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 たっぷりとキン肉マン教師から筋肉バスター的なお叱りを受けた駆は、いろいろと自分でもなんでこうなったのかわからないまま、とりあえず平謝りと必殺の相槌『はい』『そうですね』コンボで乗り切ると、その場は解放されることになった。

 もちろん、ギターは没収された。さらに、『駆は問題児』というレッテルは教師の間でしっかりと貼られているだろう。今回の件が駆の仕業であることも生徒に広まるのは時間の問題であり、つまりはすっかり有名人! となる未来が予想できるわけで。

 ……いやあ、登校初日からいい出だしだなあ。よし引きこもろう!

 冗談ではなく、逃げ出したい。そんな心境の駆だったが、逃走を阻む存在にエンカウントしてしまい、逃走不可状態でデットエンドまでもう少しという状況に陥っていた。

 教室へと先導する存在が駆の胸より下くらいで、栗毛色のポニテをちょこんちょこんと揺らし、歩いていた。見た目どう頑張っても中学一年としか思えない身長で、懸命に人生を生き抜こうとする小動物的愛らしさを全身から振りまき、保護欲を刺激される仕草を、ナチュラルにするから困る。今も『ふんふふん♪』と鼻歌を歌いながら、スキップしたり、窓にいる小鳥に『やっほー小鳥!』と話しかけたり、それに気を取られて転びそうになっていた。

 それをハシっと受け止め、注意する。

「ちゃんと前見て歩いてくださいよ、陽子先輩」

「わ、わたしとしたことが不覚をとったね! いつもはしっかり者と名高いんだけどねわたしは!」

 小鳥遊陽子たかなし ようこを動物に例えれば、リス。大きなクリッとした瞳、クルフワッと少し癖っ毛の髪をポニーテールにしていて、それが喜怒哀楽に合わせまるでリスの大きな尻尾のように揺れる。

 必死に取り繕う姿なんか、もはやなにかのイベント回収フラグだとしか思えない。

 かわいすぎるだろ、おい!

 何を隠そうこの人物が清水仁のお孫さんであり、家庭教師として駆をこの学校に導いてくれた偉大なるロリ娘かつロリ姫もしくはロリ先輩なのだ!

「そ、そうですね」

「な、なにその『いつもドジじゃないですか』とでも言いたげな目線! 私はお姉さんなんだからね! かーくんの一個上の先輩なんだよ! 先輩にその目線は無礼だよ!」

 陽子は頬袋に餌を貯めているように怒っているが、やはり可愛さしか感じない。

「は、はあ」

「はっ、そういえば、さっきかーくん、わたしのことなんて呼んだ?」

「え、え? よ、陽子先輩?」

「ふわあー……。良いよ! イイ響きだよ! そう、わたしは今かーくんの先輩なんだよね! 後輩から慕われ頼られる、そんな存在なわけだね! いやあー、これでかーくんもこの陽子先輩を一層お姉さんと認識することになるね!」

「そ、それは……、ソウデスネ!」

 そんなキラキラと、子供が親に向けるようなまぶしい笑顔で言われてしまえば、否定することなど駆にはできなかった。

 陽子は、駆を自分の弟のように可愛がってくれる。

 童顔に、一四一センチという低身長と相まって、陽子は自分の容姿にかなり強いコンプレックスを持っている。

 初対面の人からはもちろんのこと、周囲からも子供扱いされてしまうから、せめて駆だけには年上扱いされたいと、事あるごとに『私はお姉さん!』アピールしてくるのだ。

 残念ながら駆の中で上がっているのは姉数値ではなく、ロリ娘数値という、危ない匂いしかしない隠れ変態数値なのだが、もちろん陽子はそのことに気づいていない。

「なんか、今日はやけに機嫌がいいですね。なにか良い事でもあったんですか?」

「当たり前なこと聞かないでよね! たまたま、生徒会の仕事で、職員室に寄って帰ろうとしたら、生活指導室からかーくんが出てくるんだもん! びっくりしたよね! うれしいよね! 普通に、うれしいよね!」

 満面の笑みだった。

「え、お、俺ですか?」

 その笑みに、駆は戸惑い、引くついた笑みを浮かべてしまう。

 どんな反応を返せばいいのか、わからなかったのだ。

 まさか、学校に登校した、ただそれだけのことで、こんな笑顔を自分に向けてくれるとは思いもしなかった。決して嫌な感覚ではない……が、落ち着かない。なにか裏があるのではないかと疑ってしまう。そんな自分が駆は大嫌いだった。

「とにかく、ファイトだよ、かーくん! わたし、精一杯応援するからね! 頑張ってね!」


 陽子に案内され、駆はようやくミッションをコンプリートすることができた。

 一年生の教室は、三階にあった。

(あ、あぶねー、普通に一階だと思ってた)

『バイバイ』と、大きく手を振って、容赦なく駆を死地に送り出した指揮官ことロリ先輩は、それを見た下級生に『え、小学生がなんでここに』とヒソヒソ囁かれて、落ち込みながら去っていった。

――先輩には悪いけど、少しほのぼのする。

 ガラガラと、教室のドアを開けると、騒いでいたクラスメイトたちの声がピタリと止み、『誰だ、こいつ。不審者?』みたいな視線が集まる。

 さらに、ここで、新たな問題が発生した。教室にはたどり着いた。でも席がわからない! 

