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 校門にある桜の木から、花びらが斜陽を浴びて、はらりはらり落ちていく。

その花びらを舞わせる風が、帰ろうとする生徒を包みながら、下駄箱の出口で立ち尽くす駆の髪を揺らす。放課後の気だるげな雰囲気を含んだ匂いが鼻腔をくすぐった。

もうすぐ暗くなるという間際、世界は時々こんなふうに優しい色を見せる。

誰が死のうが生きようが、どんなに絶望しようが、幸福でいようが、世界は何一つ変わらず、ただ圧倒的な存在感を放って、景色を染めていく。

綺麗なのにこんな時だからなのか、涙腺が熱を帯びた。鼻の奥が痛くなって、胸が苦しい。眩い陽射しから逃れるように視線を逸らすと、下校する生徒のまばらな波の中を漂って、そのまま音もなく消えて行きそうなほど存在感の薄まった、木下雫が歩いていた。

 声をかけるべきだろうか――そう思うものの、迷惑にしかならないかもしれない、声をかけても何を言えばいいのかがわからない。形のない不安、感情を麻痺させる薄いもやのようなものが駆の思考にかかって、言葉は喉の奥でひっかかってしまう。

「駆くん」

 背後で声がして、振り向くと、

「もう帰るの」

 目尻を下げ、夕日に映えた長い黒髪を風になびかせて、黒咲百合が立っていた。

「それ、どうしたの。あ、もしかして、昨日の騒動って、駆くんだったんだ」

 駆の肩にあるギターケースを指差してくる。

「……なんの用だよ?」

「つれないなあ。……大丈夫かな、って思って」

「なんで、そんなこと聞くんだよ」

「だって、なんか、消えそうだったんだもん。木下さんと同じで」

「……おまえが、やったんじゃ、ないのか」

「どうしてそう思うの?」

 駆が零した言葉は、醜悪な色に染まっている。対して、目の前で微笑む黒咲百合は本当に天使みたいで、純真な優しさしかないように見える。

「晴から聞いたんだよ。先生も聞いてたから、お前は間違いなく疑われるぞ」

「ふーん……。そっかー、晴さんそんなこと言ったんだ」

 黒咲百合は後ろ手に鞄を持ちながら、そよぐ風に目を細め、駆の横を通り抜けて立ち止まり、校門の向こうに消えていく木下雫を見つめ、

「あははっ」

 喉の奥から声が漏れた。黒咲百合は橙の濃い光の中横顔を駆へ向けて、

「言っちゃったんだね! くくく、晴さん、そっか、言っちゃったかー。ふふふっ、あー、最高だよ、晴さん」

まるでこの世界から祝福されているように、悠然と佇んでいた。

「な、なんで笑えるんだよ。お前だって、疑われるって、そう言ったんだぞ俺は」

「だから? 私はね、疑われてもそれを信頼に変える自信だってあるよ。それに――」

何気なく、世間話をするように、あるいは好きな映画の話をするように、

「みんなから犯人扱いされたとしてもその時はその時で私は痛くも痒くもないもの。もちろん、そんなことにならないよう仕掛けはしてあるし、どんな状況にだって対応できるけれど、おかしいよね、晴さんはそれが怖くて怖くて仕方ないみたいなんだもん」

 黒咲百合は自分が犯人であることを駆に隠そうともしなかった。

「ふふふ、面白い。私はちょっと用意しただけなんだよ。私はあの新聞の切り取りを用意しただけ。で、『机を傷つけたり、生ゴミをばらまいたりしてほしいな』って囁いただけ。それだけなのに、晴さんは自分から進んでやったんだよ? 私は何もしてないの。だから私を犯人だと言っても証拠なんてあるはずないよ。だって、晴さんが自分で全部やったんだから」

 一枚の写真をブレザーのポケットから取り出して、駆の目の前に掲げた。

 そこには、晴が木下雫の机に生ゴミをばらまいている瞬間が撮られていた。

 事前にカメラを設置していたのだろう。黒百合に抜け目はない、ということだ。

「もちろん、写真はこれだけじゃないよ。動画だってあるし、あとはこれを適当にどっかにばらまくだけでいいよね。私にはアリバイがあるし、する理由がないもの。言いがかりつけてきても、私は哀れな被害者を演じればいいんだよ。簡単だよね」

「こんなことして楽しいのかよ」

「楽しいから、やってるんだよ、駆くん」

 子供をたしなめるような声色で、黒咲百合は口元を大きく歪ませながら駆に諭してくる。

「人をいじめるのに、理由なんて要らないんだよ? ねえ、そもそも世界の仕組みってそういうものじゃないかな。誰かを蹴落として生きていくのなんて、当たり前なんだもの。弱肉強食でしょ? 厳正たる命のルールだよ。勝負に負けたものを食べて生きていく。なら、私のしていることは間違ってなんかないよね。だって弱いからいけないんだもん。晴さんが、弱いから、いけないんだよ」

 騙すより騙される奴が悪いんだから、と黒咲百合は言葉を続けた。

どんなに悪を犯しても、どんなに卑怯であっても、勝てば官軍――現実は何時だってそういう理屈がまかり通る。

 環境を嘆いてはいけない。言い訳にはならないから。

 理不尽はいつだって誰かのすぐ傍にある。

 いつ誰を襲うかなど予想することは出来ず、時がくれば理不尽は容赦なく牙を剥き、人の幸せを奪っていく。

 生まれた場所、遺伝、不慮の事故――この世界は偶然、あるとき、ある場所にただ居たというだけで、歴然たる差別を生む。差別を乗り越えるためには、勝たなければならないのだ。

 そこには善も悪もない。勝とうと思うことで、生き物は成長するのだから。

「ふふふ、これから、どうなるのか、楽しみだなあ。ねえ、駆くん。私はね、これでもあなたのこと嫌いじゃないんだよ? 好きだから、壊したくなっちゃうの。気に入っているから、その人の泣いてる顔を見たくなっちゃうの」

「なんだよ、それ……」

 もう、なにがなんだかわからない。ただ、駆の心はずっと痛くて。目には涙が滲んで。でもどうすればいいのかわからなくて。

 ただ立ち竦むしかない駆の頬を、黒咲百合は慰めるように指で撫でてから手のひらで包み、

「泣きそうだね、駆くん。今、どんな気持ち? あはっ、死にたい? いいんだよ、この世界は死こそが平等なんだ。生きていることが苦しいなら、いつでも死んでいいんだよ?」

 柔らかに囁く言葉はコクリと頷きたくなるような力があって、甘美な官能を駆の脳髄に送るみたいで、

「やめてくれよ……」

「あはっ、いいよ、そうだよね、そんな簡単に死んじゃったら、つまんないもの。足掻いてよ、そして足掻いて足掻いて、苦しんで、のたうちまわって、結局無駄になって死にたくなるような、みっともない姿を私に見せてよ」

 ただ子供のように無邪気な表情で笑う黒咲百合の姿は、駆にとっては宇宙人みたいだった。


 路地の電柱に設置された灯りが、どこへ向かうのか暢気に歩く名も知らぬ黒猫の影を映していた。その路面に新しくできたギターケースの影の中に入って、とてとてと歩き去っていく猫を見送り、駆は立ち止まる。

いつのまにか自分の家の前に着いていたのだ。

 もう学校には行きたくないと思った。そう思ったら、なんでだろう。自然とこの足は家へ帰ろうとしていたらしい。

 ここには、誰も居ないのに。

 そう思うと、駆はたまらなく息が詰まりそうになった。だからといって他に行く当てもないしそんな気力もない。今は布団をかぶって泥のように眠りたくて、家の鍵穴に鍵を差し込むと、既に開いていた。それはつまり、家に自分以外の誰かがいるということで。

 なんで、こんな時に。

 思ったことはそんなこと。本当は会いたくなんかないのに、なぜ駆の手は震えながらも玄関の扉を開けようとしてしまうのだろう。

 音を殺して家の中へと入ると、玄関には靴が二つあった。高級そうな色合いの赤いハイヒールとエナメル革の黒いビジネス靴。

 ドクンと、駆の心臓が嫌な音を立てる。脳髄からジクジクと首筋を伝って手足が痺れるみたいに硬直していく。

「ねえ、いつになったら離婚してくれるの」

 聞きたくもないのに、声は鮮明で。

「もうあれも高校生になったんだから、頃合よね」

「今日はそれを話し合おうとしてるんだろうが。駆をどうするか。まだどっちが面倒見るか決まってないだろ」

「私はだめよ。今付き合っている人には、秘密にしてるし」

「それは俺もだ。だからこそ、今日こそ、ちゃんとケリつけようぜ。いい加減、うんざりだ」

「はあ、ほんと。あの子を産んだのがそもそも間違いだったのよね。若気の至りよ、産んでくれってあなたのお父さんに頼まれて変な使命感が芽生えてさ、その時はそう思ったんだけど、こんなに大変になるなんて。お互い遊びだったんだから、責任だとか何だとか言わず、さっさ

