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//回想 或いは全ての始まり//
「よろしくね、センパイ殿」
その時の笑顔――今でも思い出す。
夕暮れの光の中、ニッコリと笑う彼女の姿が浮かぶ度、してあげたかったことを思い出す。
年上らしく、勉強のこととか、学校行事のこととか力になろう……そんな、なにか色々。
自分なんかに何ができるのかわからないけど、
それでも、
何かしてあげたい、
何かしてあげよう、
そう思えた日のことを思い出す。
そう思って、胸の奥からワクワクして、
あの子を喜ばせてあげるんだ!
珍しく、足取りの軽かった日のことを、
珍しく、明日が待ち遠しかった日のことを……思い出す。
//高村佳太郎の記憶//
「ちょっと! あんたなんて髪してるの!?」
玄関から素っ頓狂な母の声が聞こえてきた。危うくコーヒーに入れていた牛乳をこぼしかけた。
何事かとキッチンから顔をのぞかせてみれば、
「カワイイでしょ? せっかく高校生になるんだし、やっぱり茶髪がいいかな~って」
「不良よ不良! 染め直しなさい!」
「えーやだー」
「《やだー》じゃありません!」
今年から同じ高校に通うことになった妹が、なにやら母ともめていた。
どうやら髪を染めたらしい。
「美容師のお姉さんもすっごい似合うってほめてくれたんだよ?」
「バカねぇ。お金もらって文句言う人いるわけないでしょ」
「そんなことないって、あの目の輝きはウソ吐いてる顔じゃなかったもん、ホントに似合うって思ってた顔だったもん。ていうか、お母さん、人のこと悪く見過ぎ。そんなお母さんだから、こんな娘になっちゃったんだよ?」
「なんてこと言うの、あなたって子は! とにかく、お父さん帰ってきたら家族会議だからね」
妹、菜々佳なりの高校デビューなのだろう。
折よくと言うべきか、ドアが開く音がした。
「なんだ、開いてるじゃないか」
「ちょっと、あなた。菜々佳が、見て頂戴」
「あ、お父さんおかえり」
「おう、ただいま」
「あなたからもなんとか言って」
「うん、似合ってるよ。カワイイじゃないか」
「やった! お父さんわかってる♪ 大好き!」
「もう! そうじゃないでしょ! って、あんた香水までつけてんじゃないの!?」
「ちがうちがう! これは柔軟剤変えたから」
「洗濯機の側に新しい柔軟剤なんて見かけなかったわよ」
「あーもう、いちいちうるさいなあ」
母の追求から逃げてきた菜々佳が、俺の前で立ち止まる。
「どうよ!?」クルッと一回転してみせる。
新しい制服、スカートがふわりとゆれる。
柑橘系の香りに鼻先をくすぐられた。
「カワイイでしょ?」
「ああ」
ガラにもなく素直にうなずいていた。
「よっしゃ!勝った!」ガッツポーズを決める。
なんとなく台無しな気もするが、菜々佳の瞳はいつにも増してキラキラと輝いていた。楽しい学校生活の予感めいたものが、ふわふわとあたりを漂っているようだった。
「はぁ~……我が家の男はダメね。菜々佳に甘いんだから」
心底ガッカリだ、といった感じで母は首を横に振った。
「うそ! ケーキあるの!?」
「おう、入学祝だ」
「やった! コレ全部私の!?」
「違う違う、みんなでわけるんだよ」
「えーー」
「母さんごはんは?」
ネクタイを緩めながら父が聞く。
「私は会議中です」
テーブルに腰かけた母が頬を膨らませる。
「? 会議っておまえ、ひとりじゃないか」
「そーだよ? 一人じゃ家族会議にならないよ?」
あやすように菜々佳が言う。
「一人家族会議なんですっ」
「子供じゃあるまいし」
父は菜々佳と顔を見合わせると肩をすくめてみせた。
その夜、珍しく菜々佳が俺の部屋の扉を叩いた。
「アニキ、ちょっといい?」
「ん? なんか用か?」
「ねぇ、高校の勉強って、やっぱり難しい?」
「まあ、中学よりは難しいだろうけど……」
「クラスの子とも仲良くなりたいんだよなぁ……って、そんな方法アニキに聞いても無駄か」
「少しは大人しくしておけよ……大人しくしてればそれなりにはなるんだから」
「《それなりに》ってなに?」
「それなりにモテそうってことだよ」
