逢魔がときと藤木博士(ひろひと)
そのミニチュアの部屋は殺人現場にそっくりだった。
白いモルタルの壁紙、フローリングの床、丸テーブルと部屋内にはたくさんの観葉植物。
壁に年代物の掛け時計がつけられ、その針は「2時」で止まっている。
テーブルの上にはコーヒーカップがふたつ、湯気でも出しそうなリアルさで再現されていた。
「すごく小さいわね……」
本物と見まがうばかりの質感だ。触れればそこに液体があるように、また時計の針は今も動き続けているようにさえ思える。
改めてじっくり検分してみると、その細密さには舌を巻くばかりだ。
テーブルのそばへ屈みこみ、椎乙刑事もじっと小さな部屋の模型を検分していた。
日瑠葉が怠そうにソファーへ身を沈ませ、半眼で言った。
「小さいと言っても12分の1だけど。どうです椎乙刑事?」
なにか分かったかと揶揄するように聞かれ、椎乙は感心するように大きく頷いた。
食い入るようにミニチュアを見る刑事は、その表情が鬼瓦のようでなければ作品に魅入られているようでもある。目を輝かせ口を半開きにして、感嘆するような口調で言う。
「ああ、多くのことがな。しかし日瑠葉、相変わらずお前のミニチュアは下手くそだな。見ていて気分が悪くなるくらいだ」
私はぎょっとしてつい日瑠葉へ視線を投げてしまった。
けれど当の本人は気分を害した様子もなく、面倒くさそうに肩をすくめて「それはどうも」とこぼしただけだ。
なんとなく気まずくなり、私は慌てて言葉を継いだ。
「で、でも椎乙刑事。たしかにこれは、あの殺人事件のあった部屋にそっくり――というか、うりふたつですけど。だからって、この作品が事件解決の証拠になるとは私にはどうも、思えないんですけど」
たとえばこのミニチュアが、あの事件の部屋を仮に写したものだとしよう。
もしそうなら、それは日瑠葉があの部屋へ行ったことがあるというだけだ。それだけで日瑠葉を犯人として拘束するのは難しい。
(まあ、怪しいと言えば怪しいけど)
日瑠葉は被害者と顔見知りだったのかもしれない。
だとすると、他の捜査員たちが考える行き当たりばったりの「押し込み強盗」説は多少違ってくるのかもしれないが。
ちらりと日瑠葉を見ると、憮然とした表情でそっぽを向いている。
先ほどは急に倒れたから心配したが、どうやら本当に空腹だっただけのようだ。
青白かった顔はすこし健康的な赤みを帯びて、それでも私の目にはまだ随分と白く映った。全体的に腺病質でか弱そうなのだ。
ぼんやりとした私を呼び戻すよう、椎乙刑事が力強く言う。
「これは間違いなく、事件解決の鍵となる。前野、これはな――事件が起きたまさにその瞬間の部屋の様子なんだ」
「え――?」
どういうことなのだろう。
「こいつはな」と椎乙刑事は、日瑠葉をあごでしゃくった。
「なんでかそういう物を作っちまう。殺人が起きたまさにその瞬間の様子。それがこいつには見通せるってわけだ」
少しだけうらやむような口調に、日瑠葉は嫌そうに顔をしかめた。
「見たくて見てるわけじゃない。誰が好きこのんでこんなもの」
「いいじゃねぇか。俺は心底、おめぇがうらやましいぜ」
「だったらこんな力、お譲りしますよ」
「おう、くれくれ俺に。いますぐ寄越せ」
口をへの字にする日瑠葉と嬉々とする椎乙刑事の会話を、私は無理やりに止めた。
「あのちょっと、待ってください。あなた本当に? つまりこれは、事件が起きた瞬間の部屋を……」
にわかには信じられない。
まだ日瑠葉が被害者と知り合いだという方が数倍納得できる。
あるいは彼が、被害者宅を訪れたと考える方が自然ではないか。それに、もし本当に日瑠葉に「殺人現場を見ることができる」なんていう名探偵もびっくりの特殊能力があるのなら、腑に落ちないことがある。
「あなたが仮に、本当にそんなことができるとして。どうして警察へすぐに通報しなかったの?」
日瑠葉はますます嫌そうな顔になった。
椎乙刑事は私の反応を、心なしか面白がるように黙って見ている。
「僕はこれが誰の部屋で、どこかなんて知らない。犯人が誰かも、殺されたのがどんな人かも分からない。分かるのはそう――せいぜい三鷹市内だってことくらいだ。それなのに、どうやって警察へ通報しろと?」
「殺人が三鷹で起こったって、そう通報してくれればいいのに」
私は自分の発言したことをふと考えてみた。
それでどうなるだろう。いや、どうなっただろうか。
こちらの内心を読むように日瑠葉は鼻で笑った。
「誰が信じる、そんなこと。あなたがしたみたいに、逆に僕が疑われるだけだ」
そうかもしれなかった。
少なくとも私にはとうてい信じがたいことだ。
