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朝シャワーを浴びた後、干した洗濯物の中から適当に服を引っ張り出し、公園へ向かおうと玄関のドアを開けた。白み始めた空を眺め、すううう、と朝の澄んだ空気を肺に送り、
「それで、俺は何をすればいいんだ?」
「まずは、あのギターを取り返さなきゃいけない」
「ふーん」
「本当は、ピックと、ギター本体は繋がっているから、私が念じれば取り戻すことができるんだけど」
「なら、問題ないじゃないか」
「でも――」
空中でボンと音を立て、ピックへと変身したので、地面に落ちる前に駆は慌ててそれを掴んだ。ピックがさも得意げな声で、
「こういうことだから」
「いや、何一つ分からないだが!?」
「つまり、電池切れ、みたいなもの。あなたが最初にあのギターを心をこめて弾いてくれたおかげで、あなたの感情、魂の根源部分が私に注ぎ込まれて、それが一種のエネルギーとなって今まで私は動くことができていた。だけど、今は色々と消費しすぎてむにゃむにゃ、寝る」
「おい、それはどういう! ってもう寝てるし!」
駆の手元で金色に輝き、天の川を模したような絵柄が施されたピックが寝息を立てていた。シュールすぎる。ピックが寝息立ててるなんて。やっぱり幻覚か、と駆が不安に思っていると、
「か、かー、くん?」
プルプルと震える声。駆が顔を上げると、制服姿の陽子がこれ以上ないくらい眉根を寄せて、
「だ、大丈夫? き、昨日とあんまり変わってないみたいだけど! し、心配で迎えに来ちゃったけど、正解だったよねっ、これっ。ああ、かーくんにとって学校に行くことがここまでのことだったなんてっ」
頭を抱え、リスのしっぽのようなポニーテールをブンブン揺らし、苦悩し始めた。それはそうだろう。家の外でぶつぶつと、胡乱に宙を見て一人騒ぐ知り合いの姿を目撃すれば、誰だって頭を抱えたくなる。むしろ知らないふりしたくなる。なんだったらそのまま一生接したくない。
「あ、あ、ああ、いやこれは……。そ、そういう陽子先輩も、朝早いですね」
恐らくまだ五時ちょっと過ぎといったところだろう。
「う、うん。いつもかーくんがこの時間に起きて、おじいちゃんとこに行くの知ってたから……」
「公園じゃなくて、家に?」
「それは、かーくん、大丈夫かなって、心配で。居ても立ってもいられなくて、つい」
「つい、って」
どうして、そこまで気にかけてくれるんだろう。かすめた疑問を駆は口にできず、
「すいません、あいや、心配かけて」
「ううん。でも、制服じゃないってことは、もう学校には行かないつもり、かな」
陽子は駆に向け、控え目な胸のところにある青いリボンを少し触って、低い身長からの上目目線という、対隠れロリ発見攻撃の定番を繰り出してきた。
もちろんこうかはばつぐんだ!
ひそかに落ち込みそうになった駆だったが、そんな陽子の姿に気を取り直し、
「あ、そっか。学校、行かなきゃ、いけないですよね。そりゃ、そうですよね……一回行ったら、終わりじゃないんですよね……」
駆には、長い不登校生活によって、学校は基本毎日行くものであるという感覚がないのだ。
一回行っただけで、終わりなら、どれほど楽か。
「うん。でも……、大丈夫? さっきの様子見ると、もう、病院行く?」
ナチュラルに病院を勧めてくる陽子はさすがに優しい。もちろん、その優しい言葉が『おまえ、やっぱどっか頭ヤラレチャッタ?』という第三者的厳しいジャッジメント攻撃になっていることには気づいてはいないだろう。ロリ先輩に、『ねー、ねー、お兄ちゃん、やっぱり頭おかしいの?』的な純粋無垢な視線を向けられることがどれほど恥ずかしいことか!
駆はその恥ずかしさに触発されて、ぷよぷよの連鎖反応的に、昨日起きた出来事、幼馴染との再会、黒百合のとっても素敵な微笑み、逆襲されること決定の事態を作り出してしまったことを思い出し――え、これって、冷静に考えても、学校に行きたくなくなくない?
「うっ」
心の中の地雷原が、ロリ先輩の一言によって大爆発。こみあげてきた胃液。
「おええええええ!」
「ふ、ふわあああ! 病院! 救急車! 110番! 違う、それは警察だあ! あわわ、あわわわ! ど、どうしよう、どうしよう!」
「うーん、うーん……」
「かー、くん、死ぬの? 死んじゃうの?」
駆の部屋で陽子は心配そうな声を上げ、氷水に浸かったタオルを洗面器から取り出し、駆の額に置いた。その際、陽子の指が駆の肌に触れた。
タオルよりも心地よい冷たさに、駆は目を瞑って、ふうと息を吐く。
「今日は、学校行くの、やめよう、ね。徐々に、慣れていけばいいよ」
ささやく陽子の言葉は駆にとってどこまでも優しい。
しかし、それに甘えるわけにはいかない。
ここで行かないという選択をしたら、一生その優しさに甘えてしまうような気がしたからだ。
そうなったら、苦しくなるのは自分だ。陽子や仁の思いを無視し、どこまでも醜く歪んでいくだろう。それに――。
駆は、手にぎゅっと握り締めたピックを思い出し、それを掲げてみる。
「ふええ、なにそれ。なんか、かっこいいねー」
陽子が、ぱああっと目を輝かせて、天の川を模したピックを見た。
「これは、見えるんですね」
「ふえ?」
キョトンとなる陽子を見て、ぷっと駆は笑い、
「いえ、なんでもありません」
全てが幻だったとしても、いい口実にはなるか。学校に行くべき理由には、なるか。
「なんで、陽子先輩は、こんな俺に、優しくしてくれるんですか」
学校に行く決意とは裏腹に、口から零れ出たのは、どんな答えが返ってくるのかが怖くて言い出せなかったこと。我関せず、と寝息を立てるピックの姿に毒気を抜かれたのかもしれない。
「うん? どうしたの。と、突然だね。う、うう」
陽子は頬を桃色に淡く染め、もじもじと落ち着きなく身じろぎし、
「め、迷惑、かな」
「俺、陽子先輩には本当に感謝してます。でも、なんというか、不安にもなる、といいますか。優しくされると、怖くなる、といいますか。俺、そんな資格ないのに」
「資格って」
瞼を一回二回と瞬かせた後、ぶんぶん! と陽子は首を振り、