と中絶すればよかったわ」

なんだよ、これ。なんなんだよこれ――苦しい。

「父さんも余計なこと言ってくれたよ。お互い最初は頑張ったよなあ。結局無駄なのに。お前とは性格が合わないし、産まれた子供は全然可愛くねーし」

やめてくれ、やめてくれよ。俺がなにしたってんだよ――苦しい、苦しいんだよ。

「コレジャナイ感あったわ。私の幸せは、これじゃないっていう感じ」

 幸せって、コレジャナイ、ってなんだよ、それ――息ができないんだよ。

「愛そうと、努力はしたんだけどなあ」

努力なんて、してくれただろうか――ふと思う、胸を打つ鼓動の意味。そこに自分の意志は介在しないんだってことを。

「どっちにしろ、あいつとは一緒に暮らせない。どっか安いアパートでも借りて、そこに一人暮らしさせよう」

 ああ、全てがうまくいかない。

 どうして、なんでなんだろう。何時だって望むことは、大きなことではないのに。

 何時だって願うのは、たった一つだけなのに。

――誰か、俺を愛してくれよ。

 もう耐えられなかった。玄関を飛び出して、暗闇に染まったアスファルトを息を飛ばして駆は走り続けた。一定の間隔で置かれた街灯はまるで駆の向かう方向を照らすように続いていた。


            ***


脇腹が耐え切れないほど痛くなって、膝に手をつき、苦しい息を吐き出しながら顔を上げると、明治時代に建てられた木造の旧校舎が見えた。

 そのまま駆は公園の中に入り、ヒマラヤ杉の並木道を通り抜けた。

向かうのは木下雫がいたあのべンチ。

 なぜ向かっているのか、駆は自分でもわかってはいなかった。

 ただ、まばたきすると、瞼の裏には木下雫の顔が浮かぶのだ。

『でも、あそこで、ああやって怒れるあんたは、あたし、嫌いじゃないわ』

 目の前に差し伸べられた手のぬくもりを思い出し、駆の心臓はトクンと音をたてた。

 桜の花びら降る遊歩道を歩いていくと、あのベンチがあって、外灯の下二つの人影が見えた。

 ベンチに座っているのは木下雫で間違いないだろう。もう一人は――。

 木下雫の前に立つ体格の良い男。その大きな背中を見て、駆は走り出していた。

「悪かった!」

 だがケンジと思われる人影が突然土下座したので、駆はキキキッと急ブレーキ。

「……なによ、突然」

「お前のおかげで、目が覚めたんだ! だから、まずは謝った」

「別に。あ、顎、大丈夫?」

「大丈夫だ! で、だ。ここからが本題だ。しっかり聞いてくれ」

戸惑う木下雫に対し、ケンジの声は溌剌としていた。跳ねるようにケンジは立ち上がり、

「好きだ!」

え、とすっかり飛び出す勢いを失った駆は、咄嗟に近くの茂みへと身を潜める。

「えっと。……どういうこと?」

「言葉の通りだ。俺はどうやら、お前を好きになってしまったらしい」

「な、なんでよ?」

「自分でもわからない。目が覚めてから今まで俺の頭の中ではずっとお前の顔が浮かんで離れなくてな、さっきやっと気がついたんだ。気がついたらお前を好きになっていた!」

「は、はあ!? ちょ、え、本気?」

「本気だ!」

 茂みの向こうから聞こえるケンジの声に、駆の心臓はまたもや嫌な音を立てた。

神経がひりつくような痛みに全身の力が抜けていく。

ケンジの声から耳を塞ぎたくて、息苦しい心臓の鼓動が全身を打っていた。

「付き合ってほしい!」

「……本気、みたいね……。正直、戸惑ってる。突然すぎて……」

「だよな。俺もそうだから。なんでだろうな、お前に『弱い』って言われて、実際その通りになって、心から『そうだよな』って思えた」

「普通怒ると思うけど」

「俺はな、強くなりたかったんだよ。クソみたいな現実に抗う力がほしかったんだよ。どうすればそれが手に入るのか、わからなかった。それでも、それがほしくてよ。どうしても、ほしくてよ」

 ジャリッと地面を踏みしめ、ケンジは外灯で出来た影法師を揺らし、

「俺の妹は片脚がうまく動かないんだ。俺の母親の彼氏だった奴にヤラレちまってさ。その原因を作ったのは俺だったんだ。それまではずっと俺にだけ暴力を振るってたってのに、見かねた妹が児童相談所に助けを求めてな。結局俺たちは保護されず、連絡したことがばれた妹は当然の如くひどい暴力を受けた。今まで妹だけはって思って我慢してたのに、その俺のせいで妹は俺よりも酷いことになっちまった。俺は妹が殴られている間、何もできなかった。怖くて、震えてた。それが情けなくて、情けなくて――」

 ケンジの声は震えていた。

「俺は、そいつをぶん殴れなかった。ぶん殴ることが、できなかった。弱かったんだよ。どうしようもなくガキだった。弱いっていうのは、何も守れない。それを自覚してなかったから、あんなふうに……」

 何かを堪えるようにケンジは外灯を見上げていた。

当時のケンジの無力感はいかほどか、駆には想像もつかない。

言われて振り返ってみれば、ケンジが駆に暴力を振るう時、目はどこか笑っていなかったように駆は思う。それどころか、苦々しげに唇の端を歪ませていた。

「俺はずっと、そんな俺とそいつを殴ってやりたいと思ってたのかもしれないな。あの時、お前に殴られて、子供だった俺やそいつをお前がぶん殴ってくれた気がしてな……」

 その声を聞きながら、駆はケンジの言葉を思い出していた。

『俺はな、お前みたいな弱い奴が大嫌いなんだよ』

 あれは無意識のうちに抱いていたケンジ自身への苛立ちが込められていたのかもしれない。

「だから、お前を好きになっちまった。さあ、返事を聞かせてくれ」

 そのまっすぐな愛の告白に、自分にはこんな告白はできないと駆は思った。

告白する資格がないと思ってしまうから。相手との価値が釣り合わないと思ってしまうから。

 不意に、駆の目に涙が滲んだ。自分が情けないからなのか、ケンジをうらやましいと思ったからなのか。

「……なかなか、ぐっとくる告白だったわ」

それだけ言うと木下雫は沈黙した。その静寂が、時間を長く深く蝕むようで息が詰まる。苦しい。聞きたくない。断って欲しい。――他人が幸福になる瞬間かもしれないのに、なぜ自分はこんなにも苦々しい感情を抱いてしまうのだろう。

「でも……」

噛み締めるようにゆっくりと、


「ごめん」


 簡潔な一言に、駆は息を吐き、ケンジはくるりと木下雫に背を向けた。

「――……そうか」

 何とか言葉を紡いで、

「だが、あいにくだったな、俺はまだ諦めないぜ。今日は引き下がるが、俺はまだ諦めるつもりはない。覚悟しとくんだな」

 ケンジはゆっくりとした足取りで遊歩道の向こうにある公園の出口へと去っていく。

「ちょ、ちょっと……」

 残された木下雫は、ケンジの背中を出口へと消えるまでじっと見つめていて、駆もまたケンジに憧れの込もった視線を向けていた。

 しばらくして木下雫はベンチから立ち上がった。どうやら帰るらしい。声をかけようかとも思ったが、放課後の時と同様かける言葉はみつからず、諦めて駆は藪の中から空を見上げた。点々と星は瞬いて、楕円形の大きい月が青白い光を放っていた。