助けを求めるように椎乙を見ると、強面のベテラン刑事はしっかりと頷いた。
「前野、こいつは犯人じゃない。そしてこいつの才能は本物だ。俺は今までこいつに協力してもらって、事件のほしを上げてきた。お前にこんな話を完璧に信じろとは言わねぇ。だからひとつの可能性としてでいい、この模型を見てほしい」
(可能性――)
椎乙刑事の突飛な話には頷くことすらためらわれる。だけれど。
(もし『第六感』で事件を解決してきた椎乙刑事の秘訣が、このミニチュアにあったとしたら)
そんなこと、本当にあり得るのだろうか。
われ関せずと不機嫌に黙りこんでいる日瑠葉と、食い入るようにミニチュアを眺める椎乙刑事を交互に見てみる。
(良いわ。どうせまだ犯人のめぼしは立ってないんだし)
「わかりました。私は行きずり強盗の線を推しますが、まったく違う観点から事件を見てみるのも良いかもしれません」
そうして私と椎乙刑事は、その小さな模型の部屋をとくと鑑賞したのだ。
結果として、椎乙刑事との間で事件に対する考えは一致した。あくまでもミニチュア模型を信じた場合の、仮定の話ではあるが。
「ありゃ完璧な顔見知りの犯行だな。やっぱり俺の思った通りだ」
日瑠葉の工房を辞し、署へと戻る道を私たちは歩いていた。
陽はすでに落ち、辺りは暗くなりはじめている。
重々しく頷く椎乙刑事に、私はひとこと付け足さずにはいられない。
「あのミニチュアを鵜呑みにすれば、ですけど」
日瑠葉が作った模型の部屋は、それは見事なものだった。
白いモルタルの壁紙、置かれた観葉植物やテーブルの形、その材質までもが寸分たがわずに再現されていた。
ただそこには、現場で確認したのとは異なる点もいくつかあったのだ。
それが「顔見知りの犯行」だと椎乙刑事に言わしめた重要証拠だった。
「前野、お前も見ただろう。あのミニチュア――犯行当時の部屋には、飲みかけのコーヒーカップがふたつある。ところが、俺たちが見た現場には無かった。つまりカップは……」
「犯人が隠ぺいしたと? まぁ、もし本当に犯人が被害者の顔見知りなら、最近三鷹で起きている強盗殺人に似せようとして、自分の痕跡を消した可能性はありますが」
でもあくまでそれは、日瑠葉のミニチュアを本気にした場合の話なのだ。
日瑠葉はあの小さな模型を「事件の起きた瞬間の部屋だ」と言っていた。
『僕は殺人事件が起きたとき、その瞬間の場所を見てしまうんだ。いや、人の姿は見えないよ。その場所や部屋だけが見えるんだ――』
犯人は見えないのかと口を挟む私に首を振って、日瑠葉は説明してくれた。
『たいてい、夢の中でそれを見る。だからイメージが浮かんだとき、最初は自分が考え出したものだと思っていた。まさか現実のことだなんて思いもよらないし』
そうして日瑠葉が形にしたものを、偶然目にした椎乙刑事が気づいたらしい。
細かな経緯はぼかされたが、椎乙刑事が否定しなかったのでどうやら本当のことなのだろう。
(でも、そんなことって本当に可能なのかしら。現場にいたわけでもないのに、殺人の起きた瞬間を夢に見るなんて)
「椎乙刑事は、どうして日瑠葉さんが、その……彼を信用する根拠は何です?」
夕暮れの住宅街を歩いていると、どこからともなく焼き魚や煮物の香りが漂ってくる。
強面の椎乙刑事はそれをすんすん嗅ぎながら、なにかを思い出すように顔を歪めた。
凶悪な顔つきは逢魔が時なのもあいまり恐ろしさは倍増しで、今にも誰かに通報されてしまいそうだった。
「あいつに初めて会ったのは、まだ奴が中学生の頃だったなぁ」
「中学生? その頃からあんな風に彼はミニチュア模型を?」
「いんや」と椎乙刑事は首を振る。
「あの頃は絵だった」
「絵……」
そうして椎乙刑事から聞かされた話の中で、私はその男の名を聞くことになる。
藤木博士。
日瑠葉の叔父でただひとりの肉親、現在は行方知れず。
この時は「ふうん」と流したその話をもっと掘り下げていれば、後の事件は防げたのかもしれない。
少なくとも、日瑠葉がどうして「事件」のミニチュアを作り続けているのか、それについて考えを巡らせていたなら、もっと早くに私たちは凶悪なその犯人にたどりつけただろう。
けれど目の前の事件に気を取られ、私たちは他のことには無関心だった。
あるいは椎乙刑事なら、少し想像を働かせれば気づいたかもしれない。しかし彼はその並外れた勘に頼るくせがあり、自分の考える「真実」以外はどうでも良いと思う節があった。
つまり私たちは無関心だったのだ。
藤木博士にも、ましてや日瑠葉が何を考えているかなんて。
そしてそれこそ、「事件を未然に防ぐ」という刑事になくてはならない資質の、決定的な欠如だったのだ。