カオマンガイとミニチュアボックス
十分ほどもすると、太った禿頭の男が戻ってきた。その手に何やら大きなプレートが持たれ、料理皿がいくつか上に並べられている。
「お待たせしました。先生は?」
「いえ、まだ寝てますけど。あの、本当にこの人大丈夫なんですか?」
どこか具合が悪いなら、病院へ連れて行った方が良くないか。
私の至極当然な疑問に、太った男は「いえいえ」とあっさり答える。
「先生はいつものことですから。あ、申し遅れました。僕、五反田って言います。先生の助手として工房の手伝いをしてるんです」
五反田と名乗る男は、テーブルの上に運んできた料理皿を三つ、手際よく並べた。
白いプレートには、丸型に盛られたタイ米と柔らかそうな蒸し鶏、揚げ鶏と添え物のキュウリが載っていた。味つけに使うのか、小皿に盛られているのは見るだけで辛そうなチリソースだ。
一緒にどうぞと手渡されたのは、透明なカップにつがれたハーブティーだった。
カフェのお洒落なワンプレートランチみたいな様相になった。
私は目の前の美味しそうな料理皿をつい、のぞきこんでしまった。そういえばお昼をまだ食べていない。
「カオマンガイです。先生に食べてもらおうと思って仕込んでおいたんですけど、ちょうど昼時ですし。あの、もしよろしければ」
どうぞと、差し出されたプレートはいかにもおいしそうだった。
断ろうとして言葉につまってしまうほどには魅惑的だ。
(まぁ、今は『一般人』だし別にいいか)
「ありがたく頂戴します」
おずおずとスプーンとフォークを受け取ったとき、それまでぴくりともしなかった青年が唸り声をあげた。目をしょぼしょぼと瞬かせ、その視線がテーブルに並べられた料理へ向く。
「あ、起きました? 先生、今日はカオマンガイですよ」
しばらくぼんやりと料理皿を見てから、倒れていた青年はゆっくりと身をおこした。
手助けしようとした五反田に首を振り、頭を押さえて言う。
「写真を……」
あとは言葉にならないのか、黙り込んでしまう青年の手に、五反田はさっとスプーンを握らせた。
「はいはい、料理の写真なら撮っておきますから。早く食べてしゃきっとしてください。先生はいつも栄養が足りてないんだから」
五反田は携帯を取り出すと、料理皿を手早く撮影し始める。撮りながら私に気づいてにっこり笑った。
「あ、気にせず召し上がってくださいね」
「……そうですか。それじゃ」
遠慮なく、とスプーンで美しく盛られたライスを崩した。
ほんのりと鶏味がついたタイ米、そして蒸し鶏にチリソースを添え口に含めば絶妙な辛さが広がった。さほど手の込んだ料理にも見えないが、これほど美味しくなるのは作った人の力量が相当に良いのだろう。
私の称賛の視線を受け、五反田は満足そうだ。その目が、心配そうに青年の方へ向く。スプーンを握ったまま料理と睨めっこしていた青年は、ぼそりとつぶやいた。
「これは――食べるのが、おしい」
五反田は呆れたようにため息をつき「先生」と諭すような口調になった。
「仕事熱心なのもいいですけど、倒れたら肝心のミニチュアも作れないんですから。はぁ……こんなことならもっとぐっちゃぐちゃの盛り付けにしてくれば良かったですね。今度からそうしましょうか?」
それを聞いて、青年はようやく料理へ口をつけ始めた。黙々と食べていくそのスピードはすさまじい。
私はカオマンガイをついばみながら、シグマ刑事の期待に応えるため事件の情報を集めることにした。
「あの、ここにあるミニチュアって、全部おふたりが作られたものですか?」
工房の壁際には、たくさんのミニチュア作品が置かれている。
ケーキやお店、キッチンやガレージなど、本物の風景や物を寸分たがわず小さく再現したそれらは、どうやって作ったものかと思わず魅入ってしまうほどリアルだ。
ただ小さいというだけなのに、ミニチュアには不思議な魅力があった。
見ている者を引きずりこむようなリアリティは、感嘆以上に愛しさや衝動的な賛美の気持ちを引き起こすもののようだ。
五反田が人懐こく笑った。
「あれはほとんど教室の生徒さんたちの作品です。もちろん、僕と先生のサンプル作も置いてありますが。見学されますか?」
彼は私がミニチュアに関心をもつのが嬉しいようだった。頷くと、五反田は鶏肉を上品についばみうきうきと言う。