「――こんなとこで、なにしてんの?」


「ひいいいい!」

 月の光をひょこっと黒い顔が遮って、駆は悲鳴をあげて立ち上がった。

「なによ、その反応。っていうか、なんであんたはいちいちこんなとこに隠れるのよ」

「き、気にするな」

「変な奴」

 肩を竦める木下雫の顔は外灯に照らされて穏やかに見える。

「あんたがこっちに来てたのは見えてたから。なんか、恥ずかしいとこ見られちゃったわね」

「恥ずかしいって……。なんでだよ。羨ましいことじゃないか。なんで断るかねえ」

学校でのことを気にしていないような声色や表情に駆は安心しつつ、軽口で答える。

「そうね。嬉しかったけど。でも……あたしには無理みたい」

 淡い光を帯びた木下雫の顔が寂しげに笑みを作った。なにが無理なんだと駆が問う前に、

「ねえ、あんたはなんでここに来たの。偶然?」

「あ、ああ。いやなんでだろうな」

「……ところで、それなに?」

 その一言一言に駆の心臓が騒いでいるのにも気付かず、駆の背負っていたギターケースを木下雫は指差す。

「ぎ、ギター」

「へえ、あんたギターなんて弾くんだ。意外」

「いや弾けない」

「はあ!? じゃあ、なんで持ってるのよ」

「いや、実は俺にもなんでこうなっているのか、よくわからないんだ。気付いたらギターを持つようになってしまった。これからどうすればいいのかもわからん」

「何それ……、ふふっ」

 眉をしかめ、呆れたような表情を浮かべたあと、木下雫は小さく笑った。

「せっかくだから、見せてよ」

 木下雫に言われるがまま、駆はギターケースの中からギターを取り出す。

「すごい傷だらけ……」

 指摘どおり相変わらず傷だらけのギターだったが、弦は新しく張り替えられていた。

「そんなんで弾けるわけ?」

「さあ……」

 流れで取り出したはいいが、弾くのは躊躇いがあった。一日に色々とありすぎて、天音のことがどんどん幻のように感じてならなかった。そしてその幻はこのギターを弾いたところで終わってしまうような気がするのだ。


――『私の願いはただ一つ。私に笑顔を届けてほしい。いろんな人の。悲しいこととか、いろんなことがあってどうしようもなくなってる人の顔を、笑顔に変えてほしい』


 天音の言葉にあの時駆の胸は確かに高鳴った。でも、今は――自分の笑顔さえ、幸せさえ、うまく想像ができない。そんな自分に他人を笑顔にすることはできるのだろうか。

「お、意外と似合う」

 自問する駆のギターを持った姿を見て、木下雫が言った。

「…………」

「なんだよ?」

「待ってるのよ」

「俺、弾けないんだぞ?」

「いいわ、そんなの。ただ、そのギターの音色を聞きたいのよ。なんでか、なんてわからないけど、今はなんとなく、あんたが弾くへたくそなギターの音色に耳を澄ましてみたいのよ」

 しゃがんで膝に頬杖をつき、目を閉じてすっかり聞く体勢に入った木下雫に呆れながら、駆は導かれるように制服のポケットからピックを取り出した。

 やけに手になじむ。ギターへとピックが吸い込まれるように移動し、

『待ってた』

 そんな声が聞こえたような気がする。自然とピックは動き――。

駆はついにギターをかき鳴らした。

 ギャオオオオンと鳴る音と同時に、駆の視界が点滅する。

(な、なんだ)

 身体が溶けるような感覚が駆を襲い、目の前をクラリと七色の光が瞬いて、何かに吸い込まれた。気がつくと。


――駆は宇宙の中を漂っていた。


             ***


「いったい、どうなってんだ」

 宇宙、というのは、正確ではないだろう。呼吸はできるのだ。

しかし視界いっぱいに広がる景色は星空の中にいるようで、フワフワ浮かびながら駆が口をあんぐり開けていると、

「こっち」

天音の声がしたような気がして、見ると小さな光が案内するように移動し始めた。

光の粒子に導かれていくと青い光を放つ湖のような場所に出た。

湖の中央から波紋が周期的に生まれている。

波紋の源に立つのは、瑠璃色の髪が足元まで伸びるほど長い、美しい容貌の女性。

 しかし、瞳は虚ろで、動く気配もなかった。

「なんだ、ここ」

 すると突然重力を得て、駆は湖面の端に降り立った。

――ノッコー…………!

叫びながらボン! と駆の傍に出現したのは胴体が蛇、顔は猫の自称神様。

――今、封印を解くぞ!

『久しぶりだな、ツッチーよ』

――この声は、クラムオブヘルメス!

ツッチーの声に呼応するように、赤黒い渦が波紋の上に立つ女性のすぐ横にできると、渦から一匹の白い大蛇と一人の少女が現れた。

「なっ!」

駆は目を見張った。

赤黒い渦が消失し、現れた少女の顔が湖面の青い光に照らされてはっきり見えたのだ。

 腰まで届く黒曜石の輝きを秘めた髪、柔らかに見える眼差し、そして――。

「うふふふ、まさか、この姿を駆君に見られるとはね」

 口元を大きく歪ませた黒咲百合は、着用した黒いゴシックドレスを摘まんで会釈した。

「この姿では初めまして。私はこの白い大蛇『クラムオブヘルメス』に選ばれしロゴス、この大蛇の言霊となるもの、そうね、共鳴者、とでも言うべきかしら」

「共鳴者……」

『左様。お主もまた、そこにいる原初の存在ツッチーのロゴス、共鳴した存在であろう』

「いや、俺は別に……特に覚えは」

――そうだ! この者こそ、貴様が封印したノッコーを解き放つ我がロゴス! 共鳴者よ!

 ない、と言おうとしたら、ツッチーが勇ましい声を上げて肯定した。いや覚えねーから。

「……あなたは確かに共鳴した。私の手を取って、私の願いを叶えてくれる約束をした」

ボン! と案内していた光の粒子が、パタパタと羽を動かす妖精の姿に変身する。

「……私に、色んな人の笑顔を見せてくれる、だから手を取ってくれたはず」

 じっと、研ぎ澄まされた刃のように澄んだ天音の瞳が駆を捉えた。突き刺すような視線に、

《さあ、世界に響かせよう。私とあなたの音を》

 思い出す。確かに、あの時、駆は共鳴していた。言葉ではなく、この全身を駆け巡る心臓の鼓動で、天音の声に共鳴していた。

『そう、ツッチーとここに封印されしノッコーのロゴスとなるのが、お主とそこのおなごよ』

「共鳴者? ロゴス? ちょっと待ってくれよ、なにがなんだか」

 現実感がなかった。しかし、夢にしては声も目の前の光景も鮮明すぎる。駆は試しに自分の頬を思いっきり殴ってみることにした。ふごっ! うん、痛い。抓るだけにしときゃよかった。

「……どうした? もしかしてあなたは自分を殴って快感を覚える人?」

「ふふふ、駆くんそういう性癖があったんだー」

 小首を傾げる天音に、綿のようなふわりとした笑顔で黒咲百合が追及してくる。違う!

『ある思念体の最期に発したロゴスによって宇宙が誕生し、その思念体の死から我らの祖先が生まれて幾星霜』

すると戸惑う駆を諭すように、クラムオブヘルメスが朗々と語りだした。

『徐々に進化をつづけ、知性集合体となった祖先がやがて分裂し、それぞれが別個の存在となってこの宇宙に散らばり、いつからか星を管理する存在となった。我らはこの地球の管理者として長い時を過ごしてきた』


――あるとき、ノッコーとツッチーが地球で最初の生物となるものを創り出した。

それは我にとって衝撃的な事であった。ノッコーとツッチーのしたことは我の感覚からすればまぎれもない進化であったからだ。

なぜノッコーとツッチーがそのような思索を得ることに成功したのかと我は羨み、嫉妬した。


『しかし嫉妬は我に進化をもたらした。我はこの時初めて我の中の快、不快を自覚し、感情というものを認識したのだ。そしてこの快、不快こそがノッコーとツッチーが生命を作り出そうと考えた源なのだろう、と我は得心した』


我は自分の進化に歓喜し、熱意を漲らせて地球で進化しつづける生物たちを見守り続けた。いやそれどころか、時にはある生物に味方した。生物が発する僅かな叫びのようなロゴスを感知し、叶える能力が我らにはあったのだ。

生物は高度化しつづけ――ついに我らが袂を分かつ原因になった人間という種族が生じた。

 人間には我らと同じ思索する能力があり、驚くことに豊かな感情も持っていた。

だからなのか人間のロゴスは他の生物に比べ桁違いに大きく、多種多様なのだ。

今までの生物が発するロゴスは個体としての『生きたい』という叫びのみであったのに、人間は人の間で起こる、様々な出来事、関係性からくる願いを重視するようになった。そして――我らは生物としてはあり得ないロゴス、強い叫びを感知した。