 ミッションコンプリートしていないことに気付き、駆は冷や汗を浮かべ、後ろに、抜き足、さし足、忍び足とひとまずの戦略的撤退を考えていると、

「……あっ」

 小さくこぼれた声。思わず出してしまったのだろう。ガタリと音。その音の方向に目を向けると、公園で出会った少女が口をぽかんと開け、突っ立っていた。

「もしかして、とは思ったけど。あんたが……、入学式に来なかった、えーっと、名前忘れた。確か、岩……いわ……あー、馬鹿?」

「……おい、俺の名前は山石駆というんだ初めましてこんにちは。それよりも馬鹿とか、いくら何でもひどいと思わないか? そんな自然に言われると、一瞬本当に自分は馬鹿なんじゃないかって思うだろう」

「……馬鹿だと思うけど?」

 真顔で言われてしまい、駆は二の句を継げなくなった。

 少女の怜悧な表情で、きつい一言をズバリと言われると、危ない感覚に目覚めそうになり――ブンブンと、駆は首を振った。

 危なかった。一瞬、片足を突っ込みそうになった。まだその世界は未成年には早い。

 そんなことよりも、と考えた瞬間、駆の脳裏に電撃が走った。

 駆は、ツカツカと歩み寄り、少女の手をガっと掴む。熱烈な視線で、力強く、

「会いたかった!」

 吐息がかかりそうな距離で、情熱的な口説き文句。

「は、はあ!?」

「まさか、同志と同じクラスだとは! 何たる幸運! 何という奇跡! 数奇な神様の巡り合わせだ! これはもはや運命だな! もう俺たちは一心同体と言ってもいいかもしれない!」

「良くない……」

 そんな駆のアプローチに、少女は、ざわざわと騒ぐ周囲の反応を横目に見て、何かをあきらめたように、精巧な顔の作りを歪め、ため息をついた。

「はっはっはっ、照れるな照れるな」

「いや迷惑なだけなんですけど、ていうか」

「そんな同志に聞きたい、俺の席はどこだばあ!」

「いい加減に、離れろおおおお!」

 少女はどこまでも空気の読めない駆に、とうとう、怒りのとび膝蹴りを喰らわすのだった。


               ***


 ある日、教科書を取り出そうと机の中に手を突っ込むと、ブラジャーが出てきた――という経験をしたことがあるだろうか。それも花柄の、明らかに使用済みっぽい、人肌の温度が艶めかしさを感じる、そんなブラジャーだ。

 そんな類まれな状況を、駆がドキドキの初体験! と言わんばかりに済ましたのは、中学二年の頃。校内発表会(中学生版文化祭)という一大イベントが大団円を迎え、その振替休日が終わった次の日のことだった。

 体育の授業から教室へと戻ると、クラスの女子がクスクス笑っていた。

 なんか変だな、と思いつつも、駆は自分の机へと向かった。

 自分の席に着き、一息吐くと、次の授業に使う現代国語の教科書を取り出そうとした。一番上に確かあるはずと、引き出しの中に手を突っ込み探ると、覚えのない布の感触。

 ハンカチだろうか。入れた覚えはないが。ふむ、体育で汗をかいたしとタオル代わりにちょうど良い――と無意識だったのだろう、駆は特に疑うこともなく手にしたそれを、汗をかいた顔面に擦り付けたのだ。

 すると、先ほどクスクス笑っていた女子から悲鳴のような歓声が上がった。

 なんかごわごわするなーとか、なんか良い匂いするなーとか。

 一瞬思った駆の耳に、女子の悲鳴が重なり、なんだろうと声がした方向を見る。すると、女子たちがまるでゴキブリを見るように、穴を開けるかの如く、何かを凝視しているではないか!

 その何かとは紛れもなく駆に向けてであり、正確には、駆が手にした『何か』に向けられている。なんだろう、そんなに見られると照れるな、などと、悠長なことを考えている場合では無かったのだ。

 最初に悲鳴を上げ、今もニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている女子たちだけではなく、男子含めた教室にいるクラスメイト達全員さえ駆を凝視し、ざわざわとどよめき始めた。

 ようやく、ここで駆は手にしたそれを見た。

――控えめな白を下地とした花柄だった。

 はて、これはどういうことだろう。こんなハンカチ見たことない。いやそもそもこれは――。

「か、駆……」

 駆が『それ』を正しく『ブラジャー』と認識した時には――全ては、何もかも、遅かったのだ。震える声で自分の名前を呼ぶ声に反応し、振り返る。

「それ、はるの……」

 自分のことを晴という一人称で呼ぶ少女こそ――駆の幼馴染にして唯一の理解者であり友人、そして秘かな淡い想いを寄せていた存在であり、

「……なんで――」

 その目から、ポタリポタリと涙がこぼれ落ちていた。まるで信じていた存在から裏切られて、途方に暮れているように、苦しそうな表情。顔を真っ赤に染めて、羞恥に歪んでいた。

――その表情が、虚空を見つめる視線が、脳裏にこびりついて離れなくて。

 違うと、否定することさえ、拒まれているようで。

 駆が不登校になったのは、その日から始まった不特定多数からのいじめなんかではなかった。それだけであったなら、駆は笑顔で乗り切って見せただろう。自分の存在に価値がないということは、誰に言われなくても自分がよくわかっていた――両親にとって、自分という存在は邪魔なものでしかないと理解した時から。

 だけど、自分のことをよく知っている相手、淡い片思いしている相手となれば別だった。こんな自分も少しはこの世界に存在していい。居場所があったからこそ、生きてこられたのだ。

 なのに。

「え~、なんで晴の下着を駆くんが持ってるの~? おかしくない?」

「そういえば~、晴、下着盗まれたって、この前言ってたよね? ね?」

「え、じゃあ、犯人って駆くんってこと~。公然の目の前で、ブラジャー嗅ぐなんて頭おかしいよね完全に。変態ね、変態キングすぎてまじきもっ」

 どうやってブラジャーを盗むのか、駆にはその方法が皆目見当もつかなかった。豊かな胸を持つ幼馴染は肌身離さずブラジャーを着けているはずで、盗むことなど、できるはずがない。

