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//支倉夢美の走馬燈//
うちの家に飾ってあったフランス人形。
ママのお気に入りだった。ママのママ、おばあちゃんからもらったモノだった。
ママはいつもソレを眺めては、カワイイと笑っていた。
夜寝る前には必ず、ママはフランス人形をじっと見ていた。真剣そのものの目で。
私は何を見ているのかわからなかった。ただ、それはママの寝る前の儀式なんだと思っていた。
けれど、地震があった日、フランス人形は倒れて、左手の小指、その指先が欠けてしまった。ママはフランス人形を捨ててしまった。
その日以来、ママは私を見るようになった。ママは私を眺めては、カワイイと笑った。夜寝る前には必ず、ママは私をじっと見ていた。
私は常々思っていた。カワイイ顔して性格サイアクって娘、よくいるけど、それはみんなが好きなのは、カワイイであって自分ではないってわかっているから。 みんな《カワイイ》が好きだけど、ぶっちゃけカワイイならなんでもいいんだ。みんなはカワイイを消費したいだけ。別に私の代わりはいくらでもいる。
いつも、夜になるとママは私の顔をのぞきに来る。私を見るんじゃなくて、文字通り、私の顔を見る。じっとこちらを見るママの目は、笑っていない。一度確かに目が合ったけど、決して私を見ようとはしなかった。目は合っているのに、心が向いていないというか、ただ、じっと、ガラス玉を見つめるような目、無機質で血の通わないモノを見る目、おばあちゃんからもらった人形を見るような目だった。カワイイかどうかをチェックしている、そんな目だった。
思えばそうだ、ママは私を必要としなかった。ママは私を認めようとはしなかった。好きな動物はネコちゃん、ウサギちゃん、好きな色はピンク、リボンとかヒラヒラしたスカートがお気に入りとか――ママの趣味ばかり押し付けた。
食事中によく手を叩かれた。
「食べ過ぎ。夢美ちゃん、劣化したらダメでしょ?」
《劣化》?
モノじゃないんだからさ。
友達に話すと「夢美のママは意識高いね」とか「マネージャーみたいでいいじゃん」とか言われた。
小さい頃に一度だけ、トカゲを拾ってきたことがある。
カワイイと思ったから、ママにも見せてあげようと思ったんだ。
ママは私の指の間から、とぼけた顔を出すトカゲを見て、何も言わず、ただ私の手ごと強く払った。 トカゲは逃げていった。赤くなった私の手を引っ張ると、ママは公園の水飲み場の蛇口をひねって、バシャバシャと私の手を洗った。何度も洗いながら、汚い、汚いと呟いた。蛇口をしめて、ハンカチで私の手をふきながら、
「夢美ちゃん、こんなイタズラ覚えちゃダメよ。あんな気持ち悪いモノ、夢美ちゃんは絶対触っちゃいけないんだから、いい? あなたはカワイイんだから、恵まれているんだから、絶対に幸せにならなくちゃいけないの。 だから、もう絶対に、気持ちの悪いモノを触らないで、いいわね? いい子にできるわね?」
高1の生物の授業で、カエルの解剖をしていた時だった。重苦しい雰囲気の中で、突然健二たちのグループが騒ぎ始めた。
「汚ねぇ!」
「おまえふざけんなよ! 体液飛んできたじゃねーかっ」
「ごめんごめん」
どうやら開腹の際に力を入れ過ぎたらしい。健二たちの声に一瞬でクラスの緊張感がほどけていく。
「なぁ、夢美夢美!」健二に肩を叩かれる。
「なに?」
振り向くと、解剖皿に乗った腹を裂かれたカエル。
「ぎゃあ! マジやめてよキモイからっ」大声をあげた。
本当はそんな気分じゃなかったけど。
健二は調子付いて碧たちにも見せて回る。
「わあ! キモイキモイ!」碧が甲高い悲鳴をあげる。
「アハハハハ!」詩織が笑っている。
先生も健二のやることだけあって、苦笑して見守っている。
そりゃそうだ。私と健二がやっていることは、このクラスの誰も止められないのだから。
カーストの上位2名のやることは、絶対なのだ。先生でも従うしかないのだ。
「うわぁ」「キモぉ」「グロイんだけど」そこかしこから声が漏れる。本当はみんなそう思ってましたとばかりに。クラスの空気、その重さが別の方向に変わっていた。カエルの命を扱うという重さから、カエルという気持ちの悪い生き物を扱うという重さに。苦痛だった。
でも仕方ないじゃん。私はカエル好きとか言えないんだから。言ったらダメなんだから。 もしも解剖皿の中のカエルが、私の方を向いて、「夢美ちゃん、ヒドイや、助けてよぉ」なんて言った日には、私は発狂していただろうけど、麻酔を打たれたカエルは何も知らずスヤスヤと寝たままみんなの罵倒を受けていた。
麻酔、そうだ。麻酔だ。私も今は麻痺するときだ。このまま受け流せばいい。受け流せるはずだ。カエル好きなんて忘れて、ママの望み通りのいい子にしていればいいんだ。
「やめなさい!」
空気を破る硬い声だった。
ソイツは私たちを睨みつけた。
唖然とする健二の手から解剖皿をひったくると、その上にハンカチをかけた。
カエルを見世物にしないためだ。
ソイツはそのまま生物教室から出ていった。
「ウゼ」
ばつが悪そうに健二がつぶやく。
「なにあれ、感じわる」
碧が追従する。
ムカつく、
ムカつくムカつくムカつく、
なんで私まで睨みつけたんだよ! なに睨んでんだよ! ムカつく!