ある男が愛する伴侶を亡くした悲しみに耐え切れず、自分自身の死を願ったのだ。


『万物に永遠はない。我らとてそうだ。とりわけ生物はすぐに朽ちる。死は避けえぬものではあるが、しかし、本来我らも、生物も、存在する限りは存在し続けようとするものだ。死を望む者は生物として致命的な欠陥があり、淘汰されるべきだ。我はその願いをかなえるべきだと結論した。だが、それに反対したのがそこにいるツッチーと、ノッコーだった』

 景色が変化する。

湖面が激しく蠢き、青い光が水のようにうねって、白い大蛇や黒咲百合と一緒に瑠璃色の髪の女性を抱いて昇っていく。見る間にその形を変化させ体積を増やし――それは巨大な大樹となった。

 反響する、 ――風鈴のような―― 音。

音が静まると、突如として駆の目の前の青い光が隆起し、大樹の中心にいる女性へと道を作る。女性に辿りつくと、シャンという音を立てて、外装が剥がれるように、パラパラと光る欠片が、雪の如く煌きながら舞った。

形成されたのは半透明の階段だった。幅は広く、大人二人分が大の字になって寝れるくらいある。

『さあ、始めようか、どちらが正しいのか、決めるために!』



「えっと、これはつまり、登ってこい、ってこと?」

「ってこと?」駆の言葉にオウム返しをするように天音は不可思議な生命体ツッチーを見つめた。ツッチーはキリっと勇ましく頷き、

――さあ、行くぞ!

 階段を登ろうとしたが、身体が小さくて段差を越えられず、

――……くっ、クラムオブヘルメスめ! なんという陰湿な嫌がらせを!

 ズズーンと地面に手(なのかはわからないが、手ということにしよう)をつき、落ち込んでいた。いや、多分あっちはそんな意図はない。

 駆はやれやれと掌サイズのツッチーを拾い上げ、肩にのせる。

「付き合うしかなさそうだな」

 階段を十段くらい登った時だろうか、

「な、なんだ?」

大樹の真上からどろりとした液体のような闇が突如として噴出し、無数の雨となって滴り落ち、幻想的に光り輝いていた空間を侵食しはじめた。瞬く間に景色は漆黒に染まり、色が残るは青く光り輝く大樹と階段だけだ。

見えない屋根があるように、黒い雨は大樹と階段の上で弾かれていた。

「ふふふ、駆くんが封印と呪いを解くのが先か、この闇が大樹を飲み込み終えるのが先か、ってこと」

 ふわふわと浮きながら、黒咲百合は大樹の中心から駆の近くへと降りてきて、

「ほらほら、早く階段を登らないと、あっというまにゲームオーバーだよ」

 目線で、駆に後ろを見るよう促す。

 駆が振り返ると、湖面はいつの間にか黒く覆い尽くされ、闇が波のようにうねりながら、一段目の階段を飲み込もうとしているところだった。

「お、おい、なんだよこれ。飲み込まれたら、どうなるってんだ」

「ねえ、駆くん。死にたいと思ったら死ねる世界って、駆くんはどう思う? 普通はきっとそんな世界はだめだって思うよね。命を粗末にするな、って怒られるよね。それが『正しい』とされるよね。だけど、駆くんならわかるんじゃないかな。普通は本心から死にたいと思うことなんてないだろうけど、本当に『死にたい』と心から思っている人の願いがその通りになる世界が実現するとしたら。誰の迷惑にもならず、ひっそりと自分の存在を消すことができるとしたら。それは本当は優しくて、なにより素晴らしい世界だと、駆くんは思わないかな」

「そんなこと、あるわけ」

「ふふふ、死にたいも、生きたいも、結局は表裏一体なんじゃないかな。生きたいから、死にたいと思う、そういう気持ちをきっと誰もが持っているんだよ」

「何言ってんだよ」

――その娘が言っていることは本当だぞ。この闇が大樹を覆い尽くす時は我々の負けだということだ。その時、クラムオブヘルメスの求める世界になるだろう。すなわち『死にたいというロゴス、叫びを発した者の願いが叶う世界』へと変わることになる。

 ひょこひょこと駆の肩から頭に移動しながらツッチーは言った。

 こんな時だというのに、どこか緊張感がないような声色なの、どうにかしてくんない。

「話している暇はない」

 天音にグイッと制服の袖を引かれ、一段上に足をかけながら駆が後ろを見下ろすと、

「な……!」

 闇はすぐそこに迫っていた。急いで駆け上がろうとする駆の右足に、闇が波のようにうねって纏わりつく。

 引き摺りこもうとする力になんとか抗い、足を引き抜くと、ブチンとゴムが切れたように闇は下方へと落ちていった。

 這い上がるようにして、駆は階段を駆け上がる。理屈抜きで、あの闇はやばいと感じていた。あの闇へと引き摺こまれたら最後、抜け出すことは叶わないだろう、と思わせる力が確かにあったのだ。

「はっ、はっ、わけわかんねーが、とにかく、あそこに着けばいいんだよな」

 階段の行き着く先には、白い大蛇と美しい容貌の女性が静かに佇んでいる。

――そうだ、あそこまでまずは辿り着き、それから守護するクラムオブヘルメスを倒し、封印と呪いを解いたら、我々の勝ちだ。

「とにかくまずは登れってことだな……、ふざけんな!」

突拍子もなくスカイツリーの頂上までエレベーターを使わず登れと言われているような感覚だった。なんでこんなことに、と駆は思いながらも、闇は否応なしに迫ってくる。

駆はとりあえず、目の前に差し出された毒とわかっている料理を皿ごと平らげようとするかの如く、目的地へと向かうことだけに集中する。

悟りは諦めることと見つけたり。

しかし、しばらく登り続けて異変に気付いた。さっきから上方にいるクラムオブヘルメスとの距離感が縮まっていない。最初は気のせいかとも思ったが、数分してぜえぜえと息も絶え絶えになりながら見上げても距離感が少しも変わらないというのはさすがにおかしいはずだ。

「はあはあ、ぜ、全然辿りつけそうにないんだが」

――落ち着くのだ。これはおそらく、お主の心の中の問題だ。ノッコーへと辿り着くのに、物理的な距離があると感じるのは、おぬしの錯覚よ。

「どういうことだよ!?」

 とうとう、駆は登り疲れて、闇が遥か下方にあることを確認してから、階段にしがみつく様に座り込んだ。

「……どうした、いつもの情けない顔が一層情けなくなっている……、面白い顔」

 駆を先導するように飛んでいた天音が、きょとんとした表情で駆の顔を覗き込んできた。それに対して、

「きつい」

と駆はたった一言。彼方にある太陽にでも向かって走っている気分だ。青春かよ。

「この空間は、試練を受ける存在の心の動きに連動しているから」

 すると、またもやふわふわ浮きながら黒咲百合が近づいてきた。

 くっくっと笑い、

「駆くんが進みたい方向にちゃんと進んでいれば目的地には辿り着くはずなのに、ね。何時まで経っても辿り着かないのは、駆くんが前に進んでいると錯覚しているからなんだよ。だから進もうとすることさえも諦めてしまえば……ほら、もう闇はすぐそこに迫ってるよ」

 谷底に落ちまいと崖の端にしがみつく者を突き落とすように、黒咲百合は言った。

 気付けば遥か下方にあるはずだった闇は、駆が座り込む階段の一段下に渦を巻きながら昇ってきていた。

慌てて登ろうとするが、闇が触手のように伸びてきて駆の四肢に絡みつく。

「うわあああああああ!」

 抵抗することもできず、引っ張り込まれて駆は闇の中へと落ちていった。


 闇の中に沈みながら、駆はまず呼吸をしようと思った。

だが酸素を取り入れることができず、代わりに息を吐き出すと水の中にいるようにコボッと気泡のようなものが口から溢れる。必死でもがいて浮こうとするが、闇が広がる世界の中どちらが上で下なのかもわからなくなっていた。

 ああ、なんだ、この感覚。流れ込んでくる。嫌な気持ちが、いっぱい。

 それは駆の心からあふれ出した『叫び』だった。

『誰も俺を愛してくれないんだ』

 駆の口からこぼれた叫びが、闇の海の中で血肉を付け、魚のように蠢き、駆の腕の一部を食いちぎって消えた。

 腕が熱い。火傷をしてしまったようだ。だがそれ以上に駆を苦しめたのは、その熱さが毒のようにドクドクと全身の血液をめぐって、心の中さえも冒すような感情に襲われたことだ。

――お前が独りなのは、誰のせいでもない、お前のせいだ。日向晴を思い出せ。彼女はお前のせいで不幸になった。お前がいるから、不幸になった。お前がいなければよかったのに。

『ああ、そうだ、俺さえいなければよかったのに』

 また口から勝手にあふれ出した叫びは、鋭い牙を突き立て駆の身体を食いちぎっていく。

 違う、俺は、俺なりに精一杯足掻いてきたんだ。一生懸命だっただけだ。本当に?