「そんなことない。資格なんて必要ないよ。わたし、したいからしてるんだから。でも、それでも、かーくんがそれを必要とするなら――」
息をすうと吸って、遠くを見るように目を優しく細め、語り始めた。
「おじいちゃんはね、わたしのお母さんが小学校に行く前に離婚しちゃったんだ。おじいちゃんの元奥さん、わたしのおばあちゃんは、それからすぐに中学生時代の憧れの先輩と再婚したから、お母さんはおじいちゃんとは会うことができなくなっちゃったんだって。
お母さんは、おばあちゃんや新しいお父さんの手前、成人してもずっとおじいちゃんに会うことができなかったんだ。でも結婚して、わたしが生まれた時、思ったんだって。
『この子を見せてあげたい』って。
だからおじいちゃんを探して、会いに行ったんだけど。おじいちゃんはお母さんには会おうとしなかったんだって」
「なんでですか?」
「それが、わからなかったんだってさ。『会うべきじゃない』の一点張りだったみたい」
「あれ、じゃあ、いつジンちゃんと先輩は会うことができたんですか」
「ふっふっふ! そのきっかけをくれたのが、なんと! かーくんだったんだよ」
「お、俺、ですか」
予想外の事に、駆はがばっと上体を起こした。ボトッと濡れたタオルが腹に落ちる。
陽子は穏やかな目をまっすぐ駆に向けた。まるでジンちゃんみたいだ、と駆は思った。仁の駆に向ける視線はいつも優しくて暖かい。そんな仁に駆がどれだけ救われてきたことか。
「わたしが高校生になった春のことだったなあ。おじいちゃんが突然家に来たの。わたしに会いに来てくれたんだ。お母さんはおじいちゃんを見た途端、抱きついてた。子供のように泣くお母さんの頭を撫でながら、わたしを見て、『名前を教えてもらえるかい』って笑ってくれた」
「じゃあ、陽子さんがジンちゃんに会ったのって、一年前のことなんですね」
「そうだよ。それでね、お母さんが聞いたの。『なんで急に会いにきてくれたの』って」
陽子はタオルを拾い、洗面器にポチャンと落とした。氷がぴしりとひび割れる音がかすかに響く。
「おじいちゃんはずっと、自信がなかったんだ、って。お母さんを育てたのは自分じゃないし、そんな立派なお父さんと真面目だけが取り柄のつまらない自分と比べられたらって思うと、会えないって思っちゃったらしくて」
だけどね、と陽子は大事に大事に、言葉を紡いだ。
「おじいちゃんは、定年退職した後、毎日、ごみ拾いをするようになったんだけど、それは毎日暇だったから、なんだって。趣味も何もないから、せめて人の役に立てるような、でも誰かの邪魔はしない、それがごみ拾いという仕事をしていた理由だったんだって。なんだか、おじいちゃんらしいよね。真面目で、優しくて、でも人に接するのは臆病な、そんなおじいちゃんらしい、ささやかな理由。だけど、それは他の人から見たら「どうでもいいこと」だし、おじいちゃんはいつも自己満足だと自嘲しながらやってたって言ってた。
そんなおじいちゃんが、ある日一人の男の子に出会ったんだよ。
もちろんそれが、かーくんなんだけどね!
その男の子は朝早く公園のベンチに座って、時計をじっと見て、お昼までずっと動かない、変な子だったんだって。十二時を針が指すと無表情で公園を去っていく、そんなことを繰り返している子で、おじいちゃんも気にはなっていたみたい。話しかけようとも思ったけど、男の子は、おじいちゃん以外の人が来ると、慌てて隠れて、やり過ごしていたから、なにか事情があるんだろうと思って、対応を決めかねていたらしいんだけど。
ふと、男の子がおじいちゃんに近づいてきて、『いつもそれやってるよな』って、話しかけてきたときは、おじいちゃんは『なにが面白いのか』とか言われるんじゃないかと思ったらしいんだけどね、男の子は違ったの。『すげーな』ってそれだけ。たったそれだけだけど、その時、男の子は今にも泣きそうな顔してたんだってさ」
「そんな顔してた、かな」
ちょっと恥ずかしくなって、駆は誤魔化すように布団へと背中を倒した。
ざああああ、とタオルを固く絞って、駆の額にタオルを押し付ける陽子の小さな手。
「おじいちゃんはね、それが、かーくんの本心の言葉だって思ったんだってさ。そう思うと自分がしたことが、本当にすごいことのように思えたんだって。それは、かーくんだったから、なんだろうね! おじいちゃんはね、それがとっても嬉しかったんだって。こんなつまらない自分でも、そう思ってくれる人がいるんだって。こんなちっちゃなことを、感動してくれる人がいるんだ、って、とっても嬉しかったんだって、言ってた。それから、おじいちゃんはその男の子と、毎朝、ゴミ拾いをするようになって、ぽつぽつと話を聞いているうちに、ね。自然と、お母さんに会ってもいいか、って思えたんだってさ」
不登校になった時、駆は、あの公園の、あの少女が座っていたベンチで、時計を睨みながら、何もできず座り込んでいた。学校に行かなければ行けないと思えば思うほど、行きたくないという気持ちは強くなっていった。どうすればいいのかわからなくなっていた時、毎日、ゴミを拾う仁の姿が目に留まったのだ。
公園の管理者が着ている作業着姿ではないので、ボランティアなんだろうということは見ているうちにすぐにわかった。
本来はゴミを拾うのは公園の管理者の仕事だろう。仁がする必要はないのだ。
しかし、ゴミを丁寧に一つ一つ拾っていく仁の姿は、不思議と、駆の目を惹いた。
仁だけは、大丈夫だったのだ。不登校になった時、誰もが自分を見下しているように思えて、そんな自分が恥ずかしくて、視線に耐えられず、人に会うのが怖くなった。だから、いつもびくびくしていた。だけど、仁だけは、違ったのだ。
「そうだったんですか……。あれ、でも、それと、陽子さんが俺に優しくしてくれるの、ってなんか関係あるんですか?」
「大ありだよ! その時にね、わたし、その男の子に会いたいなって思ったんだ。すごいなって思ったの。おじいちゃんとわたしを会わせてくれた人がどんな人なのか、知りたくなったんだ」
小さな手で、人差し指を使い、陽子はぺしぺしとタオル越しに駆の額を弾き、
