前編
「はぁ……疲れた……」
一人の女性が、夜道を歩いていた。時刻は午後21時半。
「朝9時から出勤して、夜9時に帰宅かぁ……」
大きな溜め息を吐きながら、女性は呟く。退勤時間は18時で、あと3時間は残業だ。念願叶ってようやく定職に就けたと思ったら、ブラック企業だったらしい。ここのところ、毎日ずっとだ。
「……辞めちゃおうかな……」
しかし、せっかく決まった新しい職。他に宛てなどない。とはいえ、このままこの仕事をしていると、本当の意味で会社の部品にされかねないのだ。
「お仕事でお困りですか?」
女性が困っていた時だった。
突然後ろから声が掛かり、女性は振り向いた。
そこには、タキシードを着た一人の男性が立っていた。
「は、はい……」
(うわ、すごいイケメン!)
とても綺麗な顔立ちをしている男性。肌が白いのが少し気になるが、女性が求めている、理想の男性だった。
「でしたら、素晴らしいお仕事があるのですが、如何ですか?」
「はい、ぜひ、お願いします……」
女性は仕事の内容もよく聞かず、ふらふらと、男性に近付いていった。
第三者から見れば、明らかに異常な状態だが、女性自身は気付いていない。
まるで灯りに群がる羽虫のように、女性は男性に引き寄せられていた。
「本当に素晴らしいお仕事ですよ」
男性は女性を真正面から抱き止め、
「私の下僕です」
その首筋に牙を突き立てた。
☆
彼女の名は、玉宮瑠阿。リゾワール学院に通う、高校二年生の女の子。
彼女には秘密がある。それは、彼女が魔女だという事。
(といっても、まだまだ未熟な、見習い魔女なんだけどね)
昼は普通の女子高生として勉強し、夜は見習い魔女として母から指導を受けている。
「おはよ! 瑠阿!」
「おはよ!」
今話し掛けてきたのは、瑠阿の友達の綺羅坂真子。彼女が魔女である事を知る、唯一の人間だ。
この世界には、普通の人間は知らないだけで、様々な場所に人ならざる者、魔族がいる。
瑠阿は三年前、魔族に襲われた真子を、覚えたての魔法で救出した。以来、二人は大親友となっている。
「テレビ見た? また行方不明者だって」
真子は不安そうに言った。
今、彼女達が暮らすこの葵町では、一ヵ月前から行方不明事件が多発している。
「やっぱり、また魔族の仕業かな?」
「……たぶんそうね」
人間が行方不明になるなど、さほど珍しい事件ではない。世界では一日の内に、何百人何千人という人数が、死んだり行方不明になったりしているのだ。それがたまたまこの町で起こっただけ、と、一ヵ月前までの瑠阿なら思っていた。
しかし、一つの場所で毎日行方不明事件が起こったとなれば、さすがにおかしいと気付く。この事件は普通ではない。明らかに何者かが、意図的に人間を拐っている。そして、それは恐らく人間ではない。
「大丈夫よ真子。あたしが守るから」
心配そうな顔をする真子を、瑠阿は慰める。相手が何者であろうと、絶対に真子を傷付けさせない。あの時にそう誓ったのだ。
「さて、暗い話はここでおしまい。楽しい話をしましょ。前に言ってたあのカフェ、今日行ってみたいと思うんだけど、どう?」
「いいね! じゃあ放課後行こっか!」
放課後にカフェに甘い物を食べに行く。これは女子高生の特権だ。
空気は綺麗に切り替わり、二人は会話を楽しんだ。
☆
「ケーキ♪ ケーキ♪」
学校が終わってご機嫌な瑠阿。彼女はケーキをはじめとする、甘いお菓子に目がない。
「瑠阿って本当に好きよね」
「真子だって好きでしょ?」
「まぁね。でもあんまり食べすぎると太るから」
「あたし太らないもん」
「マジで羨ましいわ……」