――日向晴が苦しんでいるときに、お前はなにをした? 晴のために何かしたか。しなかった、お前はしなかったんだ。何もせず、逃げた。今も逃げ続けている。笑わせる、何が一生懸命だ。最低じゃないか。晴は今もお前のせいで苦しんでいるのに!

『ごめんなさい』

ああ晴、ごめん。ごめん、なんて身勝手な言葉だってわかってる。でも、ごめん。謝ることしかできないんだ。だから、ごめん。お父さんも、お母さんも、ごめん。生まれてきてごめんなさい。消えたいよ。何で、消えないんだよ、消えろよ俺!

 息も出来ず、心も身体も痛みでいっぱいで、頭も真っ白に染まって、駆はすべてを投げ出したくなった。

 ああ、そうだ。こんな思いをするくらいなら、生きていたくなんかない。消えたい。俺は何で今まで生きようと足掻いていたんだ。バカみたいだ。

黒咲百合の言うとおりだ。俺は望んでいた。早く楽になりたいと、願っていた。生きてても苦しいことばかりだから、せめて安らかに眠っていたいと、死にたいと心の奥底で思っていたんだ。

ずっと。

ずっと、ずっと苦しかった。

この世に生まれた意味がわからなくて、そんな世界で周りの人間は誰もが自分の人生を歩もうと一生懸命生きているのに、自分は、ただ周りのしていることを真似しているだけで、生きているフリをしているだけなんじゃないか、そんな薄ら寒さが絶えず心の中にはあって。

『きっと、宇宙人かなんかじゃん』

 そうだ、きっと、宇宙人なんだ。宇宙人だから……。愛されなくても仕方がない。消えたいと思っても仕方がない。

 天音、ごめん。俺、今、消えたいと思ってるよ。死にたいと思ってるよ。そんな俺がクラムオブヘルメスに対抗するのは無理だから。それどころか、クラムオブヘルメスの願いを望んでもいるから。だから――。

駆は全てを諦めて、目を閉じた。暗闇は変わらないが、目を閉じると意識は急速におぼろげになり、

『諦めるの?』

 意識を手放そうとした直前、天音の声がした。

『諦めちゃだめ』

 ごめん、もう無理なんだ。だから、消えさせてくれよ。眠らせてくれよ。もう苦しいのは、嫌なんだ。

『させない。諦めさせない。だから私は、今、あなたに、叫ぶんだ』

 閉じた瞼の裏側に何かを感じて、駆が目を見開くと、蛍のような光が瞬いていた。駆の目の前で今にも消えそうになりながら、

『世界は、ロックンロールで、できている』

 それはただの言葉のはずだ。

『鼓動が全身を巡って命を叫ぶように、熱い魂が胸を震わせ身体中を駆け回っているように、この世界は呆れるくらいのスピードで宇宙を駆け回って魂を震わせるようなビートを刻むように、転げまわっている。きっと死ぬまで、ずっと回転し続ける。それが無駄なように見えても。同じところをずっと回転し続けたとしても。きっと、死ぬまで。ずっと、ずっと。だから、世界はロックンロールで、できている』

でも何故だろう、その言葉にはメロディがあった。音程も、音調もないはずなのに、それは確かに駆の心に痺れるような熱を帯びさせ、鼓動となって駆の心臓を動かし、血液を全身に送っていく。

駆の意志には関係なく。

 胸は震えたのだ。

『これが、私のロゴスなの。ロックンロールなの。私も、子供の頃、自分はこの世界に生まれてはいけなかった人間だと感じていた。施設から出ても、親になってくれた人は私の身体目当てだった。夢を追っても諦めなければいけなくなった。ボロボロになって、汚れて、夢を見た分だけ絶望して、幸せなんてどこにもない世界なのに。なのに、私の魂は、愛なんかどこにもないと思っても誰かを愛したいと叫んでいた。幸せじゃなくても、今を生きたいと、私は叫んでいた。それは言葉や思いじゃなくて、この私の中を駆け巡る心臓の鼓動が、魂が、叫んでいたんだ。だから、きっとあなたの中にもあるんだ。どんなに絶望しても、あなたの意思に関係なく、あなたの中で駆け巡る、言葉や音にすることができない、あなたのロックンロールが』

駆は、最早痛みという感覚さえなくなった腕を、半身が食いちぎられ親指と薬指しか残らない右手を、最後の力を振り絞って、伸ばした。

闇の中、今にも消えそうに瞬く蛍の尾のような、星へと。

 触れた瞬間、駆の全身の神経を貫く電撃が走り、刹那、駆の身体を音へと変えていく。誰にも縛られない、ただ空気を震わすだけの、ロックンロールへと。



全身を包む音の塊へと変身していく予感を感じながら、駆は、思い出していた。

駆がまだ小さな頃、苦しくて、切なくて、世界で自分は独りぼっちだと感じていた駆に、かつて祖父が願いをこめて言ってくれた言葉を、思い出していた。


――駆。

自分のことをどうしようもなく嫌ってしまうときは、誰かのことを考えてみるといい。

 きっと駆は誰よりも誰かを愛する力を持っているはずだ。

 駆の心は強くなれる。誰よりもずっとずっと、強くなれる。



ブラジャー事件が起こる少し前、夏の終わりに祖父は亡くなった。それまで祖父が自分を守ってくれていた。祖父がいなければ、自分は生まれてこれなかったし、生きていることもできなかったと思う。

そんな存在がいなくなった時、駆はというと、どう反応したらいいのか、わからなかった。

 ただ、泣きたいな、とは思った。

 それが普通のことだと思ったから。だから、駆は演技をした。悲しいフリをしてみた。けれど、駆には関心を少しも示さない薄情なはずの両親が涙を流しているのに、自分は涙などかけらほども流れない現実を見て、強く思ってしまった。

 自分はどこかおかしいのかもしれない、と。だから、消えたいと、何度も思った。それでも死ななかったのは、祖父に言われ続けた、この言葉のおかげだったのだ。駆はその言葉を、言葉として、言葉の意味どおりに受け取ったのではない。

 その言葉には、駆に生きて欲しいという祖父のありったけの思いがこもっていた。

 言葉には顕われない、祖父の叫びが、駆の意志とは関係ない心の片隅に深く刻まれたのだ。

 それが、駆が生きる理由、誰にも譲れない信念となった。

 駆は確かに両親から望まれた子供ではなかったし、他の人より価値がないと思う気持ちは無くならないし、誰かからみればただのガイキチで、取るに足りない不幸な人間なのかもしれない。

 こんなことをいつまでも考える駆が間違っていると誰かは否定するかもしれない。事実、駆は逃げているだけなのかもしれない。

 だから、駆は間違っているのかもしれない。間違いつづけていくのかもしれない。

駆には夢も、夢を追うだけの才能も、社会で生きていく最低限の社会適応能力もない。

人の役に立つ様な力も知恵もない、それどころか善人になることすらできない。

 そんな人間が叫ぶ言葉など、意味はない。無数にいる人間の中で、何時だって優劣はつき、勝者と敗者に分かれて、光はでき闇はできていく。底辺から叫んでも、『正しい』とされる声があれば『間違っている』声は掻き消えてしまうのだろう。

 だけど、それで良いのだ。誰かに否定されても肯定されても、自分が否定しても、肯定しても良い。時には引き合い、時には反発しあい、そうやって宇宙はロックンロールしている。たとえ駆が同じところを回って、同じところで立ち止まっても、駆の世界は広がっていく。