「つまり、ね! 資格あるじゃん、ってこと。きっと、かーくんにとってはそうでもないことでも、誰かにとってはそれがなによりうれしーって思うことがあるんだよ。わたしのおじいちゃんがそうであったように、そして、こうやってかーくんに優しくするわたしにだって。それに、優しくされるのに資格なんてものはなくていいの。感情だもん、結局は。気分ってやつ!」
「気分って、なんですか、それ」
「うう、自分でもなにいってるのか、わかんなくなってきたけど! とにかく、わたしはね、かーくんが、すきダカラヤッテイルワケデ――」
そこで陽子は、もごもごと棒読みになり、言葉を切った。冷たいタオルが視界を半分埋めているせいで、駆にはよく見えないが、ぎぎぎ、と額を弾いていた指をぎこちない動作で引っ込めながら、陽子は顔を真っ赤にさせていた。口をパックマンさせながら、
「も、もももも、もちろん、別に異性的な意味じゃないよ! お姉さんだからね、わたしは! お姉さん的な意味で、べつにそういう気持ちじゃないから! ああ、びっくりしたあ!」
「えっと……」
なにやら慌てている陽子。もちろん、駆も誤解などはしていない。話の流れから、異性的な『好き』という意味ではないのはわかりきっていた。それなのに、『好き』という言葉を過剰に反応して、慌てふためく陽子が可笑しくて、自然と心が軽くなった気がする。
「陽子先輩、ありがとうございます。あと、やっぱ、今日学校行くことにします」
「え、大丈夫、なの?」
「大丈夫です。着替えるので、外で、待っててもらえますか?」
「うん! わかった!」
ぴょーんと跳ねるように陽子は立ち上がり、そのまま部屋から出ようとして、
「あっ、あれ? よく見たら、かーくんが着てる服、わたしが持っているのに、似てるような」
駆が着ていた服に注目した。干した洗濯物の中から適当に引っ張り出して、そのまま外に出たので、うっかりしていたが、言われて見ると、それは一昨日着た、ピンク色のファンシーな絵柄のパーカーだった。
「ああ、そういえば、これ、ジンちゃんから貸してもらった服だ。せっかく洗濯したのに……」
「ええ!? じゃ、じゃあ、これ、わたしんのだ! 前、おじいちゃんのとこに泊まったときに、忘れた……」
「え、でもこれ、陽子先輩のサイズに合わないんじゃあ」
「わたしはこれから大きくなるの! これからめきめき身長が伸びた時、服が無かったら困るからね!」
そんな心配はしなくて良いんじゃないかな、と声には出さず、心に秘めておく駆である。
「ごめんなさい! ちゃんと洗って返すので!」
「ああ、うん、いいよいいよ! そのまま、脱いじゃって。わたしそのまま持って帰るから!」
もう仕方ないな、となぜか、ふへへと口元をだらしなく緩ませながら、駆に『バンザイ』と両手をあげさせ、スポッと服を脱がし、タンクトップ姿にすると、
「じゃ、じゃあ、外で待ってるね!」
パタパタと、陽子は部屋を出て行った。大事そうにパーカーを胸に抱えながら。
駆は制服に着替えようと立ち上がり、
『きっと、かーくんにとってはそうでもないことでも、誰かにとってはそれがなによりうれしーって思うことがあるんだよ』
そんなこと、あるんだろうか。先ほどの、陽子の言葉が思い浮かび、手のひらで眠り込むピックをぎゅっと握り締める。
優しくされるのに資格なんていらない、と陽子は言った。
しかし、駆には必要なのだ。いつも、両親に認められたいと思い、その度に砕かれてきた。授業参観で一生懸命両親の絵を描いても、見向きもされず『下手糞』だと馬鹿にされ、家事を手伝おうと思えば失敗して怒られ、精一杯気を引こうと話しかければ苛立たしげに『うるさい』と怒鳴られる。
だから、駆には、誰かに認められるという気持ちがわからない。
いつからか、認めてもらうためには、資格が必要なのだと思うようになった。それは軋むような痛みとなり思考回路となって駆の脳を焼き、こびりついて離れなくなった。
だからこそ、誰かが同じ痛みを抱えていると思ったら、悲しそうな顔をしていたら、駆は我慢することができない。他人だからと、線を引くことがどうしてもできないのだ。
胸に手を当て、ドクンと脈打つ心臓の音を確認する。
『私に笑顔を届けてほしい。いろんな人の。悲しいこととか、いろんなことがあってどうしようもなくなってる人の顔を、笑顔に変えてほしい』
(もしも、こんな俺にも、そんなことができるのであれば。俺はそうしたい)
***
ひとまず学校へと向かうことにする。
陽子のおかげで、駆としてはこのまま地雷原だらけの道を進み抜けるくらいの決意はできていた。踏み込んだ瞬間爆発し、四肢が吹っ飛びながらも前へ前へと進む己を思い描く。たかが学校に行くだけなのだから、妄想だけは逞しいものだった。
途中で公園へと立ち寄り、仁に挨拶すると、少しだけゴミ拾いを手伝うことにした。もはやルーティンとなっているレベルなので、やらないと落ち着かないのだ。そんな駆に付き合い、公園の遊歩道沿いのゴミを拾いながら調子外れの鼻歌を歌っていた陽子が、
「あ……、かーくん、見て!」
真剣な声で指差したので、駆がその方向を目で追うと、馴染みのベンチが見え、そして――。
「うわあ、なんか怖い人がいっぱいいるね!」
既視感ある光景。入学式の日に絡まれた不良がたむろし、反抗心あふれる髪形の金髪男がベンチにどかっと座り、隣の、見覚えのある少女の肩を気安く触ろうとしているところだ。
やばい。でも今下手に喧嘩売って、陽子先輩を巻き込むわけには。迷う駆だったが、
「あ」
女の子が絡まれていると気付いたのだろう、陽子は瞬間飛び出して行った。
「ちょっとちょっと! 女の子にこんな大人数で囲まないの! 怖いでしょ!」
「ああ? なんだこのガキ」
「あのねえ、わたし、先輩だから! あなたたち同じ高校だよね! とにかく、やめなよ!」
「これ、うちの学校の書記ちゃんだよ。小学生みたいだけど、生徒会の雑用をいつも一生懸命こなす姿がかわいーって噂の。ひゅー、顔結構かわいーし、おれらのナリ見て、飛び出すなんていい度胸してんじゃん。でも、残念ながら…………おれのタイプじゃないなあ」
露骨に陽子の胸をニヤニヤと見て金髪男は笑う。
「んなもん、俺もそうだっての。で、胸がまな板な小学生ちゃん、もう一回言ってみな。勇気は買うがな、俺は女とか子供とか、関係ねーんだぜ? 俺らに喧嘩売るなら、買ってやるよ」
