2
駆の朝は早い。朝の四時半には起きる。
今日も目覚まし代わりのシャワーを浴びるため、現在、洗面所の鏡の前で全裸待機中だった。
「このパーカーどうすっかな……」
可愛らしい猫のようなキャラクターがプリントされたパーカー。やっぱり洗って返すのが筋だろうか。
昨日履いた自分のパンツやタンクトップとかと一緒に洗濯機に投げ込み、洗剤を適当に入れて、電源をオン。
ウイーンガタンゴトンと動いた後、水が流し込まれる音を確認し浴室へ。三十分で出て、軽い朝食を取ると、洗濯物を干して、駆は家を出ることにした。
やまびこ道路という名前の大きな通りを歩き、三斜路に突き当たると、今度は大通りから外れた細い道路沿いへと足を運ぶ。
すると明治時代に建てられた木造の旧校舎が見えてきた。校舎を囲むようにして造られたのが、昨日駆がゴミ拾いしていた公園だ。
入り口に到着すると、ヒマラヤ杉の並木道のところに、中背でおなかがポッコリと出ている中年男が、ゴミ袋をリュックから取り出しているところだった。
「おっす、ジンちゃん!」
「おお、駆くん、おはよう」
駆が挨拶すると、清水仁はシワの深い笑顔で迎えてくれた。
「怪我は大丈夫かい?」
「ふ、大丈夫大丈夫、この俺があれくらいの怪我でどうなるわけないじゃないか。もう余裕でバリバリに完治しちゃってるぜ」
得意げな顔をする駆のお腹を仁がツンツンと触ってくる。
思わぬ攻撃に、駆は顔を歪めた。
「な、何をするんだい、ジンちゃん」
「いや強がりかなーという確認をね」
「はっはっはっ、全くジンちゃんったらお茶目なんだから。強がりなわけないじゃないか」
ツンツン。
痛みに震え涙目になる駆を見て仁は笑い、
「ま、その様子なら問題は無さそうだね。無理はしていないみたいだ」
リュックの中からごそごそと取り出したのは、昨日、駆が着用していた制服。綺麗に畳まれた状態で忘れて持ち帰らなかった鞄と一緒に差し出してきた。
「はい、これ」
すっかり綺麗になったネクタイやズボン、ブレザーを受け取る。
「今日はちゃんと学校行くんだよ」
「わかってる。ありがとう、ジンちゃん」
心から応援してくれる仁の想いを感じ、勇気が湧いてくるような気がした。
「ひとまず、着替えてくる」
軽い足取りで近くの茂みへと向かう。今日はなんだか学校に行けそうな気がした。
公園で仁からゴミ袋をもらい、近くの河原で適当にゴミを拾っていると、ちらほらと学校に向かっていく同じ制服姿の生徒が多くなってきたことを確認して、駆は公園に戻った。
ゴミの仕分けをしながら、自然とため息をついてしまい、
「豪快なため息だね」
仁に笑われた。
「ため息じゃない。深呼吸だぜ、ジンちゃん」
「物は言いようだなあ。しかし、人生にため息はつきものさ。よくため息をつくと幸せが逃げるというが、僕はそれこそ嘘だと思うよ。だってため息をした後って、少し心が楽になる気がしないかい?」
「まあ、そんな気がしなくもない」
「他人の前でするのは失礼に当たるけれども、僕の前ではすればいいのさ。僕は気にしない」
仁はそう言って作業を終わらせると、
「それじゃあ、ゴミは出しとくから、駆くんは学校に行けるよう、頑張って」
「おう、任せとけい」
「陽子も学校で待ってるってさ」
「たはー」
陽子とは仁の孫である。駆の一つ上で、高校に行くため家庭教師にもなってくれた駆にとって仁以上に頭の上がらない存在だ。登校拒否して授業を受けていない駆が陽子と同じ高校に合格できたのは奇跡と言っても過言ではないことだった。全ては駆の勉強に付き合ってくれた仁と陽子のおかげなのだ。
なので、そんな陽子の『待ってる』という一言は何より駆の心に重く響く。
「こりゃー、行かなきゃいけない理由がもう一つできちゃったな」
「ははは、あんまり思いつめないで欲しいけどね。ただ、駆くんが学校に来ることを楽しみに待っている人がいるっていうことは、覚えておくと良いかなと思ってさ」
「いや、ほんと、ありがたいっすよ。こんな俺の、いやまあ、あれだ」
