第六感との出会い
シグマ刑事がはじめて日瑠葉を見つけたのは、彼がまだ中学生のときだったという。
「三鷹で派手な火事があってな。現場の前をうろつくあいつの姿を見つけたのよ」
一軒家がまるまる燃えるという、なかなか凄惨な火災だったらしい。
焼け跡を検分していると、マスコミや近所の野次馬が遠巻きにうかがっていた。その中に、制服姿の日瑠葉を見つけたのだ。
「最初はただ注意してやろうと思った。平日に学校をさぼる学生かと思ってな」
しかし近づけば近づくほどに、少年はあからさまに避け逃げていく。
「これは何かあると思った。やましいことがないなら、どうして逃げる必要がある? 俺は奴を追いかけた」
得意げに頷くシグマ刑事をしり目に、私は呆れた思いで缶コーヒーをあおる。
(『なんで逃げる』って、それは椎名刑事の顔が怖かったからでしょ)
ひっそりと心の中でそう突っ込みつつ、私は廊下のベンチに座り取調室のドアを眺めていた。
目前のドアはぴっちり閉じ、先ほどから開く気配がない。なかでは三鷹で起きた殺人事件の容疑者がつかまって、尋問されている最中だ。
私とシグマ刑事は署の廊下で取り調べが終わるのを待っている。「取調室がせまい」という理由で閉めだされてしまったシグマ刑事に、私がなんとなく付き添った形だ。
結局、三鷹で起きた事件は押し込み強盗ではなく、シグマ刑事の言ったとおり顔見知りの犯行だった。
日瑠葉の工房を訪れてから、シグマ刑事は駅の防犯カメラの映像を署に持ち帰ってきた。そこから被害者の身内が見つかり、事態はあっけなく収束したのだ。調べてみれば犯人は金に困っていたようで、被害者宅へ何度も金を無心しに行っていた。荒らされた室内にあった指紋と、容疑者のそれも一致している。
(きわめつけは、凶器や盗まれた物が容疑者の家から出てきたことね)
もう言い逃れはできない、完璧な黒だ。
それらの証拠をもとに、いま同僚たちが事件の詳細を聴取しているところなのだ。
私はそれが終わるまで、なんとなく暇つぶしに椎乙刑事から日瑠葉の話を聞いていた。
「それで、中学生の日瑠葉さんを追いかけて、それからどうしたんです?」
椎乙刑事はカルピスの缶をちびちびと飲みながら頷いた。
「あいつはそのとき絵を持っていた。俺はそれを見たんだ」
椎乙刑事に鋭く呼び止められて、日瑠葉は慌てて逃げようとしたらしい。
すると、走る途中で日瑠葉が抱えるスケッチブックから、数枚の絵が落ちた。
彼が走り去ってから、椎乙刑事はそれを拾い見たのだ。
描かれていたのはどこかの部屋だった。
細密にモノトーンで描かれたその絵が、なぜかとても気になったのだという。
「勘ですか?」
私が半笑いで聞くと、凶悪な顔がじろりとこちらを睨んでくる。
「悪いか。俺はそれでずっと刑事やってきてんだよ。まぁ、それでだな――」
署に戻り、本来担当していた火事についての報告をうけたとき、その偶然の一致に気がついた。
「あの日瑠葉の絵は、燃えた家の内部の様子だった。それも火事が起こる前の」
火災のあった家の持ち主が殺されてから家を燃やされたと、検視報告を受け生前の被害者の写真を見たとき、奇妙な既視感があった。
どこかでこの家を見たことがある――けれどどこで。
生前の被害者の写真と、日瑠葉の絵はぴったり同じだったのだ。
家具の配置、壁紙の色合い……写真では影になり見えないような箇所まで、手元の絵を見比べてみると丁寧に描かれている。
これはどういうことか。
考えられる可能性としては、日瑠葉が火事の起こる前にあの家に行き、この絵を描いたということだ。今回の事件とは関係がない、それはずっと以前のことかもしれない。けれどあるいは、ひょっとしたらと思ったのだ。
資料を読み返せば、事件の被害者は刺殺されていた。犯人は真夜中、その死体の周囲にこれでもかと油をまき火をつけていた。火が燃え広がるのが恐ろしく早かったのは、意図して証拠を消そうとしたせいもあるのだろう。
事件の手がかりが火事でほとんど焼失したので、日瑠葉に話を聞けばなにかわかるかもしれないと、椎乙刑事はそう考えたという。
話を聞いて私は「ふうん」と頷く。
「だとすると、日瑠葉さんは当時、事件の重要参考人だったんですね?」
「あぁ、いや……そうじゃねぇ」
「え?」
「すぐに犯人が捕まってな」
