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 駆が気がつくと、視界いっぱいに真っ暗闇が広がっていた。時々、光がところどころで瞬いている。駆がその光に触れると、感情が流れてきた。その感情がなにからもたらされたのかはわからないが、強い感情だった。痛い、苦しい、言いようのない、激しい力が、雷のように駆の全身を貫く。

「ここは?」

――クラムオブヘルメスの、そうだな、我らに心というものがあるのなら、こういうものなのかもしれない。我らには様々な感情、ロゴスを感知する力がある。感知するだけではなくそれを力に変換し、願いを叶える力がある。そういうエネルギーの源が集まる場所なのかもしれない。

(……じゃあ、あんな感情を、クラムオブヘルメスは常に感知しているの)

 天音の心が激しく揺らめくのを感じた。これは、驚き、いや、畏敬の念というべきか。

「……そうか、人間も感情移入をするけど。これはまさに同情だ。感情そのものが流れてくるのか。我らってことは、ツッチーもそうなのか」

――ふむ。面白いことだな。我も確かに感知する。だが、クラムオブヘルメスのような、痛みを伴う感情ばかりではない。むしろ、我は人が幸せと呼ぶ感情を好んで集めている。それは無意識なのだが、我らも、やはり同じ眷属にして、違う存在だということか。

「……って、暢気に喋っている場合じゃない。どうする。このまま浮いているわけにはいかない。そうだろ?」

(あれ、駆。あれ、なんか違う)

 ところどころ、断続的に光る粒子が消えていく中、駆へと近寄ってくる光があった。まるで、駆に触れることを望んでいるような、動き。

「うわー……さっきので、痛いのはもう十分なんだが」

(……痛いと思わず、気持ちいいと思えば?)

「それはただの変態だろうが……」

 軽口を叩きながら、駆が触ると、今度は光の中に駆の身体は吸い込まれた。



――もしも、あの時に戻れるなら、そう何度思ったことだろう。

 輝く光の中を泳いでいると、声がした。

 淡々と語る木下雫の声だ。

『でも、時間は戻ることはない。戻ることはできないから、あたしは進まないといけないんだと思う。でも、どうしたら前に進むのか、そもそも前に進みたいのかもわからない。だって進むということは、いなくなった人たちを思い出にするということだ。みんなは、思い出の場所にいるのに、あたしはそこにはいない。あたしが前に進めば、どんどん思い出は遠くになっていく。どんどんあたしは取り残されていく。独りぼっちになっていく。あたしは多分、それが怖いんだ。でも、時間は進む。何もしなくても現在は過去になっていく。いつまでもそこにいたくても、留まることはできない。気がつけば、もう思い出になってしまっていた。なのに、あたしは今どこにいるのかわからなくなるときがある。今、あたしは何をしているんだろう。何がしたいんだろう。それが、今も、わからない』

これは、なんだろう。どうして、こんな声が聞こえるのか。駆が考えていると、

(……多分、木下雫は今無意識に駆に話している。私も経験がある。これは私が俊介にギターを聞いてもらっているときの感覚だ。無意識だから、自分が誰かに話しているとも思っていない。実際に口には出てはいないだろうし思ってるだけ。きっと、木下雫は駆がギターをかき鳴らしている瞬間のままなんだと思う。それは一瞬の刹那だけど、人って、その刹那で色んなことを思い、考える。だから、きっと、そう)

 天音の言葉は確信に満ちていた。そうか、なら聞く権利はあるのかな。と駆が思ったとたん、眠気に襲われた。ドクンと高鳴る音。それに同調するように、駆は眠りに落ちた。



「雫……」

 肩を揺さぶられて、あたしは眠っていたことに気がついた。

 ごそごそと、瞼をこすろうと手を動かそうとするが、寝袋にくるまっているので、なかなか手間取る。

「なあに…………」

 気力もなにもないから、おざなりに返事すると、

「……いや、雫。なんのために今日ここに来てると思ってるのさ。天体観測しにきてるんだよ。今、本格的に眠ろうとしてたろ」

 男のくせに長い睫毛、眼鏡をかけたヒョロ弱男子のくせに。

 焦点がだんだんと合ってきて、星明かりが、相羽静あいば しずかの顔を映し出した。ドキッとする。幼なじみなんだから、見飽きてる顔のはずなのに。なんだよ、まったく。収まれ心臓の鼓動。