声を低く、唸るように言いながら、一際体格が良いリーダー格の男が――確かケンジと言ったか――陽子を睨みつけ、近づいてくる。
百八十センチ以上はある大男の胸に頭が届くかという大きさの陽子にとって、それはどれほどの恐怖か。事実、相手が少しでも暴力を振るえば、大怪我してしまうだろう。
慌てて駆は走り寄るが、
「む、む、むねはかんけいないでしょ! ちょっ、お、や、や、ややや、やるってのかあ!」
はー、しゅっしゅっ! とシャドーボクシングする陽子に、
「わっ!」
ケンジの一声。それだけで、陽子は尻餅をついていた。
周りは爆笑だ。
「なにが、楽しいんだ……」
駆の頭の中でぶつりと何かが切れ、溶解し、マグマとなった。大音量の嘲笑う声から少しでも守りたいと、座り込む陽子の前に移動し、
「あっ?」
「なにが、楽しいんだ、って言ってんだよ!」
殴ろうとした。
だが、拳が届く前に、ケンジの蹴りが駆の腹に飛んできた。
関係ない。吐こうがこのまま死のうが。駆にとって大恩人の陽子を、生きる価値のないこんな自分に、学校に行く勇気と力を与えてくれた存在を、バカにされて黙っているくらいなら、死んだほうがましだった。
「うおおおおおお!」
駆は腹から喉に昇ってくる苦しさに構わず腰にタックルをしかける。不意打ちだったのか、ケンジを倒すことができた。
だが、すぐに体を入れ替えられ、ケンジにマウントポジションをとられてしまった。
「かーくん!」
陽子の悲鳴。
「馬鹿じゃね? おい、お前このまま死ぬか」
首を絞めてくる。見た目に違わぬ握力で、一気に呼吸不能に陥る。ぽかぽかとケンジを無我夢中で殴るが、効果はなくニヤニヤと相手は笑うだけだ。
圧倒的な力の差。悔しくて、悔しくて、涙がにじんでくる。
こんなふざけた奴を黙らせることもできないなんて。殴ることもできないなんて。
やっぱり、俺はカスだ。価値なんてありゃしない。ごめんなさい陽子先輩。ああ、消えたい。このまま俺を殺してくれ。消してくれ。
せめて屈しない、それだけを駆が思っていると、
「う、ああ、い、て、てめええ」
急に苦しさが消えた。ごほごほっと咳き込みながら、駆が相手を見ると、ケンジは手首を捻られ悶絶していた。目を見開き、信じられないと言うように誰かを見上げていて、
「お、おま、おまえええええええ!」
「この程度で悲鳴をあげない。男でしょ」
背筋どころか周囲の空気、地面さえ凍る声で、極光のような気高い存在感を放ちながら、ベンチに座っていたはずの木下雫が立っていた。
木下雫が手首を離すと、猛然とケンジが木下雫に襲い掛かり、――次の瞬間、ケンジは駆の目の前で宙に浮き、一回転していた。ドシンと背中から倒れ、呻くケンジを木下雫は一瞥し、
「はあ。ここまで馬鹿だとはね」
何が起きているのか、いまいちわかっていない駆が茫然としていると、目の前で木下雫は身を屈め、その際目にかかった長い前髪を掻き分けながら、そっと手を差し伸べてきた。
「あんたも、喧嘩する相手ぐらい見極めなさい。……でも、あそこで、ああやって怒れるあんたは、あたし、嫌いじゃないわ。引くくらい弱すぎだけど、ね」
片目を閉じて、まるで聖杯を巡る争いに召喚された騎士のような、英雄的な神々しい表情で、笑った。
ぼうっとする頭で王子様に助け出されたお姫様のようにその手を取り、立ち上がると、
「かーくん、大丈夫!? ごめんね! わたしがとっさに飛び出したから!」
涙をぽろぽろと零しながら、心配そうに陽子が走り寄ってきた。
「い、いえ。そういう、陽子先輩は」
「全然大丈夫だよ! さっきは腰抜けちゃったけど、怖かったけど、それよりもかーくんが殴られるんじゃないかって思うほうが怖かったよ!」
良かったーと、駆に抱きついてくる。さっきの蹴りでまだ痛む腹に追撃を食らわしていることに気付かないロリ先輩だが、とりあえず駆は思う。胸がまな板ってのはまったくの偽りだな、と。
「おい」
すさまじい怒気を孕んだ声。
「お前、マジでゆるさねーぞ」
ケンジが立ち上がって、木下雫を睨んでいた。周囲の不良も、そんなケンジが怖いのか、「どうする」「やべーよ、ケンジ、ありゃ死ぬまで殴るぞ」「女の子だからって容赦はしないだろうな」「シュン、どうにかしろよ」「どうもできねーよ。ああなったら」とささやくだけで、止めようとはしなかった。
しかし、木下雫はヒマラヤの頂上に吹きすさぶ風のような笑みを浮かべ、
「許さないって。これからなんだけど。っていうか、許さないのはあたしのほうだから。さっさとかかってきなさいよ」
「ああっ、舐めんじゃねえぞクソが!」
猛牛の如き迫力で距離をつめ殴りかかるケンジだが、それを事も無げにあしらいながら、
「さっさと気絶させちゃうと、あんたみたいな馬鹿は、自分が何をされたかわからないでしょ? 自分が弱いって認められないだろうから、わざと手首を捻るぐらいにしてあげたのに」
「やれるもんなら、やってみやがれっ!」
「そう、じゃ、あとで文句言わないでね。認めなさい。あんたは弱い」
一撃だった。
ケンジが全力で放った拳を受け流すと同時に、ケンジの顎に木下雫の掌底が決まっていた。
激しく脳を揺さぶられたからかケンジは白目を剥き、カクンと巨体が崩れ落ちた。
「さ、どうする。あんたたちもやる? 特にそこの金髪とか」
八千メートル級の山のてっぺんから見下ろすような眼差しで、木下雫は周囲に問う。青ざめた表情で口をぽっかり大きく開けていた金髪の男は、喉の奥から声を絞り出し、
「いや、やめとくわ」
「なら、そこの男連れて、さっさと消えて」
その言葉の通りにずこずこと、金髪男はケンジを担ぎ、不良たちと一緒に去っていく。
不良の姿が完全に見えなくなったあと、木下雫は大きくため息を吐き、ぽつりと。
「はあ、つまらんもん殴っちゃったわ」
駆は、今この瞬間、一つの教訓を胸に刻んだ。
木下雫を怒らせてはならない、と。
ベンチに置いてあった鞄を拾い上げると、木下雫は駆や陽子に背を向け、まるで何事も無かったかのように立ち去ろうとした。
「あ、あの!」
「ん?」
慌てて陽子が呼び止めると、木下雫は『まだ何か?』と言うように振り返った。
