再来
「それで、どうしたんです?」
私は続きが気になり促したが、椎乙刑事は開いたばかりの取調室のドアに気をとられていた。
「ああ……それから色々あってだな。俺は日瑠葉がそういう力をもっていると知ったわけだ。つまりあの絵は、奴が現場から離れた場所にいながらにして、事件の瞬間を目撃したものだと。まぁそういうこった」
椎乙刑事の話は適当になっていた。さっさとベンチから立ち上がると、取調室から出てきた同僚に結果がどうなったかを尋ねている。
(その『色々』が肝心なんじゃない)
私は立ち上がらずにむっとしていたが、あるいは、と考え直した。
(なにか言いたくないことがあったのかもしれない。たとえばその事件の犯人はどうなったの――?)
当時、火事のあった家の隣人が逮捕されたらしいが、椎乙刑事は他に犯人がいるのではと疑っていた。その真犯人は捕まったのか。もし捕まらずに事件がうやむやに終わっていたなら。
(犯人はまだ捕まってない。きっと未解決のままなんだわ)
「前野」と、椎乙刑事がいつもの鬼瓦で声をかけてくる。ひどく怒っているようにも見えるが、声のトーンは少しだけ明るかった。
「取り調べ、うまくいったんですね?」
私が最近身につけたばかりの方法で、椎乙刑事の気分をその表情ではなく声で推しはかると、案の定彼は頷いた。
「ああ、犯人が自供したらしい。これで事件は一件落着だ。いまから日瑠葉のところへ行こうと思うが、お前も来るか?」
「日瑠葉さんのところへ、ですか?」
「礼をせんとな。今回の件は奴の手柄だ」
足取りも軽く、けれど顔は渋面のまま椎乙刑事が署の廊下を歩いていくと、通りすがる婦警や同僚たちがこわごわと避けていく。想像してみてほしい。ヤクザが睨みをきかせたままスキップしているところを。
(悪い人じゃないんだけどね。ちょっと見た目が怖すぎるというか、言葉づかいもあれだし)
ずんずんひとりで歩いていってしまう椎乙刑事の背を、私は慌てて追いかけた。
「ちょっと待ってください。日瑠葉さんのところへ行くって、ご迷惑じゃないですかね?」
なにしろこの間私が訪ねたときには、日瑠葉はあまり警察を歓迎していない風だった。
(警察の人間でなければ歓迎してくれるみたいだったけど)
ごちそうになった昼食のカオマンガイの味を思い出していると、椎乙刑事は心得たように「大丈夫」と携帯を取り出した。
「日瑠葉は嫌がるだろうが、奴がいないときに行きゃいいんだよ。まずは助手の五反田に電話して、それから銀座によって、フルーツケーキだな」
「ケーキ?」
「任せろ」
椎乙刑事は渾身の笑顔を浮かべてみせた。
それはどうみても悪役のボスにしか見えない凶悪さだった。
その後、椎乙刑事は日瑠葉の工房へ行く前に、本当に銀座へ寄った。
署のある三鷹から銀座まで、電車でかなり時間がかかる。それでも銀座へ向かい、迷いなく進む足がどこへ向かうのかと思ったら、本当にケーキ屋さんだった。それも女の子が喜ぶような、フルーツがどさどさ盛られた可愛らしいケーキタルトのお店だ。
ひるむことなく店内へ入る椎乙刑事の強面を見て、店員さんが一瞬だけ携帯へ手をのばしかけたのを私は見逃さなかった。
(通報されそうになったし)
私が一緒についていかなければ、どうなっていたかわからない。
そして目にも美しいフルーツケーキのホールを手に入れ、私たちはいま来たばかりの道を戻り日瑠葉の工房へと向かっていた。
「奴は留守だ」
椎乙刑事は携帯をポケットにしまいながら言った。
「代わりに助手の五反田がいる。あいつに礼を言って帰ろう」
「はあ」
いいのかそれで、とは思う。
そういえば、先日工房を訪れた際、椎乙刑事は五反田とずいぶん親しそうだった。
(何度かあそこに行ってるみたいだし、いつもこうしてケーキを買ってるのかしら)
「日瑠葉は俺を避けまくるが、五反田の方はそうでもない。なにか用があるときは、たいてい五反田の方に連絡してる。だから」
と、なにか言いかけた椎乙刑事はそこで固まった。なにかに気づいたように前方を見ているが、その視線の先を追っても特に変わった点はない。しいていうなら通行人が数名いるくらいだ。
幼稚園の子どもと手をつなぐお母さん、その後ろを歩く中学生ひとり、反対側へ歩いていくスーツの男性。
「どうしました?」
「ん」
「え?」
持ってろと押しつけられたのは、それまで椎乙刑事が抱えるようにして運んでいたホールケーキの箱だった。私が持つのは構わないが……椎乙刑事は道の先を睨んだままだ。
「先に行ってろ。俺は用ができた」
「用ってなに……ちょっと!」
言うやいなや、彼は早足で走りさってしまう。その向かう先は日瑠葉の工房とは真逆の、いま来たばかりの三鷹駅の方だ。
「えぇぇ……?」
私は茫然と立ち尽くしてしまった。
(私ひとりで向かえってか?)
*****
(間違いない、一瞬だったが俺は顔をおぼえている)
来た道を戻り、椎乙は前を行くその男を追っていった。
数年前、この手につかみかけた正解がなんの因果か現れたのだ。
取り逃がした答えはおそらく、日瑠葉自身と前を早足で歩くスーツ姿の男が握っているはずだ。
進む自らの足へ、いつもの「第六感」がそのまま行けと囁く。
(柔らかな物腰、線の細さ、声)
あの日失踪してしまった男の、特徴という特徴を苦い思いで今まで記憶に刻みつけてきたのだ。それは忘れようもない。
「藤木、博士――」
日瑠葉が隠そうとした陶芸家殺人の真犯人は、奴であるはずなのだ――。
*****