毎日魔法の練習をして、魔力やら体力やらを大量消費しているせいか、瑠阿はかなりの大食いだ。しかも、いくら食べても太らない。同年代の女性からすれば、羨ましい限りだろう。
「ねぇねぇ早く行こうよ!」
真子の方を向きながら、急かす瑠阿。
と、
「瑠阿!! 危ない!!」
「えっ?」
真子が叫び、瑠阿が前を向いた。いつの間にか、正面から女性が歩いてきていたのだ。流石の見習い魔女でも、この距離ではかわせない。
「むっ!」
黒いジャケットにミニスカを着用している女性の、服の上からでもわかるくらい大きく、やたら柔らかい胸に顔をぶつけ、胸に跳ね返された瑠阿はそのまま仰向けに倒れそうになる。
しかし、女性がそれより先に手を伸ばし、片手で瑠阿の手を掴み、もう片方の手を背中に回して、抱き止めた。
ここで初めて、瑠阿は女性の顔を見た。外国人の顔つきだ。金色の長髪と、雪のように白い肌。自分の顔を覗き込んでくる青い瞳に、瑠阿は放心状態になっていた。
「失礼。お怪我はありませんか? お嬢さん」
「え、あ、は、はい! 大丈夫です」
女性に問い掛けられて、一瞬顔が真っ赤になった瑠阿は、女性の手から離れて謝った。
「すいません。よそ見してて……」
「こちらこそ。僕もぼーっとしてましたから」
(僕って……)
男性にはどう見ても見えない。見た目は瑠阿より歳上だが、ボクっ娘だ。
「瑠阿! 大丈夫!?」
「大丈夫よ、真子。この人が受け止めてくれたから。えーっと……」
「僕の事は、メアリーと呼んで下さい。実は僕、今日この町に来たばかりなんです。ここでお会いしたのも、何かの縁。いろいろと教えて頂きたいのですが……」
メアリーと名乗った女性は、瑠阿と真子に町の案内を頼んできた。
本当はカフェに行きたかったのだが、メアリーにぶつかってしまった非がある。瑠阿は案内する事にした。
「いいですよ」
「ありがとうございます。じゃあまず、お茶でもどうですか? この辺りにカフェなんかがあるといいんですが……」
願ったり叶ったりの要求だ。まるで二人の思考を読んだかのようである。
「それじゃあこっちへ!」
瑠阿は喜び、メアリーをカフェに案内した。
それからしばらく、瑠阿と真子はメアリーを連れ歩き、一通り町を案内した。
「今日はありがとうございました。そろそろホテルにチェックインしますね。瑠阿さん、真子さん」
「そんな仰々しくしなくていいですよ。メアリーさんの方が歳上なんですから、もっと軽く」
「……じゃあ、瑠阿、真子。今日はありがとうね」
瑠阿に言われて、メアリーは砕けた様子で話し出した。
「ところで、メアリーさんはこの町に何をしに?」
真子はずっと気になっていた事を、メアリーに尋ねる。
「特に何をって事はないけど、しいて言うなら、思い出作りかな? 僕はこんな感じで、世界中を旅してるから」
「思い出作り……素敵ですね!」
目的などという世俗的な観念に囚われず、思い出を作る為に旅をする。人生一度は言ってみたい言葉だ。
「僕はこれで。気を付けて帰ってね」
メアリーはそう言うと、二人と別れた。
「……素敵な人だったね! 美人だし!」
真子は興奮している。美人と関わりを持つという事は、男女関係なく嬉しい事だ。
しかし、瑠阿は真剣な顔をして、メアリーの後ろ姿を見ていた。
「瑠阿?」
「……あの人、たぶん魔族よ」
「えっ!?」
真子は驚く。彼女は何度か、魔族の姿を見た事があるのだが、いずれも人間離れした姿をした者ばかりだった。メアリーはどう見ても人間だし、魔族なんて感じは全然しなかった。
「魔族の中には人間に近い姿をしてたり、人間に化けたりもしてるのもいるから、見た目だけじゃ判別は出来ないの」
魔女は人間と魔族を見分ける修行をさせられる。瑠阿も当然させられており、大抵の魔族なら見分けられた。