「ありがと!」
「別に。あたしもいい加減しつこいって思ってたところだから」
「凄く強いんだね、えっと、わたしは二年C組の小鳥遊陽子。よろしくね!」
ぱっと笑顔を輝かせて、陽子は木下雫に向け手を差し出した。謎の圧力を感じたのか、木下雫は少し後ずさりし、おずおずと握手する。
「え、えっと。あたしは、木下雫。……先輩には見えないわね(ボソッ)」
「雫ちゃんね! 雫だから、しーちゃん、かな! はっ、今ボソっと言ったのはどういう意味かな! どこからどう見ても先輩オーラ漂うこのわたしに向かって! 失礼だよね、ねえ、かーくん」
「……」
「かーくん? なんだか、ぼうっとしてるね、なんでだろう……はっ、これは、まさか」
反応の薄い駆の視線を辿り、木下雫へと行き着くと、陽子はあわわと瞼を大きく開き、
「かーくん!! カムバック! くっ、こ、ここは必殺、先輩アタックを!」
駆の肘に抱きつき、胸を押し付けた。突然の攻撃に反応できず、
「よ、陽子先輩?」
「むうう」
ぽふんぽふんと尚も攻撃するように押し付けてくるので、駆としては困ってしまう。
「えっと……」
「反応が薄い……。うう、やっぱり、胸がまな板だから……」
肩を落とす陽子。ただ単にどう反応すればよいのかわからないだけなのだが。
「よし、しーちゃん、いやうーん、やっぱもうちょっとオリジナリティーあったほうがいいか。しーたんにしよ! で、しーたんは、これから学校かな。一緒に登校しよ!」
「し、しーたん……。陽子、先輩でしたっけ。あの、しーたんはいくらなんでも」
「はっ、先輩って! そう、わたしは先輩! わかってるね! しーたんがだめならしーぽんでいいよね! じゃ、レッツゴー! で、しーぽん、なんであんなに強いの!」
「いや良くないし、ってちょっ」
駆の腕に胸を押し付けながら、戸惑う木下雫の手を引くと、陽子は歩きだした。
「あ、っと」「ちょ、ちょっと」
そんな陽子に戸惑い、駆と木下雫はどちらからとも無く視線を交わす。
「強引ね。あんたと同じで」諦めたように首を振り、木下雫は先日の駆の件を思い出したようだった。「でもあんたと違って、なんか……ちっちゃな子供みたいな愛嬌を感じるわ」
「それは失礼じゃないかなっ」
拗ねる陽子の旋毛ごしに、駆は木下雫をチラリと。
木下雫の顔が昨日よりも眩しく見えて、目を細め、ほうっと息を吐く。
心臓の鼓動が、ドクンと、熱く、激しく鳴り響いていた。
***
予鈴十分前には校門にたどり着く。
学校に着くまで、陽子は木下雫を相手にして物怖じせず、色々と質問していた。
「何か格闘技でもやってるのかな」「好きな食べ物とかあるよね!」「嫌いな食べ物は? ちなみにわたしはピーマン!」「あ、誕生日いつ?」「趣味! 趣味教えて!」「じゃあ、休日はどうやって過ごすの?」「好きな男の子のタイプは?」「今まで付き合った人は?」「胸のサイズ教えて!?」などなど。
怒涛の勢いで詰問してくる陽子に、
「空手とか色々かじってる」「えっと、柿の種かしら」「ピーマンって、はまりすぎ……」「六月十日」「読書は結構好き。あとは、カラオケとか」「ランニングしたり、公園で読書したり、まあ、色々」「えっと、優しい人?」「ひ、ひとり」「でぃ、って言うかっ!」と戸惑いながらも木下雫は律儀にも一つ一つ答えていた。
階段の前に着くと、陽子は名残惜しそうに、
「まだまだ質問したいこといっぱいあるから! しーぽん、またね!」
ブンブン! 大きく手を振って、廊下の奥へと駆けて行く。ようやく解放され、
「先輩、なのよね?」
その短い言葉に、抱いた第一印象の全てが込められていた。
駆は黙って頷くが、まだ疑念を払拭できないのか、
「なんというか、すごい先輩ね」
肩を竦め、教室に向かう階段を登り始めた。
駆もそれに追随しつつ、
「ありがとな」
「うん?」
「いや、さっきの」
「ああ、別に」
言いそびれた感謝を伝えると、木下雫は事も無げに応じた。
「しかし空手やってたって言ってたけどさ、それにしても強くないか」
「まあ、一応全国大会優勝してるし」
「お、おい! すげえな、全国かよ」
「うん。でも、そんなの、本当は全然、すごくない。勿論、そのために努力しなきゃいけないし、したけど。だけど、それはいざってときに、何の役にも立たなかった」
それはどういう意味だ、と駆が問う前に木下雫は教室の扉を開け、
「――――…………」
しかし、中には入らず、立ち止まった。疑問に思い、駆が教室の中を覗くと。
まず目に入ったのは黒板。
『可哀相な木下雫の過去』という大きな文字。その下に矢印が点けられており、新聞紙が貼り付けられていた。
次に一台の机が黒板の前に置かれている。
その机は木の部分がナイフか何かで削られていて傷だらけだった。一人の女子生徒が、机にぶちまけられた生ゴミを片付けているところだったが、醜悪な匂いが教室に漂っている。
――はっきりとした悪意が、そこにあった。
ガツンと頭を殴られたようだった。駆はまだ立ち尽くしている木下雫の横を通り抜け、教室の隅に置かれた箒や雑巾を取り出し、黒板へと向かう。
「手伝うよ」
「あ、うん……」
片付けていたのは太眉美人の小林だった。言葉を濁し、床に散乱した生ゴミを箒で掃いていたが、箒を握る右手も、ちりとりを握る左手も震えていた。それはそうだ。駆も同じだから。こんなことができる人間がいるんだという事実に、血が凍るような恐怖を覚えてしまう。
黙々と片付けていると、木下雫はゆっくりと駆の隣にやってきて、しかし目線は黒板に貼り付けられた新聞紙に向けられていた。見出しは、こうだ。
『助けて、叫ぶ親に別れを告げ、救った命』
写真には、まだ中学生くらいの、木下雫が映っていた。髪の毛は今より長くて、腰まで届いていた。その表情は能面のようだった。どうやら式典で、なにかを読んでいるときの光景を写真に撮られ、記事となったらしい。
『あの大きな津波がやって来たとき、私は、瓦礫の下に埋まった自分の親を助けようとしていました』
『「助けて」と叫ぶ母親の声がしました』
『もうすぐ津波がやって来る、それが怖くて、怖くて、ついに私は決断しました』
『ごめんね、母さん、と心の中で何度も謝りながら、私は走って逃げました』