 犯人は恐らく教室に入ってきた時にニヤニヤして、真っ先に責め立てた女子グループだろう。あのグループの性格の悪さは筋金入りだった。

 なにせ、かつて駆に嘘のラブレターを送り付けた美少女を中心としたグループなのだから。そして、そのことは、幼馴染もよく知っているはずだった。なのに。

「あの人影は、か、駆かなと思ったけど。き、気のせいかなって思って何も言えなかった。でもやっぱりか、駆が、晴のブラジャーを盗んだんだね。さ、さいてー」

 目を逸らして、たどたどしく吐き出された幼馴染の言葉は、どこまでも無機質で、冷たかった。目の前が、いや、地面が抜け落ちたように、その日、駆の世界は暗転した。


「ま、前々から、駆の押しつけがましいお節介なところとか、ほんと、そういうのうざいって思ってたんだ……。こ、今回のこと、ほんと無理だから。さいてー。ほんと……さいてーだよ」


 さいてー。たったそれだけの言葉で、駆の心の中の糸がバチンと切れたような気がした。

――ああ、やっぱり。

 やはり自分には価値が無いのだと心の底から納得してしまった。そしてただ、消えたいと、それだけを思った。死にたいじゃなくて、消えたい。

 この世界から存在事。誰にも知られることなくひっそりと。死ねばなんだかんだいって周りに迷惑をかけるから。だから、せめて願うのだ。祈るのだ。

 消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい――と何度も、何度も。呪文を唱えるように。


 その後、駆はすぐに生活指導室に連行された。

 駆は事件の関与を否定し続けたが、先生も、両親も、表面でいくら取り繕っていても、結局は、『面倒くさい事件起こしやがって』という考えが透けて見えるようだった。

 ふわふわと足元が浮いているように、日常が過ぎていった。

 どうにか息をして、なんとか学校に行って、当然のごとく始まったクラスメイトの無視と嫌がらせに耐えて、かつての幼馴染にも無視され、そんな日常の中で、心はひどく擦り切れて――その時の駆の記憶はひどくおぼろげだ。 

 ついに、幼馴染が学年で一番人気のあるサッカー部のエースと下校しているところを目撃してしまった事がきっかけで、学校に行けなくなった。

『駆くんがいなくても、世界は何一つ変わらないよね』

 その時ラブレター事件の主犯の少女が駆に近寄ってきて、今回のブラジャー事件の主犯は自分だと暗に打ち明けられた後、彼女はこのセリフで締め括り、去っていった。

 大好きな人が、自分を嫌いになっただけでなく、遠い存在になっていく。自分はこんなに好きなのに。だけど、決してそれは報われることはなくて。誰も、そんな駆の気持ちには気付いてくれなくて。消えたいと、駆は何度も祈った。何度も、何度も。でも、それは叶えられることはない。いつだって、望んでいることは一つだけなのに。ただ、そう。ただ。

――誰か、誰でもいいから、俺を。


 パチリと、悪夢から目を覚まし、駆は顔を上げた。

 いつの間にか席に運ばれ、机にうつ伏せで寝ていたらしい。

 心臓からドクンドクンと嫌な音が聞こえ、息を荒くしながら、周囲を見回す。

 懐かしい教室の空気、机の匂いと感触が、一瞬、夢と現実を混濁させる。

 しかしながらよく周囲を観察すれば、前方を見れば見慣れぬ黒板、上方を見れば見慣れぬ天井、左、すなわち窓を見れば見慣れぬグラウンドが眼前に広がっていた。

 大丈夫。ここは中学校じゃない――駆がいくらか安心して、廊下側となる右をチロリと、

「や、やっほー」

 駆の意識は瞬間昇天し、口から魂みたいなものを吐き出した。

 隣の席に座る女子がこちらを見て、気まずそうな表情を浮かべながら、手を振っていた。

 赤に近い明るい茶髪、長めのサイドポニーテールには緩いウエーブが当てられているようで、『ぎゃるるん』と揺れ、ぱっちりとしたチワワのような大きな瞳がプルプルと駆を捉えていた。小さな卵型の輪郭とすっと通った鼻筋、可愛らしい花のような香りが漂ってきそうな唇。

 ブラウス越しに、果実のような胸がぶるんと揺れていた。

(あ、相変わらずけしからん乳しやがって)

 可愛い。そんな言葉がぴったり似合う容姿をした女の子がそこに居た。

 だけど――駆にとっては、最も恐れていた存在であり、会いたくなかった存在。

 日向晴ひなたはる。駆のかつての片思い相手であり、幼馴染であった女の子が、駆の隣の席に座っていた。


         ***


「生きているのが、辛い……!」

 駆は机の上にうつ伏せて、ちらりと窓の外の、グラウンドにいる小鳥を見ながら、

「鳥になりたい、そう、自由に飛び回るあの小鳥のように」

 ふへへーと、死んだ魚の目で、現実逃避しようとしていた。

「ちょっとちょっとー、無視はひどいんじゃない? 幼馴染じゃん」

 はい、終了。学園生活ここにデッドエンド。今すぐ消えたいし。この世界から消える方法を誰か教えて!