 よく見ろ。大した顔じゃない。こいつのクラスの女子の評価は『なんかぱっとしない顔してるよね』だ。まあ、不細工ではないんだけど。ぱっとしない顔って、どうなのそれ。どこが『ぱっとしてない』ところなんだ。はっ、じゃなくて、いやそう、別に、かっこよくはない。

 鼻はちょっと低いし、仕草とかもちょっと頼りないし、頭にはいつもどこか寝癖がついてようなヤツだし。うん、全然ぱっとしてないな。ダメだこりゃ。

「何、人の顔をじっと見てるのさ、見るのは僕じゃない、星だよ」

「はっ」

 ごそごそと静の顔がどこかに行き、何かを取り出す音が聞こえた。そして、静の顔の代わりに見えたのは、

「うわー……、すごい」

 満天の星。濃紺の空に広がる宇宙。気が遠くなるほど遠い過去からの光。

「晴れて良かった……。もうすぐ流星が始まるよ」

「あ、あれ。なんか、消えたり光ったりしてる。こわっ、もしやUFO?」

「あー、あれはどう見ても飛行機だな。馬鹿」

「ちょっ、馬鹿って」

 冗談を言っただけなのに。ムカッときて、あたしが上体を起こすと、

「ほら、お茶。温まるぞ」

「あ、ありがと」

 湯気をたてるマグカップを差し出してきたので素直に受け取る。まあなんだ、許してやろう。

「ほら、これ」

 赤い光をあたしの手元に当てて、静は星見表を広げる。

「あれがオリオン座で、左上に光ってるのがペテルギウス、で左のほうに輝いてるのがシリウス、そこから上に白く輝いてるのがプロキオン。これが冬の大三角」

 星見表をまず指して、あたしの目をちゃんと見てから、空を指す。

 長くてたおやかな指先と、真剣な口調。何気ないことなのに、ドキッとする。やっぱり、今夜のあたしはおかしい。でも仕方ない。だって、初めて、だし。男の子と、デートするの。

 デート、で、いいんだよね? ちろっと、尚も星の位置を説明する静の真剣な表情を見る。

『今度の週末、城山公園に一緒にいかないか? ふたご座流星群を見にいくんだけど』

 誘われたときは特に意識はしてなかった。だけど、夕方待ち合わせ場所に行ってみれば、なんと居るのは幼なじみの静だけ。てっきり、静の親も一緒だと思っていたあたしは、「あれ、静だけなの。そっかー。はははー、じゃ、行こっか」などと答えたはいいが、内心はかなり動揺したんだぞ、わかってんのかこんにゃろう。

 幼なじみだからといって、あたしも静も中学二年生、年頃の男の子と女の子だ。いくらあたしでも意識せざるをえない。

 だが、目の前の朴念仁は果たしてそこまで考えているのか。素でなんも考えてなさそうだ。うう、デートならデートって言え。デートじゃなかったら、うん、なんだそれはふざけるな!

 静の白い吐息が冬の空に散っていくのを見ながら、あたしが空に視線を移すと、

「わ、あれ、なんか落ちた」

「うん、始まったね」

 流星群が始まった。大気圏へ向かって落ちていく光の雨。

「今日は綺麗に見れる。良かった」

 ほっとした声。少し距離が近いから吐息も聞こえる。うんよかったよ。心から頷いて、あたしの頬が上気した。

「僕ね、夢があるんだ」

 冬の空に向かって呟いているように、静は言った。

「将来天文学者になりたいんだ」

 あたしは何も言わなかった。ただ、静の真剣な声に耳を澄ましていたかったから。

「僕はね。お父さんが好きだった。おんぶしてくれるお父さんの背中が好きだったし、お父さんの話す言葉が好きだった。時々、連れて行ってくれた天体観測は、今でも、僕の思い出の中で輝いてる。今見上げている星に負けないくらい」

 静のお父さんは天文学者だったが、三年前、若くして脳卒中で亡くなっている。静が天文オタクなのは、父親の影響なんだろうっていうことは明らかだった。でもそれを静が口に出して、あたしに言ってくれたのはこれが初めてだった。

「そのときにお父さんが話してくれたんだけど」



『考えてごらん、静。

この世界がなんで存在しているのか。

現代人はこうやって夜空を見たり、自然に触れる機会が少なくなっているし、そんなことを改めて考えたり不思議に思ったりすることは少なくなってしまったかもしれないね。

そんなことは科学者に任せておけ、とある人は言うかもしれない。

だけど、本当に、それでいいと思うかい?