『私ももう少しで飲み込まれそうになりましたが、ほんの僅かな差だったんですけど、私は助かりました』
『私は後悔していません』
『もしも、あの場に留まっていたら、私は死んでいたからです。お母さんも助けられず、自分も死んでいたと思います。だから絶対、後悔はしません。私はお母さんや友達の分まで今日を生きます』
木下雫が言ったのだろうスピーチの内容が載せられていた。よく見ると、新聞の記事は大きな地震が起こった日付のもので、きっと特集だったんだろう。だからこそ、この記事が、この黒板に貼り付けられたことの醜悪な意味に、駆は吐き気がする。記事の隅には、ペンでこう書きなぐられていた。
《母親や友達の命より大事な命を抱えて生きていくって、すごいね、どんな気分?》
ふざけるな、とまだそれを呆けた様に見る木下雫の視線から絶つため、駆は貼られた新聞紙を破り、くしゃくしゃにして捨てた。
もうすぐ、授業が始まるということで、教室にはほとんどの生徒が集まっていた。みんな醜悪な匂いから逃れるように窓を全開にし、ただ窓際に突っ立っている。幼なじみの日向晴も居て、表情は青ざめていた。
駆はその中にいるはずの、黒咲百合の姿を探したが、どこにも見当たらない。
「おい、黒咲百合はどこにいるんだよ」
「黒咲さんは先生を呼びにいってくれてるの。とりあえず、生ゴミだけ片付けて、これはこのままにして、ちゃんと先生に見せたほうがいいから、って」
ギリっと、歯軋りする。
すると、ガラッと扉が開いて、「おいおい、ひどいなこりゃあ」「おい、大丈夫か」などと叫ぶ複数人の先生を連れ、黒咲百合が入ってきた。
睨むように駆が見ると、それに気づいたのか、黒咲百合は眉を寄せ近づいてきて、
「まさか、こんなことになるなんて……。ひどいね、なんでこんなことできるんだろう」
瞳を揺らし、唇をきゅっと引き締めて、悲しそうな面持ちで言った。それから、木下雫に近づいて、その肩へと手を伸ばした。
「大丈夫? ほんと、こんなこと許せない」
「触らないで」
だが、木下雫は拒み、事情を聞こうと近づいてくる先生たちの方へと歩いていく。
駆の横を通り抜けたとき見た木下雫の表情は、新聞紙に写っていた、あの能面みたいな顔にそっくりで――だからこそ駆にはそれが、木下雫が意識せず作ってしまう、精一杯強がった、本当に辛い時にだけ浮かべてしまう表情なのではないのかと、思わずにいられなかった。
***
強制参加のLHRが開かれたのは、放課後になってからだ。
担任である白崎俊介だけではなく、副担任の女教師、生活指導担当であり学年主任の筋肉マン教師斉藤英彦教諭まで駆り出され、大事になっていた。
まずは全員にアンケート用紙が配られた。
実行した人間は素直に自白するようにという趣旨の内容から、今日の朝はどこでなにをしていたか、怪しい人物などを見かけなかったか、などといったものだ。
カリカリとシャーペンを走らせる音だけがやけにべったりと耳にまとわりつく。
駆は、朝に公園で木下雫と出会い、それからずっと一緒にいたことを書くと、もうすでに答えられるものはなくなっていた。
シャーペンを放り出して、周りを見れば、鼻をほじったり、頬杖をついて眠っていたり、落書きしていたりと、ほとんどの生徒が時間を持て余しているようだった。
木下雫も、つまらなそうに、頬杖をついて窓の外を眺めている。
ふと視線を移し、
「はあ……はあ……はあ……んぐ」
「お、おい、大丈夫かよ」
ひどく苦しそうな表情で脂汗をかき、シャーペンを握る日向晴の手が、がたがたと震えている。呼びかけた駆の声にも気づいていないのか、日向晴は、白紙のままのアンケートを睨んで動かない。
――なにか、知っているのか?
口に出そうとして、首を振る。今はそんな場合じゃない。
「先生! 晴の体調が悪いみたいなんですが」
「あ……」
呆けたようにこちらを見る日向晴の目に涙が滲んでいた。
なんて顔してるんだよ、と駆は苦くなった唾を飲み込み、手を上げて先生に訴える。
「保健室に連れて行ったほうがいいと思います」
「ああ、先生、ちょっと俺が連れて行きますんで、しばらくお願いします」
白崎俊介が、そう相変わらずの気だるげな声で短く筋肉マン教師に言うと、日向晴の席まで近づき、
「大丈夫か。ほら、行くぞ」
「あ、あれ」
日向晴は足に力が入らないのか、席から立つことができないようだった。
「おい、お前も、一緒にこい。肩貸せ」
それを見て隣の駆を白崎俊介は顎でしゃくった。駆はすぐに席を立ち、白崎俊介と共に日向晴を立ち上がらせ、そのまま保健室へと向かう。
駆が教室を出る時、視線を感じて、振り返ると。
「――…………!」
目の錯覚か、黒咲百合が口元を歪ませていた。次の瞬間には、何事も無かったようにアンケート用紙に淡々と何かを書き込んでいる。
何が起ころうとしてるんだ。
その間も、木下雫は変わらず窓の外を眺めているだけだった。
「大丈夫かよ、ほら」
ベッドへと倒れ込む日向晴の肩に少し触れ、汲んできた水を差し出す。
白崎俊介は、カーテンの向こうで保健の先生と何やら話し込んでいるので、今は二人だけだった。
「か、かける……」
駆の顔を見ると、日向晴はひっくひっくと、涙をぽろりぽろりと零し始めた。日向晴の震える手が、肩に置かれた温もりを求めるかのように動き、しかしピクンと触れることを躊躇って彷徨う。
「……ったく、なんだってんだよ」
駆も逡巡するものの、日向晴が泣いているというだけで、胸はズキズキ痛んで仕方なかった。好きだった人なのだ。泣いていたら、なんとかしたくなってしまう。
コップを置いて、その手を握ると、驚くほど冷たくて、自分の体温が少しでも日向晴の身体を暖かくすればいいと、ぎゅっと握りしめる。決壊したように晴は嗚咽を漏らし、駆の胸に顔を埋めた。
「か、かける……、かける……、ごめん、ごめんね」
「なにがだよ」
「中学校のころ、かけるを、傷つけたのわかってたのに、わかっているのに、なにも、なにもできなかった。ただ、怖くて、怖くて――、気づいたら、こんな、こんなことまでしちゃって」
「したって、おい、まさか」
