよう。イジメられるんじゃないか。びくびくしながら、よく眠れない日が続き、目が覚めて眠っていたことに気付く、そんな日が続いていた。
よりによって先生にバレるなんて――悪夢は最悪の形で現実になった。家に帰っても、パートに出ていて母はいない。目を閉じると母との約束が浮かんできた。
「お父さんが帰ってきたら、また三人で暮らそう? それまでは、お母さんと一緒にこの家を守ろう?」
母は夢見がちだ。そんな日は来ないこと、私はとっくにわかっている。誰一人当てにはできない。結局、自分だけだ。
自分の体を自分で抱いて、しゃがんで小さくなって、ゆっくりと前後左右に揺れる。いつからか癖になっていた。目をつぶると、まるで母に抱かれた赤子のようで、少し落ち着く。身体を左右に揺らしながら、チクタク、チクタク……。いっそ爆弾になれたらいいのに。トゲトゲのついた時限爆弾。粉々になって消し飛んでしまいたい。こんな自分、消えてしまいたい。《お父さんの家》? 《私たちの家》? ふざけんな。あんたは家のために娘を売ったんだよ。あんたも私も捨てられたんだよ。待ってたって《お父さん》は帰ってこねーよ。《応援する》? ふざけんな。ジロジロこっち見てんじゃねーよ。《悪質》? DVD買ってる時点でてめえも同じだろうが! ああ、そう言えたらいいのに。こんな世界滅んでしまえばいいのに。ううん、世界なんて壊せなくていい。私の周りのくだらない大人だけでも、殺せればそれでいい。その程度の殺傷能力、その程度の火力で十分だから、ああ、私が怒りで弾け飛ぶとき、あんな奴ら全員、私を苦しめる奴ら全員、私の破片で、血まみれになってクタバレばいい。
「――してるの?」高村君の声に、現実へと引き戻された。
「え? なんて? ……ごめんなさい、ぼーっとしてしまって……」
私は、高校三年生の自分の身体を抱いていた。
「指、怪我してるの?」
捜査に協力してほしい――そう言われても、どんな聞き方をしたらいいのか皆目見当もつかないまま、思わず西條さんの手を見た。彼女の掌、指の付け根のあたりが赤くなっていた。
「ああ、これ……竹刀ダコ、竹刀の振り過ぎ。ほら、私、選択科目剣道だから」
「そっか」
「ええ、そうよ。……やあね。だいぶ経つのになかなか消えないの。あーあ……もしも消えなかったら、どうしよ。やだなぁ……」
《やだなぁ……》か。
菜々佳も、髪がまとまらないとよく呟いていた。通学前に洗面所を独占され、いつまでやってるんだと思ったが、今思えば、年頃の女の子はみんなそういうものなのだろう。
「西條さんも女の子なんだな。なんか意外だ」
掌を見つめていた目が、ジロリとこちらを向いた。
「ええ、私は女の子よ」
「あ、いや……ごめん。そういう意味じゃなくて、その、西條さんは落ち着いてるっていうか……大人なイメージがあったから……女の子っていうか女の人って感じだったから」
「そう」
西條さんの表情が少しだけ柔らかくなった気がした。
どうしたものか……。インターホンを鳴らすと彼女の声がして、答えるとしばらくしてから制服姿の西條さんが現れた。母親はパートでいないという。彼女に導かれるまま2階の彼女の部屋に通された。女性の部屋に上がるのは気が引けたが、彼女が落ち着ける場所で会うのが一番だと思ってお邪魔することにした。西條さんは椅子に座り、俺は勧められるまま壁に立てかけてあったパイプ椅子を開いて腰を下ろした。部屋に不釣り合いなパイプ椅子は、婦警さんが訪ねてきたときのために用意したのだという。
「さっき、家の前で婦警さんに会ったよ……」
彼女の表情があからさまに曇った。
「それで……事件のことで」
「ヤメてッ!」
西條さんの自分を抱く手に力がこもった。こみ上げる悪寒を抑えつけるようになおも強く抱きしめる。
「私なにも知らないッ覚えてない!」
抑えきれない悪寒に全身を震わせながら、
「思い出したくない! ナンデそんなこト聞くノヨッ!」
ぶんぶんと首を振る。
悪夢を振り払うように。
「ごめん……」
下校中、通り魔に遭い、友人3人を目の前で惨殺され、自分だけターゲットから外されて助かった少女。いまも心に深い傷を負い、事件当時のことを思い出せない。
そんな彼女に事件のことを思い出させようとするなど、およそまともな人間のすることではない。
捜査に協力してほしい――そう言われたから?