 駆にしか、叫べない、なにかがある。今しか、叫べない、感情がある。

 もしも、これで駆が将来夢と呼べるものができたり、社会で成功するような人間になって自分に価値を見出したら、もう叫ぶことはできない、感情が、今あるのだ。

 だから、今は、ただ、叫ぶべきだ。

 声を枯らせ、命を叫べ。それこそが、ロックンロール。




 闇の底へ落ちていった駆の姿を見送って、黒咲百合は階段の終着点となる大樹の幹の上へと音もなく降り立った。世界を覆う大樹の幹の太さは野球場を何十個も覆えるほど広く、凸凹の幹の上に、三方向へと広がった山のように太い枝がさらに遥か上へと伸びていた。

「……あーあ。ゲームオーバーか。駆くん、弱すぎだよ」

『不満そうだな』

「うん、もっと私を楽しませてくれると思ったのに、がっかり」

 視線をじっと階段の下に蠢く闇へと投げながら、黒咲百合はゴシックドレスを樹上につけて座り、頬杖をついた。

「あがってこないかなあ……」

『あれの中に完全に落ちて、取り込まれてはもはや望めないだろう。あれはこの世界にあふれる、あらゆる負の想念が集まりあって出来るもの。落ちれば人の感情に直接訴えかけ、絶望へと導いていく。人間は弱いものだ。ただの感情が、人に希望と絶望を与える。感情は人を動かすエネルギーだ。エネルギーが尽きれば、もはや這い上がってくることはないだろう』

「そっか……。じゃあ、私たちの勝ち、なんだね。ふふふ、そっか」

『あとはこの大樹の終焉をゆっくりと見届けるだけだが、ふむ、そういうわりに嬉しくなさそうだな』

「そんなことない、嬉しいよ。私の望みは、叶うんだもん。でも、もうちょっと、駆くんなら、もしかして、と思ったんだけどな」

 黒咲百合は、クラムオブヘルメスと会話しながら、駆と出会ったときのことを思い出していた。


黒咲百合は財閥の娘として生まれた。子供の頃から才色兼備の少女だったから、周りの大人たちは常に黒咲百合の将来を期待してきた。期待されるというのは、常に良い子であることを強制され、監視される、という意味でもあったのだが、そんな状況が当たり前であった黒咲百合が周りの大人の期待に応えようと、品行方正であろうと常に努力するのは、ある意味当然であった。そして、今もそうであるふりをしている。

ある時突然自分の身に降りかかった不幸な出来事をきっかけにして、黒咲百合は本当の意味で『良い子』ではいられなくなった。人から示される善意に縛られて、『良い子』であるためには悪意を示すことでしか自分の心を保てずにいる、それが黒咲百合という少女だった。

黒咲百合が駆と出会ったのは、小学五年生の頃だ。新学期のクラス替えのとき、たまたま隣の机同士になった。

駆は覚えているだろうか、黒咲百合はその頃いじめられていた。

 高学年を境にして、黒咲百合はよく異性から告白されるようになったのだが、それがきっかけとなって、嫉妬した女子の悪意が襲い掛かった。

 最初は無視されるという小さなことであったが、悪意というものをまだ理解していなかったその頃の黒咲百合にとっては、まさにこの世の終わりのようだった。

 いじめはエスカレートし、下駄箱から靴がなくなるようになり、机や持ち物に悪戯をされるようになっていった。

 そんなとき、駆はいつも傍にいてくれたのだ。

 下駄箱から靴がなくなったときは、一緒に探してくれた。クラスの女子は遊んでくれなくても、駆は遊んでくれた。授業も、休み時間も、駆と会話していればあっという間だった。先生や大人たちに相談する勇気を与えてくれたのは、駆だった。

黒咲百合にとって、駆はまさにヒーローそのものなのだ。駆には自覚はないだろう。

 そして、黒咲百合の人生に転機が訪れる。

 病気がみつかったのだ。最初は風邪をこじらせて、病院で診断を受けたとき、何気なく先生に言った言葉がきっかけだった。「時々、指に力が入らなくなるときがある」と。

 精密検査を受け、『運動ニューロン病の筋萎縮性側策硬化症の症状に近い』とのこと。

 不幸中の幸い、というのだろうか、黒咲百合の病気の進行はALSと呼ばれる通常の筋萎縮性側策硬化症よりもずっとゆるやかで、高校卒業までは普通の生活を送ることができるだろうとのことだった。

 自分で資料を探し、読んで、その病気がもたらす将来をはっきり認識したとき、黒咲百合の今までの常識は瓦解した。それまで当たり前だったことが、できなくなっていくということを知った時の恐怖は、言葉では言い表すことができない。

 日常は確実に一変し、それまで自分の将来を期待していたはずの両親は黒咲百合を腫れ物を扱うように接するようになった。どう接すればいいのか、距離感を図りかねていたのだろう。

 黒咲百合はそんな両親に心配をかけまいと、気丈に振る舞った。できる限り普段と変わらない態度で両親に接し、せめてまともに動けるうちは両親や周りの大人が期待するような、そんな子供でありたいと願った。だが、周囲の反応は明らかに以前とは異なっていて、同情や哀れみは向けられても、期待するような目は向けられなくなった。

 まるで、最早同じ人間ではないかのように。下等生物を見るかのように、憐れまれるだけの存在になっていた。

 それでも黒咲百合は頑張った。頑張って、いつもの『わたし』であろうとした。品行方正であろうとした。

 だが、無理だった。頑張れば頑張るほど、心は捻じれて、考えたくもないことを考え、言いたくもないことを言いそうになってしまう。いつしか輝かしい未来が待つのだろう、同世代の子供に嫉妬を覚え、それは徐々に大きくなっていき、抑えることができなくなった。

 だから、助けを叫び求めるように、黒咲百合はその頃に好きだった男の子、駆に手紙を書いた。初めて書いたラブレターだ。何度も何度も書き直して、できる限り伝わるように書いて、でもやっぱりうまい言葉は見つからず、やっぱり直接告白しようと、手紙を下駄箱に入れて、

――それを、クラスの女子に見られた。

『黒咲さん、駆くんのことが好きだったんだ』

 頭が真っ白になった。なぜ、そんな気持ちになるのか、わからないくらい、耐え切れないほどの羞恥心と恐怖が黒咲百合を襲ったのだ。

 結局、黒咲百合は駆に告白することはできなかった。

 考えてしまったのだ。告白して、どうなるというのか。もしも振られたら、なんてそんなのは考えたくもない。考えないようにした。でももしもうまく行ったとして、一緒になって、それは自分にとってはとても幸せなことだけれど、自分の将来を知らない駆はどうなんだろうか。

 もしも、自分の病気を教えたら、駆は同情するかもしれない。付き合ってくれるかもしれない。だけど、それは黒咲百合が求めるものではなかった。この『駆を好き』という気持ちは、汚されたくはないものだったから。

 悲しかった。悲しくて、なんでこんなことになってしまったんだろう、なんで私なんだろう、そんなことばかりを考えるようになった。

 そして、もっと恐ろしいことがあることに思い至る。このまま告白をしなかったら、どうなるだろうか。駆は傍にいてくれるだろうか。駆には他に好きな女の子がいるかもしれない。確か幼なじみの女の子がいたはずだ。もしも、その子が駆の一番になったら、私なんて、そう、私なんて忘れられてしまうんじゃないか。

 忘れられるのはいやだ、と強く思った。でも駆が悲しむのは嫌だとも思った。自分と言う重荷を抱えていつまでも悲しむようなことは望んではいない。だけど、しかし。

 黒咲百合は考えた。そして、矛盾する思考の果て、

黒咲百合は駆を傷つけることにした。

 決して同情されることなく、脳裏に自分と言う存在を焼き付けてみせる。それは衝動だった。こうするしかない、という黒咲百合自身も抑えることができない衝動だ。

 でもその傷は時間が経てば過去のものになってしまう。自分という存在を忘れてしまう。だからまた傷つける。あらゆる方法を考えて、あらゆるものを利用して、駆に忘れられないために。いつしか、誰かをいじめることが当たり前になった。

 不思議なことに誰かを傷つけると、安心した。病気であることが、自分に対する罰のように思えたから。駆を傷つけるかわりに、両親に対しては優しくすることができるようになった。いつもどおりの自分を演じることができる。本当は悪人なのに、善人のふりをすることができる。