神などいないと笑う人は多いけれど、でも、昔の多くの人がこの夜空や自然から学び、真剣に考えたことを忘れてはいけないよ。考えて、神は本当にいるのかもしれないと、思ったんだろうね。

 もちろん、それは想像でしかないよ。だから人間の願望が神を創ったと考えることもできる。宗教ができたのは確かに人間のエゴと言えなくもないだろうし。

――だけどね、人間が宗教を作ったとしても、本当の神を人間が作れるはずないんだ。

どんなに木でつくろうとも、彫像にしても、それらはみんな人間が作ったものだ。

だけど、この夜空を見てごらん。これは、どのようにしてできたのか、考えてごらん。偶然で全てを片づけるにはあまりにも秩序正しすぎるじゃないか。この宇宙をみて、多くの人は夢を見る。アイザック・ニュートンも言ったよ、「私は自分がまるで海辺で遊んでいる少年、目の前にある真理という大海が未知のまま広がっているのに、普通よりも滑らかな小石やきれいな貝殻を時折見つけては喜んでいる少年のように思える」ってね。父さんもまたその一人さ。この地球が美しくできているように、宇宙もまた見果てぬ夢が詰まっているんだ。

まるで、誰かが考えて私達人間に謎解きして欲しいと問いかけているような気がするだろう。

だって、僕ら人間はそんな風に答えを求めるようにできているのだから』



「……なんか、すごいことを言ってるのは、わかった」

「うん。なんかよくわからなかったけど、僕もすごいと思った」

 冷めたマグカップを両手で持って、相槌を打ちながら、横目で静を見る。静は空を見上げながら、目を細めて笑っていた。

「去年、母さんが再婚相手を連れてきたとき、うれしかったけど、少し寂しかったりもしたんだ。今更、亡くなった人間に縛られる必要はないとは思っていたはずなのに。でね、色々考えて、僕は……僕は考えた。父さんの生きている意味ってなんだったんだろう?って。なんで、父さんは死んでしまったんだろうって。そんな、しょうがないことを悩んでたりしたんだ。かっこわるいよね、僕」

「うん、かっこわるいね」

「……」

 ズバリと言うと少し黙った。あ、ちょっと傷つけちゃったかも。

「ほら、ここに寝癖ついてるよ。かっこいい人はこういうのちゃんと直すと思うけど?」

 誤魔化すように、あたしは静の寝癖がついている毛を手で梳いてみる。

 男の子の髪の毛、ちょっと固いな。ちゃんと手入れしてない感じがする。

「ねえ、雫」

「ん」

「僕も男だから、雫にこうやってされたら、勘違いしちゃうよ」

「え……」

 思いがけない言葉に心臓が止まるかと思った。え、なに、なにが起こってるの。こ、こわっ、なんだか、こわっ。心臓があたしのじゃないみたいに、バクンバクンいってるし。

「や、やー……そ、そうだよね。ごめん」

「うん。いいんだ。だからさ、勘違いしても、いいかな」

「え」

「今日、デートのつもり、だったんだけど、雫、なんとも思ってないみたいだったから、僕はそのつもりだったんだけど」

 あたしは多分、今日で死ぬな。息ができないくらい恥ずかしくて、今静がどんな表情を浮かべているのか見ることができないし、それ以前に見ようとしても、倒立のあとみたいに頭に血は昇り、目がぐるんぐるん回って、まともに見れそうにはない。だけど、あたしはその言葉を一生忘れない、なぜかそんな確信が胸のうちにあふれ出していた。