「でも、化けてるっていうよりは、自然にあの姿でいるみたい。きっと、元から人間に近い魔族なのよ」
「じゃあもしかして、最近起きてる行方不明事件の犯人!?」
「それは違うと思う。今日この町に来たばっかりだって言ってたし」
「あ、そっか……」
嘘を吐いている可能性もあったが、なんとなく、そこまで悪い魔族には見えなかった。本当に、なんとなくだったが。
☆
「……いよいよね」
瑠阿は自宅で、準備をしていた。もちろん、行方不明事件の犯人と交渉する準備だ。
母に作ってもらった、ローブとスカート。これらは、物理攻撃にも魔法攻撃にも高い防御力を持っている。
続いて、同じく母が作ったネックレス。これには魔力を高める効果がある。
最後に、魔法の杖。これも、母の手製だ。
「瑠阿、本当に行くの?」
瑠阿の母、青羅は心配そうに瑠阿を見ている。瑠阿は彼女に、今回の交渉には同行しないよう言ったのだ。これも、一人前の魔女になる為の修行として捉えているからである。
「うん。私も、これくらいの危険は自力ではね除けられるようにならなきゃね。それにしても……」
瑠阿は自分をよく見た。
魔女や魔道士が作った道具は、魔道具と呼ばれている。魔道を納める者は、自力で魔道具を作れて初めて一人前になれるのだ。
瑠阿には、まだ魔道具を作れるだけの技量がない。一人前の魔女ならすぐ作れるのだが、充分な力量を持たない者には、魔道具一つ作るのも一苦労だ。
「お母さんの魔道具ばっかり。あたしって、まだまだお母さんに支えてもらわなきゃ駄目なのかしら……」
「焦っちゃ駄目よ。それに母さんの魔道具も、フェリア様の魔道具に比べたら、粗悪品もいいところだし」
「誰と比べてるのよ……」
フェリア・ブラッドレッド。七十年前に存在していたという、魔道具職人の魔女だ。彼女が作る魔道具は全て、あらゆる魔女が作った物を凌駕しており、その技量は魔女達の伝説となっている。
青羅は慰めるつもりで比較したのだろうが、対象が悪すぎる。フェリアが作った魔道具と比べられたら、どんな魔道具も塵と同じだ。
「ごめんごめん。でも、とにかく焦らない事。魔道は奥が深いわ。今回も、危ないと思ったらすぐ逃げる事。いいわね?」
「……うん」
魔道を極める上で最も大切な事は、深追いしない事。自分の実力が充分に高まるまでは、進みすぎない事だ。これを弁えずに魔道の研究を続け、破滅した者は大勢いる。瑠阿にだけは、彼らと同じ末路を辿って欲しくない。
「じゃあ、行ってくるね」
「ええ。行ってらっしゃい」
名残惜しかったが、青羅は瑠阿の後ろ姿を見送った。いつまでも親の庇護下にいては、成長出来ないのも、また事実だったから。
夜の町。
人は自然と闇を恐れる。闇を恐れないのは、光溢れる表の世界で生きられない、魔族のみ。
魔女も暗闇を恐れはしないが、瑠阿は怖かった。彼女が闇を恐れなくなるまで、まだ何年掛かるかわからない。わからないが、努力は必要だ。
(……こっち)
瑠阿は、魔力の残り香を見つけていた。魔族が力を行使した後に残る、魔力の欠片。新聞に載っていた女性が襲われてから、まだそれほど時間が経っていないので、残っていると思っていた。自分のとも、青羅のとも、そしてメアリーのとも違う、魔力の残滓を。
(今度は、こっち……)
その残り香を頼りに、瑠阿は魔力の持ち主である、事件の犯人を探していた。
(こっち……)
もうかなり歩いている気がする。女性を連れ去った犯人は、相当遠い所から来ていたようだ。
「……!!」
ふと、気付く。ここは、さっき通った気がする。
(……まさか……)
そう思いながら、追跡を続ける瑠阿。
数分後、また同じ道に出た。
(やっぱり!!)