「あのさー、落ち込んでるところ悪いんだけど、同じクラスには黒百合さんもいるからね」

「じゃあ俺、帰るから」

 素の声と表情を浮かべ、駆は何の未練もなく帰ろうとした。

 黒百合さんとは、例のラブレター事件の犯人であり、ブラジャー事件の主犯と目される人物だ。

 その性格の悪さはもはや芸術の域に達し、カンストしてなにかしらの達人か仙人と言うべき存在にでもなっているんじゃなかろうか。

 ここは一時退却と、鞄を抱えつつ、そそくさと出口へと向かおうとした駆だったが、

「あれ、駆くん。どこに行くの?」

 見つかってしまった。汗をたらたらと流し、声がした方向に目を向けると、

「せっかくなんだから、もっとゆっくりしていきなよ。学校に来られるようになったんだね。もうずっと不登校のままなんじゃないかって、心配してたんだ。しかも同じ高校なんて、もしかしたら、私たち赤い糸でもつながってたりして。運命じゃないかな」

 純粋さ百パーセントでできてます! という笑顔で、話しかけてきたのは黒百合こと黒咲百合だ。

 たぶんこれが初対面だったなら、優し気に囁く言葉を『天使の声だ』ところっと騙され、『この子はきっとこの笑顔と同じくらい心も美しいに違いない』と信じて疑わなかったことだろう。

 大和撫子然とした整った顔立ち、品行方正な立ち居振る舞い、学年でもトップクラスの成績。

 それこそが、黒咲百合の表の顔だ。

 だからこそ、教師からは篤く信頼され、クラスメイトからは憧憬と尊敬を集める。

 ごく自然にクラスの中心へと居座り、カースト制の頂点から弱者を支配する――『黒百合』と呼ばれる所以なのだ。駆があまりの恐怖に口をパクパクさせていると、

「また不登校にならないよう、頑張ってね、駆くん。私も協力するから」

 黒咲百合は腰まで届く髪をさらりと手で流しながら言った。もちろん笑顔で。なにこの笑顔。怖すぎる。

 だが、傍目からは優しい天使にしか見えないのだ。早速、男子からは恋慕の目線、女子からは尊敬の視線が黒咲百合に集まっている。

 しかもちゃんと駆にも精神的攻撃を与えつつ、だ。

 あえて『不登校』だと明言することによって、『こいつはカーストの下位に位置している』と周囲に印象付けてもいる。いじめられやすいように誘導しているのだ。

 抜け目がない。さすが黒百合。何重にも張り巡らされた糸から逃れる術はなく、もう既に駆は蜘蛛の巣にかかったも同然だった。

「ふふふ、楽しくなりそうね」

 とにかく笑顔がとても素敵だった。背景に黒百合が咲き乱れていると駆が幻視するくらいに。

――ガラガラと、教室の扉が開く音。

 入ってきたのは、屋上で会った残念イケメン教師だった。一瞬、駆を鋭く睨むと、すぐにガリガリと頭を掻いて、

「……ほら、ガキども。さっさと席に着きやがれ。LHR始めるぞ」

 ほんと、この世界ってクソゲーだな。

 そう思いながら、おずおずと自分の席へと戻る駆だった。


「いやー、あははー、ぐ、偶然だねえ。まさか同じクラスになるなんて、ねー」

 残念イケメン教師がクラス委員を決めるとかどうとか言っている間に、晴が努めて明るく話しかけてきた。なにが、ねーだ。そんな簡単に同調などしてたまるものか!

「いひゃ、ほ、ほんほに」

 無理だった。しかも噛んじゃったし。あの日向晴が隣にいるというだけで、駆の心臓は意味もなくバクバクと暴れ、やっぱり可愛いなとか、ぶるんと揺れる美味しそうな夕張メロンが二玉あるだとか、取り留めのない思考が浮かんでは消えた。

「そのう……。元気だった?」

「元気だよ、元気。元気すぎて元気玉百発は打てるから! どどん波だって打てるぜ!」

「ど、どどん波? ご、ごめん。ちょっとわからないや」

 困ったような笑み。見事に引かれていた。駆としては、精一杯の返答だったのだが。

「でもちょっと安心した。なんか、駆って感じする。変なとこが」

 晴は一転、えへへーと笑う。

「……!」

 勘弁してほしい。やめてほしい。そんな笑顔で、見ないでほしい。

 もう、あんな思いはごめんだ。

「で、駆、木下さんとはいつ知り合ったの? なんか、意味ありげな感じだったけど」

「木下?」

「ありゃ? 知り合いじゃないの? 教室に入ってきたと思ったら、最初に話してたじゃん」

「あー……。木下っていうのか、あいつ」

 駆は、真ん中の列に座っている、公園で知り合った少女を見た。すると、ちょっとだけ目が合ったのだが、少女はすぐに肩をすくめ、黒板の方へと視線を移した。

「木下雫さんって言うんだ。実は、駆が学校来なくなった後、中学三年の春だったかな、クラスに転校してきた子なんだけど、すっごくなんていうか訳あり? な事情だったみたいでさ、黒百合さんはそれに目をつけて、影でいろいろしてたみたいなんだけどー」

「う、うはー……」

 公園で会話した時の、木下雫の言動は少々ぶっきらぼうだった。人間関係が得意なように見えない。きっと、うまくクラスメイトを操って、いじめるように仕向けることは、あの黒百合からすれば造作ないことのはずだ。

「それがさー、結構えぐいことされてるんだけど、当の本人の木下さんは、ぜーんぜん、気にした様子なくてさー。すごかったなー」

 晴は暗い表情を浮かべながらも、確かな憧れのこもった眼差しで、そんなことを言った。

 気にした様子が無いからと言って、平気なわけじゃないだろう――。駆は思うが、口にはせず、チラリと木下雫の横顔を見る。公園でぼうっと座る理由の一端は、これのことなのだろうか。などと思っていると、

「HR委員は、木下雫さんがやりなよ」

 まだ名も知らぬクラスの女子が言った。いかにも正義感が強そうなタイプで、優美な線を描く太眉を、今は険しくさせていた。HR委員を決めるという議題である以上、それはなんらおかしくない発言だ。だが、その口調は明らかに刺々しかった。