自嘲しそうになって駆は言葉を濁す。励まそうとしてくれる相手に対して言うことじゃない気がしたから。代わりに、
「とにかく、ジンちゃんありがと」
ちょっと照れるけど、駆は心からの感謝を仁に伝えることにしたのだった。
***
やるべきことはただ一つ、学校に行く、それだけ。
公園に設置された時計で時間を確認する。
八時十五分。もうそろそろ学校に向かわなければ。
昨日とは違い、学校に行けない言い訳は存在しない。今こそ行動の時。
「よしっ!」
駆は決意し、今の自分ができる最善の行動を取ろうと、
「なんか飲み物でも買って落ち着こ」
自動販売機のある場所に向かおうと足を向けそうになり、
「はっ、まずいまずい、何、落ち着こうとしてんだ、俺は。そんな場合では」
と踵を返し、
「いやでも、少しだけだし」
再び後ろ髪を引かれ、
「待て待て、そういう甘えた考えがだな……」
思い直して前を向き、
「甘えた考えにブラックコーヒー」
と謎の思考回路が働き、
「いや男は黙って背中で魅せる、それがハードボイルド」
もはや当初の目的を見失っている感が否めなくなった時。ふと視線を感じて、
ビクッ! ササッ!
(誰だ、この俺を見る奴は。懐に拳銃があれば射撃しているところだぜ。命拾いしたな……)
咄嗟に近くにあった茂みへと隠れ視線の正体を探った。
ベンチに腰掛けた、昨日の少女。その大きな瞳が茂みに隠れた駆の方を捉えていた。
な、なんだ。
戸惑う駆だったが、少女の前でうろうろと挙動不審な言動をしていたことには全く気づいていないのである。
(待てよ、もしかしたら自意識過剰か。彼女はどうやら公園の桜の木やその花びらを眺めながらぼーっとするのが好きらしい。たまたま俺の方を見ていただけなのかも)
ならば、と。そろそろと茂みに隠れながら駆は移動してみた。
ふー。額の汗を拭いながら、よしこれで大丈夫だと、駆は安心して少女の様子を確認する。
じろーっ。
「見られてるよ、めがっさ、見られてるって!」
気のせいじゃないらしい。茂みの隙間から駆の体が見えるのだろう。彼女の視線は間違いなく移動した駆に注がれている。
どうしたものか……。
敵に見つかってしまった以上、ここは応戦する必要があるかもしれない。
頬に出来た十字の傷にかけて、これくらいの窮地、切り抜けてみせる……!
起死回生とばかりに起動したロボットのように凛とした眼差しで、駆は立ち上がった。
「ふ、見つかってしまったようだな……!」
茂みに隠れてしまった自分の不自然な行動を誤魔化すため、彼女の前まで歩いていき、
「だが、これで終わりだと思うなよ……!」
駆はビシリと少女を指差した。
とりあえずこう言っておけば、相手は思わず『そうか、分かった』と納得してくれ、全てが有耶無耶になるはず。そんな絶妙な対応に、しかし、少女のジトーッ、とした目が不審者を見るように、駆に注がれた。
心なしか温度が絶対零度まで下がった気がするが、気のせいだろう。そういうことにしよう。
「えっと、じゃ、そゆことで」
言うべきことは言い終えた駆は、冷えた空気に堪えられず、下手くそな口笛を吹きながらそそくさと立ち去ることにする。
後ろから注がれる、最早不審者を通り越し、変態だと確信したような視線が駆の背中に突き刺さって痛い。
(全く失礼な、俺は変態なんかじゃない、ただちょっと、その、変な人なだけだ)
「あのさー……」
少女が不意にその意志の強そうな瞳に合った凛とした声で、
「なんでいつも、茂みに隠れてるの?」
相変わらずのジトーっとした目で駆に訊いてきた。
「いやいや、なんのことだ?」
駆はさも、やれやれ、何を言ってるんだ、そんな事してるわけないじゃないかと言った口ぶりで、肩をすくめ、首を振った。
「昨日も、隠れてたし」
「昨日? なんのことだ? そんな大昔の大昔、あるところでお爺さんが山でロッククライミングして紐なしバンジージャンプを楽しんでいました的な話が続きそうな、古びた話は忘れてしまったな。そう、昨日とは二度と戻らぬもの。紐なしバンジージャンプのように、俺たちは常に人生のフリーフォールをしているのさ」