私だって本当はイヤだったよ! 私だって本当は可哀相だなって思ってたよ!
なのになんで自分だけそうみたいな顔すんだよ! なんで自分だけが命を大事にしてるみたいな目をしてんだよ! ふざけんな! 気取ってんじゃねーよ! 空気読めよ!
なにおまえだけ、私のしたかったことしてんだよ!
なにおまえだけ、私のできなかったことしてんだよ!
《いい子》でいられなくなったら、ママは私を見なくなる。
ううん、今でも見てない、見てるのは私の顔だけ。
それでも、私の顔すら見なくなるのはイヤだ。
カワイイでいる限り、ママは私を見る。みんなも私を見る。
でも、カワイイってなんだ? そんな四文字で済まされる私ってなんだ?
お腹が痛くなる、
キリキリ痛くなる。
それでもずっと我慢してきた。
なのにアイツはなに?
そんな葛藤、知らないみたいな涼しい顔して……ムカつく。
あんたは、誰にどう見られようとお構いなしってわけ?
ホント……死んでほしい。
「健二と釣り合うの、夢美くらいのものでしょ?」みんなが言った。
「夢美と健二なら絶対似合う」みんなが笑った。
似合う?
私と健二が?
どっかで見たようなペラッペラのイチャイチャやれってか? 空っぽの私を、アイツが埋めてくれるのか?じょーだん、私は別に誰もがうらやむイケメン彼氏とかほしかないんだわ。 フンイキとかキラキラとか要らないんだわ。叩かれたらへこむようなもん、いらない。 みんな見せるの上手すぎ、他人様の目を気にしすぎ、そんでもって他人様いちいち騒ぎすぎ。ゴチャゴチャうるさい誰かの勝手な言葉に、ママも私もみんなも右往左往。
見せてよ、私に噛みついたバカ女。あんたはどんだけのものなのよ? どんだけ叩かれても叩きつけられても、クタバラない強さがあんたにはあんの? 私たちにはあるの? 私らは強いの? そうだ。 強度こそが必要だったんだ。 ママの趣味を壊したかった。 オンナノコが大好きな猫、カワイさの象徴、癒しの存在、愛玩すべきもの――だから壊した。 ママへの反抗、カワイさへの反逆。ネコを殺すなんてヒドイ、誰もがそう言うだろう。解剖皿の中のカエル――生きたまま腹を裂かれたあげく、気持ち悪いと罵られる。どちらも一匹……猫の首を絞めた時、自分がはっきりとママにムカついていることに気付いた。だけど収穫はそれ以上だった。私は強い――そう感じることができたから。 ママのために醜さを殺し、自分のためにカワイさを殺した。ただ、強さだけが残ればいい。
私に、私が強いということを感じさせてくれ! 確かな強度のあるものだけを信じたかった――それが自分の中にもあることを感じたかった――なんでもいいから壊させてくれ――壊せるということが、自分の強さの証明だから……もしも全力でぶつかっても壊せないのなら、それこそが信じるべき確かなものだから。
あのすっとぼけたトカゲの顔、
人の評価なんて全く意に介さない、
人間の理屈の外にあるもの。
アイツの涼しい横顔、
私に噛みついたバカ女。
私たちの作ったヒエラルキーなんて、大したもんじゃないって証明してみせてよ。
ああ、なんで今になってこんなこと考えてるんだろ。
私、道路に横たわってる。
歩けなくなって倒れたんだ。痛くて痛くて痛くて涙も声も出せないまま、道路に引っ張られたみたいに、吸い寄せられるままに崩れたんだ。
ただ体を震わせるしかできなかったはず、
なのに、
今、痛みが抜けていく。
力が抜けていくのがわかる。いっぱいいっぱいだった気持ちが、なんだかどうでもよくなってくる。
タンポポが見える。
ああ、こんなところに咲いてたんだ。
そりゃ、フツーはわからないわな。
でも、
「……ぁん た……きれぃ……」
道端に咲くタンポポ、
その横で、私もあの時のトカゲみたいな顔していられたらよかったのにな。
カワイイ? なにそれ?