「教室の生徒はみんな優秀ですから見ごたえがありますよ。あそこに展示してあるものは、一見すると日瑠葉先生が作ったものと見分けがつかないくらい」
「ヒルバ?」
聞き返し、私はなんとなく向かいに座る青年の方を見た。
そういえばこの工房に入る前、表札に「日瑠葉」とあった気がする。
五反田が「あれ?」という顔をした。
「先生から聞いてません……? あ、そうか。ご紹介遅れましたが、こちらが日瑠葉先生です」
こちらと五反田のふくよかな手で示された青年は、やり取りを無視する形で料理に夢中になっていた。がつがつとライスをかきこみ、綺麗に空になったプレートを五反田へずいと差し出した。
「おかわり」
五反田は手慣れた様子でプレートにライスをよそいながら、新妻のように青年こと「日瑠葉先生」をたしなめている。
「先生、いつも言ってますけど、そうやって噛まずに食べるの良くないですよ。いっきに空っぽの胃に流し込むのも消化に悪いんですから。……すいません、何の話でしたっけ?」
後半は私に向けられていた。
「それでは、後ほど工房内の作品を拝見してもよろしいですか?」
「あ、ええもちろん。そんなかしこまらなくても」
「それと、奥の部屋にある作品も見学したいのですが」
それまでにこやかだった五反田の顔がひくりと強張った。
私は向かいの日瑠葉の様子も観察してみたが、彼は相変わらずよそわれたカオマンガイを無言でかきこんでいる。こちらの話を聞いているのかどうかすら怪しい。
五反田は眉を八の字にして笑っていた。
「あの部屋のミニチュアは、人にお見せするための物ではなく、ですね」
「随分とたくさんあるようでしたが、あれは五反田さん。貴方が作られたものですか?」
「い、いえ――あれは先生が」
「するとあの部屋のミニチュアは、すべて日瑠葉先生の作品だと?」
「はあ、そうです」
私のたたみかけるような質問に、五反田は禿頭をさすりながら答える。その視線は少しだけ泳ぎ額にはあぶら汗が浮いている。なにかある。がつがつとまだ料理を食べている日瑠葉を無視し、五反田を問い詰めることにした。
「五反田さん。あなたは一昨日の午後、何をしていましたか?」
「え、一昨日? 何をって」
「具体的に、どちらにいらっしゃいましたか?」
「おととい? 一昨日は……そうだな。教室があったんで、先生と一緒にこの工房にいましたけど」
「日瑠葉先生もご一緒に?」
「ええ。教室がある日はふたりともここにいますから。え、なんですか? これ、何の質問なんです?」
「いえ。ちなみにおとといの午後、あなた方ふたりがこの教室にいたと証言できる人は?」
五反田はぽかんと口を開けた。
「はは、なんだか警察の取り調べみたいですね――」
言ってから、その表情がぎくりとしたものへ変わる。私は核心の質問をする。
「あの奥の部屋の作業台にあった、ミニチュア。あれをじっくりと拝見したいのですが」
カチャン、と甲高く食器を置く音がした。
それまで黙々と料理を平らげていた日瑠葉が、綺麗に空になったプレートの上にスプーンを投げ出した音だ。気づけば睨むような黒目がこちらを見ている。
日瑠葉は低い声で唸るように言った。
「君はなに」
「え……?」
「どうしてあのミニチュアが見たいの」
私がどの作品のことを言っているのか、日瑠葉にはもうわかっているようだ。
あの奥の部屋、「制作室」にはたくさんのミニチュアが置かれていた。
それはノートサイズの箱の中に精巧に再現された小さな空間で、ガレージやリビング、お店などその種類も様々だ。
けれどなかでも気になったのは、作業台の上にある作品だ。
殺人事件の部屋とまったく同じ構図のミニチュア。
私の感心がそこにあると日瑠葉は一瞬で悟っていた。つまり日瑠葉は、あのミニチュアの元となった部屋で何が起こったか知っているのではないか。
私は日瑠葉の静かな視線を睨みつけた。
「見せてください」
「なぜ」
「私が刑事だからです」
ひぅ、と五反田が息をのむ音が聞こえたが、構わずに続ける。
「一昨日、三鷹市内で殺人事件が起こりました。あなたが作ったあのミニチュアは、殺人事件のあった部屋にうりふたつです。壁紙も床も、内装や家具の位置までそっくり同じでした。あなたはひょっとして……」