「木下さん。あなた、黒咲さんにHR委員へ立候補するよう強制したでしょ」

「ち、違うの小林さん。ただ、そう言われただけで……」

「だったら、なんであんなに青ざめて、震えながら手を上げようとしてたのよ」

 太眉美人こと小林さんと呼ばれた女子は、前の席に座る黒咲百合を気遣いながら、キッと木下雫を睨む。

「とにかく、木下雫さんがやればいいと思います」

「あー……、だ、そうだが、木下、お前何か言いたいことあるか?」

 剣呑な空気が教室を支配しているのにも関わらず、残念イケメン教師は相変わらずの気だるげな眼差しと脱力誘う声で、木下雫に水を向けた。

「何も。くだらない」

 教室に流れる重苦しい空気を切り伏せるように、木下雫は言った。淡々と、

「あたしがHR委員やります。なので、こんな茶番はさっさと終わりにしてください」

「何よ、それ」

 小林はそんな木下雫の態度に鼻白んだ。

「茶番ってなによ。あなた、しらばくれるつもりでしょう」

「そこの性悪女が何を言ったか知らないけど、あたしはそんなこと一言も言ってない。茶番以外の何物でもないわ」

「な、なんで、そんなこと、言うの?」

 黒咲百合は声を震わせ、泣くのを何とか堪えながら、

「私、ただ単に、木下さんと仲良くなりたいって思ってるだけなのに……、それなのに、私のこと『偽善者』って言って、『そうね、本当にあたしと友達になりたいのなら、HR委員にでも立候補してよ』って笑いながら、『そうすれば考えてもいい』って言ったの、木下さんじゃない!」

「そんなこと言われたの? 木下さん、あなた人の気持ちを何だと思ってるの。最低……」

 そう、これは木下雫を貶めるための茶番に他ならない。しかしその効果は絶大だ。黒咲百合が描くシナリオをなぞるように、クラスメイトたちの間に不穏な空気が伝染し、やがて一つの方向へと流れだす。

 木下に向けられる視線が冷たいものに変わっていく。蔑視、無関心、嘲笑。

 空気が重い。それに絡めとられるように、溺れていくように、歪んでいく。初めは小さな歪みが、大きくなり、やがてそれが当たり前になっていくのだろう。

 かつて、駆が経験したことが起こり始めている。

 駆は無意識のうちに拳をぎゅっと握りしめた。

 そんな駆を見て、晴は忠告するように目を眇め言った。

「駆……、ここは抑えた方がいいよ。昔みたいなことになっちゃうから。だから、やめた方がいい。せっかく高校来られるようになったのに、また同じことを繰り返すの嫌でしょ?」

 そう、中学校の時も同じようなことがあった。いじめを止めようと行動し、黒咲百合と敵対したのだ。だけど、それは火に油を注ぐような結果にしかならなかった。

 結局、駆の中の正義は駆が思う悪には勝てないのだ。

 まるでそれこそが必然で、正義であるかのように。

 駆はどこまでも無力な存在のままだった。無力は、悪だ。つまりは、価値がないということだ。ぎゅっと目を瞑る。だけど、諦めるしかないじゃないか。それしかできないのだから、諦めるしか、

――本当にそれでいいの?

「えっ?」

――あなたは何のために、足掻いているの?

 声が聞こえた。閉じた瞼の暗闇から浮かんだのは蒼く光り輝く星を思わせる少女。

――あなたに勇気をあげる。胸に手を当てて。

 その声に誘われるがまま、駆は胸に手を当てた。

――聞こえる? 心臓の鼓動。それが、あなたの全身に血液を送り続けている。あなたに生きてほしいと叫んでいる。そこに意味なんてないんだよ。ただあなたに生きてほしくて、転げまわっているんだよ。わたしたちは、意味なんてなくても生きるために生きている。あなたは、どうしたいの?

「俺は」

 全身の力を振り絞るように、駆は立ち上がり、


「俺は、木下はそんなこと言ってねえと思う!」


 叫んでいた。クラスメイトの視線が突き刺さって痛い。黒咲百合が目を細め、睨んでいるのがわかる。

 本当は逃げ出したい。こんなこと、する必要なんかないのだ。

 だけど。それでも。駆が駆である限り、それはすべきことなのだ。ここで、黙っていられるような賢い人間は、駆ではないのだ。無駄だと知りつつもここで叫ぶ馬鹿野郎こそ、駆が駆であるために必要なことだった。

「……駆くん、私のこと、信じられないの?」

 黒咲百合が、チワワのような瞳を駆に向け、聞いてきた。それは恐らく、警告。これ以上踏み込むなら容赦はしないという。

「駆……!」

 幼馴染の焦った声が聞こえる。必死に止めようとしてくれているのがわかる。

 それでも。

「みんな、木下のことよくも知りもしねえのに、そんな目を向けるのやめろよ! 木下が何をしたってんだよ。黒咲の言ったことが本当かなんてわからねえじゃねえか! なのに、流されるなよ! そんな目で、木下を見るんじゃねえよ!」

 そんな言葉をかき消すように、黒咲百合はあくまでも駆に語りかける。

「ねえ、そうやって必死に木下さんを擁護するのは、単に駆くんが木下さんの事を好きだからでしょ?」

 その言葉に反応して、駆の顔は意味もなく羞恥に染まった。ヒソヒソとそれに反応して笑う人間さえいた。

「でもね、私、嘘言ってないよ。駆くんは私の事が嫌いだろうけど、それでも、私傷ついたんだよ。とってもとっても。だ、だから、信じてよ……!」

 教室内に重苦しい空気が流れ、シーンと静まり返った。

 どちらを信じればよいのか、戸惑っているのかもしれない。

 ボソボソとささやき合う声が漏れ出した。

「結局、何が、どうなってるわけ?」

「まあ、確かに、木下がそんなこと言ったかどうかわからないんだよな。俺としては木下は美人だし、信じたいが。そして彼女にしたいが」

「でもでも~、黒咲さんかわいそう。あんなに辛そうだよ。黒咲さん、みんなに話しかけてクラスの雰囲気良くしてくれてたし。それなのに、あんなになるのは、きっと木下さんがそれ相応のことをしたからだと思うな。私、黒咲さんを信じたい!」