ああ、これが多分誰かを好きなるということなんだ。あたしは目を閉じて、幸せを噛み締めた。



――なにが、起こったの。

 なんで、なんで、なんで。

 あたしは、何度そう心の中で繰り返しただろうか。

 目の前には積み重なる瓦礫の山。数分前まではあたしの家だった。

 たまたま今日は風邪を引いて学校を休み、だんだん良くなってきたから家を出て、学校に向かおうとしたときだった。

 地面がグラリと揺れた。

 今まで経験したことのない揺れが収まって、急いで家に戻ったら、家はなくなっていた。

「お母さん!」

 家には母がいた。さっき玄関のところで『気をつけてね』と言ってくれた母が。

「お母さん、お母さん!」

 返事して。

「雫、ここ」

 よかった。あたしは、急いで声のする方へと向かった。だけど、そこには一人ではどう頑張っても持ち上げられそうにない瓦礫の塊しかなかった。

「雫、助けて」

「お母さん、うん! うん!」

無理だ、なんて言えるものか。だから、まずはこの瓦礫を何とかできるよう、人を呼ばないといけない。あたしは急いで家の前の道路へ向かった。

『十メートルの津波が来ます。急いで高台に避難してください』

 繰り返し流れるスピーカーの大きな音。十メートル。大きい。わかるのはそれくらいだった。だけどそれよりもお母さんが、

「あの、母が家の下に」

 たまたま通りかかった人に声をかけたが、無視された。それどころか、

「きみ、早く逃げなさい。ここにいちゃいけない! もうすぐ津波がくる!」

 遠くからそう呼びかけてくる人もいた。

 誰も彼も自分のことで精一杯だった。

「お母さん……」『雫、助けて』「十メートルの津波が」『雫助けて』「うん、わかってる、わかってるよ助けるよ」「はやく、もう、来てる」『シズクタスケテ』「助けたいよ、お母さん」「あの、お願いします、おばあちゃんが下敷きに」「あたしもお母さんが」『シズク……』「なんで、なんでああ、なんで」「君、なにをしている!」助けなきゃいけないのに、助けたいのに、なんであたし、今逃げることを考えてるの。逃げたくないのに、逃げたくなんかないのに。お母さんを見捨てて、生きてたくなんかないのに。

『雫』

 脳裏によぎる顔。会いたい、今は静、あなたに会いたい。

 そう思ったら、あたしは駆け出した。母から背を向け、全速力で近くにある高台、城山公園へと向かった。

「ごめんね、ごめんね、お母さん。あたし、あたし、でも、だって、ああ、生きたい。あたし生きたいの」

 城山公園の入り口に差し掛かると、あたしは街をようやく見下ろした。

 海から押し寄せてくるものがあった。まるで化け物みたいだ。それは瞬く間にあたしの住む街を水浸しにしはじめた。

「雫!」

 同じクラスメイトで友達の佐奈だった。

「雫良かった……」

 クラスメイトがいるということは、静も無事に避難できているということだろう。

「静は?」

 今は静に会いたいと思った。すぐに会いたいと思った。

「あ、静君は」

 佐奈の顔が凍った。なに、なんでそんな顔をするの。

「静は」あたしは佐奈の肩を強く揺すった。

「静くんは、多分、雫に会いに……」

「ば」

馬鹿じゃない! あたしは急いで元来た道を引き返そうとした。坂道を降りようとして、あたしは見てしまった。

 静がこの高台に向かってきている。あたしの顔を見て、安堵の表情を浮かべている。でも。

 津波が静を飲み込んでいくのを、あたしは、見てしまった。

 ああ、なんで、なんで、どうして。だって、あたしはここにいるのに。

「あ、ああ。ああ。やめて、やめてよ。なんで、ああ、静!」

 全力で駆けようとするあたしを、周囲の大人が止めた。 

「放せええ、ああ、はなせええ!」

 やめろ、放せ、あたしは、あの海に飛び込むんだ。飛び込んで、きっと静とお母さんを助けるんだ。だから――。

 でも男の人が三人がかりでは、どうすることもできなかった。あたしは、いつしか抵抗をやめ、波打ち際からふと静やお母さんが上がってこないかとただ呆然としていると、

「ああ……」

 悲鳴があがった。誰かが言った。

「引き潮だ」

 全てが沖に向かって流れていく。車、冷蔵庫、物置、家、そして人。

 防波堤のある場所は白波が立っていた。渦に巻き込まれ、瓦礫が海の底へと吸い込まれていくように消えていく。

 あたしはそれを見ていることしかできなかった。

 目の前で日常が壊されていくのを、ただ見ていることしか、できなかった。



――神がいるなら。もしも神がいるなら。あたしはそいつを許さない。助けられる力がありながら助けなかったそいつを許さない。ぶん殴ってやりたい。殴りたい。だって、こんなのあんまりだ。培ってきた空手の技術はなんだったんだろう。紡いできた絆も、訪れるはずだった当たり前の日常も、なにもかもが一瞬で無くなってしまった。

 あれから、あたしはずっと考えている。考えてしまっている。

 過去に戻りたい、戻って、あの海に飛び込みたい。

 でも、そんなこと、言えない。言っても仕方がないから。そんなことを言っても、静たちが戻ってくることはないから。

あの時の静の笑顔。あたしが助かってよかったと、本当に思っている顔。

あの顔を悲しませることなんてできるはずがない!