違う。
「……ごめん……ひどいことをしてるんだと思う……」
あの日失った現実味が、自分を無神経にさせている、そんな自覚がある。
「怖い、よね……俺も、……妹を失った日からいつも使ってた通学路が歩けない。 迂回して学校に通ってるんだ。 夢の中では何度も通るのに……実際には通れない。 通ったら、……また誰か殺されるんじゃないかって……怖いんだ。 あの路を通ったら……今度は父さんが刺されるかもしれない……母さんが刺されるかもしれない……そんな強迫観念が消えない。 そんなのあり得ないって思っても……あり得ないことが実際に起きたから……もう、常識とか当たり前が信じられないんだ。 安心できない……怖いんだ。 実際には、俺があの路を通ろうと通らなかろうと……被害者は出た……別にあの路が呪われているわけでもない。 でも……やっぱりいまだに通るのは怖い。 だけど夢は見る……夢の中ではあの路を通ってるんだ。 菜々佳がいるから……追いかけて……あの路を走ってるんだ。 守りたくて奔るのに、いつも間に合わない……守れない……菜々佳が路の先で、霊安室で見た白い顔して倒れてる。いつもその繰り返しの夢だ……いつも助けられないで……菜々佳は殺されてしまう。 それなのに何度も夢を見る。 俺はきっと……守れないことをわかってる……菜々佳が死んでしまったことをわかってる。 だけど、アイツだけ死んでしまうのが嫌なんだ。アイツだけ辛い思いをするのが嫌なんだ。刺されるなら、俺もいっしょに刺されたかった」
西條さんと目が合う。
気まずさに目をそらす。
「西條さんにはひどいことをしてると思う……自分勝手だと思う。 けれど……あの日、菜々佳を襲った痛みを少しでも知っておきたいんだ」
これが本心だ。けれど、だからといって彼女を傷つける理由にはならない。
「ごめん……思い出したくないこと、思い出させようとして」
「……あの日のこと……聴いて、どうするの?」
「……事件があった日、西條さんが見たもの……ソレが、菜々佳が見たものだと思うから」
「そんなもの見てどうするの?」
「……」
「高村君は……妹さんと同じものが見たいの?」
強くうなずく。
「そう……。それって……自分への罰?」
「…………そうかもしれない」
「婦警さんが言ってた。《あなたは悪くない、悪いのは犯人だ》って」
「……一緒に登校してたんだ。菜々佳がハンカチを忘れたって言って、それで別れて……5分と経ってなかったんだ……菜々佳は俺と別れてすぐ、通り魔に遭ったんだ。俺が一人で行かせたから」
「家にハンカチを取りに帰って、その途中で通り魔に遭うなんて誰がわかるの? わかりっこない」
「それでも……俺は…………何かできたはずなんだ」
沈黙。
カチ、カチ、カチ、時計の音だけが聞こえる。
西條さんは思い出したようにつぶやいた。
「……何かできたかもしれない……何かしてあげたかった……自分を責めるのは……あなたが悪いからじゃない。……彼女のために……何かできたはずだと自分を責めるのは……あなたが、彼女を大好きだから」
とつとつと子供に絵本を読み聞かせるような声だった。
西條さんと目が合う。
「あなたは悪くない」
小さな声――その声色には同情の柔さもなければ、説得の硬さもない。ただそれが事実だというように、まるで空が青いというように、彼女はつぶやいた。
「ごめんなさい……あの日のことは本当に、思い出したくないの。 だけど、他の話ならするわ……だから、良かったらまた来て」
「こっちこそごめん……」
19時のニュース。
「警察の方から、犯人を挑発するような行為は控えてほしいと注意されましたが、そんなの知ったことじゃありません。だったら早く捕まえろ、って話です。 私のプロファイリングによれば、犯人はメンタルクリニックへの通院歴がある可能性があります。 もしかしたら入院していたかもしれません。 1年間犯行が行われなかったのは、犯人がその間入院していたから、という可能性もあります。 ここ最近になって退院した者、または自分で勝手に完治したと思って来院しなくなった者、そういった患者を調べる必要があると思います。警察は、こういった可能性も視野に入れて捜査するべきです」