 こうして、駆を不登校へと追い込んだ黒咲百合だったが、いざ駆が学校に来なくなると、自分に対する嫌悪感と罪悪感でいっぱいになった。自分のしていることの無意味さを自覚して、尚、他人を傷つけることしかできないでいる。こんな自分は死ぬべきなんだろうな、と思っていた。最後まで苦しんで生き抜くより、自殺したほうが楽だろう、とも思った。

 そんな時、クラムオブヘルメスに出会った。

『おぬし面白い奴だな』

 あの日声をかけてくれたこと。

 助けてくれたこと。

 きっと、そんな小さなことが、まさか誰かの人生に大きな影響を及ぼすことなど、考えもしないのだろう。誰かが誰かを愛するのに、特別な出来事は必要ではない。そんなもので芽生えた感情は一時的で、すぐに消えてしまうものだ。必要なのは、普通の、ごくありふれた親切の積み重ねの、心の奥底にしみこむような優しさだ。少なくとも黒咲百合はそうだった。あの時、惜しみなく自分に示してくれた駆の優しさは、今も黒咲百合の胸にぬくもりを与えて、消えることはない。

 黒咲百合にとって、駆はまさにヒーローそのものなのだ。駆には自覚はないだろう。

 だから、黒い海が突然輝き始めたとき、黒咲百合はすぐに確信した。やっぱり駆はヒーローなのだ。どんな絶望がその身に降りかかっても、どうしようもない現実が世界をゆがめようとも、駆はどこまでも足掻いて、みっともない姿を自分に見せてくれる。ボロボロになりながら、ただひたすらに前へ前へと進もうとする必死な表情を、自分に見せてくれる。

 光が黒い海を突き破り、水面から駆が飛び出してきた。

 さきほどまでの制服姿ではない、黒いレザージャケットスーツに身を包み、本来黒いはずの髪が青みがかかった金色に輝き、腰まで届いている。

「そうだよ、駆くん。足掻いてよ、もっともっとみっともなく転げまわって、どこまでも真っ直ぐな瞳で、なりふり構わず、向かってきて。私に見せて、駆くんの、色んな表情を」

 長い睫毛を少し伏せて、顔を紅潮させ、駆の姿を見ながら黒咲百合は呟いていた。



 真っ暗だった視界が急速に光を取り戻し、闇の表面に降り立つと、駆は青く輝く大樹を見上げた。半透明の階段の終着点には黒咲百合が座っており、駆をじっと見据えている。

「はー、危なかった。死ぬかと思った」

――ま、あのまま闇の中で消えたとしても、現実世界のおぬしが実際に死ぬわけではないがな。だが、良かった。ノッコーにもう会えなくなるところだったからのう。

「ノッコーと、ツッチーって、どういう関係なんだ。恋人? 奥さん?」

――ふふふ、人間の関係でいうなら、そういうものだ。見よ、ノッコーの姿を。可愛いとは思わぬか。

「可愛いというか、綺麗だな。しかし、あんたとはどう見ても不釣合いだ」

(……ツッチー、駆はノッコーにちょっと色情を覚えている模様。気をつけたほうがいい)

――ふむ、貴様。我のノッコーになんたる不埒な目を向けておるのだ!

 天音の不穏な言葉に反応し、駆の頭に乗って、地団駄を踏み、髪の毛を引っ張りあげてくるツッチー。いや、違う。確かに髪の毛で大事なところは隠れているとはいえ、全裸だから、ちょっとエッチだなとは思ったけど! っていうか、言われてみると、ほんとエロいなとは思うけど!

「ち、ちが!」

(……ツッチー、駆はさっきより遥かに意識してノッコーの裸を見ている。気をつけたほうがいい)

――貴様! 人間のくせに!

「いてててて、って、あれ、なんかおかしいような」

 さらに激しく人の頭を蹴りつけてくるツッチーを摘み上げながら、駆はようやく違和感を覚える。まず自分の格好が変わっていることに気付いた。着ていた制服から黒いレザージャケットスーツに、運動靴は白いブーツになっている。髪の色も長さも変わっていた。そして――、

「天音、お前はどこにいるんだ。今さっき、お前、俺の心読んだよな。しかも、なんか肉声じゃなくて、心からお前の声が聞こえてきたような」

(……どうやら、私たちは同化してしまったらしい。なぜこうなった?)

――ふむ、それは、お前たちが我と同じロゴスであるから為しえたことだろう。お主たちの心が共鳴し、同調して、ついにお前たちは一心同体となったのだ。つまりユーたち変身したのだ。

「変身って。意味がわからん」

(変身……!)

「あ、あのー天音さん。よくわからないけど、天音さんがすっごく喜んでいるのが伝わってくるんですが」

(……なんのこと?)

 ごまかした! 変身って言う言葉の響きに反応して喜んだこと、そんなに知られたくないんだろうか。よくわからん。

(……違う)

「ああ! なんだか知らんが、ツッチーさん? これなんの意味があるの。すっげーやりにくい」

 相手の気持ちが手に取るようにわかるので、天音が自分の感情を隠そうとしても駆には伝わってしまう。ちなみに、すっげー恥ずかしがっている。そしてその感情がダイレクトに伝わってくるので、もはや駆自身が恥ずかしい思いをしているのと同じことだった。

――ふむ、ようやくお前たちも我のロゴスとして真の意味で覚醒し、クラムオブヘルメスが用意した相手と戦う準備ができたということだろう。

「戦う準備?」

 駆の疑問にはクラムオブヘルメスが答えた。

『ノッコーの眠りを覚まし、解呪する条件は、「悲しみに覆われた人間の感情を晴らす歌を歌うこと」。だが、ただ歌を歌えばいいというものではない。封印を解き、呪いを解くためには、歌を歌うために必要な『悲しみに覆われた感情』を手に入れる必要があるだろう。それが鍵だ』

「鍵って、なんだよそれ。どこにあるんだよ」

『さあ、黒百合よ』

「うん、わかった」

 クラムオブヘルメスを身体に巻きつけた黒咲百合が上空から飛び降り、ふわりと闇の表面に降り立つ。そして、右手を大きく横に薙ぐと、手には大きな鎌が出現していた。

 柄自体が長く、刃は黒咲百合の身長の半分ほどもある。黒咲百合は柄を一度くるりと回転させると、クラムオブヘルメスの姿が消え、代わりに鎌の刃全体に白い光が輝きだす。

黒咲百合は鎌の刃をそのまま闇の表面へと突きたてた。

 闇の表面に青白い紋様が浮かんだ。波打っていた闇の表面が静まり、やがて黒咲百合の立つ紋様の中心から透明な水が噴出し、一匹の龍が飛び出た。

 その身体はシロナガスクジラもかくやと思わせるほど大きく、真っ黒な闇から生まれたとは思えないほど真っ白い雪のような鱗に全身が覆われていた。

 ナマズのひげのようなものがピクリと動き、その瞳に練り絹の輝きを見るような光が灯ると、龍は目覚めの咆哮をあげた。

「な……」

(綺麗……)

「いや、綺麗だが、これがまさか……」

――ふむ、どうやらあれが鍵のようだな。

「ですよねー」

(で、どうすればいいの)

「あれを、どうしろと」

――つまり、あれから鍵を取り出せ、ということだろう。白い龍となったクラムオブヘルメスを倒して。

「ですよねー」

(燃える展開……!)

「いやそれ以前に倒せないだろ、これ。なんだよあれ。あんなバケモノどうやって倒すんだよ」

 いきなり出現した化け物に、絶望しかわかない駆に対し、天音はどこまでもやる気にみなぎっている。どこから出るの、その気持ち?

「倒すのは、この龍だけじゃないよ」

 追い討ちをかけるように、クスリと黒咲百合は口元を緩ませながら言った。

「へ?」

「もう言葉は要らないよね」

 白い龍の頭から降りると、鈍く光る刃を駆に向け、

「言っておくけど、私、強いよ?」

 天使のような笑顔で黒咲百合は言った。いやそこで笑顔なのは悪魔だよどう見ても。

『ノッコーの呪いを解きたければ、我の代弁者である黒咲百合と戦い、我の中にある鍵、『感情』を取り出すことだな。だが、我らとて、本気。心して、掛かるがいい』



「いきなり、戦うとか。ちょっと待ってくれよ。俺、戦ったことなんかないぞ」

(うるさい。男なら、ごたごた言わない、燃やせ闘魂!)