「へぇ~アニキにしてはいいこと言うじゃん。 でも、モテるためにぶりっ子するのはしんどいかなぁ……。それに、こんな私でも気の合う人はいるんだよ」
「漫画の話か?」
「ちゃうわ!」
「じゃあドラマか」
「ちゃうわ! ……ったく、アニキは口悪いよね……そんなんだから彼女できないんだよ」「女子のめんどくささは誰かさんのおかげでよく知ってるからな」
菜々佳は思ったことをズバズバ言うタイプだったから、中学ではクラスの中心的な女子に噛みついて、結局、クラスの女子全員から無視されるというイジメにあった。あることないこと言いふらされ、中学の3年間は友達ができなかった。
入学式の朝。
菜々佳は、新しい制服で空を見上げ、うんと伸びをした後、大きなあくびをひとつする。
「なんだ、よく眠れなかったのか?」
「うん……。あーあ、損した気分……ぐっすり眠って、元気よくこの日を迎えたかったなぁ」
通りをしばらく歩いた時だった。
「やべ」菜々佳がつぶやいた。
「なんだ?」立ち止まる。
菜々佳がやべっと言ったときは、大体大したことではない。
「ハンカチでも忘れたのか?」
「あんたはエスパーか」
「どうせそんなことだろうと思っただけだよ。 早く出過ぎなんだよ。ゆっくりしとけばよかったのに」
「一度戻るね」
掛けていく菜々佳の背中に呼びかける。
「ハナカミも持ってないなら取って来いよ」
「それだ!」振り向きざまに両指をさす。
「《それだ》じゃないよ……」
元気よく掛けていく背中に呆れながら、俺は学校までの路を歩いていった。
忘れ物を取りに行った妹は、入学式に現れなかった。
通り魔に刺され、亡くなったのだ。
入学式の途中、担任から呼ばれ「妹さんが事件に巻き込まれた」と言われた。
そのまま担任の車で警察署へ向かった。
母に会えないまま、調書を取られた。
母から二人で登校したと聞いている、別れ際の経緯を確認したいとのことだった。
19時のニュース。
テレビ画面がやけに眩しい。
今朝通ってきた路にレポーターが立っている。
「第一発見者の、仮にここではA子さんとします。 A子さんはその日、寝坊した娘さんを学校に送り届けるために車に乗りました。すると、花見通りの近くで……」
カメラが路をアップにする、思わず顔を背けた。
「丁度このあたりです。倒れている女の子が見えて、車を道路のわきに停めました。駆け寄ってみたところ少女の背中は無残にも、複数回刺されたような傷があり、A子さんは急いで通報しました。 それから5分ほどして、不幸にも、娘の入学式に向かおうとした被害者の少女の母親がその場を通ります。少女の母親は、最初、車の近くで立ち往生するA子さん親子を見て、車がパンクしたのかと思ったらしく、「大丈夫ですか」と声をかけたそうです。A子さんは真っ青な顔をして「女の子が倒れてるの……通報はしたんだけど」と答えました。倒れている少女を見た母親は、彼女の名前を叫び、駆け寄ると抱き起して「どうしたの? なにがあったの? どうしたの?」と何度も声をかけ、無残な傷口を覆うように自分のコートをかけて抱きしめたとのことです」
菜々佳がまだ、検死のために警察署の霊安室か病院に預けられていた頃、母はお葬式の準備をしていた。
「ねぇ、……ちょっと、いいかしら」
ドアがノックされて、菜々佳のケータイを片手に母が入ってきた。
「あの子のなんだけど……私、こういうのよくわからないから……写真を見られないかしら」
「写真?」
「きっと、お兄ちゃんなら、あの子も怒らないと思うのよ。 入学式の前日、私がへそ曲げたから、写真撮らなかったでしょ。……たぶん、あの子、自分で撮ったと思うのよ」
受け取ったケータイを開く。うちは珍しく父以外スマホじゃないからパスワードに阻まれるということもない。ケータイなんてどれも同じだろうに。
写真のフォルダを開くと、母の言う通り髪を茶色く染めた制服姿の菜々佳が、こっちを向いてピースしていた。
一瞬こみ上げてきたなにかを振り払うように母にケータイを手渡す。
「お葬式に、使おうと思うの……折角、可愛くしてもらったんだもの……。あの子だって、この方がうれしいだろうし」
母はケータイの画面を見つめて、目を細めた。
「かわいい……もっと、はやく、ほめてあげればよかったね……ごめんね……かわいい……かわいい……」