ようやく気付いた。瑠阿は、犯人を追跡出来ていない。犯人に同じ道をずっと歩かされていたのだ。
きっと犯人は瑠阿の存在に気付き、わざと追跡させているに違いない。本人はすぐ近くで自分を監視しているはずだ。そう思って周囲を見回す瑠阿。
「流石に気付いたか。しかし30分も掛かるとはな」
その時、近くから声が聞こえた。驚いて見てみると、建物の上に美形な男性がいる。
「あなたがこの町で行方不明事件を起こしていたのね!?」
「その通り。私は吸血鬼のリディウス・ザメク。君は魔女かな? 私の術に気付くのにここまで掛かったあたり、どうやらまだ未熟なようだ」
相手はあっさり白状し、名乗りを上げ、それから瑠阿が見習い魔女である事を見抜いた。
未熟と言われた事に少し腹を立てたが、実際にそうであった為否定出来ず、諦めて怒りを飲み込み、瑠阿は冷静になる。
「で、私に何か用かな? 察しの通り、私はこの町の人間を誘拐している。しかし、私の正体が吸血鬼であるとわかった以上、何の為かはわかっているね?」
それはもう、血を吸って腹を満たす為だろう。吸血鬼にとって、吸血は生命維持に不可欠な行為だ。
「……ええ」
「君が私を探していた理由はわかっているよ。私に人間を誘拐するのをやめさせたいんだろう? それで、本当にやめさせたいのか? 私に飢え死にしろと?」
「そうは言ってないわ」
魔族の中には、人間を襲わねば生きていけない者もいる。瑠阿もそのあたりは理解している。そういった魔族の存在を全否定するつもりは、全くない。
誰にだって、生きる権利はある。それを奪うつもりなど、瑠阿にはない。
「ただ、約束させたいだけなの」
「約束?」
「あたしの友達と、母さんだけは襲わないで。二人とも、あたしにとってかけがえのない存在なの」
身勝手だろう。それは瑠阿も理解している。しかし、大切な家族と友人を奪われる事など、我慢出来なかった。
「……何を言うかと思えば。残念だが、その約束は出来ない。私にとって、全ての人間は餌だ」
だが、リディウスは瑠阿の頼みを拒否した。
「そして当然、お前もな」
リディウスが片手を上げると、何も感じなかった場所に、次々と人の気配が現れ始める。
しかし、現れたのは人ではなかった。いや、今まで行方不明になっていた者達であるのは確かだが、全身の肌が黒ずみ、目は白目を剥いて、口はだらしなく開いて呻き声を漏らしている。明らかに、普通の人間にはあり得ない状態だった。
瑠阿は、彼らが何を――いや、何『に』されたのかを知っている。
「ゾンビ……!!」
ゾンビとは、何らかの方法で蘇った死体の怪物。この世界の吸血鬼は、人間を吸血鬼に変える血液と、ゾンビに変える血液を体内で作る事が出来る。
リディウスは誘拐した人間の血を死ぬまで吸った後、ゾンビに変えていたのだ。
「ひどい……ここまでしなくても……!!」
吸血鬼は、ただ血を吸うだけなら相手を殺す必要はない。足りなければ、獲物を梯子すればいい。相手をゾンビに変えるなど、よほど狂暴な性格の持ち主でもない限りやらない事だ。
「私は私に忠実な兵士が欲しい。絞りカスになった人間には相応しい姿だ」
この男、本当に人間を自分より格下の存在としか見ていない。
「ところで、一人で来たのか? その程度の実力で、私と対等に話が出来るなどと、よくもまぁ思ったものだ!」
リディウスは瑠阿の血を吸うつもりである。いくら魔女とはいえ、魔法が使えるだけの人間だ。人間を捕食対象にする魔族にとっては、餌と変わりない。
瑠阿は杖を抜くが、ゾンビの数が多すぎる。とても、彼女一人では相手出来ない。
「友人や家族の為だと? そんなものの為に命を差し出すとは、全く人間とは愚かな生き物だ!」
ゾンビ達に指示を出し、嘲笑うリディウス。ゾンビ達は包囲を狭めてくる。
(駄目!! 逃げられない!!)
リディウスは自分を殺す為に、わざと同じ場所をぐるぐる回らせ、こっそりゾンビを配置していたのだ。こんな簡単な事に今さら気付いた自分の頭のなさと、この包囲を突破出来ない自分の力のなさが恨めしい。
その時だった。
「本当にそう思う?」
声が聞こえた。
昼間聞いたばかりの、あの女性の声が。
「僕はそうは思わない」
瑠阿が、リディウスが、ゾンビ達が見ると、彼女が、満月を背にして建物の屋根の上に立っていた。
「大切な人の為に命を懸けられるなら、それは間違いなく、素晴らしい生き方だ」
魔族の女性、メアリーが。
「何だお前は!? お前も魔族か!?」
リディウスは驚いて問う。
「半分正解。半分はずれ」
メアリーは答えた。
「僕は、ダンピールだ」