「あの、天音さん、なんでそこであなたは嬉しそうにしているんですか」

(そういうあなたはなんで腰が引けてるの)

「いや、だって、ほら、あっち鎌を持ってるんだぜ? どう考えても不利だろうがって、おい!」

 ぶつぶつ言う駆を待つことなく、鎌が眼前に迫ってきた。マジかよ、おい。

(大丈夫)

 避けなければ、と思った瞬間体は動いた。後方へまるで弾丸のような速度で駆は跳ねた。

「あら、避けられちゃった」

「あ、あぶな、って、おい!」

 駆が降り立った闇の表面が隆起する。白い龍の大きな口が駆を捕食しようとしていた。

「ぎゃああああ!」

(駆、うるさい……)

 転げまわるように前転して避ける。が、はい、目の前には鎌!

「のおおおううううううう!」

 イナバウアー! とのけ反ると、一閃する鎌が、駆の髪の何束かを刈り取っていった。あ、あぶねー。尚も攻撃を仕掛けてくる黒咲百合をなんとかいなしながら、

「我ながら、すげー身体能力だな、おい」

――ふ、我に感謝するがいい。我のロゴスなのだ。しかも今のおぬしは天音と一心同体になり変身している。その賜物だろうな。

 駆の後ろの髪にひしっと掴まって身体を振り回されていながら、そんなことをツッチーが言った。あちらにいる白い龍の姿に比べ、なんとも情けない姿だった。三十歳ニート引きこもりみたいに覇気のない奴だった。

 やれやれ、と駆が白龍を見ると、白龍は大きな口を開けていて、背中の尾びれが輝いている。

「って、なんかやばそうな感じするんですが」

(……かっこいい!)

「天音さん、なにわくわくしてらっしゃるんですか!?」

 案の定、口からゴジラさんの映画で見たようなレーザービームが吐き出された。

「う、うおおおおおお!」

 駆の後を追って襲い来る白光を、駆は瞬間移動するか如く前後右左に転げ回って避けた。

「し、死ぬ! あれは、死ぬ!」

 白龍の口から光線が途切れたので、駆は涙を滲ませながら、安堵の息を吐こうとして、はい、鎌! 吐く暇もなく、目の前に迫る鎌から逃れる。

黒咲百合は鎌の柄を、まるで新体操の演技をするかのようにクルクルと回転させながら、二閃、三閃、と鎌を振り回してくる。

「お、おい、こっちは武器がないんだ、ひ、卑怯だ!」

「ふふふ、かっこいいでしょ。これは私が願った武器。駆くんに対抗するために、駆くんの思いを刈り取ろうとする意志そのものだよ。駆くんには天音さんがいるでしょ。私は一人。なら武器くらい、持たせてよ」

「んな馬鹿な。ってか、まずは一旦話し合おう。な?」

「ふふふ、何時だって、最後にどちらが正しいかを決めるのは、言葉じゃないでしょ。どちらが強いか、ていうことなんじゃないかな。私が駆くんに勝ったら私が正しい、駆くんが勝ったら駆くんが正しい。そうやって『正しい』を決めないかぎり、いつまでこの戦いは終わらないよ。考えや願いが異なる人間が二人いれば互いの尊厳と自由と正義が対立することは避けられない。そして、決して願いや考えが互いに同じものになることはありえない。あると思うのは、ただの押し付けだよ。尊重できることと、できないことが、世の中にはあるんだ。だったら戦いで決めるしかない。戦いは野蛮だと思う? 戦って勝たないと、何も掴むことができないのがこの世界の摂理なんだから、野蛮も何もないと思うけど?」

「あー、小難しいこと言うなよ、俺はそんなに頭よくねーぞ。あーちくしょう。なら、仕方ねーな」

(駆……?)

 黒咲百合の言葉は相変わらずこくりと頷きたくなるような力があったが、しかし、今の駆には全く通じなかった。次から次へと起こる超展開に、最早、駆の頭はとっくの昔にパンクしているというのもあるが、駆はついに気付いてしまったのだ。

「あのさ、俺はなにが正しいとか、悪いとか、そういうことを決めに、ここに来てる人間じゃないんだよ。ってか、完全に巻き込まれただけだ。でも、恨みを言う気にはなれない。巻き込まれたから当事者になれたんだ。おかげで、気付いたことがある。この世界の底辺である俺だからなのかな。だから、戦って、白黒つけることが、世界の摂理なんかじゃないことを、お前にわからせてやれると、俺は思った。だから、そのために、俺は――戦わないことにした」

 不意に駆は立ち止まった。黒咲百合は構うことなく刃を駆の身体に向けて薙ぎ――目を見開いた。

 あまりにもあっけなく、駆の左腕が吹っ飛んだのだ。

「駆くん……、なんで」

風に舞っていた長い黒髪を肩に落としながら、黒咲百合は呟くように問う。

「う、ああああ……」

そんな黒咲百合に、駆は焼け付くような痛みに顔を歪めながらも、にかっと笑い、親指を左胸に突きたて、

「お前らに、ロックンロールを教えてやる」

 目を眇め、宣言した。



「ロックンロールって、なに。意味がわからないよ、駆くん」

「お前らの言う理屈どおりに戦えば、お前らの理屈を俺の考えだと錯覚しちまいそうになる。だがそんなのはお前らの理屈だ。俺の考えじゃねえ!」

「そんなのはただの現実逃避だよ。シマウマがライオンの理屈なんか知ったことないとか言って逃げなかったら、食べられるだけだよ?」

「う、そりゃーそうだな。でもよライオンがシマウマを食べるってことがなんで、ライオンがシマウマより強いっていう証明になるんだよ。んなわけねーだろうが。ライオンは強いから食べようとするんじゃねーぞ、必要だからだぞ」

「何が言いたいの? 食べられちゃったらそりゃー、死んじゃうから、負けたことになるよね? 逆に、シマウマがライオンから逃げられたら、それはシマウマの勝ちだよね。必要だから争う、争うことはすなわち弱肉強食。間違ってないと思うけど?」

「……で、ですよねー」

(駆、かっこわるい)

 黒咲百合に簡単に言いくるめられる駆の言葉を聞いて、天音の呆れたような感情が流れてくる。確かに格好が悪いのだろう。でもそれと同時に、何かを期待しているような感情も流れてくる。ああ、一人じゃないって、こういう感覚なのか。駆はそんな天音の感情をエネルギーに変え、勇気を持って返す。

「でも、俺達、同じ人間同士だろ。必要か? ライオンとシマウマのように食べて食べられる関係じゃないだろ。なら、なんで争うんだ。意味がわからない。生きれば勝者だ、っていうのは誰の理屈だ。そりゃー、勝者が言う理屈だろ。騙されるほうが悪い? それも騙す奴の理屈だ。お金があれば幸せ、名声があれば幸せ、社会で成功することが幸せ、他人を見下して自分を安心させることが幸せ、色々あるよな幸せになるための理屈って。でもよ、本当にそうか。幸せに、形はあるのか。人は幸せになるために生きるのか。俺は、違うと思う」

「……」

「俺は、そんなことのために、生きれない。幸せになるためには、生きれない。ただ、俺は、ここにある、わけのわかんない衝動のために、生きてる」


――駆。

自分のことをどうしようもなく嫌ってしまうときは、誰かのことを考えてみるといい。

 きっと駆は誰よりも誰かを愛する力を持っているはずだ。

 駆の心は強くなれる。誰よりもずっとずっと、強くなれる。


駆はトントンと胸に親指を打ちつけ、

「そうだろ、天音。俺は、俺たちは、誰にでもある、この胸の奥底にある」

(……うん、私も、そう私たちは、誰にでもある、この胸の奥底にある)

「「ロックンロールを叫ぶために、生きてるんだ」」

 ただ、叫ぶ。その言葉はただの音の塊だ。言葉なんてただの音だ。意味なんて、誰かが勝手につけるものだから。自分でさえわからない感情の正体を、他人に言われたって、本当にそれが正しいかなんてわからない。そういうものを、人間は日常的にぶつけて、息をしているのだ。

「さて、そんなロックンロールのおもむくまま、やらせてもらいますか」

目を瞬かせる黒咲百合の一瞬の隙をつき、駆は走り出す。

白龍はまたもや口を開けて、今にも光線を放とうとしているところだったが、そんなことは構わない。今の駆は音の塊だ。ただの音だ。だけど、その音が、なにをもたらすかは、ぶつけてみないとわからない。

「うおおおおおお!」

 雄叫びをあげながら駆は龍の口の中へと突っ込んだ。視界が真っ白に染まる。


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