「まあ、確かにな。黒咲、頑張ってたもんな。俺にも優しく話しかけてくれたし。きっと俺に惚れてるからだろうな。彼女にしてやってもいいな」

「……相変わらずのナルシストね。キモオタのくせして」

「もう、どっちでもいいじゃん。面倒くせえな。二人とも俺の彼女にしてやるからそれでいいじゃねえか」

「君さ、自分の顔を鏡で見たことないの?」

「毎朝、一時間はたっぷり見てるが。キメ顔とかの開発には余念がない男だぞ、俺は」

「き、気持ち悪い」

 白け始める空気を敏感に感じ取ったのだろう、

「み、みんなごめん。私のせいで、こんな、変な空気にしちゃって。ほんと、ごめんね」

 それだけ何とか言うと、黒咲百合はこらえきれなくなった涙を流して、教室の扉を開けて飛び出していった。

「く、黒咲さん! ちょっと、 ……木下、覚えてなさい」

 太眉美人小林も後に続いて教室を飛び出していった。きっと黒咲を追いかけたのだろう。

 まさに絶妙なタイミングでの幕引き。決して悪いイメージをクラスメイトに抱かせることなく、同情を引いていた。

 一方の木下は、心底どうでもいい顔を浮かべて、無関心を装っていた。少しだけ駆を見て、肩をすくめ、表情を緩めて口をパクパクさせる。『ば・か』だろうか。

「あー……、なんだか知らんが、とりあえず、あれだな、HR委員は木下と――山石駆、お前やれ。で、山石は昼休み俺のところまでこい」

「え、え?」

 ちょっと待って……、などと言う隙も与えられず、残念イケメン教師は次の議題へと移行した。あまりにも自然に言うので、一瞬気のせいかなと感じるほどだ。なお、気のせいではない模様。

 というかさっきの声や屋上の出来事といい。そろそろ病院へ本格的にいかなければならないだろうか。様々な懸案事項を抱えつつ、駆としてはもうこれ以上悪いことが起きないよう祈るばかりだ。


                 ***


 昼休み。

 駆が職員室の中に入ると、扉の開く音に気付いたのだろう、残念イケメン教師はすぐに椅子から立ち上がって、「こっちだ」と隣の進路指導室へ案内した。

「座れ」と促されるがまま、設置されたソファに座る。

 残念イケメン教師は、駆の対面にあるソファに座り、包帯が巻かれた左手を使い、ライターでカチッと煙草に火を付け、

「ふー……、で、詳しい話をきかせてもらおうか」

 煙を吐き出しながら訊いてきた。

「詳しい話というのは?」

「とぼけんじゃねえ。屋上での事だよ。なにがあったか、教えろって言ってんだ」

 睨みを利かせ、語気を強めてきたので、

「お、教えろと言われても、俺にもわからないんですよ!」

 慌てて駆が答えると、苛立たし気に煙草を灰皿に押し付け、

「あのギターをゴミ置き場から拾ってきてから今までのことを、何でも良いから、知ってることを話せ、いいな」

 腕掛けに頬杖をついて、有無も言わさない雰囲気で言う。

 駆はそんな怖い雰囲気にゴクリと喉を鳴らし、恐る恐る昨日あったことから説明した。

 ゴミ置き場に捨てられたギターを気まぐれに弾いたこと。

 学校で金髪の少女に出会ったこと。

 その少女に屋上へ案内され、突然少女が消えたと思ったらギターを抱いていたこと。

 話している自分さえ笑ってしまうような荒唐無稽な話だった。

 だが、残念イケメン教師は笑うどころか、真剣な表情で何かを思案している。頬杖をついた指で頬をトントンと叩き、

「信じられねえな。信じられねえが。確かにおれも見た……あいつの姿を、確かに見たんだ」

 くしゃくしゃと、頭を掻き、

「おれだけなら幻覚で済ませられるんだが、お前もはっきり見てるとなれば、笑って済ませられる話しじゃねえな。幽霊なんてもんは信じてなかったんだが」

「ゆ、幽霊?」


「ああ、幽霊だ。お前が見た金髪の女はおれの知り合いでな。星河天音、おれの幼馴染だ。でもこいつは五年前に亡くなっている、重い病気でな」



 生活指導室を出て、教室に戻りながら、駆は先ほどの言葉を思い出していた。

「幽霊……」

 言葉にしても、冗談みたいな響きしかない。あの時感じた手のひらの温もり、言葉、そして魂を響かせるようなギターの音。忘れようとしたって、頭からこびりついて離れない。

「まさか、幽霊だとはな」

「幽霊じゃない」

「へ?」

 声に驚いて、見上げると、

「幽霊じゃない。正確には私は死んでないから」

 声の方向、頭の上を見上げると、手のひらサイズのパタパタ飛ぶ妖精さんがいた。

 って、妖精!?

「変な顔」

 心底気の毒そうな顔を浮かべ、パタパタと飛び退るその少女は、紛れもなく屋上に駆を連れ出した張本人だった。

「な、な、ななななな」

「死んでない。こうして生きていることが何よりの証拠」

「それは生きていることになるのか?」

「生きてるって、なに?」

「い、いや、わからないけどさ」

 だんだん、脳というものがなんなのか、魂はあるのか、いやそもそもこの光景は幻覚なのか、みたいなことを考え泥沼にはまりそうになる駆の言葉をさえぎり、

「変な顔。そんなに難しく考えず、自分が見て感じたことをありのままに受け入れようとは思わないの。真実こそ、シンプルなものはない。人間の政治みたいに複雑に絡まってわけわかんなくなるようなものではないから」

「そう言われましても……」

――ふむ、天音、ちょっと変われ。我の方から説明しようではないか。

 頭の中にダンディズムあふれる声が響いた。今度はなんだ!

