アンビギュアス
夜、ひとりで訪れたかつての自宅はひどくうすら寂しく思えた。
表札に「藤木」とあるその家は、僕と博士さんが数年の時を過ごした場所だ。
今でも時間があるときには足を運び、掃除や換気を欠かさずしている。
(いずれまた一緒に暮らせるかもと、そう思っていたから)
鍵を開け、電気は引いていないので懐中電灯で照らしながら室内へ入る。
廊下を進むと、見慣れた台所とダイニングがあった。
当時使っていた家具はそのままなので、クリーム色の食卓や椅子、食器棚なんかも見慣れた配置で鎮座している。
少しだけ埃っぽい台所の空気は、洗い場の窓からの月光に照らされ幻想的に輝いていた。
(ここは時が止まったみたいだ)
見渡してみれば思い出ばかりだった。
このクリーム色の食卓で、僕は毎日博士さんとご飯を食べた。
小さい頃には博士さんが料理をしてくれ、僕が大きくなってからは交代で作るようになった。それこそ僕がまだ料理のりょの字も知らないころに、ここで一緒にお菓子作りをしたこともある。思い出すのは彼の笑顔ばかり。
(あの頃は何も分からず、幸せだった)
博士さんは間違いなく僕の育ての親だ。
父の威厳も母の愛情も知らぬ自分に、ふたり分の誠意をもって接してくれた。
たとえそこにどんな意図があり、彼が何を考えていたとしても、そのことを感謝こそすれ恨むことはありえない。
(だから――)
カタリと音がして僕は顔を上げる。
「やぁ、心」
博士さんが変わらぬ笑顔で台所の入り口に立っていた。
まるで音を忍ばせるように、気配を消して現れた姿にけれど、僕は心底ほっとした。
「来てくれたんですね」
「当たり前だろ。きみが電話くれたんじゃないか」
月明かりしかない台所で博士さんはやはり神々しくみえる。
やわらかにウェーブする髪、品よく端正な顔立ち、優しげに笑む目もと――その目がぐるりを見渡し丸くなる。
「へぇ、懐かしいね。全然かわってないや」
彼はテーブルの前を素通りして、空の食器棚を興味深そうに開いた。
「博士さ……」
「あ。そういえば今日さ、学校の先生に聞かれちゃったよ。心と僕が兄弟かって。昔はよく親子に間違えられたけど、心も大きくなったから――やっぱり、顔が似てるのかもね」
博士さんは振り返らずにクスクス笑っている。
いつもと変わらぬ無邪気な機嫌のよさに、僕は思わず言葉をのみこんでしまった。博士さんは声に笑みをのせてしゃべり続ける。
「そういえばさ、見たよ。心が載ってる雑誌のインタビュー記事。びっくりしたなぁ……昔はこーんなに小さかったのに。いっちょ前に工房をもってお弟子さんまでいるんだって? 大きくなったよね」
なにも言えずにいるこちらを博士さんは振り返ってくる。
彼はうっすらと笑っている。
黒瞳に宿る影は、完璧な存在がいろんなことを表裏一体で含んでいることの典型だ。
つまり善と悪。正しさと過ち、優しさと残酷さだ。
「本当に、心は大きくなった」
それが間違いであったかのように言われて、僕はひるむ心を奮い立たせる。
「僕はあなたのことを家族だと、今でもそう思ってます」
この世でたったひとりの僕の家族。
僕をすくい上げ、幸せな時を与えて、そして無情にも捨て去った。それでもこの十年、あきらめきれなかった唯一の家族だ。
博士さんはあっさりと笑う。
「僕も心のことは、大切な家族だと思ってるよ」
その答えは十年前と変わらない。眼差しもやさしさも、態度や笑みも同じなのに僕は息苦しくなる。
「あなたが」と自分の口から出た声は震えてしまった。
「やってきたことを、ずっと考えないようにしてきました。関係ないと思いながら僕は、あなたが殺した誰かの最期の瞬間を絵に描き、けれどそれを無視してきた。自分の幸せの方が大切だったから」
怖かったのだ。
失うことも変わることも、指摘することもずっとできなかった。
一番に聞きたいことを聞けないまま、自分の幸せのためだけに生活してきたのだ。
「ふうん? いいんじゃない」
博士さんは軽い口調でうなずく。
「心は悪くないよ。だって君には本当に関係ないことだったんだから。前にも言ったよね。僕がやったことで、きみがさいなまれる必要はないって」
そうだ。博士さんにもらったその言い訳に僕はずっとしがみついていた。
もっときちんと、ちゃんと向き合うべきだったのだ。
(たとえ彼にとってそうでなくとも、僕にとっては家族なんだから)
「関係なくは、ありません」
博士さんは口をつぐむ。その顔から微笑みもゆるゆると引いていく。
無表情で平坦、判別するような黒い瞳を、震える拳を握りしめしっかりと見返した。
「これを――見てください」
机の上にあらかじめ置いてあった箱から布を取ると、その下から僕が作ったミニチュアの部屋が現れた。小さな木箱の中に再現されているのは、三鷹第二中学校の教室だ。教室の真ん中には白ユリの花がぽつりと置かれている。