「お爺さん何してんのよ。残されるお婆ちゃんのことも少しは考えなさいよ。全く身勝手な話ね」
そう言うと、少女は肩をすくめ、怠そうに目線を外した。
錆びたベンチに猫背ぎみに座り、両手を脇に置いて、足をブラブラさせる少女。
その表情はどこか憂いを秘めていて、儚く、ひどく疲れた様子だ。
「お前こそ、ここで何してるんだ? 学校に行かなくていいのかよ」
「あんたはあたしの保護者かなにかなの。あんたに言われなくてもわかってるわ、そんなの」
少女は大きなため息をつくが、立ち上がる気配はない。
再び公園内に設置された時計で時間を確認する。八時二十五分になっていた。
そろそろ向かわなければ確実に遅刻してしまう時間帯に差し掛かっていた。それなのに、この少女はあえて無視するようにここを動こうとしない。
なぜか。
「なによ……」
自分に向けられている視線が気に入らないのか、駆を睨んでくる少女。
可愛い顔立ちをしている。
まるで水晶を映すように煌く凛とした瞳に息を飲む。
そんな可愛らしい顔を、今は毛を逆立てて敵に威嚇する猫のようにして、警戒した表情を駆に向けてくる。
何となく。駆は少女と自分を重ねていた。
その姿は何かと人知れず闘い、苦しみ、足掻いて、転げまわる人間のそれだったから。不器用に前に進もうとするが進めず、かと言って止まってもいられないことを知りながら、ただ立ち竦む自分の痛々しさに似ている気がしたのだ。
はっ。
そこで駆の脳裏にニュータイプさながらのキュピーンという音と閃きが走った。
「そうか……、そういうことだったのか……!」
駆は口元に手を当て、閃いた答えに感嘆する。
「わかったぞ」
「……嫌に生暖かな目がひたすら気持ち悪いんだけど。なにがわかったのよ」
「お前も」
駆は優しく美少女の肩にポンと手を置き、確信を込めて言った。そう、彼女は、
「学校に行きたくないんだなっ」
俺と同じ登校拒否だ!
「はっ?」
「皆まで言うな。わかる、わかるぞ。そうだよな、この苦しみは登校拒否になって引きこもった者にしかわからないからな。学校に行く、ただそれだけのことが、どれほどの力を使うか。本当に、苦しいよな、世界が明日消えれば良いと思うくらい、行きたくないよな」
駆の鋭い観察眼に少女は言葉を無くすほど驚いてるらしい。まさか自分と同じ悩みを抱え、闘う仲間と巡り合うとは思っていなかったのだろう。だが、それはこの駆とて同じ。
「嬉しいぜ、この気持ちを分かち合える仲間が、同じ高校にいるなんて……!」
「さっきから何を言っているの? 頭大丈夫?」
「俺は、お前に会えて良かった。お前が、俺に、勇気をくれたんだ!」
がっしりとその肩を掴み、
「行くぞ!」
「ちょっと! ど、どこに行くのよ?」
気圧された表情を浮かべる少女の問いかけに、駆はにっと笑って言った。
「決まってんだろ? 学校にだよ」
駆はベンチに置いてあった少女の鞄を掴み、少女に持たせる。
「な、なんなのよ、もう」
「俺が、引っ張ってやるよ。一緒に行こうぜ、学校に!」
「別に、一人で行けるから」
「お前のおかげで、勇気が湧いてきたんだ。今度は俺の番なんだ。ほら」
駆はギュっと驚く程小さい少女の手を握り、
「俺の力をお前にやる」
走り出した。公園の出口を抜けそのまま駆けていく。学校へと向かう道を一直線に。
あれほど悩んでいたことが嘘みたいに、いともたやすく。少女の手をしっかりと握りしめ、その暖かさを感じながら走っていく。どこまでも、このまま、どこだって、駆は走って行ける気がした。
校門の前に辿りつき、あとは校舎に向かうだけというところで、
「……あんた、見てて恐ろしくなるくらい体力無いのね」
少女は容赦のない言葉を駆に浴びせた。
駆はぜーぜーと、両膝に手をついて、呼吸もままならない状態。
おかしいな、どこまでも走れるような気がしていたのに。
対照的に、少女の方は息一つ乱れた様子もなく、最後らへんは駆の方が引っ張られているような有様だった。