事件が起きた翌日、被害者の隣人が怪しいというたれこみがあった。
事件当夜、家の前で不審な行動をとる隣人が目撃されていたという。さらに、その庭から空になった灯油ボトルが見つかった。被害者と揉めていたという裏づけもとれたのだ。
「そいつの庭から指紋付きの凶器も出てきて、事件はスピード解決したってわけだ」
それはあまりにも早い出来事で、椎乙刑事が日瑠葉を訪れる前にことは終わってしまった。
「だが俺としては、一抹すっきりしないもんが残る」
「つまり、椎乙刑事は日瑠葉さんが、事件の犯人じゃないかと疑ったんですね?」
「いや、そうとは言い切れねぇ。だが逮捕された犯人は、なあんか違う気がしてな」
けれど終わってしまった事件はどうしようもなく、反証するだけの証拠もなかった。
すっきりしない気持ちを抱えたまま、仕方なく日瑠葉のいるだろう中学校を訪れたそうだ。あの絵をかえすついでに、あれをどうやって描いたのか話を聞こうと思ったらしい。
「さいわい日瑠葉はすぐに見つかった。制服から学校は特定できたし、あの日学校を休んでいたのはふたりだけだったからな。ひとりは女子で、もうひとりが日瑠葉心だ」
椎乙刑事が日瑠葉の家へ向かうと、表札には「藤木」と書いてあった。
木造一階建てのぼろ家で、申し訳程度に前庭がある。
住所のメモ書きを手に家の前で弱り果てていると、すりガラスのドアの奥、玄関あたりに人影が見えた。今から出かけるところなのだろう、中から男性の声がする。インターホンを押そうと手を伸ばした瞬間に、横戸をスライドさせて男が出てきた。中々に整った顔の優男で、ジーンズに青シャツを着ている。
「おや?」とこちらを見て、不思議そうに目を瞬かせる様には愛嬌があった。
「えっと……うちになにか用ですか?」
柔らかなテノールボイスで品のある喋り方だった。年はまだ二十代だろう、大学生かもしれない。とても事件に関係があるようには見えないと、あやうく雰囲気にほだされそうになったのを咳払いで誤魔化した。
「突然すみません。日瑠葉心さんはこちらに?」
「あ、ええ――貴方は?」
こちらを見る青年の目は、不審というより無邪気な疑問を浮かべていた。ふつう自分を初対面で見る者はこの凶悪な面構えを見て、怖がったり怪訝な顔をするものだが、この青年にはまるで警戒心がみられない。そのことに好感をもった。
「申し遅れました。私、こういう者です」
警察手帳を掲げてみせるも、相手は「はあ」と頷くばかりだ。
「うちの心になにか?」
「いやちょっと、落とし物を拾ったので」
鞄から絵を取り出し青年にみせると、相手はちょっと間それに釘付けになる。
(なんだ?)
うす茶の瞳が無表情に絵に留まったのは一瞬だったが、時間が凍りついたような沈黙が流れた。青年のまとっていた無邪気さが、なぜか絵を見た瞬間に緊張で張りつめた。
その不可思議な沈黙を破ったのは、家の中から出てきた日瑠葉だった。
「博士さん、これ忘れもの――」
弁当袋を掲げ出てきた少年は、こちらを見てぎょっとした顔になる。俺が手にした絵を見て、慌てて駆け寄ってくる。
「心、……」
茫然とつぶやく青年を無視し、日瑠葉はこちらの手から絵をひったくった。隠すようにして絵をにぎりしめ、うつむきがちの視線で俺の方を睨んでくる。
「なんの用ですか」
「いや、用というか」
「帰ってください」
取りつく島もない。俺は苦笑し、できるだけ穏やかな口調になるように意識した。
「この間、会ったときのことを謝りたい。ずいぶん驚かしてしまったな」
「この間?」
横でやり取りを聞いていた青年が首を傾げているのを見て、日瑠葉は慌てて頷いた。
「博士さん、これ忘れもの。早くいかないと遅刻するよ」
日瑠葉に弁当を押し付けるように渡されて、青年は戸惑ったようにこちらを見てきた。
「え、でも……」
一向に去る様子のないこちらを心配そうに見てくるので、俺は軽く頷いてやる。
「大丈夫です。すぐに帰りますから」
それでも不安げな顔の青年を、日瑠葉は無理やり家の外に押し出した。
「博士さん、ほんとに遅刻しちゃうって。大丈夫、なにかあったら連絡するから」
「あー……うん、じゃぁ。あとで電話して」
青年は時計を確認しつつ、心配げな表情でこちらを振り返り歩いていった。
日瑠葉はその姿が曲がり角に消えるまで笑顔で見送っていた。
「君のお兄さん?」