写真の中の菜々佳に、母は笑っていた。こんな悲しい横顔があることを知りたくはなかった。俺の顔は感情を忘れたように凍っている。母だってきっと同じはずだ。起きたことを受け止めるなんて出来るわけがない。それなのに、母は笑っていた。自分がどんな顔をしているかなんてきっとわかっていない。ただ、目の前のわが子が愛しくて、愛しくて、悲しみよりも愛しくて笑っている、そんな笑顔だった。
もしかしたら、母はケータイの写真くらい自分で見ることができたのに、あえて俺を頼ったのかもしれない。ふさぎ込んだ俺に声をかけるために。家族の絆を絶やさないために。
菜々佳の死が現実味を帯びないまま、ある時、現実味そのものが菜々佳とともになくなったことに気付いた。
テレビで連日のように菜々佳の死が告げられ、マスコミを名乗る人たちからの突然の取材も受けた。
検死を終えたから引き取りに来てほしいと言われ、両親といっしょに警察署の霊安室まで菜々佳を迎えにいった。
葬式の日、お坊さんのお経を聞きながら、写真の中で笑う菜々佳を見ていた。
すべてが静かだった。
現実はうすっぺらい。
事件以来、妙な浮遊感が抜けない。
目の前の出来事が、ソファーに落ちた羽毛のように、誰かがそばを通ったら、どこかに飛んで行ってしまうような気がする。
本当は、いつだってそうだったのかもしれない。確かだと思っていたのは錯覚だったのか。
家のあちこちに菜々佳の思い出がちらばっていて、ふとした弾みで触れるたび、どこかで、なにかが悲鳴をあげる。
それは抜け殻なのか足跡なのか、少なくとも、そこにいた俺たちは笑っていた。
菜々佳はいつもニヤニヤしていたし、俺はつられるように笑っていた。愛想も遠慮も気遣いもいらないこの場所で、写真を撮るとき必ず「もっと笑え」と父さんに言われる俺が、ハハハと声をあげて笑っていた。
菜々佳がニヤニヤ笑っていた時、俺は幸せだったのだと思う。
菜々佳が亡くなってから何度目の夜だったろうか。
寝静まった夜のキッチン。喉が渇いて目が覚めた。蛇口をひねると、コップに水が流れていく。ごくっ、ごくっ、ごくっと喉がなる音がする。
カーテンの隙間から、月が見えた。正確には、月らしい光の輪郭。
キッチンの下の扉を開けて、包丁を取り出す。他人の手のように見える自分の手に、包丁が握られていた。この浮遊感なら、人を殺せる気がする。犯人を見つけ出し、殺す。罪悪感なんてわからないくらい薄くなってしまった現実味。今なら人を殺せる。そんな気がしてならない。菜々佳を奪った犯人を――殺せる気がする。
《平気で人を傷つけるような人、許せないよ》
菜々佳の声が聞こえた気がした。
「……」
泣いていたっけ。
あれは、
菜々佳が中学1年生で、夏のことだったろうか。
急に学校の話をしなくなった妹が気になって、俺は彼女の部屋を訪ねたのだった。
最初はなにも言わなかった菜々佳だが、
「話してくれるまで、俺はここから出ない」
菜々佳のクラスに、鈴原さんという少女がいて、噂で聞いたことしかないが、父親のDVが原因で両親が離婚、母親と生活保護を受けて暮らしているらしい。 前から、クラスのリーダー的な少女、坂本さんを中心に、女子数人が彼女を見てはヒソヒソ話をしたり、笑ったりしていたらしいが、鈴原さんが作文のコンクールで賞を取った時から、風当たりが厳しくなっていったらしい。
そんなある日、
「てか、貧乏のくせに太ってんじゃねーよ」
それは、明らかに彼女に聞こえるように言っていた。
ホームルームのチャイムが鳴り、先生が入ってくる。
今しかない。
「先生!」菜々佳は手を挙げた。
「? どうした?」
「イジメです」
「? そうなのか?」
先生の気の抜けた声に反して、教室の空気は凍り付いた。
「坂本さんたちが鈴原さんの悪口を言っていました」
誰のともしれない舌打ちが聞こえたという。《朝からなんだよ……》とか《空気読めよ……》とか《めんど……》という声も聞こえたらしい。
それでも、菜々佳は今しかない、そう思って話を続けようとしたが、
「違います」
「え?」
よりにもよって、鈴原さんによって遮られてしまった。
「だって、鈴原さん……」
「先生、高村さんの誤解なので気にしないでください」
鈴原さんの言葉に、