やっぱり気がするだけじゃだめだな。日頃の鍛錬とか努力とか、何事も積み重ねの差っていうのがあるのだ。青春するのも体力が必要不可欠なんだな……。
そんな事をしみじみと考える駆の頭上で少女はため息をつき、
「ま、おかげで遅刻せずに済んだわ。じゃ」
疲れ果てている駆を置いて、さっさと校舎へ向かっていく。
「ちょっ、え、そんな簡単に!?」
あっさりと校門の向こう側へと旅立ってしまった同志に驚きつつも、
「す、すげーぜ、なんて勇気だ……!」
その肝の座った行動と後ろ姿に、思わずキラキラと憧れのこもった視線を駆は送ってしまう。
脳裏によぎるのは中学の頃の惨めな思い出。
でも、それでも。
「さて、高校生活を謳歌しにいきますかね……!」
駆は、決意とともに、学校の門を越える一歩を踏み出し、校舎へと向かった。
***
ソローリソローリ、と今の駆はさながら任務のために潜入しているスネイクだった。
絶えず周囲を警戒しつつ、見つからないように、時には風のように走り抜け、影のように隠れていた。
作戦目的は自分の教室にたどり着くこと。
本来ならば簡単であろうその任務が、しかしとんでもない罠として駆の前に立ち塞がった。
(そもそも俺、入学式休んだから自分の教室どこだか知らないんだよなあ。いやーまいったぜ! 親しい友達がいればそいつを通して教えてもらえるんだけどなあ、両親とかもあてに何ないし)
あははー、と駆は乾いた笑みを浮かべ、
(まあ、いい。無いものねだりはみっともないというもの。何としても、この任務『空虚に囚われたどこかの教室にある自分の席を見つけ出せ!』をやり遂げなければ。シンプルかつ困難な任務こそエージェントとしての力量が測られる。 ……ていうか、もう授業始まってるみたいだから、いちいち扉開けて確認することも憚られるんですが。あー、ただでさえ教室内の人間の視線を集めるのに、そのうえ自分のクラスじゃ無いとか。恥ずかしくて死んじゃう)
か、帰ろうかなあ、と一瞬逃げることを考える。どうやら休み時間になるまで待つという選択肢は駆の中にはないらしい。
まさにミッションインポッシブル、こうなったらワイヤーアクションに挑戦して屋上からダイブしようかな、と駆が考えていたとき。
「変な顔」
廊下の角で隠れ身の術のごとく身を隠していた駆の目の前に、突如として現れたサファイアのように青い瞳。
「お、おおう!」
ガン! と、至近距離に突如として現れた人間に驚いて後ずさる瞬間、壁に頭をぶつけてしまった。頭の上にお星さまが見える気がするほど痛い。
「な、何者だ、お前」
しゃがんで、痛む後頭部をさすりつつ目の前の人物を見上げ、駆は息をのむ。
星空のように澄んだ瞳がまじまじと駆を見ていた。
月光を思わせる、青く光り輝く金色の長い髪が腰まで届いていて、美しい。
そんな幻想的な少女の外見に、駆は思わず息を飲む。
対して、少女はマイペースに何やら考え込み、
「……自分が何者か……」
ポンポンと一休さんが考えているときの音が聞こえてくるみたいに、悩んでいた。
「……一応、人?」
少女の美しさに緊張していた駆だったが、その答えに脱力する。
「なんで自分が人間であることをそこまで疑問に思っているんだ?」
「……あなたは、人?」
「おおう! まさか、そんな切り替えし方されると思わなかったぜ。お前どんだけ人を人として認識できてないんだよ」
「あ、そういえば、私あなたのことが好きかもしれない」
「おう、そうか……。うん?」
一瞬、何を言われたかその意味を掴めず考える。そして、一拍おいて理解し、
「って、ええええええええええええ!」
生まれて初めて人から告白されたことに驚き、興奮してしまう。
「い、い、い今のど、どう、どう、どういう! ってそういう意味なのか?」
「変な顔、近づかないで」
『うわー、唾飛んだ。ばっちー』と顔を歪める少女。
あれ、告白されたにしては、扱いがひどくないかな。
それとも『実は冗談でした、てへ☆』とかいうオチなのかしら。
うわー、だったら恥ずかしい!