だからあたしは歯を食いしばって、生きることにした。

『後悔していません。私はお母さんや友達の分まで今日を生きます』

だから言った。言葉とは反対の感情が渦巻いていても、それは嘘ではなかった。

嘘では、決して、なかった。




――もしも、あの時に戻れるなら、そう何度思ったことだろう。

 駆が眠りから目を覚ますと、広がっていたのは真っ暗闇の中、ところどころ光が瞬く世界。

 クラムオブヘルメスの口の中に飛び込んだ時の場所だ。

『でも、時間は戻ることはない。戻ることはできないから、あたしは進まないといけないんだと思う。でも、どうしたら前に進むのか、そもそも前に進みたいのかもわからない。だって進むということは、いなくなった人たちを思い出にするということだ。みんなは、思い出の場所にいるのに、あたしはそこにはいない。あたしが前に進めば、どんどん思い出は遠くになっていく。どんどんあたしは取り残されていく。独りぼっちになっていく。あたしは多分、それが怖いんだ。でも、時間は進む。何もしなくても現在は過去になっていく。いつまでもそこにいたくても、留まることはできない。気がつけば、もう思い出になってしまっていた。なのに、あたしは今どこにいるのかわからなくなるときがある。今、あたしは何をしているんだろう。何がしたいんだろう。それが、今も、わからない』

 さっきと同じ問いを繰り返すと、それっきり、雫の声は止んだ。

「……」

(……)

――…………。

 何を、言えばいいというのだろう。

 あんな事が目の前で起きて、それを経験した人に、何を言えばいいのだろう。

 言う言葉なんて、あるはずがない。本人でさえ、どうすることもできない感情を、他人がどうにかできるはずがない。

「うん……?」

 目の前で涙のような光が瞬いた。駆が掌を広げると、その下にふわりと落ちる。

 それは鍵だった。

 パリン、と真っ暗闇の世界がひび割れる。光が差しこむと、闇は溶けて砂のようにさらさらと消えた。

 いつのまにか漆黒に塗りつぶされた湖面は元の青色に戻っていた。

 黒咲百合に断ち切られた左腕もいつのまにか再生していた。

駆の目の前には階段。

 見上げると、大樹の幹の真ん中で、眠りにつく女性が立っている。

 あとは、この鍵を使って、歌を歌うだけらしい。

この『感情』を晴らす歌を歌わないといけないらしい。

 それを聞いたとき、駆は簡単なことだと思ったものだ。だけど、鍵を手に入れた今、それを晴らすことの難しさを知った。

「ふふふ、鍵を手に入れたみたいだね」

 黒咲百合は階段の二段目にちょこんと、座っていた。黒咲百合の掌には、ツッチーのような親指サイズとなったクラムオブヘルメスが倒れ伏し、

『……まさか、我が負けるとはな』

悔しそうに言った。そんなクラムオブヘルメスの頭を撫でながら、

「さすが、駆くんだね。でも、最後の試練があるよ。乗り越えられるかな」

「そういうお前は、もう俺を止める気はないのか。階段を登っている途中に、鎌でばっさりとか、普通にありそうなんだが」

「ふふふ、どうかな」

 黒咲百合は花が咲くように笑い、

「でも、あたしはもう、必要ないんだ、そういうの。今まではそうしないと、生きていけないから、やっていただけ。でもね、もう必要ないんだ。あたしは、駆くんの姿を見たから。情けなく、みっともなく、ただ前へ前へと進む必死な表情を、見たから。だから、もうね、大丈夫……ふふふ、こんなこと言っても、信じてはもらえないだろうけど」

 最後は目を伏せて言った。駆はため息を吐いて、

「ああ、信じられないな。でも、信じたいとは思うぜ」

「え?」

「じゃあな。また学校で会おうぜ」

 黒咲百合の横を通り抜け、後ろ手でひらひらと手を振りながら階段を上へ上へと登っていく。

「……ふふ、そうだね。会いたいね」

 そんな駆の姿を、黒咲百合は眩しそうにして、いつまでも見上げていた。



 階段を登りきり、駆はついに瑠璃色の髪の女性の前に立った。

――さあ、鍵を使おう。そして、歌って欲しい。

「……。天音、歌えるか」

(……無理。私は自分のためにしか歌えない人間だった。いきなり、他人の感情を晴らすように歌えといわれても、歌うことはできない。……もしもそれで歌っても、そんなのは私の歌ではない。ロックンロールでは、ないよ。他人の気持ちを救えるなんて思うのは高慢だと思う)