「あの自殺した生徒。本当は自殺じゃなくて、博士さんが殺したんですよね?」
博士さんは答えない。ただぼんやりとミニチュアを眺めている。
僕はからからの喉で、まとまらない頭でとどめていた疑問を口にした。
「彼女だけじゃない。あなたは今までたくさんの人を殺してきた。僕はあなたに救われたけど、それ以外にもあなたは人を殺してきた」
それはどうして。
単純明快な善悪以外の理由で、いっそ無差別とも思えるほどの残虐さを、どうしてこんなに優しい人が持ちえるのか。
なにかわかりやすい理由があればいい。
病気だとか人助けだとか、あるいはよくあるスパイ映画みたいに、どこかの組織に属していて仕事で手を汚すのだとか、そんな眉唾話だってかまわない。
どんな理由であれ博士さんの口から説明されれば、僕はそれを信じるだろう。
けれど彼は口を閉ざしたままだった。
「どうして――……」
うつむく僕の視界には机上のミニチュアが見える。そこに置かれた白くて小さなユリの花が恨めしくて仕方ない。博士さんはなぜそんなものを殺害現場に残していくのだろう。あれさえなければ、彼の事件の足跡に気づくこともなく、何も知らぬまま幸せであれたかもしれないのに。
いっそなにも知らなければ……博士さんが人を殺したのは僕の両親のときの一回だけで、その後はなにもしていないのだと思えたらよかったのに。
顔が熱い。目に血液が集中し焼けていくようだった。
コントロールをとっくに失った感情が、体に正しい反応を起こさせようとしている。
呆れたようなため息と、苦笑の滲む声が現実離れした空間のなかに聞こえてきた。
「心は食事をするのに『どうして』って考えるの?」
「え――?」
「眠ったり息をするのに、理由なんて考えないだろ」
そういうことだよ、と博士さんは無邪気に笑う。小さい子をさとすように言われた内容は、僕が心底おそれていたものだ。
理由なんてないのだ。たぶんこの人は、そういう風にできている。
「僕はね、心のことを本当に家族だと思っていたんだ。楽しかったよね……この家で、なんの気兼ねもなく過ごした日々は」
「どうして、僕によくしてくれたんですか?」
博士さんは吹き出した。
懐かしむように周囲を眺めながら、少しずつこちらへ歩いてくる。
「べつにきみのために何かしたわけじゃない。僕は自分のため、きみとなら楽しくやっていけるだろうと思ったからそうしただけだ。もちろん、今日みたいな日がくるんじゃないかって想像はしてたよ。きみには才能があったから」
「才能……?」
ゆっくりと近づいてくる博士さんから、僕は自然と距離をとる。
彼は僕を殺すだろう。僕のことを家族だと告げたその口で、なんのためらいもなくたぶん一瞬で。
「きみには、殺人事件の起きた場所が見える。気づいていたかな……心が見るそれは、現実の距離も関係しているんだ。君がいる場所から近いときには鮮明に、遠くなればほとんど見えないみたいだ。小さいときから僕はずっと見てきたから、ひょっとするときみ自身よりも僕の方がくわしいんじゃないかな」
テーブルを挟み回るように、じりじりと後退する僕を見て博士さんは笑っている。
「最初はね。心のことも殺してしまおうかと思った。でも何回か会っているうちに、よく似た僕らならうまくやっていけるんじゃないかって、本当にそう思っていたんだ――だから心が思っているみたいに、僕はきみのことをなんとも思ってないわけじゃないんだよ」
「だったらどうして、突然消えたりしたんですか」
ある日消えてしまった彼を探して、僕がどれだけ苦しんだことか。
僕のせいだったのか、それともまったく無関係な理由で姿を消してしまったのか、それすらもわからないまま、夢に見たミニチュアをつくる日々がどれほど苦痛だったか。
博士さんは首をかしげた。
「そんなの、心が大切だったからに決まってるじゃないか。僕はきみを殺したくなかったんだ」
こともなく言われたそれに、ひゅぅと喉が鳴る。
大切だと告げたその口で同時に殺すと言う。この人にとってはそれが同じ価値なのだ。
生も死もその線引きが曖昧で、簡単にそこを飛び越えてしまう。
「あの時、距離をおけばきみが何か変わってくれるんじゃないかと思った。また前みたいに、余計なことは考えずに暮らしていけるんじゃないかって。だけど中学校で再会したとき、もうそれは無理なんだって確信したよ。心がこれ以上僕に関わってこなければ、それでも放っておくつもりだったんだ」
「もう、止めにしませんか?」
彼は悲しそうだった。
いつの間に取り出したのか、その右手に無骨で禍々しいナイフがしっかりと握られている。
僕になにができるだろう。殺される前に、博士さんにしてあげられることは何だ。
「止める? やっぱり何もわかってないんだね。だけどそんなきみだから、今まで一緒にいられたのかもしれない」
