前編
「じゃあ今日は、幻覚魔法の特訓をしてみよっか」
強くなると誓ったあの日から、瑠阿はメアリーから魔法のレクチャーを受けている。
「瑠阿は幻覚魔法を使った事はある?」
「最近練習を始めたわ。でも、四回に一回成功すればいい方よ」
なるほど。使った事自体はあるが、成功率は低いらしい。なので、メアリーはレクチャーをする。
「幻覚魔法は、名前の通り相手に幻覚を見せる魔法。幻術ともいうね。そしてこの魔法を成功させるには、見せたい幻覚をより鮮明に、頭の中に思い浮かべる事」
どんな幻覚を見せたいか、それをはっきりさせなければ、この魔法は発動しない。
「やってるわ」
「出来てるように思えて、実は出来てない。簡単な事じゃないからね。そうだなぁ……妄想、って言うと気分が悪いから、空想って言おうか。誰もが頭の中に思い浮かべる、あったらいいなっていう願望の世界。その世界を相手の頭の中に押し付けて、精神を引きずり込む」
「押し付けて、引きずり込む……」
「そう。じゃあちょっとやってみせようか」
どうもイマイチわからないようなので、メアリーが瑠阿相手に使ってみる事になった。
「……ん?」
と、ここで瑠阿は気付く。
今の話を聞いている限りでは、今からメアリーは、自分が瑠阿に対してしたいと思っている事を見せるという事になる。
瑠阿の事が、恋愛的にも性的にも好きなメアリーが、思い浮かべる事。それをやらせたら、絶対にまずい。
「ちょ、ちょっと待ってメアリー!!」
慌てて制止しようとする瑠阿だったが、もう遅い。メアリーが指を鳴らした瞬間、瑠阿の意識は暗転した。
その直前に見たメアリーの顔は、子供が悪戯を企んでいる時のような、とても楽しそうな笑顔だった。
「ん……」
目を覚ます瑠阿。次に、自分の身体を見る。
「な、何これ!?」
気付けば、瑠阿はとても大きなストロベリーパフェの上におり、両腕と背中とお尻が、クリームの中に埋まっていた。足はグラスのふちにかかっている為、こちらは無事だ。
「う、ううっ……!!」
抜け出そうともがくが、このクリーム、非常にネバネバとしていて、身体が抜けない。足に力を入れて、立ち上がるように引っ張っても、すぐ引き戻されてしまう。
「抜、け、ない……!!」
「動けないでしょ?」
もがいていると、瑠阿の前に巨大なメアリーの顔が現れた。
「ようこそ、僕の空想の世界へ」
「あ、あなた、いつもあたしに対してこんな事考えてたの!?」
「もっといろいろ考えてたんだけど、今は瑠阿の事を食べたくて仕方なかったから、こんな空想を思い浮かべました」
「い、いろいろって……!!」
パフェに乗せたいというのは、もちろん喩え話だろう。前に瑠阿の血は甘くて美味しいと言っていたので、どうせ食べるならその甘さをもっと堪能する為に、ぐらいの感じだ。
それより、これ以外にもいろいろ考えていたという事に、瑠阿は貞操の危機を感じた。
「さて、これから君はどうなるでしょうか?」
「……くぅっ!」
メアリーから質問されて、瑠阿は再びもがき出す。これは、パフェに乗せたいという空想、いや、妄想。だがそれを、幻覚という形として、メアリーは瑠阿の頭の中に具現化させた。
そして、今瑠阿はパフェの上にいる。なら、このあと何をされるか、わからない馬鹿はいない。
「取れないっ!」
それなのに、どんなにもがいても、瑠阿を包むクリームは離れなかった。ネバネバベトベトとくっついて、伸びた部分をにちゃにちゃと引き戻す。
「取れるわけないじゃん。そのクリームは、瑠阿を逃がさないようにって意図も込めて作ったんだから」
クリームの上に乗せられれば、普通は逃げる。だから、逃げられないようにクリームをネバネバにした。そうなるよう、メアリーが思い浮かべた。
「じゃあ、いただきま―す」
「や、やめてぇぇぇぇぇぇぇ!!」
メアリーが大きな口を開けて迫る。瑠阿はそれから逃げようともがき続けるが、無駄な抵抗だった。
「ああっ……あっ……?」
気が付くと、瑠阿はベッドの上に横になっており、パフェも大きな口も、どこにもない。当たり前だ。幻覚だったのだから。
「わかった? これが幻覚魔法だよ」
隣には、微笑むメアリーがいる。なぜか、頬がつやつやしている気がするが。
「相当気持ちよかったみたいだね。首筋から血を吸われても気付かれないくらい」
そう言われて、瑠阿は首筋を触った。確かに、牙を突き立てられた感触がある。このダンピール、幻覚を見せながら吸血していた。
「どさくさ紛れに何してるのよ!?」
「授業料をもらっただけさ。それより、僕の幻覚魔法を受けた感想は?」
「……幻覚だってわかっていたはずなのに、解けなかった。わかっているなら、幻覚はすぐに解けるって、母さんから習ったのに」
「ただ気付くだけじゃダメだよ。相手の支配力を上回る意思の強さではね除けないと、幻覚は解けない」
今回はメアリーの支配力の方が強かった。だから、幻覚だとわかっていても、あの世界は消えなかったのだ。
「じゃ、僕相手に実践してみよっか」
「無理よ!」
瑠阿は拒否した。
「どうして? さっきみたいな事をやり返せばいいじゃないか」
「あたしはあなたみたいな変態じゃないの!! あんな妄想をするなんて無理よ!!」
「妄想じゃないよ。空想だよ」
「どっちも同じよ!!」
自分がさっきの幻覚で感じてしまっていた事、気持ちよくてもっとやって欲しかったと思っていた事を認めたくなくて、というのもあり、大声で拒否する。