 すると、ぼんという音と共に、目の前の美少女妖精が珍妙な生命体へと変わっていた。言うなれば、胴体は蛇みたいだけど、顔の部分が親父っぽい猫というか。サイズは親指サイズだ。

――我が名はツッチー!

 鋭くも、ズシンとしたバリトンボイスがひらすらカッコいいのだが、

「な、なんだこいつ……?」

 偉そうにふんぞり返ろうが、所詮は謎の生命体なので、駆からすれば間抜けであるとさえ感じる。なんていうか、変なの出てきちゃったよ、みたいな。

――き、貴様! この我の姿を見て、その態度はなんだ! もうちょっと厳粛に、崇敬の念を込め、我の姿を見たという、この類まれなる体験をしかと心に刻まんか!

「と、言いますと?」

――ぐぬっ! この舐め腐った態度! これだから現代人は! フン、まあいい。

 変な生命体(仮)は、コホンと気を取り直し、

――我が名は、ツッチー! この地球の管理者であり、宇宙の創始者たる一族の末裔! あらゆる生命体の原初たる存在! それが、我である! いわば、そなたたちが勝手に奉っている神と言うべき存在じゃ! どうじゃ、参ったか!

 フハハハと笑う声。だが、そんな笑い声に思わず、

「いやいや、意味が解らないんですけど。こんなのが神とか、冗談でしょ?」

 駆は本音で返していた。

――なっ……、なんだ、その反応は……。え、そんなに嫌なの? ちょっ、そんな反応我、予想外。

 ズーンと落ち込む謎の生命体(仮)改めツッチーの反応を見て、慌てて駆は取り繕った。

「い、いやあ、だってあんまりにも荒唐無稽だから! で、その、なんだ、原初の生命体であるツッチーさんがこの俺に何の用なんでしょうかね?」

――ま、まあいい。この星河天音はまぎれもなく、人間であった存在だ。だが、とある出来事をきっかけにして、我と契約し、我の事情を解決するため手伝ってもらっているのだ。

「事情……?」

――左様。その事情とは……、ずばり、我の伴侶である『ノッコー』探しである!

「ノッコー……?」

――ノッコーとは我の半身であり、我と同じく原初の存在にして、この地球の管理者として長い時一緒に歩んできた美しき我の女神なのだが、ある時『クラムオブヘルメス』という時を司る原初の存在により呪いを掛けられてしまってな!

「の、呪い……」

――そうなのだ。ノッコーという存在をバラバラにして封印し、とある事をしないと封印を解くことができないようにされたのだ! グヌヌヌ、クラムオブヘルメスの野郎! よくも!

「……封印……」

――その解呪方法というのが『音楽』なのだ。ただの音楽ではダメでな。人間が用いる音楽、歌と、それに人間が持つ『感情』が込められていないと封印は解けず、呪いも解くことはできないのだ。さらに、悲しみに覆われた人間、絶望に陥っている人間、そうした人間の『感情』を『晴らす』ことによって解呪することができるらしい。『クラムオブヘルメス』が言うには、だがな。

「か、解呪方法……!」

 次から次へと飛び出て来る中二病ワールド全開の語句が、完全にいろいろな常識をぶち壊し、駆の脳内にグルグルと渦を巻いて、グルグルと視界さえ気のせいか回るようで……。

「……か、かーくん」

 駆が混乱の極致に追いやられているときに、近くで可愛らしい声が響いた。

 それは妖精美少女だとか、もちろん目の前にいまだに浮かんでいるツッチーではなく。

「だ、大丈夫?」

 駆を『痛い子』でも見るように見て、なにやらプルプル震えているのは、ロリ先輩こと小鳥遊陽子であった。

「さ、さっきから、かーくん見てたけど、誰もいないのに、誰かいるように独り言吐いていてすっごくすっごく心配なんだけど! しかも、呪いだとか、封印だとか、解呪方法だとか! ど、どうしちゃったの? 大丈夫? びょ、病院行く? 私、連れ添うから! ね、いこっ」

 そう言って、駆の手を引っ張った。小さくて柔らかい手。まぎれもなく、陽子本人である証拠だ。現実であるという証拠のはずだ。しかし、未だ『ツッチー』と称する謎の生命体はそこに浮いて、こちらを見ている。駆の頭はオーバーヒートを起こし、

「ちょ、ちょっとお家に帰ろうと思いますぼかあ」

「うん、そうした方がいいよ! わたし先生に、言っておくから! かーくんはそのまま気にせず家に帰ってゆっくり休んでね!」

 陽子は手を振り、そのまま職員室へと向かった。恐らく、駆の担任教師に事情を説明するつもりなのだろう。

――む、むう、なんだかわからんが、そうしたいのならそうするがいい。我からは、一通り説明できたからな。では、またな。

 そう言うと、ツッチーは駆の手へと移動し、ボスンと消えた。

 代わりに現れたのは、一枚のピック。

 そのピックをぎゅっと掴み、駆はヨロヨロと廊下を歩き、とりあえず家路に就くことにする。

 ほんと、どうなってんだ。



 できれば教えてほしい。

 この幻覚が治る方法を!