あれは確か、駆が小学六年生の頃の話だ。
下駄箱にラブレターが置かれてあった。しかも差出人はクラスの中で目立つ美少女的存在。
喜び勇んで指定された場所、校庭の真ん中で駆は相手を待った。
日が沈むまでずっと待ったのだ。なのに、相手は現れなかった。
朝になって駆が教室に登校すると、クスクスと笑うクラスメイトたち。
そして、ラブレターの差出人であるはずの美少女が周りの女子を引き連れ、駆の前へと来て、笑いながらこう言い放ったのだ。
『校庭の真ん中でなにしてたの? 冗談だったんだけど、本気にしちゃったみたいだね。でもさ、よく考えればわかりそうなものなのにね。わたしがあなたのこと好きなわけないじゃない。自意識過剰〜』
冗談か本当かなんて考えもしなかったっての……!
暗黒歴史を思い出し、呻く駆だったが、
「ついてきて」
グイと、手を突然少女に引かれたので、戸惑いながらも駆は少女に尋ねる。
「ついてきてって、どこにいくんだよ」
少女は指を上に向け言い放った。
「屋上」
少女に言われるがまま、階段を上り、屋上へと向かう扉の前へと来た。
扉の前にはなぜか電工ドラムが置かれていて、少女はその電源プラグをコンセントに接続すると、コードを引き延ばしながら扉を開けた。
「おいおい、なんだよ。これ何に使うんだよ」
「……?」
「いや、なんでそこで不思議そうな顔を浮かべるんだ。変なこと、言ってないと思うんだが」
そろそろ連れてこられた理由を教えてほしいというのに。
まったく、とんだ不思議ちゃんである。
そんな少女の後を追い、駆は外に出た。
晴天。
まぶしい日差しに、駆は思わず目を細める。
風はまだまだ冷たいが、太陽の温かさが混ざるとむしろ心地よくもあった。
「世界はロックンロールで、できている」
その声はこの青空の下、どこまでも澄み渡って聞こえた。
駆は思わず息を飲み、そのまま呼吸を忘れてしまう。
少女の長い金色の髪が風に揺れて、キラキラと輝いていた。
「鼓動が全身を巡って命を叫ぶように、熱い魂が胸を震わせ身体中を駆け回っているように、この世界は呆れるくらいのスピードで宇宙を駆け回って魂を震わせるようなビートを刻むように、転げまわっている。きっと死ぬまで、ずっと回転し続ける。それが無駄なように見えても。同じところをずっと回転し続けたとしても。きっと、死ぬまで。ずっと、ずっと。だから、世界はロックンロールで、できている」
言葉が、駆の心の奥底に届いた気がした。
ずっと鉛のようにこの心を重くしていた何かが、熱を帯びて胸の内からあふれ出し、鼓動となって全身を打った。
ドクンドクン、と。
「あなたに、託す」
「え?」
「私の願いはただ一つ。私に笑顔を届けてほしい。いろんな人の。悲しいこととか、いろんなことがあってどうしようもなくなってる人の顔を、笑顔に変えてほしい」
ドクンと、鼓動がまた脈打つ。意味がわからないのに、なんでこんなに。
「私とあなたなら、きっとできる。だから――、手を取って」
少女が、駆に向けて手を差し伸べてきた。
一瞬、手を取ることをためらうものの、その言葉の魅力に、気づけば駆は手を伸ばしていた。
柔らかな少女の手。確かな体温が、じんわりと駆の心にしみわたる。
「ありがとう」と少女が笑った。
天使の微笑みだ。それほど、天真爛漫な表情で少女は笑った。
何かが始まる予感が駆の胸を打った。そう、何かが確かに――。
今、まさに、変わろうと。
すると、蜃気楼のように少女の体が歪んだ。
少女とつながった掌の感触がおぼろげになっていく。
「な、なんだ」
まるで、シャボン玉のような虹色の光が少女の全身を包み、消えていく。
「さあ、世界に響かせよう。私とあなたの音を」
パッとそのシャボン玉が弾けるように光が輝いたと同時に、
――ギヤオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンン!