待ってくれ。そんな。そんなこと、あるわけないじゃないか。あんな酷いことを、晴ができるわけが――、否定したいのに、日向晴は駆の服を濡らすまま沈黙し、そんな様子が全てを物語っているみたいだった。
「木下のあれ、やったのは、晴なのか。違うだろ、黒咲百合に、なんか言われたんじゃねーのか。晴そんなことするとしたら、誰かに弱みを握られてるとしか思えねーよ」
日向晴はその問いにはなぜか答えず、息をひゅうひゅうと吸って、
「木下さんなら、大丈夫だと、思うんだ。だって、あんなことされたのに、駆も見たでしょ、全然なんとも思ってないみたいだったじゃん。だから、さ。大丈夫じゃん、木下さん。なら、ね。なんともないなら、大丈夫だよね」
「お前、それ本気で言ってるのかよ」
「だって、木下さん、強いじゃん。あんな、すごい悲劇を経験してるのに、なんともないみたいに、『後悔してない』とか言うんだよ。晴だったら、無理だよ。そんなの、親とかそういうの見捨てたこと、後悔しないなんて無理だよ。晴は、木下さんや駆みたいに強くないもん。弱いもん。無理なんだから、仕方ないじゃん」
「やめろよ。木下が強いなんて、どうしてわかるんだよ」
「わかるよ! 中学の時もそうだったもん。あの新聞の記事が広まって、悲劇のヒロインだってみんなに認識されてから、木下さん、みんなと距離を置いて、そんなんだからその態度が鼻につくようになって、目ざわりだって、みんなに冷たい目を浴びせられて、靴とかなくなったり、ゴミとか投げられたりしてるのに、木下さん、平然と学校に登校してたもん! 多分、晴とは違う生き物なんだよ。きっと、宇宙人かなんかじゃん」
「宇宙人って、そんなわけ、あるかよ」
「晴からすれば、駆もそうだよ。駆だって、お父さんやお母さんに構ってもらえなくても平然としてて、寂しそうな素振りとか全然してなかったし、あんなことされたのに、こうやって学校にもちゃんと来て、すごいじゃん。でも、晴には無理なんだよ。みんなに、あんな目で見られるなんて、耐えられないんだもん。仕方ないじゃん。晴は、普通だもん。駆や、木下さんみたいに、宇宙人じゃないもん」
「晴は、俺のこと、宇宙人だって思うのかよ。ふざけんなよ……。んなわけあるかよ。俺は、全然、強くなんかねーよ」
宇宙人。その言葉の響きはどこまでも不気味で、自分たちとは異なる存在として、理解することを最初から無理だと判断し、隔離する意思があった。
「なら、なんで! なんであの時、立ち上がったの!」
ドンと駆の胸に拳を打ちつけると、晴はキッと眼光を鋭くし叫んだ。
「へ?」
「私、止めたじゃん! ダメだって! やめた方がいいって! なのに、なんで駆は、あんなことしちゃうの! 駆がそんなことするから、は、晴だって、あんなことしたくなかったけど、だって、黒咲さん、怖いもん。何するか、わかんないもん。なら、マシじゃん。従ったほうが、マシだから、だから……! だけど、駆があそこで立ち上がらなければ、こんなことにはならなかったんだよ!」
やめろ。やめてくれ。
何を言われてるのか、理解が追いつかない。ただ、晴の一言一言が、銃弾で打ち抜かれるような鋭さを伴っていて、駆の心に穴を開けていくようだった。
「ちゅ、中学の時だって、そうだよ。駆がいたから、晴は黒咲さんに目をつけられたんだ! 最初は晴の友達を狙って、いじめて、晴を孤立するよう仕向けて、もう、どうしたらいいかわかんなかったもん!」
「なんで、言ってくれれば」
「気づいてよ! 気づかなかったじゃん! 気づくどころか、駆は、黒咲さんと敵対するようなことしかしなかったじゃん! 晴だって味方したかったよ、でも、もう無理だったんだよ!わかってよ、晴は、弱いんだよ! 巻き込まないでよ! 駆の、そのわけのわかんない、宇宙人みたいな強さに、晴を、巻き込まないでよ……!」
「お、俺の、俺のせいなのか。晴が、あんなことしたのは、俺のせいだってのか」
もう、だめだと思った。それを認めてしまったら、駆の中の何かが壊れてしまうような気がした。だから、否定して欲しかった。違うよ、って、否定をしてほしくて――。
「そうだよ!」
でも現実は、違って。
「全部、全部、ぜーんぶ、駆のせいだよ!」
叫ぶ晴の言葉が、心臓の奥深くまで刻まれていく。
「晴はなんにもしてないじゃん! 巻き込まれただけだもん! なんで、どうして、晴がなにしたっていうの! やめてよ、巻き込まないでよ! 晴は、ただ、巻き込まれたくないだけなんだよ! 迷惑なんだよ!」
パリンと、心の割れる音が駆には聞こえた気がした。
――ああ、やっぱりそうなのか。
俺は、価値がないのか。誰かに迷惑をかけるだけの、存在なのか。
なんで、俺は。俺は……。
生きてるんだ。
***
重い足取りで駆が保健室を出ると、壁に背中を預けていた白崎俊介が、
「……ひどい顔してんな」
ピクリとも反応しない駆に苦笑し、胸ポケットからセブンスターの箱を取り出し、
「ふー、ま、そうなるか」
そのまま一本の煙草を口に咥え、火を点け、ガリガリと頭を掻く。
「聞こえてたんですか」
「あー……まあ、あんだけ大きな声で叫んでりゃー、な」
「晴を、どうするんですか」
「今は、なんともいえねえな。あんな状態の時の言葉なんて鵜呑みになんてできねーし、いじめってのはな、『犯人を見つけて終わり』じゃねえんだ。むしろ、そこからどうするか、ってのが一番難しい。とにかく、今はだめだ。様子を見て、明日にでも、ゆっくりと話は聞かせてもらうさ」
「そうですか」
ここで直ぐに晴を犯人と決め付けず、丁寧に対応しようとする目の前の教師は、きっと色々な経験を積んでいるんだろう。
そのことに駆は少し安心し、でも先ほどの日向晴の言葉が絶えず頭からこびりついて離れなくて、ただ消えたいと心の中で何度も思う。
足が縫い付けられたようにその場を動こうとしない駆から白崎俊介は目をそらし、窓の外にある飛行機雲をぼんやりと見て、煙草を口から離すと、
「ちょっと付き合え」
煙草を持つ、包帯が巻かれた左手を上に向け、有無を言わさない雰囲気で言った。
「ったく入学式早々、なんでまたこう、いろんなことが起きるかね」
白崎俊介は、ついでにとばかりに屋上の入り口に立てかけてあったギターケースを掴み、扉を開ける。