「これは時間が掛かりそうかな」
「何であたし勝手に失望されてるの!? 普通に考えておかしいでしょ!!」
「とにかく、幻覚魔法の解き方だけ先に教えておくよ。自分を空想の世界に引きずり込もうとしてると感じたら、全力ではねつける事。僕の変態度云々は抜きにしても、幻覚魔法は本当に危険な魔法なんだ」
あまりに鮮明で、脳に強く刷り込まれた幻覚は、実際の感覚として脳に作用する。脳に作用すれば、影響が身体にも現れる。
全身を業火で焼かれる幻覚を見せられて、それが本物だと完全に思い込んでしまえば、本当に身体を焼かれてしまうのだ。
「異端狩りの中には、相手が幻覚の中で狂い死にするのを見るのが好き、なんてやつもいるんだ」
異端狩りは、そのほとんどが術使いだ。中には当然、幻覚魔法を使ってくる者もいる。そういう異端狩りを相手にした時、対策を用意しておかなければ、瑠阿は父よりも惨い死に様を晒す事になるだろう。
「じゃあそういうわけで、まず幻覚魔法を解く事から始めよう。また君を、僕の世界に招待するね」
「ええっ!?」
瑠阿の返答を待たず、メアリーがまた指を鳴らす。
(もう嫌ぁ……)
そう思いながら、瑠阿の意識は暗転した。
☆
「あはははっ! あんたも大変だねえ」
「もう、笑い事じゃないよ……」
翌日、瑠阿から昨晩の特訓の話をされて、真子は笑っていた。
「他にもいろいろ幻覚見せられたんでしょ? 愚痴を吐くついでに教えてよ」
「……嫌です」
真子からさらに幻覚の内容を訊かれて、瑠阿はじとっ、とした目で真子を睨み付けてから、拒否した。あまりに恥ずかしすぎて、とても口に出来る内容ではない。
「で、あんた特訓の成果は?」
「全滅。メアリーの魔法、強力すぎて全然抵抗出来なかった」
何度やっても幻覚は解けず、腹いせとばかりに瑠阿からも魔法を掛けようとしてみたが、二回しか掛からず、どちらも一瞬で解かれてしまった。
「ふーん……魔女のあんたから見ても、やっぱりメアリーさんって強いんだ?」
「強いなんてものじゃないわ。あんな力のある魔女、見た事ない」
メアリーの魔力の強さは、はっきり言って規格外だった。青羅よりも強く、しかもまだ力の底が見えない。
「でもさ、メアリーさんに守ってもらえるなら、あんたも安全でしょ?」
「……まぁ、そうだけど……」
真子の言う通りだ。異端狩りでも、メアリークラスの魔女に対抗出来る者は、そうそういない。今のところは。
もっと強い異端狩りがしゃしゃり出てくる前に、瑠阿は強くならなければならない。
「今がチャンスだよ。頑張れ頑張れ」
「……他人事だと思って……」
真子が言っている事は間違いではないのだが、今夜もまたあんな幻覚やこんな幻覚を見せられるのだと思うと、瑠阿は気が重くなった。
☆
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
放課後、二人は帰宅した。
「魔女って大変だな~。私も何かしてあげられるといいんだけど……」
魔女としての修行は、瑠阿が自主的に行っているものだ。しかし、真子の為でもある。それがわかっているので、何か瑠阿が喜ぶ事をしてあげたい。
何をすれば喜ぶだろうか。やっぱり、甘くて美味しいものをあげたら、喜ぶだろう。あのケーキ屋で、ケーキを一つ買って持っていってあげようと、真子は思った。
その時だった。
――こっちにおいで……――
真子の頭の中に、女性の声が響いた。
「えっ……?」
振り向いてみると、周りには誰もいない。
――こっちにおいで……――
また声が聞こえた。今度は前を見てみる。
「うふふふ……」
「!?」
そこでようやく、声の主が判明した。全裸の女性が宙に浮かび、真子に笑いかけているのだ。
なぜか声が出ない。なぜか恥ずかしいと思えない。なぜか、足が勝手に動く。
「あ……」
虚ろな目で近寄ってくる真子を、女性は優しく抱き止めた。
「!!」
魔力を感じて、瑠阿は振り向く。つい先程までそこにいたはずの真子が、まるで最初からいなかったかのように消えている。
真子がいたはずの場所まで駆け寄ると、微かに魔力の残り香がした。真子は、魔女か魔道士に拐われたのだ。
「真子……!!」
瑠阿は魔力の残り香を頼りに、真子を探した。
☆
瑠阿が魔力の残り香を辿って見つけたのは、もうほとんど崩れかけている廃ビルだった。
「真子……絶対助けるから」
嫌な予感が止まらない。ここに入ったら、大変な事になるのは目に見えている。
だが、それでも親友を救う為、瑠阿はビルの中に入った。
魔力の残り香は、ビルの上へ上へと続いている。瑠阿が上るにつれて、魔力の持ち主の気配は、どんどん強くなっていった。
ふと、ある階に差し掛かった時、瑠阿は上を見上げた。この上には、階段がない。つまり、次の階で最上階だ。そして魔力の持ち主は、最上階にいる。
ここにきて瑠阿は、これより先に踏み込むべきか悩んだ。真子の事が心配で、それしか考えられず入ってきてしまったが、それは軽率ではなかったか。一度帰って、メアリーを応援に呼んできた方がいいのではないかと。
(ううん。必要ない)
しかし、瑠阿は黙って首を横に振った。メアリーに頼むのがなんとなく癪で、助けて欲しくなかったからだ。
それに、相手は間違いなく、瑠阿の存在に気付いている。このビルに瑠阿が、一歩踏み込んだ瞬間から。
(あたしはもう逃げられない。だったらこんな馬鹿な真似をした誰かさんを倒して、真子を連れて、ここを出る!)