「僕のことは好きにしてくれていいです。だけどあなたは……こんなことを続けていれば、いずれあなたが」
「警察に捕まる? それとも、僕も他の誰かに殺されるかな。どうだっていいよ、そんなこと」
「博士さ、っ……!」
「僕はもうずっと、死にたかったんだから」
後じさっていた足がもつれ僕がバランスを崩した、その一瞬で充分だった。
頭上に振り上げられるナイフ、僕は動けない。
その刃先がスローモーションのように僕の胸へ向かってくる。
月の光を受けてぎらつく刃、それを握る博士さんの手。
相手は歯をかみしめ、蒼白な顔でこちらへ突進してくる。
その瞳が見たこともないくらい悲愴だったから、僕はすこしだけ泣きたくなった。
嘘ではなかったのだ。
すくなくとも僕らが共有した時間に感情はあった。
目を閉じる暇もなかったけど、瞬間的にいろんなイメージが押し寄せた。
工房でミニチュアを作っていたときのこと、博士さんと一緒に過ごした家のこと、それからはじめて会った日の縁側でのこと――。
『きみを自由にしてあげられるよ』
(ああ、やっぱり僕にとっては)
それは奇跡みたいに素敵なできごとだった。
「止まれ!」
博士さんはピタリと動きを止めた。その刃先はわずかに僕に届かない。
振り返る彼の肩越しに僕は台所の入り口を見る。そこに銃を構えた椎乙刑事が立っていた。
「藤木博士、お前を現行犯で逮捕する!」
一瞬だった。
なにが起きているのか判断できない僕をおいて、博士さんは瞬時に踵をかえし台所の裏口から出て行く。外から誰かの鈍い悲鳴が聞こえて物が倒れる音がした。
「ちぃっ、前野ぉ!」
「はい!」
言うが早いか、椎乙刑事は巨体を驚くほどの敏捷さで動かして自身も後を追っていった。
茫然と立ちすくむ僕の前に見慣れた顔が近づいてきた。
「大丈夫ですか?」
心配そうに僕に傷がないことを確かめている彼女は、複雑な表情をしていた。
どうして、と声にならずに見つめると、彼女は答えてくれた。
「あなた方をつけていました。ごめんなさい、でも証拠がなかったので……現行犯なら言い逃れはできないだろうと、椎乙刑事が」
まさかこれほど早くに行動するとは思わなかったと、彼女は苦しそうに言う。
それは彼らにとっても賭けだったに違いない。
博士さんだって警察がうろつくなか、ましてや僕のような存在がいるなかで事件を起こせばどうなるかくらいわかっていただろう。
けれど椎乙刑事は賭けたのだ。
十年ぶりに博士さんが現れたそのタイミングと、僕という存在を撒き餌にして見事にその瞬間を逃さなかった。
「私は、日瑠葉さんが彼を説得してくれることを望んでいました。けれどあなたは、あんな風に簡単に自分の命をさしだした」
「無理だよ。僕には……」
ずるずると、力が抜けてその場にへたりこむ。
壊れてしまった。
僕のすべてが、今までの世界が、博士さんとのつながりが。
「日瑠葉さん」
気づかうように屈みこんできた彼女を見上げて、僕は震える息を吸う。
はっ、と吐き出せば、潤む視界から涙がこぼれていった。
「もう、無理だ……こんなことなら、っ……」
いっそ殺してくれれば良かったのに。
いつでもよかったはずだ。
はじめて会ったときでも一緒に暮らしていた時でも、彼にはそれができたのに。
博士さんはもう帰ってこない。
たぶん僕は、人生で一番かけがえのないものを失った。
これからどうすればいいのか。どうやって息をしていけばいい――?
ずっと彼を探して、いつかまた一緒にと思いそのためだけに生きてきたのに。
(無理だ。僕にはもう)
パン、と乾いた音がした。
「いい加減にして!」
頬を張られたのだ。
衝撃にゆるゆると視線を前へ戻せば、彼女はボロボロと泣いていた。
どうして彼女が泣くのだろう。僕と博士さんのことには関係がないはずなのに、彼女の方がずっと痛そうだった。
「あなたに言いたいことは山ほどあるわ! もっと早くにできたことや救えたものがあったはずなのに……! けれどあなたがそれを無視したとか無関心だったとか、許せないけどもっと、それ以上にっ――簡単に死のうとするなんて許さない!」
僕はぼんやりと彼女の泣き顔を見ていた。
左右対称の完璧な造形が、いまは怒りと涙で崩れてしまっている。けれどその表情が今まで見た中で一番うつくしく思えた。
「許さないから――! あなたはこれからちゃんと生きて、罪悪感にさいなまれながら、幸せを感じることがあるたびに思い出すのよしっかりと。あなた達がないがしろにしてきた物の価値や意味を忘れちゃだめ、逃げちゃだめ」
遠くでサイレンの音がしている。
僕の前で息をきらせている彼女を、月がほんのりと照らし出している。
受け入れられない、すべてが壊れてしまった現実の前で、彼女はただ「生きろ」と言う。
僕は答えられなかった。
ただ残酷なほどに綺麗なこの夜のことを、死ぬまで忘れられないだろう。
その日が今日でないことはたしかなようだ。