溢れる光が駆の淀んだ目に飛び込んできて、思わず顔をしかめた。
ギターケースを肩に担いで、屋上の真ん中へと白崎俊介はゆっくりと歩いていき、立ち止まる。
屋上の入り口に立ったままの駆のほうへと振り返り、眠そうな眼差しで、
「俺も天音もここの学校の卒業生でな、俺はよくここであいつの、このギターをかき鳴らす音を聞いてたもんだ」
咥え煙草をしながら、口火を切った。
「だから、この屋上であいつの姿を見たときは、幻影だと思ったし」人差し指の第一関節くらいに短くなった煙草の残りを吸い、「今も幻影だったんじゃねえかとも思う」火を携帯灰皿に押し付けて収納した。
「だけど、幻影じゃねえかも知れない、そう思ったら、もう駄目だった。少しでも、そう思ったら、信じたくなっちまった」そのまま胸ポケットにしまうと、顔を引き締める。
「さっき、お前、宇宙人だとか言われてたよな」
「え?」
「それ聞いたとき、思い出しちまったよ。あいつも、そう言われてたんだ」
鋭い眼差しが駆に向けられていた。確かな意志を感じる瞳の色。
「なんせ、あの外見とわけがわからん思考の持ち主だ、不思議通りこして宇宙人だって、ある時誰かが言い出して、それからずっと、宇宙人だって言われてたよ」
「そう、なんですか」
ふと、ポケットに手を突っ込んで、駆は眠り込むピックをぎゅっと握りしめる。寝息だけが聞こえきた。もしも、何の反応もなかったなら幻覚だったのではないかと疑っていただろう。
「俺も天音も孤児院育ちでな。だから、俺もあいつも、親っていう存在を知らない」
「――……」
親という存在を知らない。ドクンと、心臓が騒ぐ。それは、駆も同じだった。子供の頃一緒にいてくれたのは祖父だけだ。祖父が亡くなってからはずっと、独りだった。
「それがどんなものなのか憧れる気持ちもあれば、捨てられたっていう恨みもあるが、それ以上に親という存在を当たり前のように持つ周りの奴らと、そんな居て当たり前の存在から捨てられた自分との違いを考えてしまうのが、苦しかったもんだ」
駆も、そうだった。授業参観の時も、運動会の時も、終業式の日の教室で、楽しそうに家族と旅行にいくと笑うクラスメイトを見る時も、その度に駆は自分とクラスメイトとの違いを見せ付けられた。
「本当に、天音も俺も宇宙人なのかもしれないな。そうだろう? 親なんていないんだからよ。生まれた意味なんて最初からないんだ。捨てられた時点で、俺の命の価値は決まっちまったんじゃないかって、そう思うこともあるくらいだ。なら、宇宙人のほうがいくらかましなのかもしれねえな。でもよ、こうも思うよ。俺から見れば、親が居るやつらのほうが宇宙人だ。理解できないことばっかだ。常識だとか、礼儀だとか、そういうもんを親に教えられてるから、そういうもんがわからねえ俺たちをバカにしやがる。そんなもん知らないってのに、それを知らなきゃ社会では生きれないってんだから、ほんと、意味がわからねえよ、って何度も思った」
捲くし立てるように一気に言うと、俊介はゆっくりと息を吐いた。
「格好悪いだろ? 大人になったって、この気持ちはなくならないんだぜ。きっと、これは俺が死ぬまで、一生背負っていかなきゃいけない『感情』なんだろうよ」
駆の目をじっと見て、まっすぐに言葉を投げかけてくる。
「この世界は、こんなふうに、大抵生きるのに優しくはできていないもんだ。幸福であると言い聞かせて生きていく人間はいるかもしれないが、本当に幸福で居続けられる人間なんて、ほんと一握り、いやもしかしたらそんな奴はいないんじゃないかって思うぜ。俺みたいな人間だけじゃない、色んな理由で『闘って』生きていくしかない奴らは一杯いる」
俊介は、肩に担いだギターケースを降ろすと、
「天音は、そういうものと闘うためにこいつを弾いていた。抗うために、命を燃やした。でも、結果はあっけないもんだったよ。頑張って、足掻いて、ひたすら弾き続けて、歌い続けて、いざプロデビューするって段階で『病気』になって、死んじまった」
不意に俊介は空を仰いだ。何かを言おうと唇は震えて、しかし言葉を失ってしまったかのように声は出てこない。
その沈黙が、駆の心は痛いと感じた。
だってそうだろう。頑張って生きれば幸せになれると思って、みんな生きていくんだ。
なのにそれが星河天音の場合、無駄になったんだ。意味がわからない。じゃあ、なんで生きるんだよ。死んだほうがマシじゃないか。頑張ったんぜ、報われなきゃおかしいじゃないか。だけど、この世界はそういうことが起き得る世界なんだ。そんな世界でどうやって生きていけばいいんだよ――そんな問いを投げかけられているようだった。
「俺は、あいつが死んでから屍になった。生きる屍だ。あいつが死んで、音楽をやっている意味をなくし、死なないだけの、ただの息するだけの存在に成り果てちまってる」
ポツリと、心の中の慟哭が零れ落ちてしまったように、か細い声で、俊介は言った。
そんな言葉に、駆は心から同調した。今まさに、駆も同じ気分だった。生きてても、他人の迷惑にしかならないなんて、そんなの――死ぬより、ひどいじゃないか。
「長々とすまなかったな。ほらよ、こいつはお前にやる」
一歩一歩踏みしめるように近づき、立ち止まって、
「あいつの幻影を、幽霊になっちまったかもしれない、あいつの姿を見たんだ。せめて、なんかしてえじゃねえか。俺にはこれを持っている資格はないだろうしな。これを、あのゴミ置き場に捨てちまった俺には、多分、天音を救ってやることは、できねえんだろうよ。あのゴミ置き場から拾ってきたお前にだから、現れたんだろうよ。悔しいが、悔しいけどよ」
駆の胸へと俊介はギターケースを押し付けた。
「お前の前にあいつが現れたのはよ、きっと意味があるんだよ。お前にしかできない、なにかがな」
促されるがままに受け取ると、それはずっしりと重かった。まるで星河天音の存在、想い、魂そのものが詰まっているんじゃないかと思うくらい。
あまりにも重くて、駆は受け取ったことを後悔した。
だが、もう遅い。
俊介は、ポンと駆の肩を叩き、階段を降りていった。
――なあ、天音。お前、こんな俺でいいのかよ。こんな俺に、何ができるっていうんだよ。