鼓膜や全身をビリビリと打つ巨大な音が流れた。
まるで、世界にその存在を刻みつけるように、どこまでも力強く響いた。
「おい、ここで何やってんだ、お前は?」
余韻にひたっていた駆を現実に呼び戻したのは、どこまでも不機嫌そうでぶっきらぼうな、だけど不思議と心地よく耳に届く、そんな声だった。
振り向くと一人のくたびれた男性教諭らしき人物が、これまた不機嫌そうな顔を浮かべながら突っ立ていた。
無精ひげを生やし、髪の毛もぼさぼさ、なにより死んだ魚のような瞳が印象的だ。
だが、恐ろしいほどに美形でもあるのだ。
鷲鼻と、きりっと長い眉。180センチはあるだろう高身長と相まって、むしろ野性味のある色気が男性教師にはあった。
そんななんだか残念なオーラを放つのに無駄にイケメンな教師が、息を吸うのも面倒くさいという顔を浮かべて、咥えていた煙草を口から離し、これまた心底から不味そうに吐き出した。
そんな顔するくらいなら煙草吸うなよ、と駆が思うくらいである。
「えっと、俺もなにがなんだかわかんなくて、えっとなんと言ったらいいものか」
「ふー。その手に持ってるのは、なんなんだ?」
紫煙を吐き出しながら、灰を落としそのまま火の点いた先っぽを駆に向けてきた。
「え?」
言われて、駆は気づく。いつのまにか、何かを持っていることに。
それは見覚えのあるギターだ。
昨日、あのゴミ捨て場で弾いたギター。一本の弦がダランと垂れて、まともに弾けそうにないギター。間違っても、さっきのような魂を吸い寄せるような、魂の色を奏でるような、そんな音色にはならないはずの壊れたギター。
ちなみになぜかギターにはアンプがつないであって、スピーカーから流れる仕様になっていた。つまりはばっちり準備万端、弾く気満々、どうみてもさっきの音の元凶は駆が作り出したとしか思えない構図だった。え、これはいったい? なにが起こった?
「よくもまあ、そんなボロボロのギターをあのゴミ置き場から拾ってきたもんだな」
「え、いや、あの」
ていうか、なんでゴミ置き場から拾ってきたってわかるんだろう。あ、でもこんなの買ったとは思わないか。こりゃ、失敬とどうでもいいことを駆が考えていると。
「まあ、なんにしても。お前いい度胸してんな。授業中に、こんなことして、しかも教師にそれを見られてるのに、逃げもしないなんてな」
「いや、あのう、俺じゃなくて、今確かに……」
「――そんな、馬鹿なことあるかよ!」
ガン!
駆の言葉を遮るように、突然男性教師は開いた扉を殴りつけ、激高した。
どれほど全力で殴ったらそうなるのかわからないが、扉の真ん中が陥没し、その拳からは血が溢れており、ポトリポトリと、床に花火が散るように落ち、赤く染まった。
「おれもお前も、幻を見てただけだ……!」
さっきまでの気だるげな印象とは正反対だった。胸の中にある激情を声にしないと壊れてしまいそうで、男性教師は今にも崩れ落ちそうに壁に寄り掛かった。
「……なんだってんだ、いったい……!」
顔を手で覆い、そのまま髪の毛をくしゃくしゃと掻いて、
「今更、何をしようってんだよ、あ――……」
男性教師の言葉をさえぎるように、階段を昇ってくる足音がばたばたと。
「おい、今の音はなんだっ!」
現れたのは筋骨隆々の男性教師。なんというかザ、生活指導! みたいな人だった。
「お前、ちょっと生活指導室来い!」
駆は悟る。あ、これ何言っても無駄だな、と。
怒り心頭な様子のキン肉マン教師に白旗を上げ、駆は素直に生活指導室へと連行されることにした。




