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フィナーレ

 季節は夏の盛りをむかえようとしていた。

 いつか見たように蝉の亡骸がポロポロ目につくようになり出したとき、椎乙刑事と前野が工房を訪ねてきた。

「よ。これ、土産な」

 椎乙刑事に差し出されたのは、銀座にあるフルーツパーラーのケーキだ。

 それを受け取り五反田へ渡せば、彼はものすごくうれしそうな顔をした後で、うかがうようにこちらを見てくる。

「ちょっと休憩して食べようか。せっかくだから」

「あ、じゃあ僕、お茶を持ってきますね! ちょうど良いフルーツティーがあるんです」

 うきうきとケーキの準備をしに行った五反田を視線で追っていると、椎乙刑事のうしろで前野が室内を見回し残念そうに言う。

「本当に行かれるんですね。ヨーロッパでしたっけ?」

「ええ」

「おい、電話はつながるようにしておけよ」

 睨むようにそう言った椎乙刑事の意図するところはわかっている。

 あれから博士さんはまだ見つかっていない。

 警察が全力で探しているその捜査の目を、透明になったかのようにすり抜けている。

 椎乙刑事は彼が僕にコンタクトをとってくるとでも思っているのだろう。

(でもそれはあり得ないことだ)

 あの夜を境に、博士さんの中から僕はもはや「家族」ではなくなってしまった。

 そのことに最初は絶望したけれど、人間というのはとことんタフにできていた。

 無気力で死人のようだった僕を根気づよく励ましてくれたのは、やっぱり頼りになる助手の五反田くんと、定期的に足を運んでくれた椎乙刑事、それに前野刑事だった。

 僕はときに死んだように眠り与えられるままに食事をして、工房の奥の「制作室」で自分のつくったミニチュアをぼんやりと眺めて過ごした。

 五反田くんは僕の教室をなんとか続けようとしてくれたが、そのうち生徒に事情を説明し、しばらくの間休講とすることになった。

 椎乙刑事は時おりやってきては恫喝したり諭したりと、取調室で犯人を説得するように僕にいろいろ話してくれた。そうして彼女は――。

 目が合うとすいと逸らされる、その顔がいつものように申し訳なさそうなので、しかたなく言うことにした。

「べつに前野さんのせいじゃありませんよ。僕が教室を休む間、五反田くんが続けてくれるわけだし。ちょっと旅行をするだけです」

 工房の中はすっきりと片付けられている。

 教室をたたむわけではないが、これを機に僕は自分の作品を大幅に整理することにした。壁際に飾っていた作品で気に食わないものはすべて処分した。五反田くんに泣いて「捨てるなら譲ってくれ」といくら頼まれても、今度ばかりは折れなかった。捨てたところを拾われても困るので、完膚なきまでにハンマーで叩き潰し、きちんと分別し処分してある。

(あの「制作室」の中のミニチュアも全部処分した)

 いままで捨てようとして捨てられなかったものを一心不乱に整理し、ひどくすっきりとしてしまった部屋を見回して、僕は今回の旅にでることを決めたのだ。

「戻ってきますよね?」

 おずおずと聞いてきた前野の横で椎乙刑事がその頭をはたく。

「当たり前だろ。気分の悪いこと言うんじゃねぇ」

「っ、私の頭を、叩いた……!」

 なぜか愕然とする前野と椎乙刑事は、案外良いコンビに見える。

 僕はすこしだけ見た目が完璧に見える彼女のことを博士さんに似ていると心配していたのだが、彼女は博士さんとは違いずいぶんと人間らしく、僕なんかが気にかける必要はなさそうだ。

 きっと椎乙刑事がそばにいることで、彼女はますます良い影響を受けるだろう。

 そうこうしているうちに五反田が戻ってきて、見事に淹れたアイスフルーツティーとカットしたケーキをそれは美しく机の上に並べはじめる。

 嬉しそうに写真を撮る五反田は、ミニチュアに対する愛情であふれている。スイーツや可愛いもの、食べ物などに関心が大きい彼なら、人を和ませるミニチュアがたくさん作れるはずだ。

(僕は安心して旅立てる)

 そうして四人で他愛ない話をして美味しくケーキを食べ、笑いあえていることが不思議だった。

 僕はあっという間に回復していた。

 まるで博士さんの一件がなかったように、あっさりと振る舞いながら――……。




 空港へ向かう日の朝、僕はスーツケースを引き、澄み切った青空の下を歩いていく。

 アスファルトの上をざりざり転がるキャスターを引っ張って、僕は最後に三鷹のあの家に寄っていくつもりだった。

 あれから博士さんの行方は杳として知れない。

 最初は僕に連絡をとってくるだろうと警戒していた警察も、そのうち数をへらして、しまいには目につかなくなった。もしかすると見張られているのかもしれないが、それは無駄な努力となるだろう。

 博士さんはたぶん、生きている。

 だけどそうじゃないと気づいてあげられなかったのは、僕の方だったのだ。

 一輪だけ花屋で包んでもらった白ユリの花を手にして、あの家の前で足を止めた。

 博士さんはもうずっと、生きていなかったのだ。

 僕ができることは、ただその胸へナイフを振り下ろすことだったのだろう。

 たぶん、彼もそれを望んでいた。

 けれどそれは無理だったのだ。

 カサリと、風が玄関の前に置かれた白い花束のビニールを揺らしていた。

 それを見て息をのむ。

 そこに置かれてあったユリの花束は、僕がくる前に誰かがここへ置いていったものだ。

 白いカサブランカが十本、風に揺れて芳香を運んでくる。

 かすかな予感があった。

 僕はそっとしゃがみこみ、花束に添えられていたメッセージカードを開いてみる。

 互いに互いが寄りかかり、相手を認めずに幻想を描いていた。

 僕と博士さんの「家族」の定義は異なるし、それぞれに求めていたものも違ったのだ。

 ただ重なり合う部分だけを投影しあい、共同生活を送ってきただけ。

(まるで僕がつくり出したミニチュアみたいに)

 受け入れられない感情と現実を都合よくずらし重ね合わせて、お互いに欲しいものを手中にした気になっていただけだ。

 端から相手のことなんて、考えてもこなかったのだろう。

 花束に添えられたメッセージカードにはただひと言、

『楽しかったよ、心』

 僕はそれを読み、メッセージカードだけを抜きとる。

 横へ自分が持ってきた白ユリをそっと添えておく。

 僕からは一輪、博士さんからは十本の手向けの花だった。

「僕も楽しかった。あなたと過ごした日々はたしかに、幸せでした」

 また会える日があるかどうかはわからない。けれど会えた日のために、たくさんの言葉を用意しておこう。

 なにもあげられなかった僕が、博士さんに何かを伝えられるように。

 澄み切った青空に強い風が吹いている。

 白ユリの芳香が、たしかに存在していた過去の幸福な日々をとむらい、そっと僕の背を押してくれた。


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