「先生は関係ありません!」
五反田がスプーンを派手に取り落とし叫んでいた。
鋭くそちらを見れば五反田は一瞬怯んだが、それでもかみつくように言う。
「お、おとといといえば先生は、教室で僕と一緒でした。そ、そうだ! 教室の生徒さんだって、先生がここにいたって証言してくれます。僕らのアリバイを証明してくれる人はたくさんいるし、先生はそんな事件になんの関係も――」
「もういい」
低い声がして、日瑠葉が片手をあげていた。
おろおろと視線をさまよわせる五反田をしり目に、日瑠葉は無表情にこちらを見ている。
「あれは人に見せるように作っているものじゃないんだ。悪いけどお引き取りを。五反田くん、彼女を外までお送りして」
そう言い、奥の部屋へ向かおうとするその背に、私は思わず立ち上がっていた。
「待ってください、素直に白状しないと後悔するわよ! あれをあなたが作ったってことが、どういうことか分かってるの!?」
日瑠葉はちらりと振り返り肩をすくめてみせる。
「さあ。どういうこと?」
睥睨するようだったその目つきが、なぜか次の瞬間に大きく見開かれた。
私が言葉を発する前に、後ろから低い男性の声がした。
「お前が重要な容疑者になるってことだ、日瑠葉心」
いつの間にやって来たのか、振り返ると工房の入り口に鬼のような形相の椎乙刑事が立っていた。
日瑠葉は突然に現れた椎乙刑事を冷たく見返し、うなるような声を出した。
「容疑者?」
「そうだ。おとといの殺人事件の犯人はまだ捕まってない。そこへ来てお前が、現場の様子をなぜかつぶさに知っているとなれば――現場へ行ったことがあると疑われても仕方ねぇ。事情がどうあれ、素直に捜査に協力するのが身のためだと思うがな」
日瑠葉は無表情に椎乙刑事を見たあとで、ぴしゃりと言う。
「椎乙刑事。『これで最後だ』と、前回おっしゃいましたよね?」
「事情が変わった。そこにあると知っちまったもんは仕方ねぇ」
ちっと舌打ちを落とし、日瑠葉は奥の部屋へ足早に引っ込んでしまう。
私がどうしたものかと声を出す前に、それまで成り行きを見守っていた五反田が慌てた風に小声でささやいてきた。
「椎乙さん、困りますよ……! ここへ来るのは日瑠葉先生がいないときにしてくださいって、いつも言ってるでしょう!? 先生を疑ってるってどういうことなんです!?」
「いや、本当に疑ってるわけじゃねぇ。すまん、奴の協力がどうしても必要なんだ」
「またそんなこと言って! だって、あの部屋のミニチュアを先生は」
「あ、あの……すみません、お二人は知り合いなんですか?」
私は割り込むようにしてついそう言葉を挟んでしまった。
どうやら椎乙刑事は五反田だけでなく、日瑠葉とも顔見知りのようだった。できるなら私にもどういうことなのか事情を説明してほしい。
五反田が弱り果てた顔なのに対し、椎乙刑事は強面を心なしかゆるめ、満足げに頷いている。
「まぁな。ここへはちょくちょく遊びに来てる」
「え、椎乙刑事がですか?」
「なんだ。悪いか?」
強面で思い切り凄まれてしまえば、それ以上かえす言葉がない。横で五反田が顔を真っ赤にして叫んでいた。
「悪いですよ! あなたが来るだけで日瑠葉先生、良い顔なさらないのに! 僕いつも先生とバッティングしないよう、気をつかってご連絡してるでしょう!?」
「すまんな」
あっさりと返す椎乙刑事になおも言いつのろうとして、五反田ははっと口をつぐんだ。
奥の部屋から日瑠葉が、ミニチュア作品を両手にかかえ戻ってきたからだ。日瑠葉はしらりと五反田を見ている。
「……へぇ。五反田くんは僕より、椎乙さんと仲良しみたいだね」
「あ、あいえ、違います! これはその」
「別に良いけど――椎乙刑事、約束してください。もう本当にこれで最後だと」
カタリ、と日瑠葉は木製の箱をテーブルへ置く。椎乙と日瑠葉がにらみ合うように互いを見て、一瞬だけ部屋に沈黙が流れた。
「わかった、これで最後にしよう。とにかく、そういうことだから……前野、ちょっとこれを見せてもらって、すぐに帰るぞ」
「あ……はい」
椎乙刑事の「そういうこと」がどういうことか分からないが、私はとりあえずそのミニチュアを検分することにした。