「そうか……そうだよな」

――ふむ。そうか……。

 ツッチーは駆の頭からぼとっと着地し、眠りにつくノッコーへと近寄った。

――久しぶりだな、ノッコーよ。

 そう言うとツッチーはノッコーの身体へとよじ登り始めた。途中の胸に行き着くと、ぽよんぽよんと顔を埋め始めた。

「おい、今シュールなことになってんだよ。なにエロ親父になってんだよ。時と場合を考えろよ」

 パチンと爪で弾いて突っ込んでやると、

――ち、ちがう。久しぶりだったもんだから……つい。コホン。

 ようやくツッチーはノッコーの頭上に辿り着き、駆たちに向き直った。

――まずは、おぬしたちに礼を言おう。この場所に我を導いてくれたこと、感謝する。

「だけど、どうするんだ」

(ツッチー……)

――我とノッコーは、本来は一つの存在だった。今のお主たちのように、同体して、初めて我らは元通りになる。だが、いつしか我らはそれを望まなくなった。一心同体でいるより、個体でいることを望むようになった。なぜか、わかるか。

「なんでだ?」

(好きになったから、だね。自分とは違う存在を、好きになったから、でしょ?)

 ツッチーは天音の言葉に深く頷いて、

――うむ、特にこの胸が大きくてのう。揉むのが楽しいのじゃ。柔らかい、ふにふにを楽しみたくてのう。

 やっぱこいつただのエロ親父だ。

――おい、そんな目で見るな。いいか、これは大事なことだ。だってそうじゃろ。その気になれば自分の胸を揉めばいいではないか。だが、そんなものには価値がない。相手の気持ちと自分の気持ちが違うことを理解した上で、自分のしたいことを受け入れてくれるからこそ、胸を揉むことは興奮するのだ。違うか?

「いやそこまで堂々とエロを語るなよ」

(不潔……)

――き、貴様ら! え、そんなに我エロいの。ショック。いや、そんなことはどうでもいい。ええい、なぜわからん! 全く、これだから人間は!

 地団駄を踏んで、ツッチーは怒ると、ふふふ、と笑った。

――だが、だからこそ面白い。そうだろう? 我らは自由なのだ。何をしてもよい。もしも、この世界が正しいことしか行えないようにできていたら、その正しいは本当に価値があると思うか? いや、ない。

「難しいこと言うなよ」

(でも……わかる、気がする。独りじゃロックンロールはできないもの)

――そうだ。相手の気持ちが晴れるかどうかは、相手次第なのだ。決して相手の気持ちを操作して、自分の思う通りの感情を得ようとする、お主たちではあるまい。なら、できることをしてはくれまいか。

 ツッチーは深く頭を下げ、駆にただ願うのを見て、やれやれと肩を竦め、

「そうだな。まずはやってみるか」

(うん……)

 駆は鍵を掲げた。すると鍵は変化し、ギターとなる。

(ねえ、駆が歌って。私が弾くから)

「そんなこと言っても、下手糞だが、いいのか」

(いい。だって、あなたはもう、歌を理解している。ただの音がなんなのかを知っている。この鍵が求めるのは、他でもないあなたなんだ。だから、歌うのはあなた)

「わかった」

 コクリと駆が頷くと、ギターを天音はかき鳴らす。駆の身体を使って、自由自在にかき鳴らす。音が響く。メロディーが世界に満ちていく。

 そして、駆は歌った。




土砂降りが窓をたたく

響くドラムのリズム

大切な君さえ無くして

消えてしまったんだ


閉じこもって 目を塞いで

闇の中 手を伸ばして

今日を過ごしてんだ


土砂降りが胸を叩く

響くドラムのリズム

絶望の意味さえ無くして

見えなくなったんだ


かじかんで 耳を塞いで

闇の中 手を伸ばして

君を探してんだ


闇の中 雨上がり香る

芽吹く風 手を伸ばして

届かないまま 

光を探して


目を開いて 耳を澄まして

闇の中 手を伸ばして

転げまわってんだ


転げまわってんだ……


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