「あ、起きた」

 昨日、学校から帰って即刻眠った駆が、目を覚まして最初に見たものは、羽を背中でパタパタさせながら飛ぶ、金髪妖精美少女だった。

「はあ」

「変な顔」

「いや、おまえがそうさせているんだが」

「?」

 小首を傾げ、その小さな顔のわりに大きい瞳を覗かせる少女に、駆はため息をつくしかなかった。

 窓の外を見るとまだ薄暗く、夜明け前だった。時計を見ると四時ちょっと過ぎ。

 そろそろ、太陽が昇ってくる頃合いだ。

 相当疲れていたらしく、軽く十五時間ほどは爆睡したことになる。

 おかげで駆の意識は爛々としており、そのせいか目の前の少女の存在を昨日よりも素直に『そこにいる』と受け入れることができた。

「わかった……。こうなったら、もうあきらめる。俺にはどうやらお前が見えるみたいだな。この際幻覚だからどうだ科学がどうだなんて言わないことにする。考えたって仕方ない。降参だ。あれ、そういえば昨日、陽子先輩には見えなかったみたいだが、俺にだけ見えるっていうのはどういう原理なんだ?」

「陽子先輩って、だれ?」

「ほら、昨日のちっこい先輩。覚えてないか?」

「ああ、あのちっこい人ね」

「いや、今のお前に言われたくはないと思うぞ、さすがに」

 陽子も親指サイズの妖精さんにだけは言われたくないだろう。

「正確には認識することができないだけ、らしい。今の私をはっきり認識できるのは、私のことを今でも忘れずにいる人とあなただけみたい。でも写真とかで撮れば影にはなる。確かに存在はしているけれど、通常、人間には認識できない、らしい」

「ふーん、その言い方だと、人間以外は認識できるのか」

「犬とかはわかる、らしい。ってあなたが眠ってからあの後ツッチーから聞いた。なにせ、私も目覚めたばかりだから、わからないのは私も一緒」

「へ?」

「あなたがあのギターを弾いた時に、私の意識は覚醒した」

「ギターって、あのギターか?」

 駆の脳裏に、あのゴミ置き場にあった傷だらけのギターが思い浮かんだ。

「そう。あのギターこそが私とツッチーをつなぐ依代。身体が死んでもなお私の意識となり魂を形成する、私の思いの結晶。それがあのギター」

「ふーん、よっぽど大事なものみたいだな。そんなギターがなんであんなにぼろぼろになって、よりにもよってあんなとこに捨てられてるんだか」

「それは……、私があのギターと一緒に自殺しようとしたから」

「へ?」

「自殺は未遂に終わったけど。車に撥ねられようとしたところを、俊介に止められて、でもギターは代わりに吹き飛んで……」

 思った以上に重い内容で、駆はどう返せばいいのかわからなかった。

「俊介って、誰だよ」

「私の幼馴染」

 幼馴染と言う言葉が誰を指しているのか、一瞬わからず、思い出すと、

「ああ、あの残念イケメン先生か。あの人の名前、俊介って言うのか」

「そう、白崎俊介。私の幼馴染。その後すぐ私は亡くなって、それからずっと俊介はあの傷だらけのギターを大切に保管してくれていた。いや、私が亡くなったという事実を受け入れられず、放置していたというのが正確。亡くなってギターを依代にしてから意識ははっきりしてなくて、その頃の記憶はおぼろげだけど、わずかにでも意識はあったから、その時の俊介のやつれ切った顔とか、千切れそうな声とか、そういうのはなんとなく覚えている。私には何もできなかったけど」

 ふと遠くを見るように、色の不確かな透ける瞳をする少女に、

「よっぽど、お互い、大事に思っていたんだな。恋人だったのか」

「へ?」

 そんな駆の言葉に宙を浮かぶ妖精美少女は目を白黒させて、

「私と俊介が、恋人?」

 パタパタと動かしていた羽を止め、ストンと駆の肩に座った。

「そんなこと考えたこともなかった。私にとって俊介はいつも傍にいて当たり前で、きっと俊介もそうだった。そして、俊介があのギターを手放したのは、新しい一歩を踏み出すため。わからないけど、なんとなく、わかる。俊介って、不器用。私と共に音楽を忘れたかったのだと予想している。でないと、私を思い出すから」

「じゃあ、あのゴミ置き場にあったのは、俊介、先生が、捨てたからってことか」

 ようやく、合点がいく。なぜあの教師が、ゴミ置き場にギターがあるのかを知っていたのか、駆が疑問に思ったことは間違っていなかったのだ。

「でも、なんで俺なんだ。俊介先生じゃダメだったのか?」

「俊介は一度も私を、あのギターを弾こうとしなかった。それに、俊介じゃ、ダメ。私のことを知りすぎているから、私の想いばかり考えて、ほかの人の想いを受け止められない。私のことを想い過ぎて、その想いが邪魔をして、きっと押し潰されてしまっただろうから。でも良かった」

 妖精美少女は不意にニコリと笑い、

「あのままだったら、私の依代は誰にも弾かれることなくその役割を終えるところだった。私があのギターに宿った意味がなくなるところだった。あんなギター、だれも弾かないだろうと諦めていたから。なのに、あなたが私を弾いてくれた。だから今、私はこうしてあなたと喋ることができている。だから、ありがとう。弾いてくれて。あの日、あんなボロボロのギターを弾いてくれて、見つけてくれて、ありがとう」

 そんな素直な言葉に、駆は戸惑う。相変わらず、駆は人から感謝されるのは苦手だった。だから、照れ隠しに窓の外を見てやり過ごす。

 徐々に明るくなっていく朝の気配を見ながら、

「えっと。名前、なんて言ったっけ?」

 駆はぼそっと聞いた。

「星河天音」

 そして妖精美少女も淡々と返す。まだぎこちない二人の関係が始まった瞬間。

 どうやら駆の青春はとんでもない方向に転がっていくようだ。

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