「なんだ、驚かさないでくれよ。先生心臓止まるかと思ったぞ」先生は笑いながら「さあ、ホームルームはじめるぞー。みんな席につけー」
坂本さんがすれ違いざまに、
「バーカ」
耳元で囁いた。
クスクス、女子たちの笑い声が聞こえた。
放課後。
菜々佳は鈴原さんを呼び止めた。
「待ってよ、鈴原さん。先生に本当のこと言った方が……」
「本当のこと? 私はあんな奴らなんとも思ってない。私は負けてない。勝手な思い込みで被害者にすんなよ。私は私にちょっかいかけてくるバカどもより、あんたみたいに薄っぺらい正義感ふりまわして、人を貶める奴の方が嫌いだ。 タチ悪いよね? 自分はいいことしてるとか思ってるんでしょ。私がイジメられてる? で、私はカワイソウな子? ふざけんなよ。あわれみなんかいらねんだよ。見下されるのはまっぴらだ」
カチ、カチ、カチ……時計の音がやたらと大きく聞こえる。
「私はどうしたらよかったのかな」
「もしも、タイムマシンがあって、その時に戻ることができたら、別の選択肢を選ぶ? その子に嫌われる、そうわかっていたら、余計なことは言わずに、そのままにしておいた?」
自分でも馬鹿げた問いかけだと思った。漫画みたいなドラマに夢中になる菜々佳に呆れていたくせに、自分も漫画みたいな問いかけしかできない。
「ううん……同じことする。……他の選択肢とかないよ。《そのまま》とか、絶対にない。……だって、彼女が本当に強い人で、私の思い違いだったなら、彼女には悪いことしたかもしれないけど、もしも自殺なんかしちゃったら、絶対イヤな気持ちになる。なんで見てたんだろ? 私は見てたヤツだって、イジメを見過ごすそういうヤツなんだって、思い続けて生きていくなんて絶対イヤだ。たとえ嫌われても、間違ったとしても、自己満足でも、やっぱり平気で人を傷つけるような人、許せないよ。 そうだよ。彼女が平気でも、イジメが間違ったことなのは確かだよ。ヒドイことしておいて、相手のたくましさに丸投げとか、ヒドイよ。強いからって傷付けていいはずがない。彼女の強さを当てにするのは卑怯だよ」
菜々佳の目じりにはうっすらと涙が浮かんでいた。
「自分のしたことの結果だから、どんと来いって気がするよ。私は平気……たぶん」
「平気でも、平気じゃなくても、話したいことがあったら、また話してくれよ。話聞くくらいしかできないけど、話聞くくらいはするから」
月明りに照らされた男の手に包丁が握られている。
包丁を持った自分の手を見たとき、
この手と犯人の手と、なにが違うのかわからなくなった。
殺すという選択肢しか持たないのなら、
俺は犯人と同じではないのか?
妹を殺した気持ちの悪い生き物と、同じになるなどごめんだ。
《平気で人を傷つけるような人、許せない》――菜々佳はそう言ったのだ。
あの日から通れなくなったはずの路に、気が付けば立っていた。
「やべ」菜々佳がつぶやいた。
「なんだ?」立ち止まる。
ああ、これは夢だ。
当たり前のように菜々佳がいて、
何も知らない俺がいる。
「どうせそんなことだろうと思っただけだよ。 早く出過ぎなんだよ。ゆっくりしとけばよかったのに」
他人の声みたいに、機械的に流れていく自分の声。
「一度戻るね」
行くな。
手を伸ばしてでも、行かせたくないのに。
側にいなくちゃいけないのに!
掛けていく菜々佳の背中、
追いかけようと走り出す――足が重い。重た過ぎて歩くことさえおぼつかない。
はやく! はやく! くそっ、くそっ、なんでっ、なんで!?
路の先に菜々佳が倒れていた。霊安室で見た青白い顔をして。
重たい脚に引きずられるまま、膝から崩れ落ちる。
ごめん……ごめん……お兄ちゃんが、ひとりで行かせたから!
目を開く。
何度見たかわからない夢。
ただもがくだけの、どうしようもない夢。
嫌な汗ばかりかく、そんな夢だ。
けれど、
目が覚めたからといって、現実味はない。
夢の方が、はるかに神経を逆なでする。
どうしようもないくせに、心ばかり乱される。
現実はただ、ぬぐいようのない虚脱感に、
水の中を歩いているような動きにくさに、
自分が絶望していることを思い知らされるだけだ。
妹が殺されてから、気が付けば1年が経っていた。
犯人はいまだに、捕まっていない。