俺の問いかけに、日瑠葉は一瞬にして無表情になる。
「違います。どうしてうちに来たんですか?」
「いやぁ、この間は君が急いでたみたいだから、色々聞けなくてな」
日瑠葉は俺を睨みつけてくる。俺は構わず言った。
「その絵、どこで描いたのかな?」
「家です」
即答だった。
「家って君の?」
「ええ。ネットを見て描いたんです。刑事さんも知ってるでしょ? この間火事のあった家、有名な陶芸家の家だって」
「ああ……」
たしかに、火災のあった家に住んでいたのはそこそこ名のしれた陶芸家だ。ネットはもちろんテレビにも何度か出演しており、名のある有名人だったので、警察は初動捜査に力を入れたのだ――それが、あえなく隣人が逮捕され捜査終了となったわけだが。
日瑠葉はよどみなく続けた。
「ネットに、その人の家の写真が出てたんです。内装が面白かったんで、練習でそれを描いてたら火事があったっていうから、見に行って、それで」
そこで言葉を切った日瑠葉は、うらみがましくこちらを見てきた。
なるほど、俺に追いかけられたことを根にもっているようだ。
「悪かったよ。でも君な、平日の昼日中にぶらぶらしてる学生がいたら、俺でなくとも声をかけたくなるぜ。ちゃんと学校へ行かないとだめだろ」
日瑠葉はすいと目をそらした。「すいませんでした」と小さく呟いている。
「まぁいい。じゃあ、本当にあの絵はネットを見て描いたんだな?」
「はい」
ふうん、と俺は唸ってしまう。どうも嘘くさい。
(すらすら流れるように喋りやがって)
まるで言い訳をあらかじめ考え、練習でもしていたようだ。
「もういいですか?」
家の中へ戻ろうとする薄い背を、俺はぎりぎり戸が閉まる前に呼び止めた。
「あともうひとつだけ。さっきの人は、君のお兄さんじゃなかったら誰だ?」
日瑠葉はちらりと振り返ってくる。
流すようにくれられた視線は鋭く険しい。まるで親の仇を見るような瞳だった。
「叔父です。もう来ないでください」
言うやいなや、ピシャリと戸が閉められた。
「……そうは言ってもな」
俺は頭をかきながら、日瑠葉の視線の意味を考えていた。
(ありゃ刑事に対する敵対心だ)
長らく刑事をしているとあの手の瞳を見る機会が多い。たいていは警察に捕まった犯人が自分たち刑事に対して浮かべるものだが、ときおり犯人の家族がああいう表情を浮かべることもある。自分たちの家族を犯罪者と知っていてそれでも、警察から隠さんとする者たちだ。
(やつは後者、だな)
鈍ることのない自身の勘がすぐに答えた。日瑠葉はどうみてもあの火事や殺人事件には関わりがない。
すると誰をかばっているのか。
日瑠葉がなにか事件に関することを隠しているという考えは、今や事実と同じくらい自らの中ではっきりしていた。
(問題はあの絵だ)
ネットを見ながら描いたと言ったが、はたして本当なのか。もし俺がネットを検索し、あの絵の構図と同じ写真が見つからなければ、それが日瑠葉を問い詰める契機となる。
俺は署に戻り、死んだ陶芸家に関するホームページを片端から洗った。
――もう終わった事件のことだ、犯人も捕まったのだから放っておけば良い。
俺がパソコンを覗きこんでいるのを見て、同僚の刑事たちは呆れ顔でそう言った。
彼らの半分以上が不愉快そうな顔で、なかには親切心からそう忠告してくれる奴もいた。
(いったん『解決した』事件を掘り起こされるのは気分が悪いだろう。ましてや、もう決まった答えに異議を唱えるのは、上にたてつくのと同じことだ)
けれどなにか納得いかないのだ。
根拠は自らの勘しかないが、それを無視することなんてできない。
そうしてネットを漁ること数十分、俺はようやくその写真を見つけた。日瑠葉が描いた絵と同じ構図のものだ。
陶芸家連盟に掲載された写真で、自宅で撮られたものだろう、仏頂面の青い作務衣姿の男性の背後に燃える前の室内の様子が映り込んでいる。
俺はそれと日瑠葉の描いた絵の違いを考えていた。
(ほとんど同じだ、けれどなにか違う)
日瑠葉の絵には被害者が描かれていなかった。代わりのように絵の中心には、ユリの花が一輪無造作に置かれていた気がする――しかしそれ以外にも、なにか差異があるような気がしてならない。
(どこか違う。なにか重要なものを見逃している……?)
結局、俺はその違いをその時には見つけられなかったのだ。