それしかない。瑠阿は勇気を振り絞って足を踏み出し、階段を上る。
そしてとうとう、最上階に踏み込んだ。
その瞬間、周囲の雰囲気が、ガラリと変わった。
気付くと、さっきまではなかったはずの、エメラルドグリーンの霧が漂っている。
(これは……毒?)
瑠阿は片手で口を押さえたが、そんな感じはしない。毒ではないなら、魔法か。一体どんな効果があるのかと警戒しながら、瑠阿は気を付けて最上階を探索する。
――こっちよ……――
その時、瑠阿の背後から声が聞こえた。
「!!」
驚いて振り向くと、そこには霧と同じエメラルドグリーンの長髪を持つ、全裸の女性が立っている。
飛び退いて距離を取る瑠阿。
だが、背中が柔らかい感触に包まれた。
――うふふ……――
女だ。目の前にいるのとは違う、別の女がいて、瑠阿の身体を後ろから優しく包んだ。
「嫌っ!!」
瑠阿は女の手を払いのけ、抱擁から脱出する。だが、逃げた先にまた女が現れ、瑠阿を抱き締める。
「この……抱きつかないでよ!!」
女を押し退け、突き飛ばす瑠阿。しかし、またしても別の女が現れ、瑠阿を抱擁し、背中に豊満な胸を押し付ける。
――怖がらないで……――
さらに女が二人現れて、三人がかりで瑠阿を抱き締め、押さえ込む。
「う、うう……!!」
この女達に抱き締められていると、段々変な気分になってくる。柔らかくて、温かくて、気持ちよくて、頭がぽやぽやしてきた。
「離れてよ!!」
このままでは、本当に取り返しのつかない事になってしまう。女を吹き飛ばす為、瑠阿は魔力を集中しようとする。
「えっ!?」
だが、なぜか魔力が出ない。魔法が使えない。
「な、何で……」
――ここでは魔法は使えないわ――
瑠阿の考えを読んだかのように、頭の中に女の声が響く。
――あなたはなんにも出来ない、可愛い女の子になっちゃうのよ――
女達はなおも増え続ける。
(も、もう駄目……)
頭の奥が痺れて、何も考えられない。居心地のいいエメラルドグリーンの快楽の沼の中に、身も心も飲み込まれてしまう。
――きゃああああああああ!!――
突然女達が悲鳴を上げ、瑠阿の頭の中の霧が晴れた。
「!?」
見てみると、瑠阿の指輪が光を放っている。隷従の指輪には、従僕に危機が迫った時、応急的に反撃するよう魔法が掛けられていたのだ。
(メアリー……)
この魔法を掛けてくれたのは、きっとメアリーだろう。魔法から、メアリーの魔力を感じる。
だが、この反撃はあくまでも応急的なものだ。女達はすぐに復帰し、また襲い掛かってくる。今のうちに、何か対策を立てなければならない。
なぜ、魔法が使えないのか考える。
(幻覚魔法?)
咄嗟にそれが思い浮かんだ。ここは幻覚魔法で作った見せ掛けの世界の中で、自分はそこに支配されてしまっているから、魔法が使えないのではないかと。
もしかしたら、他に理由があるのかもしれない。だが、今は思い付いた方法を片っ端から試してみるしかないのだ。
(消えろ! 消えろ! あたしはあなた達の思い通りになんか、絶対にならない!)
瑠阿は心の中で、強くこの世界を否定する。
(こんな幻覚に、絶対に惑わされたりなんかしないから!!)
支配などされない。絶対にされない。メアリーから教えてもらった通り、全力ではねつける瑠阿。
次の瞬間、何かが割れる音がして、エメラルドグリーンの霧が消失した。