気持ち悪い? なにそれ?
オイラはオイラだよ。
そんな顔して、タンポポと一緒に風に吹かれてたら、きっと気持ちよかったろうなあ。
「ぁーぁ……わ たしってば……ぁーぁ……」
目を閉じていないのに、なにも見えなくなった。
//事件発生(水)//
「今日、午後4時30分頃、桜美坂市、花見区の路上で、下校途中の女子高生4人が何者かに襲われるという事件が発生しました。 襲われた女子高生のうち、3人が亡くなり、1人が保護されました」
テレビ画面に、自宅と反対方向の、駅方面への路が映し出される。奥に血だまりが映りこむ。すぐに車道のアスファルトにカメラが絞られた。 なんだこれは? あの日から犯人逮捕の一報を望んで、ニュースを見る癖がついた。《黒いパーカーを着た自転車に乗った男》の目撃情報が報じられてからは、逮捕も近いと期待したものだった。 それなのに……、なんだこれは? 腹部に鈍い痛みが奔り、両足から力が抜けてソファーに倒れそうになる。あの日から座る者のいない食卓の椅子、炊き過ぎたごはんを無言でパウチする母の背中、事件の記事を切り抜き、ファイルしている父のハサミの音。あえて意識の外に追い出した現実を、不意にまとめてぶつけられた気がした。
母が衣装かけのスプリングコートに手を伸ばす。慌ただしくコートのベルトを締める母の顔は青ざめている。
「どこに行くの?」嫌な予感がした。
「すぐ近くなんでしょ、間に合うかもしれないじゃない」
「何に?」
「今度こそ助けなくちゃ」
「誰を?」
母は苛立たし気に俺の方を見た。不安にかられるまま、じっと見つめ返す。母の瞳が揺れた。きつく結ばれていた唇が震え、
「菜々佳を……助けなくちゃ」
泣き崩れた。
急いで抱きしめる。
嗚咽を聞きながら、震える背中をさする。
テレビからは発見者の女性の声が流れている。
「コンビニから帰ってきた途中だったの、路に女の子が倒れてたから、うつぶせで。この前も事件があったから、まさかって、嫌な予感がして。すぐに車を端に停めて、女の子に駆け寄ったんだけど、そしたら血だまりみたいなのが見えて。それで、向こうの方にも女の子が倒れてて、二人。それとしゃがみこんでる子がいて」
「保護された少女はどんな状態でしたか?」
「とにかく動かなかったの。カバンを抱きしめて、硬直してた」
「声はかけましたか?」
「かけられなかった。目を開いたままじっとして動かないから、もしかしたらこの子も死んでるんじゃないかって、そんな風に思っちゃって、怖くて……とにかく警察に電話して、お巡りさんが来てくれるまで私もじっとしてたの。 お巡りさんも言ってたけど、他の子たちはピクリともしてなかったし、私が来た時にはもう亡くなってただろうって。私もそう思うのよ、とにかく動かなかったから、言い方悪いけど、人形みたいだったもの」
カメラが切り替わる。
「この地区では、1年前にも当時高校1年生だった高村菜々佳さんが何者かに刺殺されるという事件が起こっており、警察は事件との関連性を視野に入れて捜査するとのことです」
もしも同じ犯人なら、2度目の事件ということになる。
女子高生Aではなく、高村菜々佳として報道することを許可した父。周囲の協力を仰ぎやすくするため、なにより、犯人の自首を望んでのことだった。自分が奪った命のことをちゃんと知ったなら、きっと罪の意識も生まれると思ったのだ。
その想いは裏切られたのか……、